多趣味で生きる者の雑記帳

現在は主にごちうさに対する想いについて書いています。

きらま2023年11月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察

 こんにちは。複数のマンガ雑誌を毎月キッチリ読んでいくのがすっかり板についた今日この頃ですが、それによって昔に比べて作品愛が随分と変遷したと思っています。例に挙げると、昔はほぼごちうさ一辺倒だったのが、今やジョジョの奇妙な冒険を筆頭に、様々な作品を愛する様になったと言った具合です。まぁ、今月ではそれ故ちょっと予想だにしない事態も発生してはいるのですが、それは後程。

 また、最近でも百合マンガに対する興味関心は依然強く、機会があれば新しいマンガを買う事はしょっちゅうです。ただ、手に取るマンガの傾向が傾向なので、ある心意気を持たなければならないと自分の中で定める事もあるのですが、それは「読むからには、壮絶、衝撃、シリアス等々、これら何れかの展開が来てもちゃんと受け止める事ができる様に、強い意思で読まなければならない。」と思う事。と言うのも、そうしないと咄嗟に刺激の強い展開が到来した際、予想だにしなかった事態故に、心に突き刺さり過ぎて、作品を読む余裕が一気になくなるだけでなく、その後回復する時間も必要以上にかかってしまうと言う事態になりかねないからです。

 現に今月の「まんがタイムきらら」を読んだ際、最初の方は割と楽しく読み進められていたのですが、前述した心意気が足りなかったばっかりに、心の深淵まで突き刺してくる様な、深くもシリアスな雰囲気を持ったお話と出逢った際、予想だにしなかった展開が故に結構大きめなショックを受け、その後作品を読む際の心意気が一気に変わったと言う事態が起こりました。これに関しては、予測が足りなかった私が完全に悪いのですが、それ故に前述の心意気に幾らかの説得力が加わる訳なのです。本当、心意気が持てている状態でシリアス展開に直面した場合と、心意気が不十分な状態でシリアス展開に直面した場合とでは、心に受けるショックの度合いが全然違ってくるので、事前に持てる覚悟があるのなら、それは持っておきたいんです。そうしなければ、今頃これ程のマンガは読めていません。

 ただ、その様な心意気をしっかり準備していたとしても、自分の予想を遥かに超える壮絶な展開と直面した際は、もろにショックを受けてしまう事もあります。過去にはコミック百合姫にて掲載されていた、まにお先生の「きたない君がいちばんかわいい」(全5巻)と言うマンガにて、最終巻である5巻を読んでいた際、その1巻分を読み切る前から、想像を遥かに超えるショックを受けて、感情が一気に抑えられなくなって十数分号泣してしまい、中々先の展開を読み進める事ができなくなり、それを乗り越えても、最後まで読み切ったら読み切ったで、そのあまりにも悲愴的な結末に再び号泣してしまう事もありました。本当に、あの時ほど「泣き叫ぶ」と言う表現がこれ程的確な事も無かったです。

 それ以外にも、コミック百合姫にて掲載されている、ゆあま先生の「君と綴るうたかた」(既刊5巻)と言うマンガを、私が雑誌にて初めて読んだ際に、深い哀しみを感じずにはいられなかった展開に対して、思わず半泣き状態になるまで心が痛んだ事もあります。因みにどちらも「深い哀しみと悲愴感に堪え切れなくなった号泣」なので、その時の涙は今でも心に深く刻まれています。今後、年を重ねてその時の記憶がどんどん薄れていっても、あの時味わった感覚を完全に忘れる事は恐らく無いでしょう。

 色々書きましたが、シリアス展開に対して自分なりの心意気を持つのも、その心意気さえも越える展開に思わぬショックを受けても尚、その様な展開を内包するマンガを読み続けるのも、ひとえに「マンガと言うものをこよなく愛しているから。」でありまして、これらは云わば「私が持つマンガに対する美学の1つ」なんです。

 さて、ここからはまんがタイムきららMAX2023年11月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察を書き出していきたいと思います。今回は遂に心愛ちゃん達のクラスの出し物に焦点が当てられており、一連の文化祭の流れの大トリを飾るに相応しい展開と言えます。尤も、私としては前半のハチャメチャ感漂う展開を見て思わず「訳が分かんないよ......。」となってしまいましたが、中盤~後半の展開はとても分かり易く、皆の友情と一連の文化祭の流れが非常に美しく描かれていたので、そこは安心しました。

 

※注意※

最新話及び原作11巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。

1.はじめに

 今回のお話は文化祭本番の大トリとも言うべき立ち位置にあり、満を持して心愛ちゃん達のクラスの出し物がお見えになる。先々月では戦々恐々じみた雰囲気さえ感じさせる、個性溢れるお化け屋敷の千夜ちゃん達のクラスの出し物、先月では基本と言うものに忠実に沿った世界観が展開されていた、智乃ちゃん達のクラスの出し物だった訳だが、今回の心愛ちゃん達のクラスの出し物は、屋台とフリーステージの組み合わせと言う、これまでとは一線を画した造りになっている。心愛ちゃん自身がフリーステージに出演している為、主軸はフリーステージの方にはなっているが、組み合わせ自体は中々面白い。

 今回の扉絵は、沢山の背景画に囲まれた中にココチノ2人がそれぞれ頭を寄せ合って、それぞれポージングをとっていると言うものである。ただ、正直に書くと、今回の扉絵は「ココチノ2人の仲睦まじい雰囲気を感じる。」というもの以上に、どの様に捉える事が可能なのか。それが全く形として実を結ばず、故にここから一体何を思えば良いのか、私の理解力、発想力では最早形付ける事が出来なかったと言うのが、今回の扉絵を繰り返し拝見した上での切な本音となってしまった。まぁ、強いて言うなら心愛ちゃんから「手品師」みたく雰囲気を感じると言えばそうだが、それもそこから先が上手く思い浮かばないので、結局は同じ事である。何とも煮え切らない結果に終わっているが、分からなかったものは分からなかったものなので、どうか勘弁してほしい所である......。

 今月号は前半と後半で展開のノリが大きく異なっており、前半は先月号終盤で、心愛ちゃんと智乃ちゃんがそれぞれ文化祭にて使う帽子を、学校に行く前に慌てて用意していた事が原因となって、間違えてお互いがお互いの使うべき帽子を逆に持って来てしまった*1事に起因する、木組みの街の住人達が次々に出演していくと言うドタバタ展開が続く寸劇、後半はフリーステージを終えて、改めて文化祭を楽しんでいく傍ら、皆々の友情と結束を確かめ合う展開となっており、ここでは「日常の中の特別な日」と言わんばかりの世界観に溢れており、正に文化祭本番の大トリを飾るに相応しいと言える。

2.購読した感想・考察

 

今月の内容に対する感想・考察

 まずは「今月号の中でも特に深掘りしたいと思った事」から書き出していきたい。今回は物語の前半と後半でテイストが異なっている為、その意味では区分けして書きやすいとは言えるが、前半の項目に関しては、どの様にして捉えていけば良いのか分からなかったと言う現実があった。だが、人間とは不思議なもので、見方や考え方を変えると、案外スッと新しい見解が掴める事もあるものである。

変遷激しき展開と確かな友情

 最初は今月号前半にて存在感を発揮していた「心愛ちゃん達のクラスのフリーステージ」について書き出したい。このフリーステージと言うのは、そのまま心愛ちゃん達のクラスの出し物と同義であり、題目としては今月号からも先月号からも読み解ける様に、心愛ちゃんが何かしらの手品を披露すると言うものであった事は間違いない。ただ、前述した様に心愛ちゃんが本来使う筈の帽子を間違えて智乃ちゃんが持って来てしまったと言うトラブル故、題目を変更せざるを得なくなった事で編み出されたのが、今回の文化祭における土台作品「不思議の国のアリス」の場面を抽出して行う参加型劇場と言う訳である。尤も、元々の題目でも参加型だった可能性は十分にあるが、確かめようがないので何とも言えない。なのでこれ以上この事について詮索する気は基本無い。

 この咄嗟に編み出された参加型劇場に関してだが、時間がない中で編み出したものにしてはかなりクオリティが高く、ブラッシュアップすればそれだけでも1つの完成されたステージとして成立するのではないかと思う程。ただ、途中から木組みの街の住人達が次々に舞台上に出演しては、何とかその場を持たせられる様に寸劇を披露し続けると言う、正に「先の読めないハチャメチャ展開」が舞台上を支配する様になり、初見で見た際には正直「何が何やらさっぱり分からないよ......。」となってしまっている。ただ、後から思い返してみれば、この様な寸劇を行った根底には「友達の危機を何とかしたい!」と言う友達想いな気持ちがあったが故なのは明白であり、それを思えば、今回の寸劇は展開自体は突拍子もないかもしれないが、見方を変えれば何かあっても皆で手助けし合って乗り越えていくと言う、友情の固さ、尊さが表れていたとも言えるのかもしれない。何でこういう事に初見で気付かないの......、とならなくもないが、一度凝り固まってしまうと、バイアスがかかってしまうが為に時間を空けなければ見えない事も多いし、抑々そういった事に初見で気付く事自体簡単ではないのだが。

 そして、この前半部分において最も印象的なのは心愛ちゃんの機転の利かせぶりの上手さである。元々心愛ちゃんは大抵の事なら何でも前向きな方向性に持っていけると言うポジティブさが強みであり、今までもそれを活かして幾度となく窮地やピンチを楽しい事や、前向きに歩んで行ける事に塗り替えてきた訳だが、今回ではその機転の利かせぶりが神がかっており、智乃ちゃんの杞憂を一挙に吹き飛ばしただけでなく、咄嗟に編み出された参加型劇場を最高の形で花開かせたのである。もうこれだけでも歓喜ものだが、ここに至るまでは心愛ちゃんの日々の努力と、友達の窮地を救おうと尽力した木組みの街の住人達の活動があったからで、もしどれか一つでも欠けていれば、きっと今回の様な成功をお目にかかる事は叶わなかったと考えている。それを思えば、これは紛う事無き「皆で創り上げた一つのセカイ」と言うのだろう。本当、初見時に「訳が分からない......。」と言っていた自分が情けなくなってくるが、同時にごちうさに対する熱意は未だ滾るものがしっかりとある事にも気付いているので、私の熱意もまだまだ捨てたもんじゃあないともなっている。

 余談だが、心愛ちゃんが咄嗟の機転が利くと言う事で、私はジョジョPart2「戦闘潮流」(Battle Tendency)の主人公にして、機転の利いた策略や相手の意表を突く頭脳戦を得意とし、先読みの才覚をも持つジョセフ・ジョースターを思い浮かべている。ジョセフを思い浮かべたのは言わずもがな、私がジョジョ好きだからなのもあるし、機転を利かせぶりと来れば、歴代ジョジョの中でも一際ジョセフのイメージが強かったのもある。因みにジョセフはPart3「スターダストクルセイダース」(Stardust Crusaders)及び、Part4「ダイヤモンドは砕けない」(Diamond is Unbreakable)にも登場しており、そちらでは年を重ねて老年の域に入っているが、機転の利きぶりと、気高き黄金の精神は若い頃(Part2の時)から変わっていない。尚、Part8「ジョジョリオン」(JoJolion)にも、ジョセフ(仗世文)・ジョースターは登場しているが、こちらは別世界(つまり別人)のジョセフである。

特別な日常にて光り輝く世界観

 次は今月号後半にて大きなインパクトを残していった「文化祭を通じて光り輝いたもの」について書き出したい。今月号後半においては、フリーステージ後~文化祭終了後の一幕と言う構成になっており、ここでは普段の日常と何ら変わらないやり取りを覗かせる局面があったり、文化祭と言う特別な場だからこそ出来る「あったかもしれない日常」等、全体的に近年のごちうさに多い構図がこれでもかと言わんばかりに詰め込まれている。その為、長期にわたってごちうさを読み続けている人にとっては「最早見慣れつつある光景」と言えばそう*2なのだが、例えそうなったとしても、何時見てもその様な世界観が持つ美しさに感銘を受けるのには変わりはないと言うのだから凄い。

 ここで光り輝いていたものと言うのは、やはり文化祭には欠かせないとも言える「あったかもしれない日常」もそうだし、他にも先月の回にて、智乃ちゃんの為に一肌脱ぐ活躍を見せた神沙姉妹2人の功績を真正面から褒め称え、冬優ちゃん達の学校のクラスメイトに受け容れて貰えた事が代表例の「学校の違いを超えた繋がりの表れ」、心愛ちゃんを主導とした、ココチノ2人による手品披露から見える、心愛ちゃんの母親ちょこちゃんと、智乃ちゃんの母親サキさんの世代から、心愛ちゃんと智乃ちゃんの世代へと繋がっていく「世代を超えて受け継がれる繋がり」等々、正に「文化祭と言う場故に輝いたもの」と位置付けている。

 ただ、これらは基本的にこれまでの場面においてもこれとほぼ同等の輝きを示していた場面はあるし、神沙姉妹2人が冬優ちゃん達の学校でも明確に受け容れられたケースについても、それ自体は全くの初出だが、神沙姉妹2人は以前から心愛ちゃんや冬優ちゃんをはじめとした、かけがえのない仲間達にはちゃんと受け容れられていたので、今回光り輝いていたものと言うのは、見方を変えれば「それまで輝いてきたもの、輝きが花開いたものを再認識する時」と言う側面を持っているとも考えている。要するに「今回が全くの初めてと言う訳では無い」と言う事である。

 しかしながら、その様な輝きをこの特別な日常の場で再認識させて来ると言う事は、読み手の心のより深淵の部分にまで、その輝きを改めて届けていく役割さえ持つとも考えている。ただの掘り返しには決して留まらず、改めて輝きを放つからには、読み手の心に改めて刻み込める何かを込める。そして、その輝きを見た時、改めてこの作品が持つ真髄に気付く事が出来るなら、今回の再認識には大きな意味がある。後半のごちうさのお話の雰囲気からは、そんな力さえ感じてならないのだ。尤も、何だか良く分からない事を書き連ねていると思われるかもしれないが、単純に「『輝きの再認識』と言う過程は、輝かしい場面を形を変えて繰り返し描く事で、その輝きが如何に凄いかを認識させる役割があると捉えている」と言う事を、訳の分からない風に説明していると思ってくれても全く構わないし、抑々論として、鍵括弧の説明でさえ結局は難解なものになってしまっているので、どう思われてもある程度は仕方ないと受け入れるしかないのだ。

 

今回の内容について思う事

ここからは主観的な展望や想いを強めた内容を書き出していきたい。今回は前半部分が初見時理解不能となってしまい、後半部分は心に沁みたものの、全体的に初見時は「私の熱意も変遷の時なのかも知れない......。」と、ごちうさ好きからきらら好きへと変貌したが故の悩みにストレートにぶち当たりもしたが、冷静になって考えてみると、あれだけ訳が分からなかった前半部分も、いとも簡単に理解の糸口を掴めたので、最終的には自信を取り戻している。私とて伊達にごちうさを雑誌で3年、単行本で5年も読んではいないのである。

1つの集大成を見せ付けた文化祭篇

 まずは今月号の印象について書き出したい。今月号はここ最近のごちうさの流れとして存在していた「文化祭」の集大成となる回であり、ここで文化祭と言う名のフェーズは一区切りを迎えた事になる。今回は満を持して心愛ちゃん達のクラスの出し物に焦点が当てられており、全体的な構成は先月の時と同様、前半にてクラスの出し物がお披露目、後半にて文化祭には最早欠かせないとも言える「あったかもしれない日常」を体現する場面が幾つも登場すると言うものである。そして、今回の後半部分は、ごちうさと言う世界が持つ輝かしい友情や結束、そして世代を超えて受け継がれる意思や想いがより色濃く表れているのが特徴的であり、文化祭の集大成を彩るには正にうってつけと思う他ない。

 今回は前半部分がとにかくハチャメチャな展開だと言う印象が強く、何度も言う様に初見時は、説明もそこそこに矢継ぎ早に展開が切り替わる様(さま)に、思わず「理解が追い付かない......。」と首をかしげてしまった。ただ、後から考えてみれば、あれは友達の危機に対して、自分がどうにかしてあげたいと言う優しき意思の表れでもあり、あのドタバタ展開はその意思に付き従った結果とも言える為、初見時はマジで混乱してしまったが、後から思えば「実際に形となった寸劇がどうであれ、あれは友達を想う優しき心に溢れた局面だったのだ。」と、混乱している最中には絶対思い付かなかったであろう見識を立てている。正直、これが本当に正しい見解なのか、理論的にしっかりと説明できる見解なのか。自分でも100%の自信は無いのだが、自分で「納得」*3出来るなら己の見識としてはそれでも良いのかと思っている。これぞ「主観的な意見」の典型例であるが、もとよりそのつもりで書いているので、どうか割り切って欲しい。

 後半部分に関しては、近年のごちうさでは定跡となりつつある心温まる展開があり、皆から認められる美しき展開があり、そして世代を超えて受け継がれていく想いがありと、非常に分かり易い展開になっていたのが印象的である。また、展開上心の深淵まで突き刺さる様な内容になっているとも特徴的であり、前半部分は訳の分からないとなってしまっていた初見時でも、後半部分の深淵まで突き刺してくる内容は普通に理解できたし、何よりここでもごちうさが大切にしている雰囲気をこれでもかと見せ付けてくれたのが良かったのである。

止めどない日常の日々

 最後に文化祭後に描かれていたココ千夜2人ひいてはそこに加わったチノフユ2人のやり取りから感じた「止めどなき日常」に対して思った事を書き出したい。ここで書き出す事は、云わば「当たり前の様に続いていく日常」に対して思う事を書き出す事になる為、作中に直接関係のある内容を書く訳でも無いが、ごちうさひいては日常を歩んでいく事に関連はしているので、どうかその辺りは見逃してほしい。

 文化祭最後にココ千夜2人は、文化祭後の片づけをおサボりする形*4で2人だけで駄弁っている様子が描かれている。そして、そこで話されている内容自体は、今回の文化祭の振り返りと言った内容にはなっているとは言え、その内容を見て「あぁ、きっとこの2人は今後もずっと仲良しの関係性であり続けるんだな。」と思っている。また、その後やって来たココチノ2人のやり取りをプラスして見た所、ココ千夜2人だけでなく、この木組みの街の住人達全員が、文化祭の後も変わりない関係性を魅せ付けてくれるのだろうと認識している。本当、やり取りとしては他愛のないものなのだが、それ故に輝かしい日常がこの先も続いていくと予見できると言うか。そういう所が良いと思う所存なのである。

 

3.あとがき

 以上がきらま2023年11月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察である。今回はここ数回にわたって描かれてきた文化祭篇の集大成であり、前回の智乃ちゃん達のクラスの出し物の流れを踏襲した「前半⇒出し物、後半⇒あったかもしれない日常」を更に強化した構成になっている。そして、結果的に1羽ずつ割く形で千夜ちゃん達のクラス、チノフユ2人達のクラス、心愛ちゃん達のクラスの、それぞれの出し物がお披露目されていたので、その意味でも非常に満足のいく文化祭の内容だったと認識している。

 今回は今でこそ非常に印象深い回として捉えているが、初めて読んだ時は誇張抜きで前半部分のドタバタ展開の訳が全くもって分からず、それをして「私のごちうさの熱意にもそろそろ果てが見えてきたかな......。」と、一時的なものであっても、内容を理解できなかった事実から、自分の熱意の強さに対して諦観的な発想を張り巡らせる状況までに発展している。ただ、初見で内容を全て理解できない事は何も珍しい事では無いし、寧ろ「初見では理解不能」と呼ばれる展開も、世の中には割と普通に存在している。もっと言うと「内容を理解できないから熱意が無い」と言う事自体、今考えてみれば「それはあまりにも因果関係の繋げ方が無理矢理過ぎるんじゃあないのか?」と、我ながらそういう理論が「過程と結果」の精査をすっ飛ばした、言ってしまえば机上の空論の域を出ないものである事を思えば、何もそこまでナーバスになる必要性はどこにもなかった訳である。事実、今では改めて理解が進んだ事もあるが、この様な危機はほどなくして回避しており、心配は要らない。

 それよりも色々と衝撃的だったのは「今月のきらまそのものに対して」である。と言うのも、今月のきらま掲載作品の中で話の雰囲気が一気にシリアスな方向性に深化した作品があったからで、最初に書き出した「ちょっと予想だにしない事態が起こった」と言うのは、この事を指している。その作品と言うのは、相崎うたう先生の「瑠東さんには敵いません!」(既刊2巻)という作品で、何がびっくりしたかって「それまでの雰囲気を根底からひっくり返しかねない衝撃事実が判明した事」であり、それをして「一体どうなってしまうんだよ......。」と、思わずショックを受けたのである。尚、瑠東さんは「次号最終回」と言う、これまた衝撃的な情報もあったのだが、当の私は終盤で明かされた衝撃事実に心が持っていかれてしまった為、正直最終回と言う事実にたじろぐ余裕すら無かった。なので最初は驚く程冷静だったが、時間が経つにつれてやはり寂しさが込み上げてきたものである。

 でも、この瑠東さんと言う作品に対しても「衝撃的な事実が明らかになろうと、最終回を迎えようとも、私は絶対に逃げ出しはしない!」と言う、一種の覚悟を私は既に決めている。勿論、私としても結構好きなマンガだったが故に、最終回を迎える事、その最終回で衝撃的な事実が明らかになる事に対しては、不安もショックもあるが、私がどれ程たじろごうと、私がどれ程ショックを受けようとも、現実にやって来る事実は変えられない事を思えば、私にできる事は「自分の進むべき道に向けて覚悟を持つ事」となる訳であり、それで上記の様な決心を持つに至ったのである。

 そして、この一件をもって私の中で決心が付いた事がもう一つあり、それは先月の記事にて書き出していた「雑誌を読む際の心意気」に対し、まんがタイムきららMAXにしろ、きらまと発売日が近いコミック百合姫ウルトラジャンプにしろ、私が読んでいる全ての雑誌にしろ、何を読むにしても「しっかりとした心構えと強き意思を持つべきだ。」と言う事。先月の記事にて「『きらまだから』と油断していると、そのきらまでしんどい思いをする事になる」と自分自身でも懸念していたが、今月にて正にその懸念通りの事例に遭遇してしまった現実がある*5以上、しっかりとした覚悟と決心を持った方が良いのは自明の理であり、それ故に先月の記事にて言及していた心意気なるものを、今月号のこの場面においても適応した次第である。

 ここまで様々言及してきたが、今でもごちうさに対する熱意は決して潰えてはいない事、マンガを通じて色々考える事はあっても、マンガが好きだと言う気持ちは一貫している。これからも深化しゆくテーマ性に対して、時には驚愕したり、時にはショックに打ちのめされたりする事もあるだろうが、自分が好きになった世界観に対する拘りひいては熱意は、そう簡単には消え失せないと言う事をもって、この感想・考察記事の締めとしたい。

 

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙のべ26枚分である。今回はペースが早いのか遅いのか。いまいちピンと来ない感触だったが、客観的に見れば早い方だとは思う。ただ、書く内容にはかなり苦戦しており、題目によって文量の振れ幅が大きいのはその為。

*1:一方向だけ表すと、智乃ちゃんが心愛ちゃんが使う筈の帽子を持って来てしまったと言う事。逆もまた然り。

*2:主に私がそう思う事もあるだけとも言うが。

*3:この「納得」がとても重要で、何事にも己が「納得できるかどうか」に懸かっている事による。因みにこの見識はジョジョPart7「スティール・ボール・ラン」に登場する「ジャイロ・ツェペリ」の影響をもろに受けている。

*4:それをして「まずサボるのはどうなんだ?」と思う事もあるかもだが、作中でこれ以上深掘りされていない以上、外野からとやかく言っても仕方ない側面はあるだろう。

*5:ただ、先月の懸念では「百合姫ときらま、どっちを先に読むべきか」と言う前提があった上で論を展開していたので、厳密に言えば今回の事例は、100%正確に私が案じていた懸念事項が的中している訳では無いが、きらまを読んで思わぬショックを受けた事実には違いないので、今回しっかり取り上げるに至っている。