多趣味で生きる者の雑記帳

現在は主にごちうさに対する想いについて書いています。

HUGっと!プリキュアを視聴した感想

 この巡り合わせは全くの偶然か、それとも約束されていた宿命か。熱烈な布教を受けて視聴したその世界観は、私にとってあまりにも重厚な意味を持ち、その世界観の深さを思い知らせるには十分過ぎたと思う。

 その作品とは、2018年から2019年にかけて放送されたHUGっと!プリキュアと言う、プリキュアシリーズ15周年記念作品にして、プリキュアシリーズの中でも非常に評判が高い作品である。私自身、プリキュアについては勿論知らなかった訳では無いが、言っても昔に2013年から2014年のドキドキ!プリキュアと、2014年から2015年のハピネスチャージプリキュア!(シリーズ10周年記念作品)の2シリーズを追った位で、少なくともこの年になってからは全く観ていなかった。尤も、すっかり観なくなってからも、何かとプリキュアシリーズを目にする機会は無くはなく、昔取った杵柄と言わんばかりに昔プリキュアシリーズを観ていた経験もあるので、全くの無関心でも無かったが......。

 そんななので、観る前には「本当に合うのだろうか......?」と言う不安もなくはなかった。でも、観始めてしばらくしたら、そんな不安はどこかの彼方へと行ってしまっていた。正直、その威力たるや、まさかここまで感銘を受けるとは思ってもみなかった程だった。人間なら誰しも抱えたり、直面したりするであろう「心の弱さ」「挫折」、そして「信念が交錯し合う重厚且つシリアスな物語」に、どんどん惹き込まれていく自分がいたものである。

 今回はそんなHUGっと!プリキュアを観て抱いた感想を、自分が書きたい事を中心にした題目に分けて書いていこうと思う。久々となるごちうさ感想・考察以外の題目記事故に、どうなるかは分からないが、どうか最後まで見届けて欲しい。

 

※注意※

 HUGっと!プリキュア本編のネタバレを多分に含むものなので、ご了解をお願い致します。特に中盤の題目では、最終回にまつわる内容のネタバレを含むので特に注意して下さい。また、ここで書き出した内容は全て個人の感想・推察となります。

 

1.はじめに

 20年以上にわたってプリキュアシリーズが紡いできた想いと言うのは、大変に膨大なものがあり、ここで全てを書き切る事など到底できないと思う程である。実際、今回の「HUGっと!プリキュア」の感想を書くにあたっても、自分が特に書き出したいと思った事に注力して書いており、私としてもプリキュアシリーズに懸ける想いと言うのは、少なくともはぐプリを観る前に比べれば大きくなったと思っている。とは言え、まだまだ至らない点もあるとは思うので、どうか寛大な目で見ていただけると幸いである。

 また、語気の強い言い回しを度々使ったり、時には厳しい事をバッサリ書いている所もあるが、これはそれだけ「HUGっと!プリキュア」に対して真剣なる想いを持っているからである。尤も、それを加味しても些か語気が強過ぎると思う事も無くは無いが、下手に誤魔化してお茶を濁す位なら、多少の痛みも覚悟でその想いを書き出した方が良いと言うのが、私の考えである(2024/2/12 追記)。

 

2.感想本題

暗き未来に立ち向かう物語

 何があっても折れない意思。どんな困難があっても決して諦めない意思。過酷な未来が待ち受けていたとしても、明るい未来を掴む為にならば決してへこたれない強き意思。作中に込められていた数々の場面から、真っ先に思う事はそれだった。

 はぐプリは「希望を失い、時が止まった未来へとさせない為に、明日への希望を信じ続ける意思を育む物語」と言うのが骨子としてあり、全体的な雰囲気は楽しいシーンも多いとは言え、割とシリアス寄り。話が進むにつれてシリアスな展開により磨きがかかる様になり、特に「ハリハム・ハリーやリストル、ビシンにまつわる過去」は、強大な力に対する己の無力さ、絶対的な運命がもたらす残酷な現実、絶望に染まりゆく中で希望を持つ事が如何に難しいのか等々、作中でも特に非情でハードボイルド色の強い内容で、どうする事もできない非情さと冷酷さ、そして残忍さに対して、思わず雁字搦めにさせられた......。

 プリキュアが戦うべき相手となる対立組織は、明日への希望を奪い、止まった時の中で永遠の幸福を提供しようとするクライアス社だが、そのクライアス社も、よくある「世界を我が物にしようとする悪の組織」ではなく「絶望に染まった未来をこれ以上悪いものにはしない」という、未来への希望を失い、絶望へと染まっていくしかないと悟った者に対する、ある種の「救済」として機能しようとしている点が興味深い。ただ、やっている事は「皆の未来を強引に奪い取る事」に他ならない為、プリキュア達とは「分かり合えない組織」とはなってしまうのだが......。

 そして、もう一つの特徴として「生きとし生ける者なら誰もが持つ感情が生々しく描かれている点」がある。怪我をきっかけに簡単には乗り越えられぬ恐怖(=トラウマ)を刻まれたり(ほまれ ≪キュアエトワール≫)、自分だけの夢や目標が持てない現実に対してもどかしい思いが募り、己の無力さをどうしようもないまでに嘆いた結果、未来への希望さえも失う事態へと発展したり(はな ≪キュアエール≫)、自分らしさを追い求めようとしても、それを周りが簡単には許してはくれない現実を思い知らされたり(えみる ≪キュアマシェリ≫、ルールー ≪キュアアムール≫等)、自分が本当に目指したい夢は何かを考えた時、あらゆる期待に対して言いきれないもどかしさを抱えたり(さあや ≪キュアアンジュ≫)等々、枚挙に暇はない。これがはぐプリをより重厚な物語へと変貌させている一方、人間が持つ「弱さ」「ジレンマ」とも向き合わせてくる構図が、己の心に少なくない重荷をもたらすのも事実。その生々しい感情の数々が、より深い感触と悲哀さえもたらすのである......。

 ただ、生々しい感情によって傷付く事もあるが、決してそれだけではない。残酷とも言える現実に何度打ちのめされようとも、どんなに自分がちっぽけで無力な存在である事を思い知らされたりしても、絶対に諦めたりしないその強き意思。その意思が、はぐプリは物凄く強く輝いている。何があるか分からない未来に対しても、決して今の幸せがずっと続く訳では無いと解っていても、未来へと歩む意思を曲げない強さ。その強さに、私は心惹かれたのだった。

 尚、はぐプリでは大きく分けて野乃はな達がいる「現代」の時間軸と、クライアス社やはぐたん、そしたハリー等々がいた「未来」の時間軸の2つが存在しており、物語は基本的に「はな達がいる現代の時間軸」によって繰り広げられる。また、未来では既にトゲパワワと呼ばれる、明日への希望を失わさせる力*1によって町は壊滅状態となり、時も既に止まっている*2そして、その中でクライアス社が永遠の幸福の為に活動していると言う状態になっている。その為、はぐたんやハリーは、いわばその様な絶望に染まった未来から逃れ、待ち受ける絶望の未来を変える為に過去へとタイムスリップした存在であるが、実ははぐたん、ハリー共に序盤では伏せられていた秘密があり、その秘密が明かされた時は思わず驚かされた。

奇跡を見せ付けたルールー

 ルールー・アムール。プリキュアとしての名は、キュアマシェリと2人1組と成す愛のプリキュア「キュアアムール」。元はクライアス社の一員(アルバイト)であり、その正体はクライアス社の科学者ドクター・トラウムによって作られた高性能アンドロイド。同じクライアス社の面々からは、その高い能力故に重宝されていたが、同時にアンドロイド故に「人間とは違う」と言う目を注がれており、ルールーもそれを疑う事は無かった。徹底した合理主義を持ち、人間の様な感情を持つ事を「非効率的」と考えていた頃は......。

 そんな彼女だが、私はこのハグプリの中ではルールーが一番のお気に入りである。ルールーは作中序盤の終わり頃に、当作品の主人公「野乃はな」(キュアエールの家へとプリキュア調査の為」に潜入する*3のだが、その過程でルールーは「人間が持つ心や感情」について知っていき、最初は「非効率的」と言ってそれら感情を切り捨てていたが、次第にルールー自身にもそれら感情や心が芽生えていき、ある段階からは最早人間と変わりない感情と心を宿したと解る構図があまりにも良かった。

 その様な経緯から、ルールーが明確に人間と変わりない感情と心を発露していくのは、後述のプリキュア達との戦いにおいて、これまで築き上げてきた仲間達との信頼や絆をルールー自身が呼び起こし、クライアス社と完全に袂を分かたってからと考えられる中で、私はそれ以前から、何だったらはな達と接していく中、人間が持つ感情や心を少しずつ知っていく過程で、実はルールー自身にも解らない所で、既にその様な感情や心が少しばかりでも芽生え始めていたんじゃあないかと思っている。無論、実際の所は分からないと言えばそうだが、そんな夢のある展望を持っても良いんじゃあないかと私は思う。

 ただ、事実問題としてその様なルールーの変遷ぶりを危惧したクライアス社側が、ルールーをクライアス社に収容して改造を施し、ルールーがそれまでプリキュア達ひいては、はな達と共に築いてきた記憶や信頼を全てデリート、つまり削除されてしまう事態になってしまっている。それに対してプリキュア達が(今までずっと騙されていたと解った事も相まって)動揺するシーンもある。しかしながら、本当に凄いのはここからで、自分達は騙され続けたと知っても尚、ルールーを信じる気持ちを捨てなかったエールもといプリキュア達の意思や、記憶を全て抹消されたにも関わらず、今まで築き上げていた想いまでは完全に失っておらず、己を取り巻く感情や葛藤と戦い、とうとう人間と同じ様な心と感情を完全に我が物とした、ルールー自身が掴み取った奇跡が、私の心を突き刺した。人知を遥かに超えた奇跡を前にして、最早何も言う事は無かった。

 その後も、キュアマシェリこと愛崎えみるを筆頭に、仲間達と共に確固たる友情と愛情を、時にぶつかったり時に不器用になりつつも、着実に築き上げていく様がとても美しかった。他にも自分の信念をもって突き進んだり、自分の特性を最大限に使った分析や立ち振る舞いをして、友達(戦友)との確固たる信頼関係を更に強固なものにしたりと、ルールーが辿った軌跡には思わずシビれるものがあった。

 余談だが、ルールーは回を追うにつれて「食べる事」が何よりも好きとなった様で、後半になると食べ物に度々夢中になる場面が散見される様になった印象が強くある。私自身元々「美味しいものを幸せそうに食べる事」に対して、それが何よりの幸せだと考えている様な人であり、自分自身としても食事を楽しみの1つにしている事もあって、ルールーのそういう一面はとても気に入っていた。やっぱり日々の生活において切っても切り離せない「食事」に対しては、摂食よりも喫食*4であった方が良いと思うし、プリキュアシリーズは度々「食事を楽しむ」と言う事に力が入れられている作品*5なので、こういう一面は凄く良いと思った。

人間味溢れる科学者

 正義の心を持つプリキュア達とは敵対しながらも、何処か憎めない魅力を持つと言うのがクライアス社の面々の特徴でもある*6が、その中でも特に独創的な魅力に溢れていると思う社員が1人いる。ルールー・アムールの設計者にして、クライアス社の科学者であった「ドクター・トラウムその人である。彼は飄然とした雰囲気の持ち主で、自身の発明品にファンシーな要素を盛り込みながらも、目的の為には手段を選ばない冷徹さをも併せ持っている。また、敵ながら赤ん坊達の邪魔にならない様に気遣う一面を見せたり、自身が開発したルールーを我が子の様にこよなく溺愛したりする*7等、所謂子煩悩的な一面もある。プリキュア達が旅行に出かけていると知れば、自分も旅行に出て疲れを癒すなど、割に自由奔放な所がある人だが、必要に応じて目的を果たそうとする真面目な所も。

 そんなドクター・トラウムだが、個人的にはクライアス社の面々の中でも最も好きなキャラクターであり、特に「人間味溢れる一面の数々」に心惹かれている。彼はクライアス社の一員として、明日への希望を奪って時を止めようとする会社の行動に加担している一方で、どこかプリキュア達が魅せる「明日への希望を信じる姿」に一縷の望みを託そうと感じられる態度が見受けられたり、プリキュア達に対しても、ジェロスやリストル、そしてビシンの様に「何があろうと分かり合えないし、分かり合いたくもない『目の敵』」としている訳では無く、どこか「会社の理念の為に行動している」と感じ取れたりする等、敵でありながら温情ある一面を見せる事が多い。この「正義にも悪にも染まり切れないどっちつかずな状態」に対して、本人も言う様に「人間は矛盾を抱えているもの」と称したのが、私としても凄く共感できたし、それこそ「人間の弱い所」であり「人間が人間たる部分」だとも思った。

 トラウムは数々の言動や様相からして、それ相応に長い人生を歩んできた人物である事は明白で、それ故に人間が持つ弱さも良く知っているだろうし、自分が決して真っ当な真人間なんかじゃあない事も自覚している、いわば「酸いも甘いも噛み分けてきた」の様な人生を歩んできた人物だと捉えている。実際、彼は自分が発明した数々の発明品を用いて、クライアス社の理念である「時を止めて永遠の幸福を提供する」と言うのを遂行すべく活動した事も数多く、その過程の中では時に冷酷とも思える行動をとったのも事実である一方、ルールー達にジョージ・クライの行動原理を教えたり、プリキュア達によって浄化されずとも、己の意思でクライアス社の理念から背く行動を取ったりと、行動の軌跡だけを見るならば「彼は一体どういう理念に基づいているのだ?」とならなくもない。良く言えば柔軟な思想の持ち主、悪く言えば一本筋がないとなる。

 しかしながら、これこそ「トラウムが人間味溢れる所以」だと思っている。幾度となく希望をへし折って絶望に染め上げようという理念をもってして、プリキュア達を倒そうとしても、決して諦める事なく立ち上がり続ける姿を見て、何時しか「未来は絶望しかない。だから時を止める事が幸福なんだ」と思っていた自分の心の中にも「もしかしたら未来にも希望があって、自分でもそれを掴めるかもしれない」と思い始めて、最終的にはプリキュア達の方につく事を自ら選ぶ。これは本人も言っている様に、綺麗な人間がとる行動とは決して言えないし、矛盾を切り捨てられなかった弱さである事にも違いない。だが、真っ直ぐな信念に突き動かされて、何時しか自分の考えも変わってしまっていたと言う事は、人間ならば誰しも起こり得る事だし、どうにもならないジレンマの中で苦渋の決断をしなければならない局面なんぞ、人生何度でも起こり得る。それを思えば、トラウムひいてはクライアス社のメンバーが最後の最後に決断した事は、困難多き未来を歩んでいく為には必要な事であり、とても前向きな事だったんじゃあないかと思う。

ジョージ・クライの矜持

 クライアス社の代表取締役社長にして、本作における俗に言う「ラスボス」に相当するジョージ・クライ。社長と言う肩書から「プレジデント・クライ」と呼ばれる事もあり、本作の主人公「野乃はな(キュアエール)」とは価値観が色んな意味で正反対にある人物。己の人生経験から「幸せは永遠には続かない、何時かは不幸がやって来る」と言う事を学び、ならば「不幸な未来がやってこない様、幸せな時を永遠に過ごせる様に」と言う矜持を持つに至っており、これが「時を止める」と言う事に繋がっている。ただ、ジョージ・クライ自身はトラウム曰く「何もしない人物」と称されており、この事からジョージ・クライ自身は「時流に合わせてクライアス社の社長に就いた」とも見て取れる。その為、一般的に悪役でイメージされやすい「悪の力で世界征服」や「悪の力を用いて利己的な願望を遂げようとする」といった感じがジョージ・クライには無く、一線を画す魅力がある。また、彼の経緯に関しては意図的にぼかされている所が多く、謎を解こうにも解けない側面もある。とは言え、彼が未来への希望を失う様な事態を経験している事はほぼ疑いない事実だと見て取れる。

 彼が実行している事は「時を止めて今の幸せな状態を担保させる」と言う事である為、人によっては「更なる不幸に襲われずに済む」と言うメリットを見出せなくもない。しかしながら、赤ん坊であるはぐたんの成長や、様々な人との出逢いを通じて、未来には絶望だけでなく希望も詰まっていると理解しているプリキュア達にとっては相反する思想である事に変わりなく、その上クライアス社のやっている事は、言ってしまえば「誰彼構わず止まった時の中で永年の幸福を享受させる」と言う構図である為、1つの価値観を無理矢理全員に押し付けていると言う意味で独善的且つ短絡的と言わざるを得ない。私としても、ジョージ・クライの考えている事は解らなくもないが、やはり「考え方の1つに過ぎない思想を全員に半ば無理矢理押し付けている」と言う構図がどうしても受け容れ難い。

 ただ、一方でジョージ・クライがいた未来では、クライアス社が時を止めたと言うより「人々が絶望に染まった事で時が止まった」と言う背景事情があり、故にジョージ・クライが自発的に何かの手段を用いて絶望を唆したとは言い難いとも見て取れる。それを思うならば、ジョージ・クライがやった事は一概に「邪悪なる存在」とは断じて言えず、手段こそ非道な一面もあるとは言え、捉え方によっては寧ろ「悪の救世主」と言えなくもない。とは言え、当然ながらそれが正義の心を持つプリキュア達、特にあらゆる意味でジョージ・クライとは正反対の価値観を持つ野乃はなにとって、果たして納得して受け容れられるかどうかについては全くの別問題で、ルールーやトラウムをはじめとして、当初は敵としてプリキュア達と対峙してきた面々が、数々の戦いを経て味方となっていった本作では珍しく*8最後の最後まで敵として立ちはだかり、敗北した後もキュアエールの信念を認めつつも、最後まで決してプリキュア達の考え方には染まらないスタンスを持ったままどこかへと姿をくらませてしまった*9為、作中ではあまり見ない「最後までプリキュア達とガッツリ手を取り合う事は無かった存在」でもある。理念がまるっきり違うので、しょうがないと言えばそうなのだが......。

紡がれる未来、運命的な巡り合わせ

 はぐプリの最終回は、色んな意味で衝撃的な事の連続だった。まず最終回ではぐたんやルールー等々の未来からやって来た人達が、トラウムが開発したマシンで未来へと帰還する流れは理解できたが、驚きなのはその後未来に帰還した後の様相が一切描かれていないどころか、現代にいるはな達にしても、はぐたん達が未来へと帰還した直後に何を思ったのか。果たしてどの様な心境にあったかが全く描かれていない点と言う意味で特異的であり、とどのつまり「未来へと帰還した所で、連続した時間軸の描写に1つのピリオドが打たれた」と言う構図に、私は驚きを隠せなかったのである。

 だが、これはまだまだ序の口。はぐたん達が未来へと帰った後に描かれた場面は、なんと「2030年」と表記されていた。はぐプリはメタ視点においては2018年から2019年に放送された作品であり、作中でも現実の西暦と同年代として設定されていると解る事、最終回にて野乃はなの年齢がそれまでの「13歳」から「14歳」になっている事、その野乃はなの誕生月は「1月」である事を勘案すると、最終回にて時間軸が大幅に進む直前の年代は「2019年」であると推測される。そして、そこから2030年へと時が進んだのなら、作中における経過時間は「11年」と言う事になり、最終回後半で描かれた2030年は、言い換えるならはぐたん達と別れてより11年後の物語と考えられる訳である。

 この様な事から、最終回後半では「大人になった野乃はな達」が描かれており、各々の活躍ぶりは大変目覚ましいものがある。その過程でどの様な事を経験してきたかについては、最早当人達以外にとっては想像する事しかできないが、恐らく簡単に誰でも歩める一本道では無かった事だけは確かだと思う。悩む事もいっぱいあっただろうし、なによりはぐたん達との別れに対して、少なくない悲しみを背負っていた事も想像に難くないので、大人になったはな達が魅せる世界観と言うのは、正に「多くの困難や悲しみを乗り越えて掴んだ世界観」だと言えよう。

 そして、最もインパクトが強かったのは、大人になった野乃はなが、最終回の終盤にて我が子を授かる場面が描かれた事であり、これに対しては「自分達が築き上げてきた想いは、次の世代へ着実に受け継がれていく」とも「はな達の世代が紡ぐ想いの集大成」とも受け取る事の出来る、正に世代を超えて紡がれていく美しき物語だと受け取っている。また、はなは授かった我が子の名前に「はぐみ」と言う名前を付けているのだが、これはほぼ間違いなく「はぐたん」を意識して付けた名前だと考えられ、もっと言うとはぐみははぐたんによく似た様相をしていたので、これは時を超えたある種の奇跡であり、運命なのではないかとすら思う。

 ここで気になる事が1つ浮かび上がってくる。それは大人になった野乃はなの旦那さん、つまり「はぐみのパパは誰か」と言う事であるが、作中ではそれらしき人物いる事自体は明確に描写されていたものの、それが誰なのかに関しては意図的に伏せられていた。その為、はなの未来の旦那さんが誰かについては、観る者それぞれの考えに委ねられていると言えるが、作中での描写や行動を推察する限り、私が思うにその可能性が最も高いのはな達と同じ時間軸にいるジョージ・クライ、即ち「現代のジョージ・クライ」だと考えている。ここで現代のジョージ・クライと称するのは、作中のラスボスとして君臨していたジョージ・クライは「未来からやってきた存在だから」である。

 現代のジョージ・クライについては、一瞬しか描かれていないので明確な事は殆ど解らないが、それでも野乃はなの旦那さんだと思った要因は、野乃はなと未来からやって来たジョージ・クライとの最終決戦中にて、唐突に(恐らく)学校のとある一室に焦点が当たる描写が差し込まれており、そこでは男性2人が野乃はなの強烈なメッセージに心打たれると言うくだりにある。そして、その男性2人とは、私が見た限りでは、野乃はな達と同じ時間軸に生きているであろうドクター・トラウムと、ジョージ・クライの2人だと捉えているのだが、ここで抑々論としてジョージ・クライが何故明日への希望を捨て、止まった時の中で永遠の幸せを望む様になったのかと言うのが重要になってくる。

 未来におけるジョージ・クライは元々「自分に希望を与えてくれていた存在を失った事で、明日への希望を無くし、これ以上の不幸を避ける為に、絶頂のままでいられる様に時を止めようとした」と言う経緯が、彼自身の発言やモノローグから推察できる。そして、その希望を与えてくれる存在として、キュアエールの名を持つ野乃はなの様に「自分の事を後回しにしてまでも他人の幸せを願い、全力で行動できる。その上、未来を最後まで諦めずに信じ抜く意思の強さ」を持つ人が挙げられる事は想像に難くない。事実、クライアス社の社長としてのジョージ・クライは、トゲパワワを集める為にあらゆる手段を尽くさんとしつつも、野乃はなが持つ「明日への希望に対する矜持」に興味を示しており、実際に彼は自分の正体を掴まれない様、掴み所のないミステリアスな男性として、野乃はなに対して何度か接触している事からも窺える*10。尤も、ジョージ・クライとしては、野乃はなが持つ「明日への希望」に対する考え方に対して、あくまで「それでは不幸への道は避けられない。そんな不幸に染まる位なら、私が不幸なき世界へと導いてあげたい」と言う魂胆で接触していた可能性は十分にあるが、たとえそうだとしても、僅かながらでも野乃はなが持つ「希望に対する矜持」に何か懸けてみたいと言う想いはきっとあったのだろうと思っている。

 つまり、クライアス社の社長になる前のジョージ・クライは、明日への希望をすっかり失くしてしまった、云うならば「既に枯れてしまった存在」ではなく、明日への希望を強く与えてくれる人に自分の想いを託したいと思っていた人ではないのかと、私は思っている。そこから色んな想いを張り巡らせた結果、最終決戦中に現代のジョージ・クライが見せた、野乃はなが持つ矜持に思わず圧倒された彼の姿があり、野乃はなの様に明日への希望を決して捨てず、どんな過酷な未来が待っていようと決して諦めず立ち向かっていける強い気概を持つ人に対して心惹かれるものを覚え、未来でのジョージ・クライと同じ様に、明日への希望を強く持つ者に対して、最終回のラストシーンにて大人になった野乃はなひいてははぐみに対して、深淵な意味を持った花言葉を込めた花束を贈る、野乃はなと同じ時間軸を生きた、ジョージ・クライその人こそ、大人になった野乃はなと旦那さんなのではないのかと、そう思ったのである......。

 ここまで重厚な内容を書き出したが、大前提としてこれら上記の内容は「私が思う仮説の1つ」に過ぎない。作中で明確な答えが明かされていない以上、この様な仮説は正に人の数だけあると思うし、仮説によっては私の立てたものとは全く相反するものもあると考えている。しかしながら、それ故に物語の想像がより膨らみ、それぞれにとってはぐプリを更に印象深いプリキュア作品へと仕立て上げているとも考えている。この限り無き想像を、私も含めて是が非でも大切にしなければならないと思うものである。

 

3.第一のあとがき

 ここまではぐプリに対する熱烈な想いを書き出してきた。個人的にはぐプリにおける敵対組織「クライアス社」は、ジョジョの奇妙な冒険で言う所のPart6「ストーンオーシャン」のラスボスエンリコ・プッチと、同Part7「スティール・ボール・ラン」における最大の敵*11「ファニー・ヴァレンタイン大統領」が持つ理念や矜持にも重なるものがあると捉えている。

 この2人は、どちらも「理念を成し得る為ならあらゆる犠牲を厭わず、その為なら弱者を切り捨てる事も、人を駒の様に使う事さえ躊躇しない」と言う意味で「絶対的な悪」ではあるが、その一方で「人類或いは国民の為に正しい事を成し得ようとする」と言う理念を持ち、その為ならば己の身を犠牲にする事さえ厭わない意思を持っている。それは、クライアス社にとっても同じ事が言え、クライアス社も「目的の為に少数派の意見を切り捨てる」と言う意味では紛う事なき邪悪だが、大多数の人が絶望に染まった未来にて「人々がこれ以上絶望に染まらない様に、永遠の幸福を提供しようとする」と言う姿勢は、一概に邪悪として切り捨てるにはあまりにも惜しいもので、私としては「せめてそれを誰彼構わず押し付けようとしなければ......」と思う程には勿体無いと考えている。

 思えばこのはぐプリにおいて、最もお気に入りのプリキュアがキュアアムール、即ちルールー・アムール、最もお気に入りの敵サイドキャラがドクター・トラウムと言う、どちらもクライアス社に関わりがある者に対して特に心惹かれていると言う共通点があった事に気付いた。これ自体はまったくの偶然なのだが、この様な事からも私がクライアス社の持つ理念や行動、そして軌跡(奇跡)に対して深く心に刺さるものがあったと言えるだろう。尤も、その理念に加担するのかと聞かれれば、私は「その信念に一定の理解は示せど、決して加担する気は無い」と答えるが......。

 最後に、はぐプリに登場するキャラクターは、敵味方問わず魅力に溢れるキャラクターが多く、1人1人に今まで歩んできた軌跡があり、その奇跡に基づいた、確かな理念を持った姿に感銘を受ける事が多かった事は、ここで改めて書いておこう。視聴している最中は、キャラクターがとる数々の言動に、こちらも思わず熱くなり過ぎて「今ここでそんな事言うのは違うんじゃあないのか」とか「言わんとしている事は解るが、それでも私はどうしても納得できない」とか、中々に尖った事を一時的にでも思ってしまった事もしばしばあったが、これは私とてそれだけ「作品に対して真剣な想いが芽生えていたから」である。とは言え、思わず熱くなり過ぎてしまう所は良くない点だが、そうやってぶつかっていったからこそ、今の篤き想いがあるのもまた、事実なのである。

 

 

4.更なる感想本題(2024/2/10~2/11追記)

 当初は上記の「3.終わりに(現:第一のあとがき)」をもってこの感想題目の締めとしていたが、後になってこのはぐプリにおいて欠かせない存在である「はぐたん」の事や、最早プリキュアだけの事には留まらない題目にはなるが、それぞれが持つ「正義のぶつかり合い」等、書き出し切れなかった題目が存在している事を指摘された。その事を踏まえて、私としても「更に納得のいく感想を書きたい」と言う想いに熱が入り、これまで書き出した題目から付け足す形で書く事を決意した次第である。

 ここからの題目においても、これまで同様ネタバレを含むだけでなく、シビアな内容をふんだんに含むものとなる上、言ってしまえば「どうしようもない非情な対立」「何処まで行っても救いようのない現実」にも踏み込んでいく内容がある為、読む際にはどうか注意してほしい。

 

核心を握る赤ん坊

 「HUGっと!プリキュア」において、はぐたんと言う赤ん坊は、物語にとってもプリキュアにとっても、そして「明日への希望を信じ続ける意味」でも絶対に欠かす事の出来ない重要人物と言うのは間違いないだろう。その純真無垢な可愛さは、何かと重厚な展開が多く、時には心が大きく揺れ動いたり、どうしようもない傷を背負い込む事も少なくないはぐプリにおいて、どんな時でも決して揺らがない安心と安らぎを与えてくれるだけでなく、同時に「この純真さを守る為にも、私達はどんな事にも諦めず前向きに進まなければならない」と言う形で、守る者達に勇気と希望を与えてくれる存在でもある。

 また、子供世代にとっては自分よりも小さい赤ん坊がいる事で「今の自分の目線から赤ん坊の未来や希望を守る事を考える契機」へと繋がり易く、子供にとっては難解且つ実感が湧きにくいテーマも少なくない中でも「自分でも考えられる、解る事がある」と感じやすくなると考えている。それを思えば、プリキュアの様に「子供世代と親(大人)世代両方に響く様に作らなければならない作品」においては、子供にとっても大人にとっても「観ていて面白い、惹き込まれる」と感じて貰う事を往々にして意識しなければならないと考えられる中で、はぐたんという赤ん坊がいる事で、子供世代と大人世代の橋渡しとなり、幅広い世代に愛されるだけの作品へと昇華させたはぐプリは本当に凄いと思う。

 作中ではその愛くるしい見た目と、赤ん坊である事から基本的に皆から寵愛される的となっているが、中でもほまれ(キュアエトワール)から特に寵愛されている。普段は大人っぽくて凛とした雰囲気を持つほまれだが、はぐたんを可愛がる際には、その可愛さに心を射抜かれている様子を度々見せており、普段とはまるで別人の様でもある。当初は赤ん坊故に言葉を話せなかったが、話が進むにつれて簡単な単語を話す様になったり、人の名前を読んだりする様になったり、自分だけで立つ事が出来る様になったりしており、赤ん坊の成長を体現する存在でもある。

 そんな愛らしいはぐたんだが、終盤で明かされた正体はかなり衝撃的なものだった。その正体は「未来世界におけるプリキュアが1人にして、プリキュア達にとっての最後の希望」であり、女神様の力の寵愛を受けたプリキュアでもある「キュアトゥモロー」。はぐたんと言うのはそのキュアトゥモローが、共に戦ってきた仲間達を次々と失い、どうにもならない状況にまで追い込まれ、最後の手段として、クライアス社を裏切ったハリーと共に絶望によって時が止まる前の世界へとタイムスリップする際に、女神様から賜った力を殆ど使い果たした事で、プリキュアから赤ん坊へと変貌したものだったのである。要するに「はぐたんは元々プリキュアだった赤ん坊」と言う事で、ここからはぐたんが「特殊な力を持った赤ん坊である訳」の説明もつく。

 ここでしれっとハリーの事を「クライアス社を裏切った」と説明しているが、これはハリーが元々はクライアス社側のメンバーだった為であり、ハリーとてクライアス社の理念を追い求めたくなる程の絶望的な運命に打ちのめされた過去を持っていたのである。実際、絶望的な運命を前にしたハリーは自暴自棄に陥り、己どころかクライアス社にとっても制御が利かない程の力を持った凶暴な姿へと変貌してしまうのだが、そこで助けてくれたのが「キュアトゥモロー」だった訳である。トゥモローが持つ希望の想いにいたく感銘を受け、絶望から救い出してくれた事への恩義から、ハリーはクライアス社を裏切り、プリキュア達が持つ「明日への希望を信じる心」を最大限信ずる様になり、はぐたんを何よりも大切に想う理由にもなっている。

 因みに、そんなハリーとは基本的に正反対の立場にあるのがクライアス社が1人のビシンで、ビシンは絶望的な運命に立たされた経緯から明日への希望をこれっぽっちも信じておらず、全てを壊したいと言う破壊願望を持つ存在として立ち振る舞っている。ただ、ハリーと共通している部分として「実は仲間想い」な点があり、明日への希望を信じる心を体得してクライアス社を去った、嘗ての仲間だったハリーを何度も強引に自分の仲間(=クライアス社)に引き込もうとした。当然、ハリーからは「二度とクライアス社には戻らない」と拒絶され、それはビシンが最終決戦中に改心するまで終ぞ変わる事は無かった。哀しい話ではあるが、こればかりは「決して交わる事などない信念のぶつかり合い」なので、結局は「もう諦めろ。ハリーはもう昔の様に希望を捨てる事は無い。それを無理矢理変えようとしても、傍から見れば惨めな行いにしか映らないぞ」としか思えなかったのが正直な所だった。冷酷な宣告かもしれんが、ビシンとて改心するまで「他人の考えの変化を一切受け付けない上、自分と他人とでは価値観の違いがある事を受け容れようとしない。にも関わらず自分の考えを他人に否が応でも押し付けようとする」と言う、世間では一切の例外なく「どうしようもない『最悪』」或いは「真の『邪悪』」*12と突き放される程の絶対的な落ち度があったので、悪いがそこはバッサリ割り切らせてもらう。

自分らしい生き方の追求

 自分らしく生きる事。誰が何と言おうと、自分の進みたい道を貫き通そうとする事。別の表現をするなら「多様性」であり、この「HUGっと!プリキュア」だけでなく、プリキュアシリーズひいては「人生における矜持」にも通ずる程壮大且つ繊細なテーマでさえ描かれると言うのが、はぐプリの凄まじい所。幾つものマンガやアニメに触れていく過程の中で、その様なテーマ性を持つ作品にも沢山触れてきた私にとっては、それ自体は特段驚くべき事では無いが、それをプリキュアで描いてくる」と言う事実に、震える程の想いと限りなき敬意を表しようとなった。

 作中でも特にそれを体現する存在としては、中性的な雰囲気を纏った、スケート王子と形容される程の人気を誇るスケート選手の「若宮アンリ」と、プリキュアが1人「キュアマシェリ」こと「愛崎えみる」の2人が真っ先に挙げられる。無論、この2人以外とて「自分らしい生き方や、自分が進みたい道に対して悩み、そしてもがく場面」はあるが、それを勘案しても上記2人は頭一つ抜けていると思う。

柔軟且つ自由な想いを秘めしスケート王子

 まずは若宮アンリくんから書き出す。アンリくんはほまれと同じスケート選手であり、彼女とはお互いに気の知れた、切磋琢磨し合う仲間。スケート「王子」と称される事からも解る通り、男の子だがその雰囲気は極めて中性的で、凛とした淑やかさと、王子らしい爽やかさが共存した雰囲気の持ち主。普段はどこか飄然とした態度を見せる事が主だが、内に自分の信念を強く持っている人物でもあり、時にはほまれたちと考え方の違いから衝突する事もあったが、他人の強き信念を尊重できる一面も併せ持ち、信念が人それぞれ違う事に対する理解は高い。

 彼は「自分がしたい事、なりたい事に付き従って生きる」と言う考え方がベースとしてあり、故に中学校の制服でもネクタイではなくリボンを付けたり、中性的な雰囲気を持つ事を活かして、女性向きのファッションを難なく着こなして見せたりと、全体的に「画一的な枠組みに囚われず、柔軟な発想による立ち振る舞い」を体現している。これに対しては、現実でも肯定的に捉える人もいれば、快く思わない形で捉える人も当然いるもので、作中でもそういった意見の相違はちゃんと描かれている。アンリくんとしては「どうやっても分かり合えない事に無駄な気力は割きたくない」と考えている様で、一見すると冷徹な考え方に見える。しかし、現実問題として「どんなに譲歩しようとも、分かり合えない事の1つや2つはある」と言うのは、世の中においては最早避ける事の出来ない絶対的な事実であり、その場合は「曲解してまでも分かり合う」と言う態度よりも、アンリくんの様に「分かり合えない事に対して一々目くじらを立てない」と言う態度の方が、下手に争うよりも結果的に共存できる可能性が上がる事もある。ともすれば、アンリくんの考え方に一理あるとなるには十分であり、何かと色んな事でせめぎ合う世の中において、達観した考え方を持ちつつ、自分の信念を貫き通す意思には目を見張るものがある。

 また、アンリくんも達観的な視点を持つ一方で、世の中に存在する「どうやっても分かり合えない事」から目を背けている訳では断じてない。作中においても、アンリくんとは同年代にあたる「愛崎正人」(えみるの兄)から「中性的なファッションをする事」に対して懐疑的な意見を投げかけられた際も、最初は自分の信念に則ってそういう意見を「撥ね除ける」姿勢をとっていたが、正人くんが持つ考え方を知った際には、真っ向から否定する事なくまずは受け容れてあげる態度を見せており、とある事から正人くんが考え方を変化させようとした際には、その変化を後押ししてあげる姿勢を見せている。この事から、アンリくんには「分かり合えない事実ともきちんと向き合えるだけの気概はある」と言え、それは彼が持つ大きな強みと言えよう。

不撓不屈の精神を持つ小学生

 次はキュアマシェリこと愛崎えみるである。彼女は野乃はなの妹「野乃ことり」のクラスメイトであり、学年は小学6年生。絶対音感の持ち主であり、楽器はピアノとギターを軽く弾きこなしてみせる程の高い腕前。だが、ギターについては兄が理解してくれない事もあって、家では見つからない様に隠れながら弾いていた。家は豪邸であり、彼女は所謂「令嬢」に当たるが、本人はそれを鼻にかける事は一切ない。気さくで頑張り屋さんだが、度が過ぎる程の心配性でもあり、時にはそれで周りを振り回してしまう事もある。

 彼女は一言で表すと「不撓不屈(ふとうふくつ)の精神の持ち主」であり、小学生とは思えぬ程の強い精神力を持った言動や行動で、周りを大きく突き動かすだけの力を持つ人物と言える。それを体現しているのは、自身が好きとする「ギター演奏」であり、えみる自身はギターで演奏する事を「自身の精神の発露」と言わんばかりの熱い想いを持っているものの、兄は「ギターなんて女の子がする事では無い」と考えていた事もあって、その想いを発露するには些か難しい環境にあった。しかし、そんな中でも想いを捨て切らず、ギターに対する熱い想いを、当時まだ人間の様な心を会得している最中だったルールーにぶつけた事で、ルールーはその様な想いを受け容れてくれ、ここからえみるとルールーに確かな信頼関係が生まれていき、それが花開いた形の1つとしてあるのが「キュアマシェリ「キュアアムール」と言う奇跡なのは、また別のお話。

 ギター演奏に対する兄の指摘から解る様に、えみるもまた「画一的なものの見方に囚われている1人」と言え、えみるとてめげはしなかったが、兄が中盤までギター活動に対して理解が無かった事は、少なからず枷にはなっていたと推測される。ただ、兄とて別に妹の自由を奪いたいとかそう言うのではなく、単純に「ギターが女の子が弾くと言うイメージが持てなかった」と言う事や「お淑やかな人に、ギターは似合わない」と言った、彼なりの考え方が有ってこそだと考えられるので、決して考えなしに反対していた訳では無い事は窺える。但し、それにしても兄がやろうとした事が「些か強引過ぎる程強引だったのは事実」であり、何より「人の気持ちを尊重する前に、世間体を押し付けようとしたのは悪手」なのも事実であろう。

 でも、そんな兄もある出来事をきっかけに態度を少しずつ軟化させていき、ルールー達が何れは未来へと帰らなければならない事態に直面し、えみるが雁字搦めの想いに囚われてしまった際には、その様ながんじがらめの想いに囚われる事になったのはギターのせいだと決めつけ、えみるの活動を止めさせようとしたえみるのおじいちゃん*13を、兄として説得する程に妹の良き理解者となっており、ここに至るまでには妹のえみると、同年代のアンリくんと言う、世の中に存在する「画一的なイメージを超えようとする2人」がいたからこそだと思うと、凄まじく感慨深くなる。

小まとめ

 こうして書き出してみると、改めてはぐプリが如何に濃密なメッセージ性を持った作品であるのか。制作陣がどれ程の想いを込めて作られた作品であるのか。それをまざまざと感じさせられる様だった。今回はアンリくんとえみるちゃん、そしてえみるの兄たる正人くんに焦点を当てたが、前述した様にはぐプリでは、この3人以外に焦点を当てても重厚な想いは山の様に出てくるし、その1つ1つがめちゃくちゃ考えさせられるものになっている。

 今回はアンリくんとえみるちゃんそれぞれが持つ「自分が心からやりたい事」と、それに対する「周りの人の意見」を対比して取り上げ、その対比要素として「価値観の違い」「多様な価値観を認める姿勢」なるものに注目した。これらは昨今では往々にして唱えられる「多様性の尊重」を強く思わせるものであり、中々にデリケートなテーマではあるのだが、同時に「曲がりなりにも知ろうとしなければ、本質は永遠に掴めないテーマ」でもあると考えており、故にその様なテーマにも臆さず切り込んでいったプリキュアは、ただの子供向けアニメにはとどまらず、大人の心さえも掴み取る大きな魅力を持ったシリーズとさえ思う程だった。

 ここまで書いてこなかったが、私が持っている「多様な価値観に対する考え方」と言うのは、ズバリ「たとえ自分と違う価値観を理解できずとも、無闇に目くじらを立てず、またそれを頭ごなしに否定しない様に心がける」と言うものである。自分と違う価値観をすべて理解できるかと言えば、正直に書くとそれは「出来るなんて烏滸がましい事は、例え嘘でも言えない」と言うのが答えだし、目くじらを立てたくなる事が全くないとも言えない。しかしながら、世の中には「自分が理解できずとも、世間一般では問題ない価値観」もあるし、自分が腹の立つ事でも、別の人から見れば何ら腹の立つ事では無いと言うのもザラにある。となれば、せめて「己の価値観だけで世の中の全てを決め付ける」と言うのだけでは避けたいと言うのが私の想いであり、その様な想いを打ち立てた矜持こそ、上記の様な多様性に対する考え方と言う訳である。

 但し、言うまでも無い事だが「多様性を盾にして悪に手を染める事」「己の価値観を絶対とし、他者に問答無用で押し付けようとする独善的な思想」は、たとえどんな事情があったとしても、私は「『多様性』と言う概念をもってしても、それらの悪しき行動の免罪符には決してならない」と考えている。「認められるべき価値観を理解して貰おうとする態度」と「認められるべき価値観を無理矢理押し付けようとする態度」は全く別物であり、それ故に如何なる場合においても、その線引きを恣意的に運用する事は、多様性を尊重する態度として、決してあってはならないのである。

誰かの為に全力を出せる事の凄さ

 誰かを心から応援する事。どんな事があっても決して自分の目指したい未来や夢を諦めない事。他人の事でも自分事の様に捉え、後押しできる強さを持っている事。このはぐプリの主人公キュアエールこと「野乃はな」が持つ真骨頂は、この様な言葉で言い表せられるのではないかと思う。

 野乃はなは、言ってしまえば決して高い能力を持った人間ではない。勉強や運動が特別秀でている訳では無いし、他のプリキュアメンバーの様に、何かしらの「自分だけにしか持てないもの」を(表立っては)持っている訳でも無い。応援する事が何よりの強みだとは言っても、それも「応援は誰にだってできる」と言われれば強みとしては幾分弱まってしまう。実際、はなはそんな「無力な自分」に絶望し、一時的にプリキュアになる為の力さえ失ってしまう程の状況に追い込まれた事もあるし、自分が強みとしている「応援の意義」について、幾度となく考え苦しんだ事もある。

 だが、野乃はなの強みである「応援」には、彼女は気付いていない圧倒的な部分がある。それは彼女の応援に込められた「誰かの為になら、自分が持つ想いの全てを懸けられると言う強き意思」である。これは応援が誰にでも出来ると言われる中で、断じて「誰もが気軽に持てるものでは決して無い部分」でもあり、野乃はなが持つ唯一無二のポテンシャルにして、彼女自身にさえその全容を掴めていない恐ろしい部分でもある。

 誰かを心から応援するっていう事は、正に「言うは易く行うは難し」の良い例だと考えている。口ではどんだけ上手い事言おうとも、いざやろうとすると全然理想とは程遠い形でしか出来なかったり、「応援が時には責め苦に変貌する」と言う、ただ応援してれば良いと言う安易な考えを完膚なきまでに打ちのめす地獄を味わったりして、大抵は心が折れる事になる。また、誰かを応援するには「応援する対象を誰よりも想い、誰よりも信じてあげる気概と覚悟」が必要になる事もあるが、これも中途半端な意思ならあっという間に精神が磨り減らされていき、最後は気概も覚悟も潰えて意思半ばで応援から身を引く事となる。要するに「応援」と言うのは「開始は簡単だが、継続するのは非常に困難」と言う訳であり、しかもその事実は「誰もが始められるから」こそより際立って見える。

 この様な事が考え得るからこそ、野乃はなが持つ「誰かの為に、自分の持つ想いを懸けて応援できる」と言うのは、それだけで「誰もがそう簡単に持つ事は出来ない彼女特有の強さ」となるし、そこに「どんな事があっても決して諦めず、未来は希望溢れるものだと信じ抜こうとする意思」が加わる事で、彼女が得意とする「応援」は、一般的に言われる「誰もが出来るもの」から「そう簡単には真似できない彼女独自の強さを持ったもの」へと変貌を遂げる。その強さと言うのは、決して誰にでも体得できるもんじゃあない、野乃はなが持つ「強き意思」があって初めて持ち得るものなのだ。

 そして、誰かの為に全力と出せると言う意味では、野乃はなの「転校前のエピソード」を取り上げない訳にはいかないだろう。はなは明るく人当たりが良く、何があってもすぐに立ち直る前向きな性格だが、転校前のはなはとてもそうは見えない程暗い雰囲気を帯びた描写が目立っていた。と言うのも、クラスの中でイビりに遭っていたクラスメイトを助けた事で、報復措置としてはなを孤立状態にさせるように仕向けられた為だと思われる。とは言え、はなの過去の描写は本当に一瞬だけしかないので、これはあくまで「私の推測」を多分に含むものだが、断片的ながらもそういうくだりが描かれていたので正確性は高いと思う。

 この時はなが抱えていたであろう心情の全てを慮る事が出来るとは言わない。その時の辛い想いは本人にしか分からない事も当然あるし、安易に辛い気持ちが全て分かると言う事程、非常に危うい詭弁もそうは無いのだから。でも、辛い気持ちがあった事は間違いなかっただろうし、色んな想いがぐるぐると駆け巡る中で、自分が持つ正義感に付き従った行動を自分自身で問い質したくなる程の報復措置を受けた可能性もあるだろう。そんな中、自分の娘がとった行動を「自分が正しいと思ってやったことを後悔しないで欲しい。あなたは何も間違っていない」と言えるはなのお母さんは、本当に立派な人格者だと思った。あの時の母親の言葉があったからこそ、はなはどんな事があっても決して負けない強い意思を信じる様になったと思う。

 はなが持つ強さと言うのは、一見しただけでは分かりにくいものであり、加えて普段から表立って窺えるものでも無い為、彼女自身も陥った事がある様に「秀でた強さもとりえもない」と映る可能性もなくはない。しかしながら、彼女の真価は「己の信念を貫き通す事を試される時」に表れ、それは何があっても決して諦めない強い意思と、誰かの為に己の持てる力を全て発揮しようとする応援の意思によって担保される。それこそ、彼女独自の強さの賜物であり、圧倒的なポテンシャルなのである。

 

5.第二のあとがき(2024/2/11~2/12追記)

 以上が追記内容を含めた「HUGっと!プリキュア」の感想である。当初は12300文字前後で纏めていた内容だったが、追記する切っ掛けを掴んだ際に、自分の中でメラメラと燃え上がる想いに駆られ、自分の持てる想いを出来得る限り書き出した結果、最終的には21000文字を超える内容にまで膨れ上がった。とんでもない膨れ上がりぶりだが、それだけはぐプリに対する想いは篤かったと言う事である。

 追記題目では、元々書き出していた内容よりも更にテーマ性が深化した節が強くあり、特に「自分らしい生き方」「個人の唯一無二の強さ」に対して激しい想いを滾らせている。これにははぐプリの影響だけでなく、ジョジョシリーズやコミック百合姫掲載作品の影響が多分に関わっており、何れも「絶望的とも思える窮地や状況の中で輝く意思」が、私の心をいたく響かせ、どこまでも突き動かす原動力にもなっている。尚、ジョジョシリーズや百合姫掲載作品では、時には「目的の為なら冷酷非情な選択さえ厭わない漆黒の意思」「悲しむ暇さえないハードボイルドな現実が絶え間なく襲い掛かってくる」と言うのもあるが、プリキュアシリーズにおいてはここまで非情な描写になる事は少ないので、そこは助かっている。無論、作品によってはその「ジョジョシリーズ」や「百合姫掲載作品」にも肉薄する程の、重厚且つ壮絶な展開を内包した作品がある事を、私とて知らぬ訳では無いが......。

 さて、他のプリキュアシリーズの特色や作風を知るにつれて、はぐプリが如何に高度なバランス感覚の上に成り立っている作品なのだと気付かされる事も度々ある。無論、他のシリーズとてどれをとっても面白いのはそうだし、現在私が配信で観ている「スター☆トゥインクルプリキュア」(2019~2020)も、はぐプリに負けず劣らず面白い作品だし、最新シリーズたる「わんだふるぷりきゅあ!」(2024~)だってめちゃくちゃ面白い。しかしながら、はぐプリが持つ物語構成のバランスの上手さや、物語の盛り上がりの配置の上手さ、そして物語全体における取っ付きやすさ及びメッセージ性は、正直歴代プリキュアでも一二を争うハイレベルさを誇ると思っている。そんな作品を最初に勧めて来てくれた事をどう思えば良いのか。そんな事を思う事もある。

 だが、私がプリキュアシリーズの持つ魅力の真髄に気付けたのは、間違いなくHUGっと!プリキュア」を完走した事にあるのだ。もし他作品のプリキュアから入っていたとしたら、恐らくここまでプリキュアが持つ魅力にハマる事は無かっただろうし、連続して他シリーズを観ようとも思わなかっただろう。それを思えば、私を「HUGっと!プリキュア」と引き合わせてくれた友人には、心から感謝の意を示したい。

 

 

おまけ

今回の文量は全て合わせてのべ400字詰め原稿用紙31枚分(凡そ12300文字強)となった。今までにないチャレンジだけあって、書き始める前はどうなるのか分からない不安はあったが、書き終えてみれば、一定の完成度は担保されているんじゃあないかと思える程の出来になったので、一安心である。

だが、そこから熱烈たる想いを更に書き出した結果、最終的には400字詰め原稿用紙58枚分(凡そ22800文字強)にまで膨れ上がった。これは歴代の記事でも三本指に入る程の文量で、最近の記事の平均文量の2倍弱に当たる。恐ろしき情熱だが、こういった事を曲がりなりにもやり続けた結果、今の文章構成力と洞察力、そして感受性があるので、決して無碍には出来ないであろう。

*1:言い換えれば「未来への絶望」を元にした力。

*2:時が止まっている範囲についての詳細は、作中にて明確な言及がない為不明。ただ、恐らくその範囲は非常に広大なものだと思われる。

*3:その際母親には暗示をかけて、怪しまれない様にする徹底ぶり。その際「これ、どこかエニグマの少年戦(ジョジョPart4「ダイヤモンドは砕けない」に登場する敵キャラ「宮本輝之助」が使うスタンドの事)みたいだね」と思ったのは内緒。

*4:簡単に言えば「生きる為に食をする」(せっしょく)と言うより「食そのものも楽しむ」(きっしょく)と言う姿勢。

*5:実際、そういう事に主題が置かれている様なシリーズ作品もある。

*6:抑々クライアス社の理念からして、希望を失った人々の未来がその後どうなっていくかを案ずれば、幸せな時を永遠なくさせない様にする為に時を止める事は、悪は悪でも「邪悪」とまでは言い切れない側面もある。

*7:当のルールーからはあしらわれたり、邪険に扱われたりしてしまう事が多かったが、これはトラウムの接し方が多少なりとも強引な所がある為で、内心は好いてくれている。

*8:尤も、味方になったのが実質的に最終決戦中と言う極めて遅い例もあるが。

*9:しかもその後どうなったかは一切不明。ここは結構気になる点でもある。

*10:尚、中盤からは野乃はな側もその正体を知っている状態になる。

*11:ラスボスと称さないのは、Part7にて戦う最後の敵対勢力がヴァレンタインではない為である。

*12:ジョジョPart6「ストーンオーシャン」においては、気弱な性格ながらそういう邪悪な一面を持ったサンダー・マックイイーンが、実際にホワイトスネイク(プッチのスタンド。後に「C-MOON」を経て「メイド・イン・へブン」へと進化する)から「最悪」だと評される一幕がある。尤も、その最悪と評した奴(プッチ神父の事)とて、その後「自覚なき最もドス黒い悪」と評される程の「邪悪」ではあるが、元々は決してそんな奴じゃあなかった事も言っておこう。

*13:所謂「重鎮」に当たる人物であり、相当な社会的影響を持っている事を窺わせる。尚、おじいちゃんがえみるの音楽活動を明確に認めた描写は、結局最後まで描かれる事は無かった。本筋ではない為仕方ない側面もあるが、気になる部分ではある。