多趣味で生きる者の雑記帳

現在は主にごちうさに対する想いについて書いています。

きらま2024年5月号掲載のごちうさ、単行本12巻の感想・考察

 私は、結局どうやっても「人間が持つ奥底知れない感情」に心惹かれ続ける人間なんだと思う。しかも、その惹かれる感情とは、往々にしてこの世のものとは思えない、ストレートに言えば「常軌を逸した感情」である事も多く、徐々にその様な感情に魅せられる様になった結果の1つが「きたない君がいちばんかわいい」(きたかわ)や「ぜんぶ壊して地獄で愛して」(ぜんこわ)と言った「歪んだ感情や愛が支配する、倒錯や打算、そして破壊願望に満ちた百合マンガを、色々言いつつも結局はこよなく愛する事」だと思う。

 これを「歪んだ感情にこそ宿る愛を理解した」と見るか「倒錯した感情の支配から逃れられなくなった」と見るか。はたまたその両方と見るか。その真理は私にも良く解らない。その様な感情をめぐって解っている事があるとするなら、ぜんこわはともかくとしてきたかわにおいては、倒錯と打算に満ちた愛の果てに待っていた1つの結末によって、思わず2度も大号泣した経験がある事で、その時の涙には正に「ぐちゃぐちゃになった想い」があった事を覚えている。

 この「一種のトラウマ」とも言える経験があるので、在り様によっては「もうそういった感情が支配する作品とは向き合えない......」となってもおかしくは無いし、実際その可能性もあったと思う。しかしながら、実際にはショックに直面してすぐの時こそ、ぐちゃぐちゃになった時の記憶を思い起こしては恐怖に慄いていたが、あれこれ言いつつも結局私はきたかわから逃げる事はしなかったし、寧ろそれをきっかけにコミック百合姫の世界にも飛び込む決意さえした程だった。それを思えば、きたかわによって感情がぐちゃぐちゃになった事は、それだけきたかわが紡ぎし心情や世界観、そして倒錯と打算に満ち、歪んだものでありながらも確かに存在する「愛し合う気持ち、即ち百合もといGL」というものに、私の心は自分が「思っている以上に」心惹かれていたのだろう。それが本当に良かったのか。それは考えない事にしておくが......。

 何故こんな事を脈絡なく書き連ねたか。それは3月になってぜんこわの単行本2巻やコミック百合姫における最新話(11話)を読んだ事、そしてぜんこわの熱心なファンの意見を観た事で、私としても気持ちが昂るものがあり、その結果「私は、ぜんこわの様な『歪んだ愛や感情』が支配する展開の百合マンガが、自分の思っている以上に好きなんだ」と自認した事が大きい。尤も、以前からそういう百合マンガが好きになる傾向を持っている事は自認していたが、今回の経緯を経て、その「好き」と言う気持ちが「屈託なき本物」である事を認識した事で、自分としても心の奥深くにある己の感情に気付けたと言うか、そういう「気付き」なるものが、今回私をここまで突き動かしたのである。

 繰り返しになるが、それで良かったのかについては何も言わないで欲しい。自分でも「歪んだ愛や感情が支配する百合が好き」である事を、むやみやたらに曝そうものなら一体どうなるのかを知らぬ訳では無いし、そうでなくてもそういった愛や感情が、「好きな人はとことん好きだが、嫌に思う人は蛇蝎の如く嫌がるもの」なのも解った上で選んでいる道なので......。

 因みに、今回「きたかわ」と「ぜんこわ」と言う様に、2作品を引き合いに出して説明したのは、私が「異なる2つのものを引き合いに出して、様々な角度から分析したり、どの様な共通点があるかを考察したりするのが好き」な為である。過去にはクラシック音楽好きとして「ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト」と「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンや、先と同じクラシック音楽好きとして、今でも私が持つ音楽感性に多大なる影響を与えているピョートル・イリイチ・チャイコフスキー」と「アントニーン・レオポルトドヴォルザーク等々があるし、他にもヨハン・シュトラウス2世」と「ヨーゼフ・シュトラウスの例(尚、ヨハンとヨーゼフの2人は兄弟である)もある。

 これがマンガだとご注文はうさぎですか?」と「きんいろモザイクや、先の「きたかわ」と「ぜんこわ」、それ以外にも「君と綴るうたかた」と「きみが死ぬまで恋をしたい」といったものや、過去には「紡ぐ乙女と大正の月」と「ななどなどなど」と言った例もあった。それが良いのか悪いのか、未だに分からない点も多いが、少なくとも「世界観を大きく広げる」と言う意味では大きな意義を持っていると思う。

 さて、ここからはまんがタイムきららMAX2024年5月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察を書き出していく。今回は全体を通じて紗路ちゃんに焦点が当たっており、友達である心愛ちゃんや幼馴染たる千夜ちゃん等々、カップリングが目まぐるしく変わるのも特徴的だが、今回において真髄となるのは「ココシャロ」である。また、今回は「日常的な雰囲気」「その日常的な雰囲気が有限である事」が混在しており、そこは原作10巻終盤で明かされた事実を踏まえていると窺える。これも良いのか悪いのか判断に困るが、この様な描写は「今に始まった事では無い」うえ、この手の展開には恐ろしい程慣らされているので、改めてどうこうとは思わないのが本音である。

 

※注意※

最新話及び単行本12巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的なものです。

1.はじめに

 日常の営みは限られたものであるから美しい。だが、その事に気付くのは何時だって「転機が我が身にも訪れる事を実感した時」と言うのが人間のサガというもの。ごちうさにおいても、その事に気付かされて既に久しいが、まさかこのタイミングでそれらをまざまざ感じさせるお話が出てくるとは思ってもみなかった。尤も、全編にわたってその様な雰囲気を感じるのかと言えばそんな事は無く、大筋はお得意のシュールなギャグが入り交じる何時ものごちうさと言った所だが、ひとたび「日常は有限である事」に視野を置くと、そこから脱却するのが中々に難しくなる所である。

 今回の扉絵は、心愛ちゃんと紗路ちゃん2人、それに2人のイメージカラーが当てがわれた縫いぐるみが2つある中、心愛ちゃんが紗路ちゃんの肩に手を乗せる形でこちらに視線を配っていると言うもので、構成、雰囲気共にシンプルな扉絵となっている。また、瞳の雰囲気も心愛ちゃんはともかく、紗路ちゃんの方はかなり特徴的なものとなっており、絵柄も若干変化している事もあって初見の際は「なんだか『コミック百合姫』でありそうな雰囲気と絵柄だ」と思った。ごちうさは「まんがタイムきららMAX」なので、コミック百合姫とは雑誌どころか出版社さえ違うのだが、きらら連載経験者がコミック百合姫で連載を持ったり、その逆のケースがままある事は私としてもある程度知っているので、恐らくその影響があったのだろう。ここでこんな事を書いても仕方ないのだが......。

 既に書き出すのも何度目かと言う話だが、今回も最近の例に漏れずモチュベーションの維持に相当苦慮しており、これまで2年以上連続してごちうさのお話を1羽毎に散々語り倒してきた事の弊害が、ここに来てMAXレベルになって襲ってきている。正直言って「日常が永遠じゃあない」と言うのも「当たり前の様に続いているものは、実は決して当たり前なんかじゃあない」と言うのも、全てこれまでのごちうさでも何遍にわたって描かれてきた事だし、その度に私としてもそれ相応に思った事を書き出してきたので、今となっては何を書いても最早「過去に自分が思った事の焼き直し」にしかならない。最初はそれでも良かったのかもしれないが、これが連続して続くとなると、限界なんてそう遠くない事に気付くのにそう時間は要らなかった。

 その事を悟ってからは、私の中にあった「やるからにはこうしないといけない」と言う拘りの殆どは、脆くも崩れ去った。持つだけで苦しみを味わう事にある拘りなんて、そんなもん捨てた方がマシだし、捨てなかったが故に身をやつしたのなら、それはもう「頑固な人間が辿る愚かな結末」として、自らを嘲る事だって辞さない。どこまでいっても所詮は「自分が蒔いた種」だし、社会においては、自らの進退さえ自分で決められない意思の弱い人間には、そういう罰が下る事さえある事を思えば、理不尽とも不条理*1とも思わない。ごちうさの感想・考察の在り方において、ここまで尖った事を語る必要は無いのかもしれないが、私としてはどうやったってこれ程の思考を張り巡らせてしまう。それだけごちうさに懸ける想いと言うのは、こうなった今でも半端じゃあないと言う事でもある。

 こんな事を思いながら、今でも結局は書き続けている。人によっては「過去の栄光に縋り付いている」とでも思われそうだが、私としては別に過去の栄光に縋り付いているつもりは全く無い。確かにごちうさのモチュベーションが高かった時期は、今となっては正に「過去の栄光」だし、その頃に培ってきた財産をもって今でもこんな事を続けていると言えば、過去の栄光に縋り付いていると見られても仕方は無いと思う。たとえ過去の栄光に縋り付く気はさらさら無かったとしても......。

2.購読した感想・考察

 

今月の内容に対する感想・考察

 まずは「今月号の中でも特に深掘りしたいと思った事」から書き出したい。今回は前述の通り、モチュベーションの維持に苦労している事情と、どの様なテーマを書き出しても過去に書き出した焼き直しになりがちな事情から、大きなテーマとしては1つ書くだけでも精一杯な部分さえある。だが、それ故にその1つだけでも賢明な想いで書き出したいという想いも強く持っている。今でこそこんな状態にはなってしまったとは言え、今でもごちうさに対する特別な想いは捨て切れない。極端な事を言えば、たとえ全体の99%が砕け散ろうと、残る1%の賢明な想いがあればこちらの勝ちなのである。

奇妙で愉快な友情

 「なんだこのタイトルは?!」と言う感じだろうが、どれ程考えてもこれ以外にタイトルが思い付かない。何故この様なタイトルが思い付いたのかについては、今月号は全体的に突飛な展開が多く、思わず「なんだこれ?!」と突っ込みたくなる展開が頻発していた一方、ココシャロを筆頭に「確かに存在する友情や関係性」を感じさせる場面も少なくない事から、さながら「奇妙で愉快な仲間達だな~」と、何気なく思った事にある。

 つまり、このタイトルは「冗談半分、本気半分」と言ったタイトル付けではある。ただ、タイトル付け自体は正直そこまで真面目なものでは無いとは言っても、ごちうさに対して、時には思わず「いくらなんでもこれはちょっとばかし奇妙な展開だろこれ......」となる事も、真面目な話以前からちょくちょくあった。ごちうさは「ドストレートなギャグ展開で抱腹絶倒」と言うより「センスのあるシュール展開で笑いを掻っ攫う」と言うテイストが中心となる作品な上、受け取り方によっては「奇妙」とも受け取れるギャグ展開があったり、4コマ目のオチが仕掛けられたりする事もあったりしているので、こう思うのもまぁ、1つの見解と言う事で。

 タイトルの説明はこの位にして、具体的な内容記述といきたい。今回こう思った直接的な要因は、何と言っても「紗路ちゃん宅の前で焼き物をする為に焚火をしていた事」にある。現実的に考えてみて、幾ら友達の家とは言っても「住居」の前で(紗路ちゃんの知らない所で)焚き火をするのは色んな意味でヤバくないかと思うが、ここは「ごちうさの世界観」なので、細かい事を言うのは野暮と言うもの。なので、焚き火をした事の是非はこれ以上問わないが、その様な話を抜きにしても、素直に「何故紗路ちゃん宅の前で焚き火?」となるし、紗路ちゃん本人も普通に楽しんでいるし、何だかんだ言って焚き火を囲んでいる人全員が幸せそうな感じになっているし、正に「奇妙」と言うに相応しい絵面が確立されていたと思うしかなかった。まぁ、実際の所「奇妙」と騒ぎ立てる程では無いのだろうが......。

 奇妙と書き出している一方、今回の展開からは「確かな信頼関係」も濃密に感じ取っており、その最たる例として「ココシャロの関係性の形」や「智乃ちゃんが心愛ちゃんに対して抱く想い」等がある。

 前者に関しては、普段からそこまで目立つカップリングとは言えないが、決める時はきっちり決めてくるカップリングでもあり、今回はそのいい例だったと思う。何と言うか、所謂付かず離れずとも言うべき距離感がある一方で、心の内では確かに想い合っていると解る図式が良いと言う訳で、ある意味では「友達だからと言って、普段からずっと一緒にいる必要性はない」とも見て取れる距離感が良い。もっと言うと、心愛ちゃんも紗路ちゃんも「半年後には新たなる進路を歩む為、都会へと突き進む事」がほぼ確定しているので、図らずも「来たるべき一時の別れ」に耐えるには理想的な距離感にもなっている。

 あまり言うべきではないのだろうが、この様なココシャロの絶妙な距離感は、来たるべき現実を受け容れられているのか良く解らない千夜ちゃんとは大違いでもあり、必然的に「千夜シャロの危うさが目立つ格好」ともなってしまっている。まぁ、流石の千夜ちゃんも「現実」から目を背け切っている訳では無いとは思いたいが、彼女は何だかんだ言って実は「その手の事実に一番動じやすい」と言う脆い一面があるので、無視できない危うさだと思ってしまう。こんな心配するのも何度目かと言う話だが、極端な事を言えば「音を立てずに、しかし確実に『その時』までのカウントダウンを刻む時限爆弾」ともなりかねないので、マジに火種として燻っている。現実はどこまでいっても「ある意味平等な非情」なのだから......。

 後者については、この様な企画に対して「心愛ちゃんにとって良い思い出作りとなる様に」と言う想いを込めた智乃ちゃんの心意気にある。智乃ちゃんとしても、自分の人生を大きく変えてくれたお姉ちゃんでもあり、ストレートに言えば「人生の恩師の1人」とも言える心愛ちゃんが、半年後には都会に行ってしまう事実に対して、寂しいと言う感情は絶対ある筈なのに、心愛ちゃんの為に一肌脱ぐと言う構図が、何と言うか素晴らしい。しかも、これが一昔前の智乃ちゃんなら、たとえ心の中ではそういう風な感情が芽生えていたとしても、色んな感情や恥ずかしさが邪魔をして、行動には移せなかったであろうと考えられる事を思えば尚更である。

 

今回の内容について思う事

ここからは主観的な展望を強めた内容を書き出したい。今回は色んな意味で書き出す内容が奇天烈であり、ここのフェーズでも正直えげつない内容となってしまうが、もうどうしようもなかった。

気丈な心の強さ、心砕ける危うさ

 「心愛ちゃんって人は、なんて凄まじい人だったんだろうなぁ......」と言うのが、今回私が心から思う事だった。もう、色んな意味で彼女には敵わないと思った。幾ら彼女とて常に気丈な立ち振る舞いが出来る訳では無いとは言え、それを鑑みても尚、常人では決して真似できない心の強さをもった人間である事を、自分が心愛ちゃんと同じ様に「自分で歩むべき世界に踏み出す経験」をした事で心から理解した。

 私事ではあるが、私自身4月から新社会人となるにあたって、3月下旬の半ばから己自身を取り巻く環境が大きく変化した。ただ、それは以前から解っていた事だし、大人になればそういう変化も必要な事だし、何よりどこかのタイミングで「自分自身の力で社会を生き抜く覚悟」をしなければ、これ以上の成長は望めないと解っていたので、環境の変化自体には正直そこまで心配は無かった。勿論「新生活をちゃんと出来るのだろうか」と言う不安こそあったが、今思えばあの時の私はどこか楽観的過ぎた。経験が無かったが為に、そこまで不安に思う事が逆になかったのだと思う。

 だが、右も左も分からない状態の中で、何もかもが初めての事に取り組まなければならない事が、如何にどれ程過酷でストレスのかかる事なのかを、私は新生活を歩む為の実際の行動(=引っ越し)に実際に取り掛かって間もなく理解した。否......、させられたと言うべきか。正直、自分の思っている以上にストレスがかかり過ぎて、一時的に所謂「うつ病」の症状に片足突っ込む様な状態にまで僅か半日にして追い込まれた程だった。

 最初は大丈夫だったのだが、やらなければならない事が山積している現実を徐々に肌身で実感していくにつれて、心が強い不安で襲われる様になり、そこからすぐに「ジタバタしてもどうにもならない事」(=今考えてもしょうがない事)に気を取られる様になり、引っ越した当日の夕方になる頃には、所謂「心ここにあらず」と言わんばかりの状態だった。目は虚ろだったわ、心はめちゃくちゃな状態だったわ、考え事をしようにも考えなんてなーんにも纏まらないわで、とにかく悲惨な状態だった。無論、引っ越す前には「まさかここまでの状態になるなんて思ってもみなかった」し、正直自分でも驚く程だった。

 でも、冷静に考えてみればそうなる可能性なんていくらでもあった。元々「神経質」且つ「完璧主義」で、おまけに「心配性」と言う、気持ちの均衡が崩れると一瞬にして心がボロボロになる要素を3つも持っている性分だったからだ。だからこそ、そういう事には気を付けていたが、壊れる時は本当に一瞬だった。どれ程の知識があろうと、心がボロボロになっていく最中には殆ど意味なんてなさないのと思い知らされたし、それがどれ程恐ろしい事なのかも身体で理解した。幸い、私にはまだ「対策できる術」があったので、ギリギリの所で持ち直す事には成功したのだが、もしあのまま無理していたら、多分と言うか絶対に「取り返しのつかない事態」を招いていたと思う。

 人間の心とは不思議なもので、壊れそうな状態から回復を図った場合、立ち直りは比較的簡単で、実際に私も「心の安息を取る為の対策」を講じた所、多少不安にはなり易いとは言っても、普通に「コントロール出来る状態」にまで落ち着いたし、その後すぐに何事もなかったかの様に回復した。だから、私の判断は本当に「賢明」だったと思うし、同時に「追い詰められた時には無理をしない事」「『ヤバい!』と思ったら心の安息を最優先にするべき」だと心から思った。当たり前の話だが、本当に壊れてしまってからではもう遅い訳であり、もし壊れてしまうまで粘っていたらと思うと、本当にゾッとする。

 この様な状況を肌身で経験した事により、私は「心愛ちゃんがいかに凄い人なのか」を心から思い知る事となったし、良くも悪くも自分の経験則から理解できた事により、心愛ちゃんが持つ「凄味」と言うものを改めて心に刻み付ける事が出来た様にも思う。

 心愛ちゃんはこれまでも「単身木組みの街へと到来」した経緯を持ち、これからも「自分の夢の為に単身都会へと赴く決意」を既に固めているが、2度にわたって故郷を離れて新境地へと赴く気概を持つなんて、そう簡単にはできる事では無い。しかも心愛ちゃんにとってはどちらの場合も「かけがえのない存在から一人離れて、ある種『孤独な戦い』へと邁進する」と言う状況下であり、この「己の目的の為なら、今までの環境を一時的にでも捨て去る事さえ厭わない」と言う強き意志が、如何に凄いものであったのかを解ったと言う訳である。

 後、心愛ちゃんの社交性の高さも純粋に凄いと思った。あれ程の社交性の高さを持った人間なんて、現実にはまずもっていないとは言っても、根底にあるのが「どうやっても克服できない人見知り」且つ「一歩を踏み出す勇気よりも未知の恐怖が勝りがち」な私にとっては、その「あり得ない位の凄さ」が良い。正直、どれだけ努力しても根底にある「自分の本質は変えられない」と言う事実を思い知らされた以上、自分の惨めさに打ちのめされる事も無くは無いが、そういった感情抜きで尊敬できるのが、心愛ちゃんの社交性の高さの凄い所なのである。

3.あとがき

 以上がきらま2024年5月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察である。今回はハッキリ言って記事としてのクオリティは低い方で、全体的に内容がしっちゃかめっちゃかになってしまっているが、今回ばかりはこれでも精一杯だった。一応時間が全く無い訳では無かったのだが、それ以上に「書く余裕」と言うのが全くと言って良い程無かった。世の中「たとえ時間があっても、気概がなければ何の意味も成さない」のであり、今回私はそれを心から思い知った。

 こんな経緯があるので、今回内容がとっ散らかってしまっているのは正直「どうしようもないんだ......」と思うほかなく、故にとっ散らかっている事を気に留める事は殆ど無かった。今までは、内容が薄くなりがちな事を気にしていたって言うのに、今回そういう悩みが全く無かったのは、悪く言えば「言い訳できる事情が出来たから」と言う訳だが、余裕が無かったのも本当なので、こんな冗談を書ける内が華だと思う。本当、こんな冗談書き連ねている所からは信じて貰えないだろうが、マジにヤバかった瞬間もあったので、何があっても「あの時あんなことあったよね~」とか言って、笑っていられる今が幸せである。

 また、ここまで内容がとっ散らかったと言うのなら、いっその事「今月分は書かない」と言う方法もあったが、それに関しては(私が思い出せる限り)頭の中に無かった。こう書くと「本当かよ」とか思われそうだが、一応本当である。こうなったのは、今思えば「今まで続けてきたものを絶やしたくは無かった意思の表れ」だと思うし、実際曲がりなりにも今月号の分もなんとか書きまとめられたので、底意地でもあったのだろう。控えめに言っても2年以上連続してやり続けているので。

 今回は作品の感想・考察と言うより、己の心情を深く絡めた内省的な内容が中心となったが、これが「今の自分にとっての最大限の努力」だった。何とも難しい結果に終わってしまったが、環境さえ整えば、今回程惨憺たる結果に終わる事は恐らく無いと思う。

 

4.単行本12巻を読了して思った事

 ごちうさの様な4コママンガだけでなく、ストーリーマンガも数多く読んでいる影響からか、既にきらまにて展開を知っているのにもかかわらず、内容の理解が些か鈍かった様に思える。これは、後述する「単行本化にあたってお話の入れ替えが行われている」のもあるが、それ以上に「ストーリーの流れを重視する姿勢」が、今回の「話数入れ替え」に対して相性が悪かったのもあるのだろう。因みに話の順序を入れ替えるケースは、私が知っているのだとジョジョの奇妙な冒険Part4「ダイヤモンドは砕けない」における、原作だと「しげちーと吉良吉影の対峙⇒シンデレラ(スタンド)」なのが、アニメだと「シンデレラ(スタンド)⇒しげちーと吉良吉影の対峙」があり、他にもごちうさの単行本3巻でも、今回の12巻同様「話の入れ替え」が行われている。

 単行本12巻は、大きく分けて前半の「木組みの街で繰り広げられる様々な日常」のフェーズと、後半の「文化祭準備及び本番、そして後日談」と言うフェーズの2つがあり、単行本が初見ならすんなり理解できる。しかし、単行本だと「前半フェーズ」に収録されている幾つかの話が、雑誌掲載時には「文化祭のフェーズが終わった後」どころか、良く調べてみたら「単行本12巻における巻末話よりも後のお話」も存在しており、かなり大胆な話の入れ替えが行われた事が窺い知れる。

 この様な「お話の順序の入れ替え」は、ごちうさならばさほど珍しい事でもない様な気もするが、当然ながらこの様な事は「ストーリーの順序がまるきり変わってしまう事」なので、ストーリーが連続している局面でやると忽ち話が破綻してしまう。また、入れ替え後の整合性を取るのもそう容易な事では無いので、必要ならばこの様な事さえやってのけるごちうさに対しては普通に「なんて凄いマンガなんだ」と言う感触もある一方、手法があまりにも大胆過ぎるが故に「これはどう受け取るべきなのだろうか......」と、雑誌掲載時から常に追い続けているがこその悩みも存在している。

 ただ、話の順序の入れ替えが敢行されている事で、1つ言える事は「単行本12巻におけるお話の流れの方が、後半フェーズにおいて変にぷつ切りになる場面が一切無いのでテンポが良い」と言う絶対的なメリットが存在している事で、ここばかりは「話の順序を入れ替える事の正統性」を認めるばかりである。実際、単行本12巻を読んでいると、後半の「文化祭前後のフェーズ」が極めてテンポよく進行する上、前後のお話における「キャラクターの心情や行動原理」に対する理解もしやすいし、なにより「巻末のインパクト」が半端じゃあなかった。これにはもう天晴である。

 この様に色々な想いを抱えているが、12巻においてもごちうさが持つ良さに感銘を受けた」のも事実である。昔程熱心な記事を書く気力も余裕も、最早存在しなくなってしまったとは言え、これだけ「読んできて良かった」と思える作品の単行本の事を、ましてや毎月の様に感想・考察記事を書き続けている作品の事を、何も書き出さないのも何だか寂しいと言う話であり、それで今回僅少であっても書き出す事にした。ここまで来ると、最早単なる「底意地」でしかないと思うし、もう嘗ての様に感想を熱心に書く気概も、恐らく完全には取り戻せはしないのだと思う。

 でも、この想いを絶やさずに済むと言うのなら、最早それでも御の字と言う話である。何故なら、私が一番怖いのは「長きにわたって継続させてきた想いを断絶させる事」であり、それを回避できるなら、今回の様に辛うじて書き切る状況になっても容易く受け容れられるからである。

 

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙のべ28枚分である。今回は終始ガタガタな有様だったので、かなりめちゃくちゃな事になってしまっているが、それでも1つの形には持っていけたので、心残りは無い。

尚、単行本12巻を読んだのは、きらま5月号つまり2024年3月に発売されたきらまに掲載されたごちうさを読み終わり、上記の感想・考察記事を完全に書き終わった後のタイミングであるが、この頃には既にメンタルは落ち着いていたのでご安心を。

*1:ここでは深くは語らないが、理不尽と不条理は似た言葉ではあるが、そのニュアンスは結構違っており、私としてもそれを意識して使い分ける事も多い。この様な例は「意思と意志、及び遺志」や「悲愴と悲壮」等、所謂同音異義語に多く該当例が挙げられる。