多趣味で生きる者の雑記帳

現在は主にごちうさに対する想いについて書いています。

きらま2026年9月号のごちうさ感想・考察「リゼユラのコーディネート対決」

 私も8月でまた年を1つ重ねて「25歳」になった。25歳は「身体的成長が完全に終焉するとされている年齢」であり、云うならば「ここから後は、少なくとも身体的は意味では完全に老いていくだけ」という訳で、私も遂にそんな年齢になってしまったのだと思いもする。ただ、そうやって「君も正真正銘終わりに向けて年を重ねていくだけになったんだ」と突き付けられても、別に何もショックじゃないし、何なら生ける者全てに課せられた平等な宿命とすら思っているので、ジタバタした所でどうにもならない事も理解している。どれ程足掻いた所で、抑々「足掻く事すら無意味」というなら、初めから受け容れる態度を取った方がマシだという訳である。

 こう書くと「運命論者」だと思われそうだが、私は別に運命論者じゃないし、全くもって敬虔な人でもない。所謂シニシズムも敬愛していないし、世の中を知った気になっていい気になりたい願望も殆どない。結局の所私は「絵に描いた様な何者にはなれない」という事で、何かの言葉を体現する程のステレオタイプにはなれないそれが私の宿命だと思っている。だからマンガやアニメで言われる事がある「何者にもなれない苦悩」というのが、概念としては理解できても心のどこかで「抑々なぜ何者かになる必要がある。自分自身がどれ程努力した所で『他人にはなれない』のであって、それを思うならば、何者かになる為の努力なんて何の意味があるというんだ」と本気で思う事も多い。言ってしまえば「自分は自分、他人は他人」なので、そこを履き違えた考えをしている時点で本質を完全に見誤っているとすら考えている。

 物事を説明する為に極端な事象を持ち出すのは私の悪い癖だろうが、ここで言いたいのは「結局の所、人なんて自分の出来る範囲の事しか出来ないのだから、出来もしない理想論ばかりを見るのではなく、地に足ついた現実論を受け容れ、自分の出来る範囲で全力疾走していくしかない」という事。誰かに憧れるのは決して悪い事ではないし、その憧れの人を見て自分も精進していこうと思うのは良い事だが、あくまでも「自分はその憧れの人間とは、特性的な意味でも性格的な意味でも、何もかもが全く違う人間な事」を忘れず、自分で出来る範囲の努力と成長を続けていくしかない。それを失ってしまえば、最早未来はないだろう。

 こんな事を書くのもなんだが、上述した事を日頃から考えてしまう25歳なんて、客観的に見た際にどう映るだろうか。別に「抑々人が考えている事に微塵の興味も無いからどうだっていい」とか「若年時の頃からそういう深い思考を持っている事で悦に浸るなど、正しく人生の未熟者のする事」とか、そんな事を思われたっていいし、一方で「年相応には見えない深い思考を持っていて凄い」とか「同年代の人間として頼りにしている」とか、そういう風に思ってくれるなら大いに有り難い。どう思うかなんて結局は「人の自由」なので、私がとかく言う義理は無い。

 

 何時からこうなってしまったかはもう分からないし、分かろうとする気も正直ない。ごちうさの熱意にしても、何度も言及した様にもう嘗て程のものはどこにもないし、正直言って「今もこのブログ記事を書き続けていられるのが不思議」と思っている程。ただ、それでもブログ記事を書く事を辞めたくないと思うのは、曲がりなりにも「5年以上も絶やさず続けてきたプライド」故か、或いは「今の『マンガ好きとしての私』の道を歩むきっかけになった作品に対する敬意」か、はたまたそのどちらもか。厳密な意味では自分でも最早分からないが、それでも僅かでも「ブログ記事としてその時の熱意或いは所感を残したい」と思い続けられている限りは、この記事を絶やさず書き続けたいと思うし、それが私に出来る最大限の事だと思う。

 

※注意※ 

最新話及び単行本13巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。

1.はじめに

 唐突なる日常的展開。急進的なペース配分は相変わらずだが、ここに来て作品を体現する様な日常回が出てくるとは思わなかったし、物語としての縦軸部分が強固になった昨今においても、こういう箸休め的な展開を何の違和感なく入れられる所が凄いと思う。

 今回の扉絵は所謂「平成ギャル」の格好をしたリゼユラとなっており、昨今各所でそういう格好をしたキャラクターデザインが登場している流れを汲み取った印象がある。また、本編と違ってやたら2人の距離感が近いのも特徴的だが、抑々リゼユラは「結良が理世に対して憧憬と嫉妬を向けているから距離感が遠く見える」のであって、理世は結良に対して距離を置いている訳ではないので、結良がその気になりさえすれば、扉絵位の距離感の近さは難なく出来るんだと思う。尤も結良は人との距離感の図り方がそこまで上手くないので、やろうとして失敗するケースが大半な気もするが。

 物語そのものが極めて秀逸だったのは言うまでもないが、今月はそれ以上に「次号休載」のインパクトが凄まじく大きかった印象があり、調べる限りではごちうさが休載した事は「過去一度もなかった」らしいので、ある意味ではとんでもない瞬間に立ち会ったとも言える。また、ごちうさの休載に当たる「2026年8月発売のきらま」は、私にとって「ごちうさをきらまで読み始めてから丁度6年」なので、これも何かの運命だろう。

 

2.購読した感想・考察

長い間ごちうさを読み続けているが、今回登場する「リゼユラ」という幼なじみこそ、このごちうさにおける幼なじみの中で最も複雑怪奇な感情渦巻くと思っていて、今回のお話も他の幼なじみには無い感情が渦巻いてはいた。ただ、最近ではすっかり毒が抜けたとも思っており、良くも悪くも結良ちゃんが丸くなった事も関係しているだろう。

 

理世と結良の後輩コーディネート対決

 今回は理世と結良にとって直の後輩に当たる、マヤメグと神沙姉妹2人相手に対して、理世と結良それぞれが別に「心を打ちぬくコーディネート」をして対決するというのが主軸になっており、理世が恵ちゃんと映月ちゃんを、結良が麻耶ちゃんと夏明ちゃんをコーディネートする構図となっている。因みにコーデのテーマは「2校合同プロムパーティーに着るドレス」であり、所謂「華やかなフォーマルコーデ」と言った所。

 この区分けだが、後輩組は「いつもの」なのでそこまで気にならないが、コーディネートする側の立ち位置が関わり的に普段と逆になっている気がしないでもない。尤も結良ちゃん自身ブラバ組との関わりが中心で、マヤメグとはそこまで関わり深い様子を見せた事が無いので、どっちにしたって同じ事かもしれない。

 コーディネートセンスについては、理世の方が「普段からのイメージの延長線上」を意識した堅実なコーデになっているのに対して、結良は「普段は絶対にしないイメージを格好に取り入れる」という挑戦的なコーデになっている。この事から、この2人のセンスはお互いに全く異なるものを持っていると窺える一方、個人的には双方共に「ポテンシャルを存分に活かしたコーデ」だと考えており、2人してコーデセンスは一定以上あると思われる。だからではないだろうが、勝敗としては「お互いにアッとなったので勝ち負けの判断ができない」と考えた方がよく、結局の所勝敗は有耶無耶に終わっている。

 尚、最終的には理世と結良が後輩4人の手によってコーディネート「される」羽目になっており、どちらも「お人形さん」の様なイメージを帯びたコーデだが、理世の方は若干ゴスロリ風味になっているのに対し、結良は真っ白なコーデになっている。どちらもお互いに「可愛い」と言いそうになる程のものらしく、私も「2人共に可愛い」と思う一方で、ごちうさ以外にも多くのマンガを読んでいる影響からか、とりわけ理世のコーデが「同じきららMAXで掲載されている『夢路あかりと魔法の本』という作品の『志帆』を思い浮かべる」となった。こういう時に他作品を瞬時に引っ張り出せるのも私らしいと思う。

 

作中随一の奇妙な幼なじみ

 関係性が発覚した当初は「腐れ縁」とすら呼ばれ、物語が進行していく中でも「仲良しなのか一方的な突っかかりなのか良く分からなかった」のがリゼユラという幼なじみ。理世の人柄は理世自身が初期からのキャラクターなのもあって良く知られていた一方で、結良は元々「吹き矢部の部長」こそあったものの、旅行編即ち9巻半ば辺りまでは正直モブキャラ同然の立ち位置で、物語に絡んでくる事自体がほぼ皆無だったので、最初「理世と結良は幼なじみだった」と言われてもすぐには呑み込めなかったし、その直後に結良が理世に対して「嫉妬心を拗らせた形の壁ドン」をした事も相まって、ハッキリ言って「結良はヤバい奴」という認識が強くあった。

 だが、ブラバ組が本格的に参入してきた単行本9巻終盤以降、ブラバ組のキャラ掘り下げに付随して「結良という人物の描写」も進んだ結果、今となっては「少し嫉妬深くて不器用なだけのかまってちゃん」という印象が強く、面倒見の良さや世話焼きな一面も相まって、根は全くもって良い人だったと知ってそれは安心している。だって結良が本当に悪い人だったならば、今回のお話みたいに「結良も後輩達からちゃんと慕われていると解る描写なんてない筈」で、結良自身にその自覚がないとは言え、結良も十分人から慕われるだけの良さを持った人間と言い切れる。

 そんな結良と理世によるリゼユラコンビだが、所謂「ケンカップル」と呼べる程お互いに挑発言い争いをする事が多く、何かとお互いに不遜な言動を飛ばし合っている様に思える場面がしばしばある。今回のコーデ対決にしても、理世の「コイツ(結良)にだけは負けたくない」という思いが強く滲み出ていたと思うし、結良も結良で理世を嗾けたのは「理世ばっかり後輩からチヤホヤされて面白くないから」という理由なので、やっぱりお互い意識し合う関係性なんだろうとは思う。

 お互いに負けたくないと思っているのを体現する良い例としては、結良の「理世ばかりじゃなくて自分も見て欲しい」という本心を理世が聞いて、すぐさま「可愛い」という名の結良にとってダメージのある一言を繰り出した後に、結良の方も「理世の慕われる姿に憧れて同じ道に進んだ」と、理世に対してすぐさま意趣返しをして理世を照れさせたという例がある。なんかお互い「幼なじみ相手にやられっぱしなんて嫌だ!」と主張している様で、2人して可愛い所あるじゃんと思うし、そうやって不器用な攻撃を仕掛けて結果2人して照れているなんて、本当奇妙な何かを持つ幼なじみだなぁ......となる。

 勝敗の拘りに関しては、どうも理世の方は結良に対して「負けたくない」という思いが滲み出ているのに対して、結良は「チヤホヤされてばかりの理世」にこそ嫉妬心を抱いているものの、理世が勝敗などどうだっていいと言っていた矢先に、後輩の紗路ちゃんから「理世先輩にコーデして欲しい」と言われた時に思わず喜んでいたのをして「やっぱ勝敗気にしてるじゃん」と冷静に指摘していた事から、理世よりかは気にしていない節が窺える。ただ、どっちも「自分の方を慕って欲しい」という感情は見え透いており、お互いに「年下から慕われる事を嬉しく思う性分」なんだと思うし、教育者もとい先生向きな気質だと言える。

 

ごちうさ史上稀にみる「次号休載」

 この部分は今回のお話と直接的な関係こそないが、作品全体の事なのでここに記載させていただく。題目としては作品の掲載ページ最後に記載されているアオリ文に「休載」の文字があった事で、まず私が知る限りは、きらまで読み始めから6年近く欠かさず読んできた中で「休載」なんて事は一度も無かったし、そこから私の知らない部分の知識を得る為に更に詳しく調べてみると、どうやら「15年以上にわたる連載の歴史の中で休載はなんと史上初の事」らしく、前述の様に「ある意味ではとんでもない瞬間に立ち会った」と思ったし、他にも「今まで15年以上も無休載なのがとんでもなさ過ぎた」とも思った。

 私としては「ちゃんとした理由のある休載は真っ向から受け容れるべき」と考えているので、今回の休載発表も「そうなのね」と事実を淡々と受け止めるのみだったし、別にそれ以上の事は無かった。こうなるのは沢山の作品を読んでいく中である種の「休載慣れ」をしているのもあるだろうし、事実として「月間連載作品でありながら、1年の中で掲載される月の方が少ない」なんて作品がごまんとあるのも知っているので、1回の休載がどうしたんだという想いすらある。

 

3.あとがき

 今までになくコンパクトな内容となったが、やっぱりこのブログ記事を全力でやろうにも「時間」と「気力」が追い付いていない実情があり、特に「気力」はたとえ時間があったとしても、気力が無ければ結果的に時間を他の事で食い潰してしまう事に繋がるので、こうなるのは必然の理だったとしか言えない。一応そうなったとしても「自分の書きたい事は極力書き出す」という方針は継続して持っているので、その信念はブレていない。

 先月が比較的明るい内容の話とは思えない程に暗い影を帯びさせた所感となってしまった中で、今月は冒頭こそとんでもない事を書き出したのを除けば極めて平和的な内容が大半で、話の雰囲気に沿った内容にはなったと思う。ただ、先月もそうなのだが、私は別に「平和的な内容で染めたい」とか「えげつない内容で震撼させたい」とか、そういった事は全く考えておらず、結果的に「そういう傾向が出ただけ」としか言えない。

 扉絵が所謂「平成ギャル」ぽかった件については、バンドリやわたなれ等々でもそういうものを見ていたので、多分そのイメージに引っ張られて思い浮かべたのだろうが、それとは別に「平成ギャルも今や『コンテンツ』として扱われる時代になってきているのだな」と思ってもいる。考えてもみれば、平成とは言っても平成元年(1989年)は既に「35年以上も前」の事だし、平成から令和になった(2019年)のも既に「7年前」の事なので、年数的には何らおかしい話ではないのだが、こういう事実を突き付けられると「自分も歳を取った」と思う他なくなるのがちょっと......、と思うのが世間一般の反応だろうが、私は「歳を取った所でどうだって良い」みたいな人なので、結局何も響いていない。私は所詮こういう人なんだ。

 次号がごちうさ休載という事で、このブログ記事も書く必要性は無いという訳だが、今となっては明確な熱意があるのか良く分からない状態になってしまっているので、正直「あろうがなかろうが」みたいな事を平気で思ってしまう節もある。ただ、そんな事を思っても書く事を辞めたりはしないと思う。だってこうやって所感を綴る事が本質的に好きな人だから。

 

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙のべ16枚分、執筆期間は「8月15日開始の16日完成」「2日間(1日後)」だった。大体先月と似たり寄ったりだが、先月よりかはマイルドに済んでいる気はする。尤も冒頭部分を除けばの話だが。

きらま2026年8月号のごちうさ感想・考察「確信と夢への第一歩」

 私がごちうさ以上に熱狂的な感情を向けている分野は数多いが、その中の1つにかの「ルパン三世」が挙げられ、未就学児時代から今に至るまで好みとしている作品の1つにすらなっている。ルパン三世は作品によって大きく毛色が違うのが特徴でもあり、有名な例は、原作では「ハードボイルド且つアダルトな雰囲気」が目立つ中、アニメでは「コミカルで愛嬌たっぷりの憎めない怪盗劇」といった感じである。そんな中で、私は子供時代においては「コミカル且つスラップスティックな物語構成」に、大人になってからは「アダルトでハードボイルドなケイパーストーリー」に心惹かれており、特に大人になってから「決して正義の味方ではないが、確かな矜持を持った悪人としての美学と魅力」に強い魅力とロマンを見出している。

 因みに大人になった今でもスラップスティックコメディ好きは相変わらずで、たまにとやかく言われる事もあるが、私はかの「トムとジェリー」を見て「こういうドタバタ劇が何よりも面白いんだ」という価値観を幼い頃から涵養し続けていた人間なので、どうしたって変えられないし、気に入らないなら別に触れなければ良いだけの話。直接的な害がある訳でもないのに、それを指摘せずにはいられない感性或いは行動原理は全く理解出来ない。

 「正義の味方」と書いたが、ルパンにおいては「原点回帰」をテーマ性に、アダルトで危険な雰囲気を漂わせるスピンオフシリーズ「LUPIN THE ⅢRD」にて「正義とは都合の良い大義名分を掲げた人間が使う質の悪い言葉」との言及もあり、それはとどのつまり「正義なんてものは絶対不変の真理ではなく、時に詭弁にもなり得る流動的概念」となる事から、私としては「正義とは元より人の数だけ存在する独善的な理念でしかない」と考えてもいる。但し、正義そのものを否定したい訳ではなく、あくまで「正義とは主観性が強いもの故、それが如何なる時も大衆に広く受け容れられると勘違いしてはいけない」と言いたいだけ。理念とは自分の中で完結するもの故、むやみやたらに振りかざせば独善的なものでしかなくなるのは当然の事だが、その理念すらない人間に魅力なんてないのもまた事実。結局はこのどうしようもないせめぎ合いの中、自分なりの答えを構築していくしかないのが人間なんだ。

 こんななので、この2026年7月から放送されている「バンドリ!ゆめ∞みた」というアニメにて、目的の為なら人を欺いたり騙したりする事を厭わず、思い通りにならない相手には「ネットの悪意」と「現代社会のテクノロジーが齎した負の側面」を巧みに利用して、無慈悲にも当該者を破滅的状況にまで追い込ませる上、自分から堂々と手を汚すマネはしない狡猾さと卑怯さ故に、現時点でまだ4話分しか放送されていないのにも関わらず、一部では既に「バンドリ史上最大の悪女」とまで噂されている「ビオラ」という悪女に対しても、正しく「美魔女」な雰囲気と悪事に対して何の罪悪感もなく手を染める様から「峰不二子みたいな奴だ」とすら思っており、ここでもルパン三世の影響が強く滲み出ている。

 ただ、ビオラと不二子には明確な違いがあるとも考えており、それは「ビオラには不二子の様な『美的センス』がない」という事。不二子は「女盗賊か女スパイか、それはルパンすらも分からない」と言われるまでに謎多き人物だが、それでも自身の美貌と高い身体能力、明晰な頭脳に巧みな話術、果てには広い人脈を使って、どんな困難なお宝も奪い去っていくというある種の「カッコ良さ」があり、それをちゃんと「自らの手でこなせるだけのポテンシャルがある」という点が、彼女を女性としても人間としても魅力ある存在へと押し上げているのに対して、ビオラは只管に「ちまちましたやり方で人間を都合の良い操り人形にさせる事」を目的としているので、そんな行動に美的センスなどある筈もなく、結果的に「不二子とビオラでは、たとえやっている事は同じでもその質は天地の落差がある」となる。尤も美的センスのないビオラであっても、やっている事の悪質ぶりはいっそ清々しい程のものがあるので、そういう「ダーティな魅力を持つ女」という意味では嫌いじゃない。それでも好き嫌いは相当に分かれるだろうし、あれ程の悪女に対して僅かでも情けをかけたいかと言われれば、私とて「NO」と答えるが。

 

 冒頭に直近で書き残したいと思った事を自由気ままに書くという方針を今も続けているが、これは多分ごちうさが完結する時までこのままなんだと思う。ここ最近はずっとそうだが、ハッキリ言って今の私からすれば「ごちうさのみに全力を注がなければならない理由はない」のであり、今となってはごちうさよりもずっと深い展望を持つ作品も多いし、主軸としている作品も今やごちうさではない。そうなれば、冒頭にて最近思った事を綴る事の意味合いがより増していくのは自明の理。ある意味では「今の自分がどういうスタンスでいるのか」を投影させている。

 毎月の様に続けている事から、最早何を書いた所で過去に自分が書いた焼き直しにしかならないと思う事は多いし、故にここの題目で一本筋を通した事を書く事は正直止めにしているのだが、こんな状態でも書き続けるのは「ごちうさに対する恩義に報いる為」で、今となってはこの為だけに書き続けているとすら言って良い。尤も「所感を書く事」そのものは現在進行形で継続及び変化させており、実情に即して言えば「ごちうさだけに執着する様なスタンスは止めた」となるだろう。故に今でもごちうさ一本筋でやっている人或いは、何作品も渡り歩きつつもごちうさを主軸としている人は凄いと素直に思える。

 

※注意※

最新話及び単行本13巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。 

1.はじめに

 エイプリルフール企画ネタの本編導入。今回は近年のごちうさにて重要な意味を持つ「エイプリルフール企画を題材とした物語構成」となっており、今回のネタは2026年のエイプリルフール企画たる「魔法学校」である。しかしまぁ、エイプリルフール企画があってから僅か3ヶ月弱で本編でも取り扱われるとは思わなかったし、先月のお話共々「話のテンポがここに来て急激に速くなった」と思いを馳せてもいる。また、今回をもって心愛ちゃんの根底に存在していた「推測の域を出ない謎」「確信」へと変わった事は、この物語の行き着く所を決める重要なターニングポイントとすら思うので、軽く読み飛ばせるものではない事は明白だろう。

 今回の扉絵は「魔法学校に通う初期5人組」がコンセプトとなっており、心愛ちゃんだけが手前に配置、残りの4人は「額縁から飛び出している様に見える」といった形となっている。正直特段思う事はないし、ごちうさを長期に渡って読み続けているが故に「最早見慣れた光景」とすら思う程だが、登場キャラが多くなった今となっては「初期5人組で展開される物語」というのも殆ど無くなっているので、懐かしいとは思う。

 今までも重要な意味を持つ事が殆どだった「エイプリルフール企画を下地にしたお話」ではあるものの、描かれている内容自体は「物語における骨子の再確認」及び「因縁の清算」という印象が強く、私としては「今までも何かしらの機会に掘り下げた内容が多く、既に書いた事を改めて書き綴る必要性は低い」と判断している。しかしながら、心愛ちゃん周りに限っては「今まで心愛ちゃんを助けてくれていた謎の女性の正体を確信する」なり「これからの道筋を切り拓く一歩を掴む」なりと、自分なりの所感を書き綴りたいと思えるだけの内容はしっかりあり、今回はそこを主軸として書き出していきたい。

 

2.購読した感想・考察

スラップスティックコメディからダーティ且つアダルトなハードボイルド劇まで、好むジャンルが非常に幅広い私だが、そんな私がごちうさの様な日常系作品にハマったのも何かの運命だったとは思う。尤もごちうさに出逢う前は、所謂日常系作品は全くといって良い程知らなかったが、だからこそ運命的出逢いと思う訳で。

また、今年のエイプリルフール企画たる「マジラビ」の詳細については、私の他に解説をしている人は山程いると思うので、ここでは「自分が書き出したい事」に専念したいと思う。

 

心愛ちゃんが得た確信の扱い方

 私が今回のお話の印象として「因縁の清算」と称した訳だが、この題目はその因縁の清算を構成する重要な題目で、その場面は終盤の「心愛ちゃんが今までも節目時に出逢ってきた正体不明の女性の正体を知る事」に当たる。

 心愛ちゃんは、今まで原作6巻のハロウィン編を初出として、その後も節目時の場面にて「智乃ちゃんに似た姿をしたマスク姿の女性」と邂逅してきた経緯があり、そのマスク姿の女性が智乃ちゃんの母親たる「サキさん」なのは、読者の間では周知の事実。だが、心愛ちゃんとしては「あれは一体誰なのか」となっていた事は想像に難くなく、それがこの度サキさんの方から正体を明かす形で「その正体はサキさん」だと知る事になるとは思ってもみなかった。尤も心愛ちゃんは「『ティッピーにはおじいちゃんの魂が宿っていた』という事実は知らない筈」と思われる中で、おじいちゃんが完全に成仏した後の(=ただのうさぎに戻った後の)ティッピーに対して「さもティッピーに智乃ちゃんのおじいちゃんの魂が宿っていた事実を知っていたかの様な」口ぶりをした事もあるので、今回のお話の時点で「その正体は何となくでも窺い知れていた可能性は十分にある」と言えるが、真相は定かではない。

 何はともあれ、今回のお話をもって心愛ちゃんは「今まで自分の前に現れていた謎の女性の正体は、智乃ちゃんの母親たるサキさんだった」と確かな根拠をもって繋がった訳で、客観的に見て「それまで謎だった部分が解明された」という意味で因縁の清算とした。ただ、この謎が解明されたからどうなるのかについては、私には正直全くといっていい程分からない。提唱者がこんなザマでは本来ダメなのだが、分からないものはどうにもならないし、行ってしまえば「既にこの世から去ってしまった者との対話」という、人によっては頑なに信じない事象が絡む故に「確証を得た所で言いふらさない方が良い」とすら思っているので、いっそ「この時に知った事実は、誰にも言わないまま墓場にまで持っていく」のも一理あると考えてもいる。抑々として、謎の女性(=サキさん)と接触している人物自体が現状心愛ちゃんのみだった筈で、そうなると「心愛ちゃん以外は謎の女性の存在すら知らない」となるので、話した所で「あまりに現実味を帯びな過ぎて信じられない」みたいな反応をされるのはほぼ確実。ともすれば、話せば話す程「自分の話を信じてもらえない」と、本来背負わなくてもいい傷を背負う羽目になってしまう可能性すらある為、話さない方が結果的に誰も不幸を背負わなくて済む可能性が高く、それならその方が良いとなる。

 ただ、この考え方が通じない人が1人おり、それはサキさんの娘にして心愛ちゃんにとっての妹的存在たる智乃ちゃんである。智乃ちゃんにとってサキさんは「母親」な以上、その母親と不可思議な形でコンタクトをとった経験があり、最終的にはその正体まで知ったとあれば、智乃ちゃんに対してその事を黙り続けるのが、ややもすれば「不誠実」になり得るのも事実。これを思えば、智乃ちゃんにだけは事実を洗いざらい話した方が良いとなるかもだが、智乃ちゃんは「心愛ちゃんが自分の家族にまつわる秘密に対してある程度知り尽くしている事実を知らない筈」で、そんな状態で洗いざらい話してしまうと「この人はどこまで秘密を知っているのか」「何故そんな大事な事を黙っていたのか」という「困惑と失望」が同時に襲い掛かる感覚に陥らせてしまう可能性が高い。結局の所「下手な事は言わないのが吉」だと思うし、少なくとも心愛ちゃんから誰に対しても言うべきではないと思う。

 

夢に続く道筋の試練

 今月はその殆どがエイプリルフールの構成で占められている一方、終盤では心愛ちゃんが「高校卒業後の道筋を切り拓く」という重要な一幕もある。それは8巻~9巻前半を中心に描かれた旅行編にて、心愛ちゃん達が宿泊していたホテルの副支配人の娘夫婦が経営するベーカリーで研鑽を積ませてもらえるというもので、正しく「夢への第一歩」という訳である。この際副支配人からは「いつまで続くかは心愛さん次第」と釘を刺していたが、これは何も「しんどい修行に耐えられるか」だけでなく「親愛なる人達と常に会える環境ではない所で孤独に闘い続けられるかどうか」という意味合いも含まっていると思う。

 心愛ちゃんは高校卒業後、自分の描く夢と未来の為に木組みの街を出る決断をし、そして今回その夢への第一歩を掴んだ訳だが、それは同時に「新天地で孤独に闘う事が決定付けられた事」を意味し、今までの様に「親愛なる人達と気軽に会える」なんて訳にはいかなくなるのも当然の宿命。尤もそれは千夜シャロの2人も同じ事だが、こういうのは「幾ら覚悟をしてもし足りない」もので、そこに向かう際はどんなに強い気概を持っていたとしても、いざ現実にその時が来ると「孤独に闘わなければならない事の意味」を酷く痛感する羽目になるのが世の常。無論、そこから我武者羅にでも立ち向かっていければそれはそれで良いのだが、それが誰でも出来るならここまで言及する事もないのであって。

 孤独に闘うのは想像以上にしんどいもので、私も「親愛なる人にどれ程助けられたか」を独立してから酷く痛感した経験がある。しかしながら、心愛ちゃんはその抜群のコミュニケーション能力と高い社交性から、新天地に馴染む事自体はそんなに苦労しないと思うし、孤独と言っても全く救いようがない環境に追い込まれてしまう可能性は無いと言える。ただ、そうはいっても「智乃ちゃん達と簡単には会えなくなる」という事実は、まるで遅効性の毒の様に「時間が経てば経つ程、その穴は簡単には埋められない」という考えを構築させてしまう可能性が高く、自身の夢の為にそういう哀しみさえ受け容れられると思える内はまだ良いが、これが何かの拍子に「完膚なきまでに崩れ去ってしまった」となるのが何より恐ろしい。

 更に追い詰める事を書くなら、この手の修行で本当に辛いのは「修行に伴う肉体的疲労」ではなく、上記の「孤独に闘わなければならない精神的疲労」にあると私は考えており、次いでに肉体的疲労は「いつかは平気になれる」ものだが、精神的疲労の方は「慣れる事はあっても平気にはなれない」という事実もあると見做している。ともすれば、副支配人の発言の真意は「修行の辛さは肉体的疲労より精神的疲労の方」と汲み取るべきだと私は思うのだが、当の心愛ちゃんがどう考えているかは全く分からないし、分かった所でどうにか出来る話でもないので、本人の努力と気概に賭ける他ない。

 ここまで内省的な事ばかり書いてきたが、心愛ちゃんは事実として「高校入学の時も木組みの街へと1人で飛び込んだ」という経緯があり、そこで今に至るまで数多くの堅牢な関係性を構築し、正しく「第二の故郷」と呼んで差し支えない所まで持っていった経歴を持つ。これを思えば、心愛ちゃんは「どんな場所でも己のポテンシャルをもって己の大切な空間へと仕立て上げる事が出来る」と言え、これがあれば高校卒業後の新天地でも、困難はあっても心が完全に折れてしまう事にはならないと信頼を置ける。

 

3.あとがき

 エイプリルフール企画を元手にしたお話であっても今の私が掲げるスタンスは全くブレない。別にそれを証明する為の記事では無いのだが、今回の内容からはそれが滲み出ていた様な、そんな気がしてならなかった。正直悪びれる気はないし、今の自分の考え方なら「エイプリルフール企画そのものに対しては、自分よりもっと熱心な人は山程いるし、そんな人達と張り合うだけの物が今の私にはない」となるのは自明の理なので、こんな無い様になった事に後悔は全く無い。

 今回のお話は全体的に「希望溢れる構成」になっており、心愛ちゃんを筆頭に構成されていく友愛の枠組みや、サキさんから受け継いで花開いていく意志に、心愛ちゃん自身が掲げる未来への道筋を切り拓く一歩を掴む等々、列挙しようと思えば幾らでも出来るが、そんな中でも私はいつも通り「光と影が交錯する所感」を書き綴った。と言うか「影を落とす事ばかり書いていた」と思うし、相変わらず影のある事柄に目をやらずにはいられない一種の悪癖は全く治まっていない。しかしながら、ここで書いた事は全て「あり得るかもしれない現実」だと考えており、心愛ちゃんが抱える秘密をどのタイミングで明かすとか、あれ程孤独に闘っていく事に対する恐れを抱く心愛ちゃんが、本当に1人でもやっていけるだけの力は備わっているのかとか、そういうのは「私が昔から抱えている懸念点」なので、決して口から出まかせでなく「確かな考えを元手にした展望」な事は書いておく。

 最近になって影を帯びた内容を書く頻度が更に高くなったが、何でこうなってしまったのか。それを考えてみた所、私がこよなく愛するチャイコフスキーが作曲する「絢爛豪華でメランコリックな旋律に惹かれた事」が発端にあるんだと思う。全くもって荒唐無稽な話だろうが、事実として私は「チャイコフスキーが齎すメランコリックな旋律」によって「暗い影を帯びる事による美しさと恐怖」を知ってしまったし、それによってその様な芸術的魅力に中毒的快楽を追い求める様になってしまった経緯があり、そこに私が元々持っていた「物事を多義的(特に光と闇の対極関係)に見る」という信条が合わさって、今の様に影を帯びた発想を持ちがちになった。最早「何を言っているか分からない」となるだろうが、こういう個人の価値観なんてものは「分かり合えない時は永遠に分かり合えない」と思っているので、分からないと言われた所で何も傷付かないし、何も思わない。ハッキリ言ってこういうのは「周りから言われる事を気にし出したら終わり」だと思う。

 影を帯びた発想ばかりしているのも事実だが、私自身所謂「シリアス展開」は正直そこまで耐性がある訳でもなく、とりわけ「百合マンガ」や「きららマンガ」のシリアス展開を相手する時は、私の中でギアを上げなければ対応できない事もあるので、決して得意とは言えない。更にはそれらを読み終わった後、あまりにショックが強過ぎて「二度と読みたくない」となってしまう事もしばしばあり、そういった事情から「シリアス展開を見ずに済むなら、それを避けられるならそうするに越した事はない」という考えも併せ持っている。にも関わらず、実際にシリアス展開を避けた事は、自分が読んでいる作品ではこれまで一度だってないし、どんなに嫌な展開或いは胸糞悪い展開だろうと一度は目を通してきている。一体全体どうしたいのか全く分からない訳の分からん奴に映るかもだが、別に理解をして欲しい訳でなければ同意を求めている訳でもないので、こういう人間もいる程度に思ってくれれば良い。

 明るく前向きな内容を主体とした回を元手にした所感とは思えない程に、今回の記事は終始暗い影を纏わせた所感劇となってしまった。しかしながら、やはりというか何と言うか、こうなった事に後悔なんてないし、下手に明るいテンションで綴って「率直な感情が何もないリアリティゼロのでっち上げ記事」になる位なら、暗いものを纏わせてでもリアリティある記事にする方がマシだった。本当にそれだけ。

 

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙のべ21枚分、執筆期間は「7月13日開始の14日完成」「2日間(1日後)」だった。執筆期間こそ相当に早いが、開始したタイミングが遅いので、そこを勘案するならそんなに良いとは言えないだろう。

きらま2026年7月号のごちうさ感想・考察「幼なじみによる圧巻の人間ドラマ」

 もしも自分の感性が世間一般の感性とは幾分かズレていたとして、人はそのズレに対してどういう風に思うのか。言ってしまえば「世間一般の感性とは全く違った感性を持つ私」としては、それが気になってしまう事がある。

 まず自分の事についてハッキリしておくと、私は自分の感性が世間一般の感性と、たとえどんなにズレていた所でそこまで気に病まないし、気にしない様にしている。結局の所「気にした所で世間一般の感性にはどうやっても合わせられないし、抑々合わせ方が分からない」ので、どうしたって手の打ち様がない事ばかり考えても自分の気がおかしくなるという事で、世間一般の基準には合わせつつも、心の奥底では「自分の感性が世間一般とズレているからといって、何故そんな事で気を病まなければならないんだ」という形で一定の反骨心というか、自分の個性は絶対に捨てないスタンスを採っている。尤もそこまで深刻に考えなくても良い気はするが、独自の感性を持つ人程「世間一般の感性とは違う事」を気にする事は少なくなく、その度に「世間一般の感性とは違うからといって、それ自体は悪い事でもなんでもないのだから、自分の感性をめぐって思い悩まないで欲しい」と思わず考えてしまう人間なので、自分の主義思想を構築する段階でもあからさまに強い意志を込めてしまう。

 こういう思考回路を持つ人間なので、私は世間一般の感性とは似ても似つかない独自の感性を持つ人は好きだし、それに付随してそういう個性的な感性を持つ人がいたとして、そういう人に対しては「自分の感性がどれ程特異的だろうと、寧ろそれを唯一無二の個性とすれば良い」という形で後押ししたいと考えてもいる。考え方は人それぞれとは言っても、私は自分が生まれ育っていく中で構築した「感性」はやっぱり大切にして欲しいと思うし、誰もが世間一般の感性しか持たない画一的な世の中なんて、その方がつまらないと思ってしまう。

 それに、生まれ育っていく中で培ってきた「感性」をある程度成長した段階になって根本から変えるなんて事は、私には「一生かかって出来るかどうか分からない程の困難な事」だと考えている。これが頭の中で整理してから生み出す「考え方」や、環境や先述の考え方によってある程度は矯正可能な「性格」ならば、根本からは無理でもある程度の形でなら不可能ではないと思うが、感性は「頭の中で整理する前に肌身で感じ取る概念或いは感覚」を意味するので、そんなものは根本どころか表面的な変化すら難しいと考えている。故に限られた人生の時間を、この様な限りなく困難な上に徒労に終わる可能性が高い事に費やす事にはどうしても賛同できず、私が「自分の感性はいかなる形でも大切にすべき」と思う理由でもある。

 難解な話を書き連ねているが、結局の所私が言いたいのは「自分が持っている感性や個性はもっと大切にして欲しい」という事。俗に「隣の芝生は青く見える」なんて言う様に、人なんてものは「自分が持っていないものを持つ他人が羨ましく見えるもの」だが、それはきっと「お互い様」だろうし、そうやって自分が持っていないものばかりに目を向けて、何ら生産性のない事ばかりに身を落とす位なら、自分が持っている唯一無二の個性を大切にした方がよほど有益だと思ってやまない。

 ただ哀しいかな、こうやって人並み以上に「社会における理想の立ち振る舞い」というものをよく理解しているくせに、いざ実践してみると「その理想形に全く乗せられない自分がいる現実」という滑稽ぶり。元々「人間なんて所詮は完璧な存在になれないどうしようもない存在」と考えている節がある私なので、滑稽な自分に対して傷付きはしないが、嘲笑いたくはなる。嘲笑った所で無価値だし、最近では最早嘲笑う気さえないくせに。

 

 このブログ記事においては、何時からか冒頭では「自分の矜持或いは信念」を書く事が当たり前の様になっていったが、これはごちうさの感想・考察を毎月の様に書き続けている事が高じて、記事を書くにあたって「直近の自分がどういう思考回路を持っているのかを整理する目的」もあるし、単純に「今この瞬間の自分が何を考えているのかを、本題の記事内容ともども残したい」のもある。結局の所人間なんて何かに書き留めなければ、瞬間的な発想や感性なんて時間とともに忘れるという形で消えて無くなっていくものだし、思い起こせたとしても「都合の良い思い込みや解釈が入り込む為、真に当時の記憶を呼び起こしているとは言えない」というもの。尤も消えてなくなろうが後の自分の手で記憶が改ざんされようが、そうなった時点で私は「所詮はその程度の価値しかない感性であり発想だった」と切り捨てるのみだが。

 とは言え、月日が流れた上で過去の自分が書いたブログ記事を読み返すと、例外を除いて基本的には当時の自分が抱いていた思考或いは感性が酷いとは思わないものの、殆どの場合「昔の自分が書いたブログ記事の構成が拙くて、恥ずかしくて読めない」となってしまう。尤も成長した自分の構成力が客観的に見て高いとも思わないが、昔の自分が書いた記事を見て「拙い文章構成力なのが恥ずかしい」と思えるのは、それだけ「昔よりかは成長できた証左」なので、何も悪い話ではない。一番ダメなのは「過去の自分の方が凄かった」と思い、過去に縋って前に進み続ける為の試行錯誤を放棄してしまう事なので。

 

※注意※

最新話及び単行本13巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。

1.はじめに

 重厚感あふれる圧巻の人間ドラマ。ごちうさは基本的にシュールネタを軸にした4コママンガな一方、時としてストーリーマンガを圧倒的に上回る重厚な表現美を見せてくる事があり、今回のお話は正にそれだった。ただ、その一方で重厚な表現美そのものはいざ知らず、その人間ドラマの真髄は「15年以上にわたって積み上げられてきた物語の積み上げ」にあるので、初見だとその凄みを100%理解する事は難しいだろうが、積み上げを抜きにしても読む者をアッと言わせるだけのものはある。そこが純粋に凄いと思うし、並大抵の作品には真似できない魅力だと思う。

 今回の扉絵は作中でも初期から代表的な幼なじみとして知られている「千夜シャロ」の2人による仲睦まじいツーショットというもので、よく見ると2人乗りのブランコに乗っている。このブランコだが、作中でも2人にとって重要な遊具として機能しており、扉絵の要素が宛ら本編の示唆にもなっている。また、年齢も現在の2人は共に「18歳」だが、扉絵の2人はそれよりも幼く見え、私には中学生位に見える。

 先月では「思い込みと勘違いと暴走が主軸となった暴走劇」だったのに、今月では「今までの物語の積み上げと、それを抜きにしても人と人の友情と信頼関係が色濃く描かれる人間ドラマ」で来た。この振り幅の大きさこそごちうさの魅力だと思うし、振り幅の一方に「重厚な人間ドラマ」があるので、私がどんな状況になってもごちうさを読むのを辞めない(或いは辞められない)理由でもある。そして、今この瞬間しか留めておけない感性或いは所感を残したいという意味で、今月のごちうさでは「人間ドラマ」という観点で題目を構成したい。

 

2.購読した感想・考察

重厚な人間ドラマを好む私だが、その方向性は何も健全な方向ばかりではなく、言ってしまえば「人間の驕り」や「人間が陥りがちな思い込み」に焦点を当てる形でそのドラマを追う事も多い。しかしながら、何れの場合も「利点も欠点も持ち合わせているからこそ人間は愛すべき存在」という理念に基づいており、故に私も大概なお人好しである。心の奥底に真っ黒なものを抱え込んだお人好しが良いか悪いかは別問題だが。

 

千夜シャロの絆

 作中において所謂「幼なじみ」は千夜シャロ以外にも「マヤメグ」や「リゼユラ」が主たる例として挙げられるが、マヤメグが「幼なじみ」だと明文化されたのは2人が登場してから随分後の話であり、リゼユラも「結良が物語に深く関わり出した時期が遅い」ため、千夜シャロこそ初期の頃から明文化されている、ごちうさにおける幼なじみの代表格と言って良いだろう。ただ、近年のごちうさでは2人共に登場頻度が減少傾向にあり、登場したとしても「個人」にピックアップされる事が多く、幼なじみとしての2人に焦点が当たる事は正直無くなっていった様に思う。これは「初期の頃から明文化されている幼なじみ」が故に、連載が長期に渡るが故の策として「マンネリを防ぐ為に焦点をずらしている」のもあるだろうし、単純にブラバ組を筆頭とした「新キャラとの絡みを優先させる為」のもあるだろう。そんな中、ここに来て千夜シャロそれも幼なじみとしての2人にガッツリ焦点が当たったのは驚いた。

 幼なじみとしての千夜シャロだが、簡単に言えば2人は「漫才コンビ」の様な間柄で、役割は自由奔放且つマイペースなボケ役の千夜と、しっかり者で常識人のツッコミ役のシャロと言った所。表立った印象はこうなるが、その実2人は「お互いの足りない部分を補い合える理想の関係性」でもあり、普段は大きな夢を掲げ、恐れなく邁進する一方、実は誰よりも現状の変化と人の本心を聞き出す事を恐れている千夜と、冷静且つ慎重な性格の裏返しとして臆病さが露呈する事も多いが、自分で決めた道を確かな形で踏み出せる意思の強さを持つシャロという構図がその最たる例だろう。

 ただ、それ以上に「この2人は信じ合う間柄において理想的なものを持っている」と確信する点は、お互いに「自分の勇気ある一歩の後押しは幼なじみにして欲しいと望んでいる」と読み解ける事にある。尤も作中では紗路ちゃんの勇気ある第一歩の後押しを千夜ちゃんに望んでいる姿はあるが、その逆はない。その為、真にお互いが望んでいるとは言い切れないと疑いの余地を入れる事を出来なくはないが、ここで活きるのが「今までの積み上げ」である。千夜ちゃんは紗路ちゃん相手に昔からの幼なじみとして、幼い頃から自分の夢を共有し合った間柄として誰よりも信頼を置いている事が分かる描写は、単行本6巻における生徒会長選挙をめぐったお話や、単行本10巻以降度々出てくる「進路問題」等々、数々の場面から拾い上げる事が可能で、この事実を思えば、千夜ちゃん自身がたとえこの一場面で紗路ちゃんからの後押しを受けなかった(或いは望まなかった)としても大した問題にはならない。誰が何と言おうと、千夜シャロは「お互いを信頼し合った堅牢な幼なじみ」なのである。

 また、相手の事を大切に思うが故の行動として私が「凄い」と思うのが1つあり、それは「紗路ちゃんの大学合格の明暗を心配して、自分の大学合否そっちのけで紗路ちゃんの元に飛んでいった」という千夜ちゃんの「行動」である。普通に考えてみれば、幾ら幼なじみの事だといっても、まずは「自分の大学合格可否の事が心配になってしまうもの」だと思うし、実際紗路ちゃんも「自分の合格確認を忘れるのはあり得ない」と指摘している事から、千夜ちゃんの様に「自分の事そっちのけで幼なじみを心配する」のは、誰にでも出来る事ではないのは明白。尤も千夜ちゃんの場合「理世ちゃん達と話していたらその気(受験に成功した気)になってしまった」という、いかにも天然な彼女らしい一面ありきな為、厳密な意味では違うのかもしれないが、それでも「紗路ちゃんの合格劇をめぐって2度も涙する程の篤き想い」は絶対に嘘をつかないし、少なくとも「自分の合格が分かる事と同じ位に気にしていた事」と考えて良い。

 これに加えて、合格発表の時でも色んな意味で破天荒な行動ばかりする千夜に対して、表立っては半ば呆れに近い反応ばかりしていたものの、その実「自分も幼なじみの事を案じ、影ながら千夜と同じ事をしていたシャロちゃん」をして、千夜シャロに対して「この2人は本当に良い関係性だなぁ......」と思ってもいる。本当、普段から千夜に対して呆れる言い分を飛ばす事も少なくない紗路だが、心の奥底では千夜の事を彼女が紗路ちゃんの事を想うのと同等、或いはそれ以上に篤い感情を寄せているのが凄く良い。ごちうさではあまり言及しないし思う事もさほどないのだが、この図式は正しく「百合」だと思う。

 因みに「マヤメグ」の幼なじみとしての構図は千夜シャロとよく似ているが、違うのは「2人して器用な立ち回りが出来る事」「お互いの自立心が強い点」等々がある。その為、進路が別れる事になったとしても、千夜シャロ程湿っぽい事にはならない気もするし、少し踏み込んだ事を書くなら、麻耶ちゃんの方が恵ちゃん相手に最初は強がりながらも、最終的には内に秘めた感情を漏らしてしまう事はあっても、恵ちゃんの方は割と冷静で、繊細な部分を見せた麻耶ちゃんを温かく受け止めるなんて気がしてならない。良くも悪くも麻耶ちゃんは「恵ちゃんがいて初めて先導者」と言えるし、本当の意味で強いのは恵ちゃんの方だとしばしば思う。

 「リゼユラ」に関しては、理世ちゃんの方は普通の向き合い方だと思うが、相手となる結良ちゃんの常軌を逸した考え方が全てを引っ掻き回していた印象が強かった。関係性が明らかになった当初、結良ちゃんは理世ちゃんとの関係性を「腐れ縁」と言及していたし、今に至るまで結良ちゃんが自らの手で明らかに理世ちゃんの従者になる様な立ち回りを演じている事から、正直の所その関係性の真髄は良く分からない。分からないが、結良ちゃんの人となりがある程度分かった今となっては「結良ちゃんも幼なじみ相手にはどこまでも不器用且つ重い女」となっている。

 多分だが、理世ちゃんはその気になれば結良ちゃんがいなくてもやっているが、結良ちゃんは理世ちゃんがいなければ恐らく無理だと思う。何故と訊かれても上手く答えられないが、結良ちゃんは決して「誰とでも簡単に馴染める性格の人間ではない」ので、そんな人間が自分の事を理解してくれている人がいなくて、果たしてちゃんとやっていけるのだろうかという話。恐ろしい話だろうが、この問題は何も結良ちゃんもとい幼なじみの間柄だけでなく、ココチノを筆頭に「自らが選ぶ進路の都合上、何れは大切な人と一時の別れを強いられる運命を課せられている者には例外なくあり得る話」だと思っているので、見て見ぬふりをしていると確実に地獄を見る。何もかも失ってからは後悔も出来ないからこそ、近しい間柄であっても「お互いの本心はしっかりと向かい合わせにしなければならない」のだが、それが出来れば人間苦労はしないのも事実で......。

 

 

近しい間柄故の難しさ

 先の題目の文末にも繋がる事だが、今回のお話がいかにお互いを信頼し切った者同士による美しき人間ドラマと言っても、人間である以上「相手の全てを知り切るのは不可能」というもの。たとえ知っていると思った所でその殆どは所詮「思い込み」或いは「驕り」で、本当は相手の事を何一つ理解出来ていなかったというのは、家族程の親しき間柄同士でもザラに起こり得るし、それでなくても親しき間柄であればある程「言葉で表現せずとも伝わり合っているものがある」と過信しがちになる事を思えば、こういった思い込みによる本質の不理解は「親しき間柄であればある程起こる危険性が高くなる上、予後も極めて悪くなる」と言える。無論、それらの思い込みは全て「自分が招いた事」なので、その責任は自分で取る他ない。酷な話だが、行き着く所は「取り返しのつかなくなる所まで思い込みに気付けなかった(或いは気付こうともしなかった)自分が悪い」しかない。

 これ以上書き連ねると「人間の驕り」だけで真っ黒に塗りつぶしてしまう気がするので止めておくとして、単純に「人間である以上相手の全てを知る事は不可能で、それは幼なじみとて例外じゃない」のは千夜シャロも同じ事。その最たる例が千夜ちゃん以外の面々が「紗路ちゃんが何故都会の大学を受験するのかの真意」を知っていた中で、千夜ちゃんだけ知らなかったというもの。本題への持って行き方がやや強引な気こそするし、千夜から紗路への一方向だけとは言え、少なくとも「幼なじみだからといって、何も言わずとも全てを知り尽くした間柄ではない証明」にはなっていると考えている。

 上記の説に付随して、作中にて結良ちゃんが「幼なじみだからなんでも通じ合っている訳じゃない」と指摘するのも追い打ちをかけていると思う。尤も提唱したのがあの「狩手結良」とあれば、やっかみに近い感情で「それは結良の性格や考え方が普通の人間には理解し難いものだから、そういう問題が引き起こされやすいだけだ」となるかもしれない。だが、結良ちゃんは良くも悪くも「人間の本質を鋭く見ている人間」でもあり、これまでも「心愛ちゃんが持つ『忘れ去られてしまう事に対する恐怖』」をそれとなく察知していたり、理世ちゃんとの幼なじみ関係が決して真っ当じゃない事をして、理世ちゃんに対して壁ドンをして真意を問いかけたりと、往々にして「人間の真意を探る気がなければやろうとも思わない行動」を数々引き起こしている。それを思えば、結良ちゃんの指摘は「関係性の核心を確実に突いている」と考えて支障ないと言えよう。

 冒頭と被る事にはなるが、私は基本的に「人間は他の人間の全てを知る事は不可能」と考えており、知る事が出来る部分についても「相手からの言葉を直接聞かない事は断定のしようがない」と考えている。詰まる所、人間は家族相手だろうと幼なじみ相手だろうと、誰が相手であっても「言葉を交わさない事には相手の真意なんて知りえっこない」という事であり、それは結良ちゃんが提唱した指摘を更に煮詰め、全く言い逃れが出来ないか達に仕上げたものだと言える。

 また、人間が感情の共有をはじめとして、あらゆる場面においてなくてはならない存在である「言葉」だが、私は極端な事を書くなら「人間は言葉によって相手と気持ちを共有したり、自分との違いについて理解したりする有効な手段を編み出した。その『言葉』という手段を有効に使わずして気持ちを通じ合わせようとするだなんて、なんて非効率的で勿体ない事をしているんだ」と思う事が少なからずある。現実には所謂「話せばわかる、何事も」なんて風にはいかない事は沢山あるし、言葉を交わさずとも相手に気持ちを伝える方法があるにはある事も知っているが、言葉を交わす事で初めて分かってくるものがあるのも紛れもない事実だし、言葉を交わす事程「相手に自分の気持ちや想いをダイレクトに伝える手段はない」のも事実。故に私は相手に理解を求めるならば、言葉を使って自分の気持ちを伝えるべきだと思うし、その努力を決して怠ってはいけない。それを怠ったが為に起こってしまった受難は「自分の怠惰と傲慢が招いた当然の結果」してとして受け容れる他ない。喚き散らした所で誰も同情なんかしないし、最悪「自分自身の落とし前さえつけられない人間」として誰からも見捨てられる。

 

幼なじみ故の悪ノリ

 先2つの小題とは明らかに雰囲気を異とする題目。これはこの感想・考察記事を書くにあたってお話を何度か読み返していた際に、終盤にて見せた千夜シャロのまるで童心に帰り切った様なはしゃぎぶりというか、一種の悪ノリが良くも悪くも小題として取り上げたいと思う程には印象的だった事をして、急遽書く事を決めた為。人間ドラマを主軸として取り上げるという今回の理念からは外れた内容にはなるが、印象的だった事から取り上げる事とした。

 この悪ノリについてだが、きっかけは紗路ちゃんが幼なじみである千夜ちゃんと一緒に「受験の合格祝い」として、見た目はシャンメリーみたいな炭酸飲料を持ち込んできた事に始まる*1。その飲料は紗路ちゃんが選んだらしいが、あろうことかその飲料には彼女にとって「ハイテンション状態」を引き起こす元凶たる「カフェイン」が含まれており、その結果紗路ちゃんが(受験から解放されたのも相まって)ハイテンションとなり、千夜ちゃんを巻き込んで思い出の公園でキャッキャしており、その時のノリが完全に「幼なじみが故に出来る悪ノリ」という訳である。因みに後日その時のはしゃぎぶりをして「寂れた公園に子供っぽい異常なはしゃぎ声がした」という形で噂が立っており、千夜シャロ2人共に自責の念に駆られる一幕も。この「緩急ぶり」というか、あれだけ重厚な人間ドラマを描いた後に、最早笑う他ない事例を入れてくるのもマンガの構成として絶妙だし流石だと思う。

 キャッキャしていた時の千夜シャロに対しては「これが本当に18歳のする事なのかよ!?」みたいな感じで受け取っており、特に滑り台で「受験が終わったから滑っても大丈夫!」と、落ちる事に対する不安から解放された喜びと純粋に滑り台を楽しむ心意気が合わさった姿には、何と言うか「童心と極度のプレッシャーが解放されると、人間はこうなるんだな」とか思いたくなる感触。ただ、同時に「この年になっても、幼なじみと一緒にこんな子供みたいにはしゃげるのは凄い事であり羨ましい事」とも思っているし、これをして「年を重ねて哀しい事は、こういう『童心に帰った時の感情』を共有できる相手が少なくなっていく事だ」とすら思わしめている。

 言ってしまえば急遽書き加えた小題なので、先の小題達に比べて明らか内容がコンパクトだが、この悪ノリ自体1ページあるかないか位の短い局面な為、抑々取り上げられる内容が少ないのもある。また、小題としてコンパクトな事は承知の上で是が非でも取り上げたかったのは、何かと深刻な領域にまで踏み込んでしまう当ブログ記事において、1つ位は明るめの題目を入れたかったからというのもあり、そこに幼なじみ故に出来る悪ノリが書きたいものとして合致した訳である。

 

3.あとがき

 作中でも随一のシュール劇だった先月と違い、今月は正に「圧巻の人間ドラマ」だった訳だが、私の所感を綴るスタンスは全く変わっておらず、結果的に今月も先月に負けず劣らず尖った内容を含むものとなった。尤も最近のブログ記事では大なり小なり内容が尖っているケースが殆どなので、今更かもしれないが。

 先月ではシュール劇の連続且つ荒唐無稽な展開の連続だったので、最終的には近年の記事でも文量こそ多めになったものの、題目を作る取っ掛かりも内容も、何もかもが苦戦する事の連続だった。その点、今月は「物語の連続性がものをいう重厚な人間ドラマ」且つ「描かれているテーマがキャッチ―で非常に取っつき易い」ものだったので、苦戦は全くといっていいほど無かった。寧ろテーマ性故に「あまり尖り切った事ばかり書いても良くない」と、自分の感情を制御する方が難しかった位。そういう割には尖った内容も随分書き込んでいるが、これでもまだ抑え込んでいる方。

 「圧巻の人間ドラマを描写した物語展開の方が所感を書きやすい」と読み解ける事から解ると思うが、私はこの手のテーマ性を非常に好みとしており、その理由は「人間の本質が嫌という程見え隠れするから」というもの。これもジョジョシリーズ及びコミック百合姫掲載作品を筆頭とした影響によるものだが、私自身人間の本質が滲み出た作品を読み込むにつれて、元々持っていたその方面性への興味も相まって関心が異常なまでに強くなり、結果として「どんな作品に対しても人間の本質或いは特性」を何より重視する様になった。そして、その結果が今の所感を綴るスタンスにも繋がっており、自分が思った事を忌憚なく書こうと思ったのも、人間の本質を重視するのにあたって、その部分を暈したり誤魔化したりしてしまっては説得力が弱まるし、真に自分の意見を体現しているともならないと判断した事による。

 近年のごちうさは日常描写や節目時での描写がより重厚且つ繊細になっていった傾向があり、それに伴って物語のテンポがゆっくりだった。だが、3年目のクリスマス以降いきなり物語のテンポが上昇しており、僅か数話で年末年始の話が終わり、今回の千夜シャロの受験結果の開示と来ている事実がある。これが意味するものと言えば「物語が完結に向かっていっている事」だし、実際今回千夜シャロの受験結果が描かれた事をして、簡潔が現実味を帯びてきたという意見も少なからず見受けられた。

 私としては元より「物語は完結した時に初めて完成する」と考えているし、物事とは「始まりと終わり」があると思っているので、ごちうさが完結するとなったとしても、それ自体にとかく言うつもりは一切ない。ただ、自分にとってごちうさは実質的に初めて出逢ったきらら作品だけでなく、その後のマンガ好きとしての私の運命にも大きく関わっている作品の1つなので、完結する事に対して寂しさは少なからずあると思う。しかしながら、同時に「完結まで立ち会えた事への喜び」もあるし「最後まで読み切った事に対する誇り」も生まれるので、悪い話ばかりではないと思って向き合いたい。

 

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙のべ26枚分、執筆期間は「6月3日開始の6月9日完成」「7日間(6日後)」だった。時間がかかっているのは書く事以外にも色々とやりたい事があるのと、単純に書く気力をおこすのもそう楽ではないのがある。

*1:このシャンメリーだが、正直に書けば「シャンパンみたいな見た目だな」と思ったが、シャンパンは基本的に「アルコール入り」なので色々な意味でマズいと思って止めたのは秘密。

きらま2026年6月号のごちうさ感想・考察「波乱劇のバレンタイン」

 毎月の様に100作品は下らない勢いでマンガを読み続けている私。だからだろうが、私が持っているマンガ作品のグッズは多種多様なもので、そのまま「飾っているグッズ1つ1つが別作品」なんて事はザラ。元々特定の分野だけに居つく事を良しとせず、多種多様な分野を見聞きする事を信条としているので、今の状態は自分の中では理想形ではあるし、もっと言うなら趣味そのものもマンガ以外に多く持っている状態ならばなお良いと見做している。

 ただ、一方で「自分にとっての最推しが自分でも分からなくなっていく」という欠点もあり、マンガに限って言えば今の最推しは「ジョジョシリーズ」及び「ささやくように恋を唄う」になるが、依然としてごちうさを筆頭に他マンガの勢力も強い為、宛ら群雄割拠の如く熱意が一定以上あるマンガだらけの現状をして、自分にとって何が最推しかすら決め難くなる訳である。

 ここでも最推しと書きながら「ジョジョシリーズ」と「ささ恋」の2つを挙げているのも、それぞれ「人間讃歌及びサスペンス」「百合或いはGL」の中での最推しと、それぞれジャンルの異なるものが故に、それを綯い交ぜにして最推しを決めたくない為。ある意味私のエゴが出ていると思うが、普通に考えて「サスペンスとしての面白さ」と「百合或いはGLマンガとしての面白さ」を同一線上で比較する事は、それ自体がナンセンスな事であり、そんな無意味且つ的外れな比較をしようとする事の方が、よっぽど両作品に対する冒涜的行動だと思われるので、いっそのこと「異なる要素を持つが故に並列して最推しが存在し得る」とした方がマシと考えている。

 こう書くと「好むジャンルが広過ぎるからそうなる」と思われる可能性もあるだろうし、実際私自身も「好むジャンルが広い上に1つ1つのジャンルに対する拘りが強過ぎるから、こうやって最推しを決めようとするとおかしくなる」とは考えているが、だからといって「その拘りを全部捨てろ」と言われた所で実行に移せる筈がないし、何なら「拘りを捨てる位なら、いっそのことマンガを読む事を一切合切辞めてやる」と考えている程。見る人が見れば私の拘りなんて所詮は訳の分からない理解不能の拘りだろうが、拘りなんて元から自分しか理解し得ないものだし、それをとやかく言われる筋合いは一切ない。また、私としても人の拘りに疑義を呈したり、自分には全く理解できないと苦言を呈したりする事は少ないながらあっても、自分からその拘りを真っ向から否定するつもりはないので、拘りなんて各々が好き勝手すれば良いとすら思っている。ハッキリ言ってこの分野は「価値観や思想は人の数だけあるが故に、深く掘り下げれば掘り下げる程、自分には絶対理解し得ない価値観にぶち当たる可能性が高い」と言えるので、最初から下手に踏み込むじゃあないし、踏み込むならそれ相応の覚悟を決めてから踏み込むべき。

 

 相変わらず読む者を悩ませる事ばかり冒頭に書いてきているが、私としては悩まそうと思って書いている気は一切ないし、ましてや小難しい事を綴って良い気になっているなんて気もさらさらない。私からしてみれば、こんなのは「普段から考えている事の延長線上」でしかなく、難しい事だと思った事は全くと言っていい程ない。こうなるのは普段からこういう事ばかり考えてきたせいで、結果的に「小難しいとされる判断基準」がおかしくなってしまったからで、深い思考を展望し続けた弊害と言える。

 それならば、最近のごちうさに対しても、今以上に深い展望を見せても良い筈だが、厄介な事に「深い思考を張り巡らせて言語化するのにも気力が要る」のであって、その気力が足りないんじゃあ話にもならない現実が今の私にはある。一応小出しにしていく分には問題なく、X上でそういう事を書きしたためていくのは最早日常茶飯事だが、これがブログという塊にしようとすると中々苦労があって良くない。言ってしまればただの「怠惰」なのだが、怠惰といっても「本来は可能なだけの精神的余裕があるのに、気力が湧かないからそう見えるのか」と「正真正銘無気力に陥っているからそう見えるのか」では全く違うので、私の場合は別に良いのだが、怠惰を論ずる時には注意が要る。

 

※注意※

最新話及び単行本13巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。

1.はじめに

 思い込み勘違い暴走。今回紡がれた「ブラバ組のバレンタイン劇」はその3要素が余す事無く詰め込まれており、当事者にとってはマジであっても、それを客観視している側からすれば「お菓子作りにかけるテンションが高過ぎて暑苦しい」だの「チマメ隊も自分であれこれ想像して勘違い暴走するのではなく、人からもう少し深く聞き出せ」*1だの、そんな事を思わざるを得ない側面がある。尚、バレンタインのくだり自体は作中から見て1年前、現実時間からすると実に10年近く前に描かれた過去があり、その時は心愛ちゃん達が主軸で、そのバレンタイン回は単行本7巻収録話の為、ブラバ組どころかキャラクター自体がまだ影も形もなかった頃だった。その時も今思えばかなり暑苦しい構成で、今の私なら間違いなく「お菓子作りでここまでヒートアップできるのもある意味才能」と、褒めているのか否なのか微妙な反応をしてしまうが、その時にバレンタインの2/14が誕生日の理世ちゃんに対してサプライズを仕込んでいた事は、考えるまでもなく好印象だった。

 今回の扉絵はブラバ組とチマメ隊即ち「今の高校1年生組6人」が全員集結しているというもので、赤いリボンは嘗てマヤメグという幼馴染を描く時のお話に出ていた扉絵のリボンを思わせるものだったり、それぞれ穏やかな表情をしていたりと、和やかな雰囲気が漂っている。ただ、最早恒例だが私には相変わらず「和やかな雰囲気の6人が良い」といった当たり障りのない事しか思いつかないし、ましてやこれ以上掘り下げようなんて気は正直全くない。こういうのは見るだけで美しいと思えるだけでも十分であり、別に深い考察を毎回しなければならない訳でもないと思うので、あくまでも一定の距離感は取らせていただく。

 全体の印象としては前述した様に「思い込み、勘違い、暴走の3本柱が主軸のハチャメチャ劇」というのが強くあるが、この作品の凄い所というか怖い所はこれ程目茶苦茶な事をやっているのにもかかわらず、最終的な筋立ては必ずといっていい程美しく、また最高のものを創り上げてしまうこと。このお陰でごちうさという作品を相手にする時、ハチャメチャ劇と受け取るか、それとも構成力の鬼才と受け取るか何時も悩まされるし、今回に限っては「一見東奔西走している様にしか見えないハチャメチャぶりで、よくもまぁ最後の着地点をあれだけ美しいものに出来るものだ......」とすら思わしめている。分かりにくいだろうが、これは畏敬の念を込めた所感であり、正直に言えば「最早私の理解できる範疇にはない。私の感性ではこの作品の真の凄さには辿り着けないだろう」という想いを込めている。それだけごちうさは私にとって良くも悪くも独創的な作品に映るし、また異端児的存在でもある。

 

2.購読した感想・考察

いかなる時でもここの題目はあくまで大真面目に書く事を信条としているが、今回に限ってはどんなに考えても「思い込みと勘違いと暴走に準えた事しか思いつかない」という、字面だけを見たら確実に「ふざけている」と思われる事しか手元にない。信じてもらえないだろうが、本当にふざけているつもりはなく大真面目に「そういう事に準えた事しか思い浮かばない」のであり、それだけ強烈だったのだ。

 

勘違いの応酬劇

 ごちうさは初期の頃から相手には自分の考えている意図とは違う形で物事が伝わってしまう、所謂「勘違い」或いは「思い込み」が非常に多く、一々取り上げてはキリがない程。実際、今回だけでも多数の勘違い劇が繰り広げられており、例を挙げると

 

・「映月ちゃんの壊滅的料理を食べさせない様にする為、チョコ作りに関する本を真剣に読んでいる夏明ちゃんを見て、恵ちゃんが『夏明ちゃんが誰かにチョコを渡そうとしている』と捉えてしまう」

・「バレンタインのチョコについて質問する冬優ちゃんに対して、智乃ちゃんは『友チョコ』の事だと思い込む(実際にはブラバで作るチョコの話で友チョコは全くの無関係)

・「上記の勘違いに振り回された挙句、双方の勘違いが原因な事にも気付かず、全くの見当違いな理由で肩を落とすチマメ隊」

 

といった感じで、話を進めていく上で「自分と相手で議題の摺り合わせが不十分な事に起因する勘違い」が多く、更に話が噛み合っていないと気付く場面はちゃんとある*2にもかかわらず、思い込みの前に悉くスルーしてしまう為、結果的に「勘違いが是正できない」となってしまう。マンガとしての面白さを提示する為、敢えて勘違いしたままストーリーを進めている手法を使っていると言われればそれまでだが。

 この手の勘違いをやたら私が追求したがるのは、そうなってしまう事自体はよくある事だとしても、話を進めていけば双方に何か勘違い或いは思い違いがあると気付いても良いものだと思う事から、勘違いに対して全くと言っていい程思考を張り巡らせない様に見えるのが不思議で仕方ないからで、この様な展開を見る度「勘違いという名の違和感があるだろうに、何故にそのまま議題の擦り合わせをしないままでいられるんだ」となってしまう事も少なくない。尤も私とていかなる時でも厳格に勘違いが起こらない様にしている訳でもないが、それでも「勘違いがあると即座に致命的な事態を招きかねない事」に関しては絶対にきちんとすると心に誓っているので、こうも「勘違いがあるのをそのままスルーしてしまう大雑把さ」というのが気になってしまう。

 ただ、ごちうさに限っては勘違いが結果的に思わぬ幸福を呼び込んだり、勘違いが一周回ってある意味真理と化したみたいな展開も少なくないので、ある意味では「勘違いがあった所で決して不幸には堕ちない」という安心感はある。尤も、私は決してできた人間ではないので、また一方では「そんな偶然の幸福がいつまでも続く筈がない。何時かは勘違いから本当の不幸が生ずる時が来る」なんて縁起でもない事も考えている。しかしながら、勘違いは「ある物事に対して筋違いな理解をしてしまう事」を意味する訳であり、本来ならばそんな事は無いに越した事はないことから、それが半ば常態化している現状を好ましいとはどうしても思えない。

 これが一昔前なら上記の事は自分の中で押し殺していたのだろうが、コミック百合姫やまんがタイムきららフォワード掲載作品を筆頭に「自分の全てを剥き出しにさせた上で対抗しないとこっちが潰される程の激烈展開を含む作品」と戦い続ける中で、下手に自分の感情を押し殺しても何も良い事は無いし、そうして嘘をついた所で誰も得もしないし、自分の本心を騙した状態で書いた所感など最早「屈託なき偽物」だと思う様になった。そうして今の様に自分の本心を出来る限り隠さなくなった結果がこれ。良いか悪いかなんて分からないし、たとえ分かった所で進み始めた道のり故、引き返す事はもうできない。というか引き返したくない。だって引き返すという事は「自分の本心を偽ったものにする事を再び欲した」ことに他ならないのだから。

 

甚だしい程の暴走劇

 思い込みや勘違いに加えて今回は「暴走劇」も凄まじく、ハッキリ言えば「何をどうしたらそんな事になるのかさっぱり分からない」となってしまう出来事の嵐。ごちうさは昔から「常識的に考えてみても絶対にあり得ない奇想天外な事態及び発想」を平気で持ち込んでくる節があり、それ自体は「4コママンガ」或いは「ギャグ要素を含んだマンガ」のセオリーの一種とも言える為、そんな事にいちいちツッコんでいたら身が持たないのだが、今回のそれは「流石に」ツッコまざるを得ない展開が多かった。以下はその一例。

 

・「チョコを湯煎していたら燃え上がった」

・「映月の作る壊滅的なチョコを半ば人体実験の如くお客さんに段階的に慣らさせる形で試そうとする」

・「冬優ちゃんに指摘されるまで自分達が創ろうとしているチョコのヤバさに気付かない(=状況を客観視できていない)」

 

 何れも「何をどうしたらそんな事になるんだ......!」「どう考えたらそのアイデアがまかり通ると思えるんだ......!」となるものばかり。

 まず「チョコを湯煎してたら何故か燃え上がった」という件に関しては、冬優ちゃんの「中華料理でも作るの?」というダメ押しも寸劇としては面白いが、私としてはまず「どうやったら『湯煎で炎上』なんて起こるんだ。普通に考えてみて湯煎で炎が燃え上がる事はあり得ないし、しかもよく見たらIH。最早全く分からない」となるし、その場面についても燃え上がった炎を驚く訳でもなければ慌てる訳でもなく、ただ茫然と見尽くすナツメとエルの2人を見て「なんで炎上しているのに茫然と見ているんだ。シュール過ぎるぞ、その光景は」と言いたくなる。

 映月ちゃんが作る壊滅的な味のするチョコを人体実験の如く慣らさせようとする件については、過程としては「市販のチョコ(基準となる味)⇒少しクセあり⇒映月ちゃん特製チョコ」という形でクセのある味わいを持つチョコに慣れてもらい、最後に映月ちゃん特製のチョコを喰わせるという意味だが、その発想が完全に「人体実験」のそれだと思うし、考え様によっては「普通のチョコと映月ちゃん特製チョコが如何に違うかを身をもって知ってもらう」というドSっぷり。提案者の夏明ちゃんも映月をなんとかしてフォローしようとしたのだろうが、結果として映月の壊滅的チョコに慣らされ過ぎたが故の壊滅的境地の発露となってしまっているし、その際「嬉々とした顔つきで目を輝かせながら提案していた」というのが(可愛らしい顔つきなのも相まって)余計に無自覚のドSぶりを助長させる。

 極めつけの「冬優ちゃんに言われるまで自分達のやっている事のヤバさに気付かない」については、考えるまでもなく「ナツメもエルも、最早客観的な視点からの冷静な判断が出来ていなかった」という事で、冬優ちゃんがいなければ「人体実験じみた事を本気で実行する」という最悪の事態もあり得ただろう。その意味で冬優ちゃんは、その最悪な事態を回避させてくれた救世主と言えるが、私からすれば「2人して自分達の行動のヤバさに全く気付かないのは怖過ぎるという話。1人なら思い込みから来る視野狭窄や、1人故に別視点からの意見に触れにくい(或いは全く触れない)為に自らの視点を絶対視しがちといった理由で自分の行動を冷静に俯瞰できなくなるのも解るが、2人いれば一方が暴走しがちなもう一方のブレーキ役が期待でき、ナツメエルの場合「マイペース故に暴走しがちな映月をしっかり者且つ常識人な夏明がコントロールする」という形でバランスがとれている。にも関わらず、今回は夏明ちゃんが半ば崩壊しており、結果的に「ツッコミ不在」の地獄絵図に。マンガとしては面白いが、当事者としては全く洒落にならない。

 ついでに書くと、冬優ちゃんからの指摘を受けて映月も夏明も冷静な判断力を取り戻したかと思いきや、相変わらずどこかズレた思考回路を覗かせており、根本的な部分は全然直っていなかった。まぁ、根本的な部分が容易に直るならこの手の苦労は要らないと思うし、直そうと思っても結局は直せないのが人間なので、もう諦めるしかないだろう。別に映月ちゃんと夏明ちゃんの前のめりな情熱が悪い訳ではないし、それが下手な方向性に向かなければ良いだけの話なので。

 以上、作中でも一定以上の暴走劇に対して真面目に分析或いはツッコミをした次第だが、これはあくまで「ぶっ飛び過ぎる展開に思わずツッコミを入れたくなってしまった者の展望」なので、真に受ける必要性は全く無いし、何なら「世の中にはこんな奴もいる」とでも思ってくれて構わない。私としては「自分はこう思ったんだ」というのを出来る限り可視化したいと常日頃考えていく中で、書きしたためたい事を心置きなく書きしたためていくという心づもりでこのブログ記事を作っているので、好き勝手に書いている以上はどう思われてもある程度は受忍すべきと考えているので。

 尚、この暴走劇の後にブラバ組は3人合わせて「最高のチョコ」を作る為に奮闘する事になるのだが、その際嘗て単行本7巻にて描かれた心愛ちゃん達のチョコ作り奮闘と重なるものがある様に作られており、所謂セルフオマージュとなっている。前述した様に、今の私は「お菓子作りでここまで熱くなれるのも凄い」といった感じで何とも言えない反応をしてしまう節もあるが、1つの目標に向けてひた走れる所に青春活劇なるものも感じるし、ブラバ組という絆の深さもしみじみ感じ取っているので、何とも言えない反応も私の中で「憧れと嫉妬が交錯して存在している事の裏返し」なのかもしれない。結局の所「自分にはもうこういう事は出来ない」という事実が認識を歪ませてしまう。歳を重ねていくとはそういう事。まだ若い人間がこんな事を書くのもあれだが、若いといっても「10代からすれば20代でも上世代の人間」なのは紛れもない事実だし、歳を重ねて出来なくなる事は20代でも確実に存在するので、ある程度はどうしようもない。

 

圧巻のバレンタイン劇

 紆余曲折を経た今回のバレンタインだが、その行き着く所は一言で表すなら「圧巻」に尽きる。何せブラバ組3人が協力して最高のバレンタインチョコを作り上げただけでなく、序盤はブラバ組に振り回されっ放しだったチマメ隊も、半ば無理矢理とは言え「ブラバの一員」として活躍する局面もあり、この作品が大切にしている「立場の違いを超えた温かな絆」を象徴していたのだから、圧巻と称して間違いないだろう。

 この場面では映月ちゃんと夏明ちゃんがバレンタインのチョコ作りに対して躍起になっていた理由も判明しており、それは簡単に言うと「今までお世話になった人々への恩返し」というもの。これ以上なく直球な理由だが、動機なんて別にこれ位シンプルな方が良いと思うし、何かを通じて自分達が受けてきた恩或いは感謝の気持ちを返したいという事が肝要なのだからこれで良い。また、ブラバ組がチョコに込めた想いが伝わっている証拠として、チョコを受け取っている人達が総じて「笑顔」という点があり、この事実1つだけでもブラバ組の行動は大成功と言える。

 今回のバレンタインはブラバ組の行動が主軸となる様に構成されている一方で、チマメ隊3人の方も負けておらず、この日の為に3人してブラバ組には内緒で手作りチョコを用意していたという粋な行動を見せ、同じく秘かにチマメ隊3人の為に用意していたブラバ組3人をアッと言わせている。何と言うか、チマメ隊もブラバ組も考える事が同じというか、お互いに「3人にそれぞれいきなりチョコを渡して驚かせたい」と考えている所が可愛くもあるが、それ以上に「特別な節目時には自分の想いをちゃんと伝えたい相手」と考えている部分が良い。特に普段から素直になれずいがみ合ってばかりで、こんな時でも「余り物だからあげる」とお互いに不器用さが隠せないマヤとナツメも、明らかに「本当に余り物では無く、最初から手を込んで用意したやつ」を渡しているので、チマメ隊もブラバ組もお互いに特別な存在だと思っていると見做して間違いない。

 この様に終盤では「今まで積み上げてきたものがものを言う圧巻の展開」を見せつけてきた訳だが、私としては「中盤まであんなにハチャメチャだったのに、何故僅か3ページちょっとでこんな圧巻の展開が出来てしまうんだ......」と、その構成力の高さと私の理解を超える事を平然とやってのける事実に正直恐怖を改めて覚えた。改めてというのは、ごちうさがハチャメチャ展開を内包させつつ、話の締めに差し掛かるにつれて圧巻の何かを見せつけてくるのは、別に「今に始まった話では無いから」だが、今月のそれはあまりに振り切れ過ぎていたと思う。本当、実質的にはこんな化け物じみた作品だけを相手取っていた時期がある事が恐ろしくもあるし、もっと言えば「ごちうさという知れば知る程その凄さと恐ろしさに感嘆させられる化け物作品からきららの世界線を歩み始めた」というのも、私にとっては「きららの底力を最初から体感出来たという意味では最大の幸福」だったが、後年他のきらら作品を筆頭に他の世界線を山程知っていくにつれて「他の作品を知れば知る程、ごちうさとの向き合い方が難しくなる枷を背負う羽目になってしまったのは最大の不幸」とすら思っている。それだけごちうさは今の私にとって「どう向き合うのがベストなのか全然分からない、扱いが非常に難しい作品」なのだ。

 ただ、ハッキリ言ってしまえば「多くの世界線を知ったが故にごちうさの扱い方がトレードオフ的に分からなくなってきてしまった」という現状こそあるが、今でもごちうさが持つ「ハチャメチャ劇も感銘劇も1つのお話に内包できる構成力の高さ」は純粋に凄いと思っているし、既に連載開始から15年という長期連載作品だからこそ成せる「連綿と受け継がれてきたものが花開く瞬間」みたいなものは素直に美しいと思える。それなのに自分の中で作品の扱い方が分からなくなる程複雑な思いを抱えるのは、多くの作品を知っていく中でごちうさで描かれる価値観が、自分が持つ価値観と必ずしも完璧に合わさるものではなかったと気付いてしまったこと、ごちうさ以上に心を惹く作品とも少なからず出逢ってきていることが大きいのだろう。これらは「1つの作品と長年向き合い、多くのマンガ世界線を探求していけば当然付き纏ってくるもの」なので、ある程度はしょうがないが、前述の通りごちうさは私が実質的に初めて本格的に触れたきらら作品であり、今後どうなろうと私にとっての原点には変わりないので、この事実が余計に心情を搔き乱すのだろう。

 

3.あとがき

 時が経つにつれて癖が強くなっていく気がしてならないこの感想・考察ブログ記事だが、書き出している事の多くは別に今回限りの感情ではなく、表沙汰にしていないだけで「以前から存在していた感情」が殆ど。今までマイルドだったのは、その癖のある感情を極力隠していただけに過ぎないし、今や癖のある感情含めて「思った事は極力忌憚もなければ容赦もなく書き出す」と決めているので、癖が増していくのはある意味当然。

 私にとって実質的なきららデビューを飾ったごちうさだが、この「ごちうさがきららデビュー」という事実に助けられている点が確実にあり、それはこの感想・考察ブログ記事を何があっても書き続けようという原動力になっている事。自分にとって価値観や人生観を確実に変化させた作品でもあり続ける以上、折角ならば「完結の時を迎えるまで書き続けていきたい」となっており、実際に多くの紆余曲折を経ながら今日に至るまでそれは実行出来ている。これがもしきららデビューを果たした作品でもなんでもなかったら、今頃私は書くのを辞めているだろうし、ごちうさという作品自体も読んでいたか怪しくなってくる。尤も、読む事自体に関しては「読み始めた作品は基本的に最後まで読み続ける」という別の信念があるので問題は無かっただろうが、少なくとも記事を書くという多大な労力を要する事を気力がない状態でも無理矢理気力を振り絞って......、なんて事はしなかっただろう。その意味でもごちうさがきららデビュー作品だったのも運命的と言える。ただ、その運命的出逢いによって苦しめられた現実もあるが、幸福だけの運命的出逢いは存在しないので、苦しみも受け容れる他ない。

 本題でもしれっと扱ったが、ごちうさ以外のマンガ世界線にも多く触れる様になった今となっては、コミック百合姫やまんがタイムきららフォワード掲載作品を筆頭に「自分の全てを剥き出しにさせた上で対抗しないとこっちが潰される程の激烈展開を含む作品」も多く読んでおり、特にコミック百合姫の方は毎回の様にガチで向き合っては疲弊し切るというのを繰り返している。だからなのだろうが、発売スケジュールが毎月18日発売のコミック百合姫と、毎月19日発売のまんがタイムきららMAXと両者の発売日が非常に近接していることと、私のスタンスとして「精神衛生上、きらまよりコミック百合姫を先に読まないと百合姫が読めなくなる」*3という事情も相まって、コミック百合姫で受けた影響がきらま掲載作品の所感にも多大な影響を与えるという事態が多発しており、きらまでも容赦ない所感が増えたのはこの為でもある。ただ、お陰で「自分に嘘をつかなくても良い」と思える様になったので、良くも悪くもコミック百合姫のハードさ加減が私自身の肩の荷を下ろしてくれた側面もある。

 そのコミック百合姫だが、私にとってのコミック百合姫デビュー作品はなんと「きたない君がいちばんかわいい」(全5巻)という、百合姫の中でも相当に人を選ぶ上に無理な人はとことん無理な曰くつきの作品。というのも人間としての尊厳すら完膚なきまでに破壊しかねない程に過激且つ背徳的な倒錯百合SMに、主たる登場人物2人が完全に共依存関係で、何もかもがおかしくってぐちゃぐちゃな程の想いを持っている事実に、話が進むにつれて破滅的な環境に追い込まれていく閉塞感及び退廃的な雰囲気の不気味さ、極めつけは「あまりに悲愴的且つショッキング過ぎる結末」と、徹頭徹尾「読み手の心を狂い乱してくる要素がてんこ盛り」だからで、私もその悲愴的な結末には完全に平静さを失い、哀しみと怒りの感情がぐちゃぐちゃになった形で短時間に2度も涙した程。今思い返してみても「よくこの作品から百合姫の世界観に飛び込もうと思ったなぁ」となるが、当時は別にきたかわきっかけに百合姫の世界観に飛び込む事に対して何の疑念も抱かなかったし、結果論とは言え、これがきっかけで今に至るコミック百合姫愛読にも繋がっているので、今更あれこれ考えても無駄だろう。

 こう考えると、私の中できららデビュー及び百合姫デビューを飾った作品があらゆる面で真逆の作風なのも凄い。一応中高生の女の子達が主役となる部分は共通しているが、それ以外は何もかも違うし、何より「きららひいては日常系初心者向けのごちうさ」「訓練された百合姫購読者でも好みが分かれるきたかわ」という、とっつき易さという意味で購読デビューを飾るには凡そあり得ない程の対比がある事実。私は元々「人を選ぶがハマる人は熱狂的にハマる」みたいなものを好む傾向があったので、それを思えばきたかわの方が傾向には即していたのかもしれない。ただ、人に何かを薦める時は「人を選ぶものよりも王道向けから知った方が絶対に良い」と言う心づもりはしている。

 

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙のべ29枚分、執筆期間は「5月9日開始の5月13日完成」「5日間(4日後)」だった。先月よりかは色んな意味でマシな形で纏められた一方、自分の想いをより詰め込んだ内容になった。その結果、若干カオスチックになっているが、それもご愛嬌という事で。

*1:これ自体はごちうさにおける会話劇全体に対して思う事でもあり、思い込みからくる勘違い或いは暴走が気になってしまう事は正直ほぼ毎回の話。

*2:特に夏明ちゃんと恵ちゃんに関しては、話の流れ的にも双方共に認識の食い違いがある事は明らかであり、話の途中で当事者達も気付いておかしくない程。

*3:百合姫はきらまに比べてハードな内容も多く、後回しにすればする程「あんなハードな世界観なんて読みたくない」という忌避意識が強まってしまう為。

きらま2026年4月・5月号のごちうさ感想・考察「2つの意味での帰る場所」

 ごちうさを読み始めてから今年で早8年。正直に言えば、今となっては嘗ての熱意は鳴りを潜め、新作劇場版に関しても「内容が全て明らかになってから細かく言説すれば良いし、何より『自分が観たもの』に対して私は所感を抱きたい」と思っているので、今の所は「そんなのがあるのか~。楽しみだな~。」というふわふわした感触の域を出ていない。ハッキリ言って「考えてもしょうがない事に労力を割きたくない」ので、分からない事にはスパッと割り切っているし、それはごちうさに対しても例外ではない。

 しかしながら、ごちうさを読み始めてから早8年も経ったなんて、時の経過はあっという間だと思うし、同時にごちうさ以外の作品を本格的に読み始める様になってから早4年になるのだと思うと、何だか感慨深くもある。それで言うなら、ごちうさ以外で本格的に読み始めた作品が何だったのかは今でも覚えていて、それはまんがタイムきららキャラットの「紡ぐ乙女と大正の月」(全4巻 当時は連載中だった)と、ごちうさと同じくまんがタイムきららMAXの「ななどなどなど」(既刊4巻 現在も連載中)の2作品。私はこの2作品の単行本を梅田のメロブで購入した事をして、今に至る「多数のマンガを読み耽る道」へと歩むこととなったし、今振り返ってみてもこれこそ「運命の分岐点」だったと思う。

 運命の分岐点について言及するなら、私はこの分岐点が無ければ百合マンガ好きにもなっていなかっただろうし、それに付随してコミック百合姫にも全く興味は抱かなかったと思う。また、それに引っ張られる形で岡山県(ささ恋の舞台県)や愛媛県(わたたべの舞台県)にも特別な感情は絶対抱かなかっただろうし、今頃になっても未だごちうさ+α位しか読まない視野の狭い人間になってしまっていた可能性すらあった。何故視野の狭い人間だと思うのかと言うと、今の自分が持つ感性や考え方は、ごちうさ単体では絶対に構築出来なかった賜物だからで、今の自分が持つ経験則からして、単体の作品だけでは底が知れる人間にしかなれないと思うからである。無論、ごちうさ自体も凄い作品だと思うし、それ1つだけで構築できる価値観や視野は広くあると思うが、やっぱり「1作品だけでは限界がある」ものだし、当然ながら「ごちうさにない世界観や価値観はどうやっても構築できない」ので、少なくとも私は「ごちうさ以外の世界観を知れるきっかけを掴めて良かった」と思っているし、今となっては「ごちうさだけの世界観に閉じ籠った自分」なんて、想像しただけで絶対に嫌だと思う。

 因みに、マンガと同じ位あるいはそれ以上に強い勢力を持つ「クラシック音楽」を筆頭とした「他の趣味分野」に関しては、マンガとは全く別の変遷を遂げているので、恐らくはマンガに対する価値観がどうなろうと関係は全く無かったと思う。なにせ今はそんな事ないのだが、ごちうさを読み始めた頃、ごちうさより半年以上前から好きだったクラシック音楽とごちうさとでは、自分の中では完全に相容れぬ存在で、その扱いをめぐって心がぐちゃぐちゃになった事もある位なので、マンガがどうなろうと「クラシック音楽とは全くの別物だから関係ない」と思うだけで、お互いに影響し合う事はまず無かった。昔から「その辺のテリトリーはきっちりしたがる面倒且つ厄介な性分だった」ので、多分その癖が最悪な形で露呈したのだろう。

 更に質の悪い事を書くと、8年前当時の自分の中でごちうさが「何処まで掘っても1年前にしか源流がない分野」なのに対して、クラシック音楽は「興味関心という形で既に10年以上前(つまり未就学児の頃から)から源流が存在していた」のをして、この「10年という歴の差」も変なプライドとなって邪魔をしたのも大きい。というのも当時の自分は知る由もなかったが、元々私は「幼い頃から好事家御用達の趣味分野にばかり関心がいく人」で、道路や地図それにクラシック音楽が持つ音の響きといったものに対しては、未就学児どころか幼稚園入園以前から既に関心を持っていた。そして、それらが高じて今に至るまで大切にし続けている趣味分野へと直接的に繋がっている為、今自分が好きな趣味分野の源流が、本当に幼かった頃に通じているというケースが非常に多く、それが何時しかプライドになっていた。今や容易く折衝できるプライドだが、8年前当時の自分にはそれが出来ず、変なプライドを持ったままクラシック音楽とごちうさを並行して好きになっていった為、心がぐちゃぐちゃになる程おかしい事になってしまった。今となってはただの笑い話だし、我ながら「くだらんプライドの高さが招いたバカな過去」と思っているが、当時は割と真剣な悩みだった。これも教訓だろう。

 

 色々と書きたい事はあるのだが、行動を移すまでが長いのが私の欠点だと自覚しており、今回遂にごちうさの感想・考察ブログの執筆ペースにも大きく影響してしまっている。ただ、どんなに影響したとしても「自分が読んできた回はどんな形でも所感を書き残す」と決めているので、遅れてでも書くつもりではいるが、今まで書いてきた中で「月度を跨ぐまで書く気力が湧かなかったのはなかった」ので、いざ書き出したら問題なく出来るとは言え、マズイ気はしている。

 ただ、不幸中の幸いなのは先月の4月号が「心愛ちゃんの実家帰省」で、今月の5月号が「実家帰省から帰還」という云わば「連続した物語を2ヶ月にわたって描く」という形だった為に、後から振り返る形で所感を綴っても大して問題ないのには助けられている。

 

※注意※

最新話及び単行本13巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。

1.はじめに

 4月号が心愛ちゃんの実家帰省ときて、5月号では実家帰省からの帰還を描くという構図。正直気持ちが前のめりになる訳でもないし、ましてや「ウワー!」ってな感じで燃え上がる訳でもない。何を読んだ所で淡々としたままだし、故にそこまでテンションが上がる事もないが、秀逸な構成に長年積み重ねてきた物の上に輝く展開の良さ、キャラの成長や昔から一貫して変わらない信念じみたものを見ると、最後には「この作品を読んできて良かった」となるのだから不思議。多分ここの部分は例えごちうさに対する熱意がなくなったとしても、なんだかんだで変わらない気がしてならない。

 4月号の扉絵は魔法使いの様相をした智乃ちゃん、5月号は木組みの街に初来訪した時の様相をした心愛ちゃんと、舞踏会に参列する際の格好を思わせる心愛ちゃんの2セットによるもので、何れも「この物語における重要な局面の抽出」を思わせる。尤も相変わらず扉絵自体の興味はそこまでないままで、観ても「ふーん、詳しくは良く分からないけど、素人目でも凄いとは伝わってくるよ」みたいな感じで終わってしまう様な人だが、あまり関心が無くても凄さは伝わってくるし、関心が無いからこそそういうものに対して関心を全力で注ぎ、研究しようとする人の事を尊敬したり敬意を表したり出来るので、それで許して欲しい。私には正直扉絵の世界観の深さは良く分からないのよ。

 心愛ちゃんの実家帰省編にしろ、実家帰省からの帰還にしろ、重要になってくるのは「人と人との絆」であり「帰る場所がある事の意味」だと思っており、これらは全て近い将来に待ち受けている「それぞれの夢の為に木組みの街から一時離散する心愛ちゃん達にとっての支え」にも繋がる重要な要素だと考えている。尤もそれらはこれまでの作中でも再三にわたって言及されている事だし、故にこういった事は私以上に事細やかに言及している人がごまんといるので、私はあくまで自分の所感を書き綴りたい。

 

2.購読した感想・考察

 今回は4月号と5月号の2本立てとして、前半に4月号の、後半に5月号の所感を書き連ねていきたい。尚、どちらの話でも何よりも書きたい事は既に決まっており、4月号では「お姉ちゃん像について」で、5月号では「帰る場所がある事の有難み」である。初めて読んでから時間が経っているので記憶が正直大分薄れており、これも思い出しながら書く事になるが、内容はちゃんとしたものにするのでどうかお付き合いの程を。

 

2-1.4月号所感「心愛ちゃんの実家帰省」

姉顔負けの妹ちゃん

 2年ぶりとなる年末年始帰省を果たした心愛ちゃんは、最初から以前のお世辞もお姉ちゃんとは言い難かった抜けた一面を全く感じさせない、正しくお姉ちゃんと言うに相応しいオールラウンダーな一面を見せ付ける所から始まっており、これだけでも心愛ちゃんは昔と比べて確実に成長したと解る。また、今回は心愛ちゃんの姉たるモカさんが風邪をひいてしまっており、心愛ちゃんが帰省した時点でほぼ治りかけだったとは言え、矢面に立てる状況ではとてもなかったので、モカさんが抜けた穴を心愛ちゃんが完璧に埋めたという意味でも、妹の大きな進歩ぶりを物語っている。

 ただ、本質的には「モカさんが姉で心愛ちゃんが妹」というのは一生涯変わらない事実なので、ふとした事で元の関係性に戻ってしまうのが常であり、実際今回もモカさんが昔の幼く自分に甘えてばかりだった頃の心愛ちゃんを思い出して、心愛ちゃんがそれに反応する形で元の姉妹関係に戻っている。心愛ちゃんとしては「自分がどれ程大人びてもお姉ちゃんには敵わない」という事実をまざまざと突き付けられる様で複雑だろうが、ハッキリ言って「生まれながらにして刻まれた関係性はどうにもならない」ので、何を思った所で本質的には何も変わらないと納得して諦めるしかない。別に2人の姉妹関係が悪い訳でもないし、寧ろお互いにある程度成長して、大人としての一歩を踏み出した今現在においても極めて良好な関係性なので、これ以上の贅沢は無いと思うのだが、妹の心情とは複雑である。

 この様にある意味油断すれば元の関係性に戻ってしまうとは言え、今やこの姉妹は「お互いにお姉ちゃんとしての立ち振る舞いが出来る姉妹」になっていると言え、故にお互いに甘えたり甘えられたり、姉妹関係としてはこの上なく理想的と言える。

 余談だが、私は所謂「肉親」との関係性をめぐって「肉親同士で憎しみ合ったり、傷つけあったりする事程、この世においてどうしようないと思う事は無い」と考えている人間。無論、肉親がこの世において最も憎むべき存在と思う現実があるのも理解はしているし、こんなのは所詮理想論に過ぎないとも考えているが、事実として私は「肉親同士で負の感情をぶつけ合うのは救いがない」と思っているので、心愛ちゃんとモカさんが良好な関係性なことや、その姉妹が自身の親(ちょこさん)とも関係性が良いのはこの上なく良い事と思っている。

 

理想のお姉ちゃん像

 モカさんが風邪引きだった為、木組みの街にて発揮しつつあるお姉ちゃんスキルを遺憾なく発揮していた心愛ちゃんだったが、そんな心愛ちゃんが「お姉ちゃんとはこうあるべき」と考えていた事に少し引っ掛かる部分があった。というのも自身の姉であるモカさんが「弱った姿を妹には見せたくなかった」と言った事に対して、心愛ちゃんは「どんな状態でもお姉ちゃんはずっと凄いまま」と言及したのに、その直後に心愛ちゃん本人が智乃ちゃんに対してカッコ悪い姿を見せた事をして「頼りないお姉ちゃんとしての姿を見せてしまった」と、明らかに「お姉ちゃんに対して言及したことと、自分に対して適用している考え方が相反」していたからで、言及したくてしょうがないと思い立った事はハッキリ覚えている。

 何でこんな事になってしまうのかと言えば、恐らくは「心愛ちゃん自身にお姉ちゃんとしての自信がない」のもあると思われ、理想の姉たるモカさんを妹として観続けているからこそ、自分の中で「お姉ちゃんがああだから、自分もお姉ちゃんとして完璧な姿を見せなければならない」という想いが強過ぎるからだと思う。そして、その想いはたとえお姉ちゃんが弱った姿を見せた事で「姉とて妹に弱い姿を見せたっていい」と理解した所で、心愛ちゃん本人はそう簡単に変わるものでは無いのか、或いは「お姉ちゃん(モカ)との姉妹関係」と「智乃ちゃんとの姉妹関係」は「別物」と思う事には変わりないと思っているのか。詳しくは分からないが、とにかく心愛ちゃんは「自分の姉に対するお姉ちゃん像と、自分自身がお姉ちゃんとして掲げる想いが相反している事実」がある。

 また、これに付随して心愛ちゃんは「人を巻き込む行動力を持つ割に自己評価がやけに低い」とちょくちょく思っており、普段はあんなに明るく立ち振る舞っているのに、ふとした瞬間に見せる彼女の不安や懸念は完全に「自己評価が低い人間が抱きがちな概念そのもの」なので、そこも気になっている。でも、これも結局は「本人がどうにかする他ない」ので、心愛ちゃん本人の頑張りにかかっているとしか言えないが、智乃ちゃんを筆頭に心愛ちゃんの仲間内は、心愛ちゃんが別にお姉ちゃんとして不甲斐ない姿を見せた所で、即座に失望して離れていく様な人達じゃあないので、心愛ちゃんももう少し気を張らなくても良いと思う。

 

ドーナツ状の輪

 心愛ちゃんが実家帰省していた頃の木組みの街の様子も今月では描かれており、中でも重要なのは心愛ちゃんが寄越した「アドベントカレンダー」に込められた想いである。また、そのアドベントカレンダーに込めた手紙の内容を果たす形で、心愛ちゃんの実家からラビットハウスに向けて「ドーナツ」が贈られており、ドーナツが輪の形をしたお菓子なのをして「自分達は『輪』で繋がっている」という粋な演出まで込められている。

 普通に考えてみてもドーナツの形に粋な想いを託すなんてお洒落だと思うが、このお洒落なくだりには「心愛ちゃん達に待ち受ける運命を乗り越える為の重要な気構え」が込められているとすら考えており、相当重要な局面だと認識している。結局の所、1人でどこか違う場所でやっていく場合に一番不安になるのは「帰る場所が無くなってしまうのではないのか」という事だと考えていて、それに対してドーナツを使って「輪という名の繋がりがある限り、帰る場所もあり続ける」というのを表現しているのが全くもって粋だと思う。尤も心愛ちゃんがここまで考えてそのサプライズを仕組んだかどうかは疑問符が付くが、客観的に見て「そういう繋がりがある、帰る場所がある」と認識できるものがあるならそれで良い。

 

2-2.5月号所感「実家以外の帰る場所」

いかなる時も変わらぬ温かみ

 先月号でのお話が「実家帰省編」なら今月号では「木組みの街への帰還編」であり、心愛ちゃんによる木組みの街探究劇が主な主軸となる。ただ、個人的には仮にも3年近くを過ごしてきた街に対して、よくもまあ他所から帰還する度にさも「初来訪を思わせる新鮮な気分」を構築出来るなと感心する。私だったら今月の心愛ちゃんがとった行動も考え方も全て「やろうとも思わない上に考えの片隅にすら留め置かない」という人なので、もし私が心愛ちゃんと同じ状況だったら、恐らくはさっさと帰還するだろうし、仮にぼやぼやと探索していると、唐突に「自分は今何をやっているんだ......」と、なんら意味も生産性もない事に時間を費やした事実を嫌に思う瞬間すらあると思う。本当、心愛ちゃんってやっぱりとんでもない人。別に同じ様になりたいとは思わないが、見知った場所に対しても初めて来た時の様な感覚を持ち続ける事は大切にしなきゃなぁ......、と素直に思える。

 そのとんでもない感性の持ち主心愛ちゃんだが、その木組みの街探究において「この人やっぱり凄いわ......、とんでもない人だわ」と思ったのは、夕刻になった際に木組みの街を一望できる場所にて、木組みの街にいる仲間達に向けて「ただいまーっ!」と叫んだ事。言われた側からすれば「なんや急にっ!」ってなるだろうし、抑々届けたい人に届いているのかどうかすら分からないし、何より「高台から美少女が、何の脈絡もなく突然『ただいまーっ!』と叫んだという事実」が色々とマズいと言うか、ある意味恥も外聞もなくそういう事が出来る度胸の強さは欲しい所だが、普通に考えて急にそんな事をしたら、周りからどう見られるかなんて火を見るよりも明らか。それにも関わらず、心愛ちゃんは自分の想いに忠実なるままに叫んだ。その事実があまりにとんでもなさ過ぎるし、それまでにたった1日を通じて「この街は再来訪した者を温かく迎え入れてくれる」という事実を考慮しても、心愛ちゃんの凄さは全く揺らがないと思う。

 また、心温かく迎え入れたという意味では、心愛ちゃんが高台にて叫んだのと前後して、それまで心愛ちゃんの事を尾行していた*1智乃ちゃんと理世ちゃんが彼女の前に表れた時にも象徴的な場面がある。それは心愛ちゃんの叫びに呼応する形で理世ちゃんが「おかえりーっ!」と、彼女と同じ様な感じで叫んでくれた事で、これによって単純に「深い友情がある」のみならず、心愛ちゃんに対して「お前の帰りを喜んで受け容れる奴はこの街に居続けるぞーっ!」といわんばかりの想いをストレートに伝えた事にもなり、木組みの街が温かいのは「場所と人」と認識出来るのが良い。

 

隠し切れない「照れ」

 高台にてラビットハウス3人組が集結した場面にて、私としては見逃せなかった要素がもう1つあり、それは3人共に久しぶりの対面をして「照れ」が隠し切れていなかった事。尤もその事実は「時間差」で明らかになるのだが、結果論で言えば「3人共に同じ感情があった」となるので、そこは等しく照れがあったという事で。

 この「照れ」だが、私とて一時代前の硬派な人間ばりに「不器用な照れ」を抱え込んでしまっている人なので、何を書いた所で何の説得力も持たないだろうが、私としては照れがある事自体は悪い事じゃないと考えているし、照れがあったとしても「自分の本心を自分の言葉で話す事が出来るなら」何の問題もないと見做している。ただ、現実にはその照れが災いして、自分の本心を伝えるべき相手に自分の言葉で伝えられないとなる人が少なからずおり、そうなると問題になる。私がこの問題に対して説得力がないと書いたのは、私も所詮は「照れが要因となって伝えるべき事をハッキリ言えない節があるから」で、自覚しているだけマシなのだろうが、問題点な事に変わりはない。

 ただ、難しい事に今回のラビットハウス3人組がそうだった様に、親しい間柄であればある程、そういう「照れ」は強くなっていくもので、赤の他人相手なら平然と言える事なのに、親しい間柄になると途端に言えなくなってしまう事、隠してしまいたくなる事は誰しもある経験だと思う。それを鑑みるならば、親しい間柄にも照れずに自分の本心を言えというのも酷な話だが、世の中にはそれにかこつけて「自分の本心を間接的に言わせる」なんて事をする奴もいて、それはよろしくないと思っている。

 話の踏み切り方から本筋と脱線した方向に進んでしまっているが、ラビットハウス3人組の中にそういう「照れ」が存在していたという事実は、私の中では「それだけこの3人が親密な関係性を構築し切っている証左」だと捉えていて、その事をほんわかした形で共有できる間柄でもあるので、この上なく良い関係性だと思う。

 

3.あとがき

 特別熱意が失われた訳ではなく、今でも変わらずマンガへの愛は持ち続けているが、普段から時間の使い方が下手というか、熱意が長時間持続しないというか、他にもやりたい事ややらなければならない事が沢山あるというか、兎にも角にも様々な要因が重なり合った結果、この感想・考察ブログ記事も2ヶ月分合わせて書く事になった。記事を連続して書き始めてから3年以上経っているが、こんな事は初めて。

 最近になって記事の文量が益々コンパクトになってきているが、これは最大瞬間風速的に思いついた事は即座にX(旧Twitter)上にて書く様にする一方で、長期的に書き留めたいと思う内容が少なくなってきているからで、またこういう場においてはシンプルにまとめ上げるのが一番で、下手にダラダラ書いてもしょうがないと考える様になったのも大きい。

 こんな私だが、今年の4月に行われたごちうさエイプリルフール企画はしっかり拝見しており、今年も凄まじいクオリティを誇っていた事と思うし、何より「これまで判明していなかった母親達の名前が判明した」のが凄く、それに付随して「理世ちゃんの母親の名前と容姿」がしれっと初公開されたのも凄まじかった。ごちうさエイプリルフール企画というのは、以前から「本編で明かされていない情報をしれっと明かす」というのも度々やってきていたが、今回は過去最高にとんでもない情報をねじ込んできたと思った。やっぱりとんでもない作品。

 終始ムラの激しい構成となってしまったが、それでも書くのを辞めないのは「この作品に対しては、何があろうと最後まで感想・考察ブログを書くのを貫き通す」と心を誓っている事と「ここまで続けてこられた事を今になって辞めたくはない」と思っているのが大きい。そういう想いがあるからこそ、たとえ2ヶ月越しであっても所感を書き綴るし、どんなにグダグダでも1つの形として成立させるのである。

 

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙のべ22枚分、執筆期間は「4月6日開始の4月13日完成」「8日間(7日後)」だった。2ヶ月分をまとめて書いたにしては少なめな文量だが、中々上手くはいかないものである。

*1:尤も心愛ちゃんにはバレていた。

きらま2026年3月号のごちうさ感想・考察「シュール劇場と魔法の本質」

 2026年初頭からマンガを読む事には事欠いていない私。何年も前からその兆候はあった中、去年の後半から遂に「マンガの感想を書く際には忌憚ない意見を叩き付ける」と「名実共に」決心したのだが、それは2026年でも全く変わっていないし、寧ろ去年より更に容赦はしなくなっている。

 容赦しないのは「人間の闇な部分」「無慈悲な現実」等々で、その際極力主観意見だけにしない為に「展開やキャラの心情が客観的に見てどう映るか」を分析し、その上で「外堀を埋めて逃げ道を失わせる」という形で、自分の意見を忌憚なく叩き付けている。最早私も大概悪魔だと思うが、元を正せば「吐き気を催す程の邪悪な手段に手を染めている奴が悪い」のであり、流石にこっちも度が過ぎれば「やり過ぎだ!」などと言われても仕方ないと思うが、糾弾する事そのものを悪く言われる筋合いはない。どんな理由があれ、邪悪な手段に手を染めた時点で、周りから糾弾される事は覚悟しなければならなかったのだから。

 また、その「吐き気を催す邪悪」についても線引きは決めており、その基準に乗っかるのは、基本的には「自分の利益の為に他人を使い捨てる事に何の躊躇もない上に、大義名分にかこつけて私利私欲のみを満たしている」とか「立場や世間における善を利用し、自らの思想を正しいと思い込み、それが間違った正義の可能性もあると少しも疑わない」という「都合の良い大義名分の正義を騙った独善者」或いは「自分の行動を客観視に疑義を呈さない傲慢な人間」だけである。その為、単純に「自分の欲望に無心でひた走ってしまう人間」とか「魔が差して悪事に手を染めてしまう人間」とかにはそこまで嫌悪意識は抱かないし、その時は「人間なら誰しも陥る可能性がある事」と思い、決して他人事では済まないと自戒を込めている。嫌いなのはあくまで「自分の行動を全く省みようとしない卑怯で独善的な人間」であって、欲望に忠実な部分や魔が差してしまう人間の特性自体は寧ろ「愛すべき存在」とすら思っている。

 こういうスタンスを持つ私だが、こうすると「じゃああなたはどうなんだ」と思われるのが世の常というもの。結論から言えば、私は「吐き気を催す邪悪では無いと思うが、だからといってそこまで優しい人間でもない」と考えており、基本的には卑怯な事を嫌い、ましてや世間の規範を都合よく解釈した上で自分の中に落とし込み、それをさも「世の中の正義」と言わんばかりの振る舞いをして私利私欲を満たすなんて事をする気なんてさらさらない。だが、嫌なものは嫌だとハッキリ思うし、周りからは「あらゆる立場や視点に立った物事の考え方ができる」なんて言われる事もあるが、それが出来るからと言った所で「分け隔てない愛情を持つには至れない」し、なにより私とて「欲望に忠実で、魔が差せばあっけなく流されてしまう人間らしい人間」な訳で、そんな立派な真人間ではない。

 ただ、結局の所「どうしようもない欠点も抱え込んで生きるしかないのが人間」とも思っており、それで「所詮ダメな部分は直んないからそのままでも良いんだ!」と胡坐をかくのは違うが、気にし過ぎる事もないだろうとは思えてきている。尤も油断しているとあっという間に「本当にどうしようもない人間」にまであっさり転落すると思うが、こうやって「一例を持ち出した際に必ずといって良い程反例も添える」というの、いかにも私らしい考え方だと思う。こうするのは「都合の良い解釈だけをして自堕落な人間にならない為」である。

 

 普段から凄まじい激情を抱え込んでマンガを読んでいる訳だが、そんな私も今月のごちうさには参ってしまった。元々ごちうさは激情を向けたくなる様な作品では無いのだが、今回は輪をかけて「シュール度」が増しており、特に前半のめちゃくちゃなボケ展開の上塗りから放たれる訳の分からなさには「前半部分を深く考えるのはもう止めにしよう」と思った程。ただ、舞台回しが訳の分からないものだったとは言っても、1つ1つの行動そのものは「舞台を盛り上げる為の要素」であり、しかもその要素の全てが「今までの物語を積み上げた先にあるもの」なので、登場してきた要素に対しては「今までの努力があったからこそこの舞台上で遺憾なく発揮出来た。これこそ成長の証」と捉えている。

 また、ごちうさにおけるシュール展開は作品初期から存続している貴重な部分の1つなので、ある意味では原点回帰かもしれない。本当、完全版1巻を読んだ時、とりわけ単行本1巻範囲が「改めて読むとシュールなボケとツッコミが多いのなんの」となった記憶があり、2巻範囲以降は今日良く知られるごちうさのテイストとほぼ同じな為、それをして「今となっては1巻範囲だけ良くも悪くも作品全体からは浮き過ぎている」とも捉えている。実際、1巻で描かれた要素や設定が、2巻以降実質的に影も形も無くなっているのはチラホラあり、その中で「シュール展開」が初期から一貫して存続していると思うのだが、ごちうさに対してこういった見解を持っているのは、ややもすれば珍しいのかもしれない。

 

※注意※

最新話及び単行本13巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。

1.はじめに

 2026年当初からある意味ではブッ飛んだ展開を引っ提げてきたごちうさ。しかもそれを作中でも重要な展開として誉れ高い「クリスマス」の時に入れ込んでくるのだから恐れ入る。尤もクリスマスらしく「特別な瞬間」もちゃんと描かれており、特に「ココチノ」が魅せるある展開は必見。

 今回の扉絵はファンタジーというか何と言うか、楽しいおもちゃの世界を思い浮かべる様な世界観に心愛ちゃんが駐在しているというもので、素直に受け取るなら「楽しげで何より」となる。なのに私の場合、ひねくれているのか何なのか分からないが「これが嬉々としながら無感情という世界線だったら何よりも不気味だった」とか考えてしまう自分がいて、自分が少し嫌になる。完全に「その手の不気味な世界線の影響を受け過ぎ」だと思う。

 シュールでありこれまでの軌跡の積み重ねであり、今回の物語は一風変わったテイストを備えていると思うが、行き着く先はごちうさらしい温かみに溢れた瞬間」になっているので、めちゃくちゃな様でいて実は計算高い構成となっている。正直ごちうさは読んでいて爆発的に面白いとなる事は殆ど無いし、熱意自体も全盛期とは比べものにならない程微々たるものとなってしまった。掲載誌たるきらま全体としても、他の若い作品の方が爆発力もあって面白いのは沢山あると、私自身毎月20作品前後ずっと読み続けているからこそ思う時もある。しかしながら、それでも「これまで積み上げてきた軌跡があるからこそ出来る展開」「決める所はしっかり決める安心感と信頼性」があるので、単純な面白さ以外の部分で付き合い続けている。

 

2.購読した感想・考察

 前述の通り、今となっては作品に対する熱意も一昔前からは程遠いものとなり、面白いかどうかについても正直「他の若いマンガの方が面白い」と思う事は増えた。ブログ記事を書くのだって全く楽じゃない。ただ、それでもごちうさを読み続けて、ブログ記事も書き続けるのは、ひとえに「自分の運命を変えた作品への義理を通す為」であり、それがあり続ける限り、他のどんな要素が潰えたとしても大丈夫。そう言い切れるだけの矜持は持っている。

 

際限なきシュール劇場

 ごちうさは元々オーソドックスなボケとツッコミで笑いを展開するマンガではなく、斜め上のボケに対してどこかズレたツッコミをしたり、抑々展開されるボケの内容が荒唐無稽だったりと、所謂「シュール」な笑いを軸としたマンガだと認識しており、特に初期の頃はその傾向が顕著だった。だが、物語が進むにつれて唖然としてしまう程のシュールさは鳴りを潜め、代わりに今のごちうさには欠かせない「継承による美しさ」「成長の軌跡」が隆盛していったのはファンならお馴染みだろう。

 だが、今回のお話は作品初期を思わせる程にシュールな展開が盛り沢山で、例としては「場の空気を変える為に始めた事が、更なる混沌を呼び起こす」とか「ツッコミ役も場の混沌に付与する事しかやらなくなる」等がある。その為、正直に書くと「それぞれの展開の繋がりは全くもって荒唐無稽。理解しようとするだけ無駄な労力を割く事になる」と考えており、場の流れに任せ切ってしまった方が楽。元々シュールな作風は嫌いじゃないし、寧ろ好きな部類なのだが、ごちうさのシュール劇場ぶりには今回の様に困惑する事も多い。

 お世辞も万人受けはしないシュール劇場だが、ごちうさ「めちゃくちゃなボケとツッコミの掛け合わせをしつつ、物語全体としては違和感なく成立させる」という、何気に高度な事を平然とやってのけるマンガでもあり、実際に今回もシュール劇場でいて物語全体としては「作中で大切にされているテーマを余す事無く扱い切っている」ので、後半では普通に「今回も良いお話だった」とさせる構成がニクイ。前述の通り、笑いという観点では他のマンガに一歩譲るとは思うが、要素のめちゃくちゃなぶつけあいを綺麗にまとめ上げる力は未だ他の追随を許さない。とんでもない作品。

 本当はもっと書き出そうかと思ったが、思考を張り巡らせた末に「周りの理解を取り付けられる内容はこれ位しか書けない」となり、ここでストップする事に。シュールとは何かと考え続けた末に、ゲシュタルト崩壊でも引き起こした様な荒唐無稽且つ無意味な文章を製造した所で何の価値もないので。

 

思い通りにならない非情さ

 俗に「世の中は思い通りにならないもの」とはよく言われるが、ごちうさも今回に限ってはその「思い通りにならない現実」を反映した展開がある。ただ、ごちうさは良くも悪くも「辛い事や厳しい現実もポジティブに捉え、悲壮感漂わせる事なく処理させる」というのが多かったし、ご都合主義といえばそれまでだが、何らかのアクシデントも結果として「イベント当日には影響を与えない形で丸く収まる」となる事が殆どで、少なくとも「アクシデントが後のイベントにも直接的な悪影響を与える」というのは無かったと思う。

 だが、今回のごちうさは違った。というのも「智乃ちゃんの喉が治り切らずにコンサートが中止になってしまった」とあったからで、これこそ「アクシデントが大事なイベントにもろ悪影響を与える」という世の非情さを物語る展開にして、今までのごちうさとは一線を画す展開そのものだった。......否、もしかすればこれまでも似た様な事はあったかもしれないが、今回の様に「行事の根幹をひっくり返しかねない程のアクシデントを引き摺る」なんて事は本当に見た事が無かったし、ここまで何度も「アクシデントがどうのこうの」と反復させているのも、ひとえに「それだけ衝撃的な出来事だったから」に他ならない。

 ここでハッキリさせておくが、私としてはごちうさ「ネガティブな事もポジティブに捉えて乗り越えていく考え方」肯定的だが、他方で「そうやってなんでも都合の良い形で捉えれば嫌な事も乗り越えられる」と解釈する事に関しては否定的で、故にしょうがない部分もあるとは言え、作中において「厳しい現実と真正面から向き合う事になる前フリが少ない」のは気になる部分でもあった。言ってしまえば、私は「不都合な現実に真っ向から立ち向かうだけの意志の強さを涵養する機会も必要。世の中は『解釈次第でどうとでもなる』と思いながら成長してほしくない」と常々考えてしまう人間なので、今回の様に「思い通りにならない現実」が描かれた事に対しては、驚きもあった一方で正直に明かせば「時には厳しい現実と正面から向き合うのも必要」とも考えていた。

 だから今回の「智乃ちゃんの喉が不調故に歌が中止になってしまった」という展開に対してはごちうさでこういった展開をやるとは......」と思う自分と「遂にごちうさでもこういった展開をやってくれた。これは必要な事だったからむしろ遅い位」と思う自分の2通りがあった。これについては作風を思うならば前者の考え方が良いと思うが、真に作品を愛し、向き合っていくとするなら後者の考え方が巡り巡って良いと思うので、難しい問題だが、どっちか一方だけを採れと言われれば私は後者を採る。結局の所、更なる成長を望むならば「不都合な現実にも逃げずに立ち向かい、自分の意思を涵養していく試練をこなす必要」がある訳で、それを思うならば時に甘さは捨てなければならない。

 「智乃ちゃんの喉の調子が悪くて歌が中止になってしまった」という「事実」からよくここまで拡張したと思うが、ここで書き出した事は「私自身が普段から考えている事であり大切にしている矜持の1つ」なので、私としては至って普通の事。このブログ記事は「自分の想いを展望する事に意義がある」と考えているので、これもその一環。

 

魔法との向き合い方

 作中において度々言及されるキーワードとして「魔法使い」若しくは「魔法」がある。ファンタジー世界においては「剣と魔法」の「魔法」として「不思議な術の総称」となるだろうが、ごちうさにおける魔法を私は「人をどんな状況からでも前向きな気持ちにさせたり、楽しませたりする言動そのもの」と考えており、以降今回のブログ記事における魔法の定義とする。

 その魔法だが、作中においては過去現在どの時間軸においても幾度となく重要な概念として機能し続けている。今回の場合、智乃ちゃんの歌を代わりに心愛ちゃんが手品ショーを披露するものの、上手くいかずに意気消沈していた時、智乃ちゃんが心愛ちゃんをフォローする形で手品を華々しく披露して、場の空気を明るく楽しいものに変えたという形で「魔法」が生まれており、これはその夜心愛ちゃんに対して智乃ちゃんが「自分の手品を見た時に、心愛さんは魔法を見た様な顔をしていた」という言説から説明が付く。尤も智乃ちゃん本人が「魔法とは何か」について話そうとした際に、心愛ちゃんが別の話題を持ち出した為に真意は聞けずじまいに終わっているが、恐らくは「人をどんな状況からでも喜ばせたり、楽しませたりするもの」魔法の一要素として考えているとは言えるだろう。

 ただ、魔法に対する考え方として私には心愛ちゃんの言説で気になる点があり、それは「智乃ちゃんが手品の種を知ってしまった事で、魔法が解けた事となるのではないか」と考えていた点。正直私としては「それでなぜ魔法が解けたと考えるのか。それが全く分からない」となってしまい、強いて言えば魔法を「原理が分からない不思議な事象」とするなら、手品の種を知る事で魔法の原理を知ってしまったが為に魔法の成立条件を満たさなくなり、結果的に「魔法が解けた」と解釈したのかと考えたが、それでも「魔法の原理を知る事が、直ちにかけられた魔法が解けてしまう事にはならない」のも事実なので、結局の所私は心愛ちゃんの言説がそうとは思えない。

 また、他方で心愛ちゃんが「魔法が解ける事を誰よりも気にしている」のも気になる所。心愛ちゃんとしては「魔法を一瞬でも絶やしてしまうと智乃ちゃんが不安になってしまう」と思っているのか、心愛ちゃんの言動と態度から「魔法が消える事を何より恐れている」と見て取れる場面がある。ただ、私としては、万が一心愛ちゃんが智乃ちゃんに対してかけた魔法が解けてしまう事があったとしても、今の智乃ちゃんならそこまで深刻な事にはならないだろうし、魔法そのものに対して執着心を見せる事も無いと考えているので、この事実をして「心愛ちゃんが魔法に対して妙な執着を持つ」のが引っかかってしまう。

 心愛ちゃんが魔法に対して妙な執着を持つのは、恐らく「心愛ちゃんが魔法使いとしての先導者だから」で、心愛ちゃん自身が周りの大切な人達に魔法をかけていくという重要な役回りを担っている以上、その責務を全うしなければならないと考えている事から、大元の自分が魔法に関してボロを出す訳にはいかない。故に魔法が一瞬でもとけてしまったのではないかと考えた際に、客観的に必要とされるもの以上の感情を表に出してしまった。そして、その瞬間が今回のお話で描かれた2人のやり取りにあった。私はこう考えている。

 ここまで心愛ちゃんの言説とは真っ向から対立する考えを展望しているが、私は別に「各々の考えに最大限寄り添う為に作品を考察している訳じゃない」し、あくまで「自分はこう考える」というのをしっかりと展望する事を目的としてやっているので、納得できない事に対してはそれ相応の言質を取りつつ、筋を通した考え方で反論じみた事だって書く。今回の「魔法に対する考え方」だって、私は心愛ちゃんが考えているであろう事とは全く違う事を考えたから結果的に対立構図になっただけで、自分の意見を提唱する為にはやむを得ない措置でもあった。故に私としても心愛ちゃんの考え方を真っ向から否定したいのではなく「彼女が考えている事も尊重するが、それでも私はそう思わない」と言いたいだけ。ここは誤解しないで欲しい。

 

3.あとがき

 事実上の2026年一発目から早々飛ばしにかかった記事となったが、別に狙ってやった訳ではない。結果的にこうなっただけで、冒頭を中心に忌憚ない意見を叩き付ける気は書き始めた当初はそこまで無かった。尤も早い段階から「心愛ちゃんが覗かせる『魔法に対する考え方』の異」「世の中都合の悪い事から目を逸らす事はあってはならない」と書くつもりだったので、どう足掻いてもただの感想・考察記事に留まる筈は無かっただろう。

 今年早々私の身の回りでは目まぐるしい出来事の数々で、それ故このブログ記事も執筆期間が相当に伸びてしまったが、起こった出来事の全てが「このブログ記事よりも優先しなければならない事だった」ので、記事を書く事は完全にプライベートの範疇である以上、伸びてしまった事は割り切るべきことと考えている。ただ、間延びした事で「先行して書いた部分」と「後から書き足した部分」でスタンスが変化した為、書く内容に若干の齟齬が生じている可能性もあるが、2025年最後の記事でも書いた様に「書き出した時の感情を重視するが故、推敲を除いて内容は極力そのままにする」と決めているので、ご了承願いたい。

 最近では以前にも増してキャラクターの傍若無人な振る舞いや独善的な言動に「ふざけるな!」だの「人の気持ちを踏み躙るのも大概にしろ!」だの、作品に対して本気で向き合おうとするがあまり、思わず「怒りの激情」を向けてしまう機会も多いが、今回のごちうさに限って言えば、そんな事は終始無かった。これは別に「ごちうさと本気で向き合っていない」のではなく「その様な激情を向けたくなる程の身勝手な振る舞いが見受けられなかったから」で、抑々論として「そんな激情は向けない方が良いに決まっている」ので、これで良い。

 良くも悪くもマイペースで、自分の意見を展望する為なら忌憚ない意見も平然と書き出す為に、ややもすれば「普段からこういう歯に衣着せぬ物言いをする奴」とか思われそうだが、普段は寧ろ「気を遣い過ぎて発言自体が少ない方」なので、外見と中身に酷い乖離が生じている。どっちに振り切りたいかと言われれば「多少の衝突は覚悟で自分の意見をはっきりと表明する方」で、それでしなくても良い苦労をする事も多いが、極端な事を言えば「何も言い出せずに傷付くより、めちゃくちゃに言いまくって傷付く方が遥かにマシ」なので、今後も忌憚ない意見を叩き付ける姿勢を崩す気は一切ない。ただ、気遣いも決して忘れたくはない。傍若無人な事を言いっ放しにしたい訳でもないから。

 

おまけ

2026年最初の記事文量は400字詰め原稿用紙のべ21枚分、執筆期間は「1月24日開始の2月7日完成」「15日間(14日後)」だった。途中1週間程度執筆を完全に中断する程の事があったとは言え、ここまで期間を要したのは2025年のきらま10月号以来。

きらま2026年2月号のごちうさの感想・考察「恩返しと人生観」

 2025年も暮れ。今年も1月から12月まで毎月欠かさずごちうさの感想・考察ブログを書きしたためる事ができた。やはり「激動の9月」を乗り越えたのが大きく、前後して「マンガの感想を書く時は、自分の感情を忌憚なく素直に綴ろう」と決意したのも功を奏した。

 但し、この決断をしてからというもの、以前にも増して「人間とは云々」という感触を抱く機会が急増。とりわけコミック百合姫では読む作品(16作品~19作品程度)のほぼ全て「『人間がどうこう』という観点から完全に切り離した感想を書く方が難しい」という状態にまでなり、しかも人間がどうこうという見方が「人間とはいかなる時でも自分の欲望が切り離せないダメな存在」だの「己の利益の為なら他人を欺く事など全く意に介しない利己的な存在」だの、総じて「人間の悪い部分」を強く滲ませた内容が多い有様。トドメにそんな思想を持つ傍ら「どうしようもない人間こそ愛おしく、故に人間のダメな部分さえ愛したくなる」と私自身考えている始末。完全に矛盾している。

 こう書くと「本当にどうしようもない人間なのは君の方だ」と思われそうだが、実際その通りだと思う。人間を愛したいのか貶したいのか良く分からない。人間の善性も悪性も現実世界や創作を通じて知り過ぎたが故に、溺愛する気持ちも蔑視する気持ちも強く持ち過ぎて、自分自身が「本当は人間好きなのか人間嫌いなのか」すらハッキリしない。分からなさ過ぎて、これを書いている今も含めて「こういった事を考え出すと、ドツボにハマって自分がどういう人間かさえ分からなくなる程」だが、こうやって「二元論に割り切れない複雑な感情と思想さえ抱え込んで生きるしかない姿」が、ある意味では「人間という生き物の体現」すら思う。答えなんか正直分からないが、分からないままに未知なる世界を切り拓いていくのが人生であり、人間の宿命。

 恐らく「何を書いているんだお前は」という話だろうが、結局の所私が言いたいのは自分がそれだけマンガやアニメといった創作物と深く向き合う際には、それが良い方向か悪い方向かはお構いなしに、決まって「人間とは......」を意識せずにはいられない人間だという事。じゃあ初めからそれだけを書いとけば済む話やんかと言われるかもだが、私という人間は「ここに至るまでにはどの様な事があったのか」という「過程」を話したり書き出したりする事をしたくてたまらない人間なので、時間や場を割いてでも過程を説明してしまう事が多い訳で。尤もそれ故「結論を引き延ばしがちな節がある」のも理解しているので、気を付けてはいるが、ついついやってしまう事も多い。ダメな人間よ。

 

 ここ最近癖のある所感ばかり書いているが、今年最後のごちうさを読んだ際に抱いた感触も例外ではなく、傍から見ればちゃんちゃらおかしい何かを抱えたものとなってしまった。というのも先月末に見せた不穏な展開から、今月ではごちうさが持つ「優しさ」が溢れた物語だった事をして「やっぱりごちうさはこうでなくっちゃ。ごちうさで不穏な雰囲気に堕ちるのは嫌だ」と思った反面、ある場面では「人間は何故に『今自分が持っていないもの』ばかり求める。そんな事をしても手に入る筈もないのは考えた本人も解っているのに、何故それをやってしまうんだ......」と、巡り巡って自分にも突き刺さる所感を思ったからで、正直「私はなぜにこんな奴なんだよ!」と自分の中でなってもいる。これらの詳細は後の小題に叩き付ける訳だが、書く前の時点で既に「私ってやっぱりめちゃくちゃな一面ある奴だよな......」となってしまっているのが悲しい。

 

※注意※

最新話及び単行本13巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。癖の強い所感も多いのでご注意下さい。

 

1.はじめに

 ここの題目は書くのに苦戦する時とそうでない時の差が激しいが、今回は書く取っ掛かりが掴めないつまり相当に苦戦する月だった。別に書きたい事を好きな様に書けばいいだけの話なのだが、それが出来ないから苦労するのであって。そんな無駄話を展望しても意味は無いが。

 今回の扉絵はラビットハウスの制服を纏ったブラバ組3人が参上というもので、色合いはそれぞれ冬優ちゃんが智乃ちゃん、映月ちゃんが心愛ちゃん、夏明ちゃんが理世ちゃんとなっており、何れも「この2グループを掛け合わせた際に、それぞれが最も縁深い者同士となる制服の色」となっている。私はいつも通り「事実を粛々と受け容れる」といった感じだが、これは別に冷たいとかそういう訳じゃなく、描かれたものを真っ直ぐ受け止めるのに最適だからである。

 先月末の展開が不穏な形だっただけに、今月初頭はかなり強烈な導入をしており、ややもすれば「ごちうさも恐ろしいまでの闇を帯びた展開になるのか......」となる可能性もあった訳だが、そこはごちうさなので作品が持つ「優しさ」と「恩返し」に満ちており、不穏な雰囲気とは無縁だった。それをして「やっぱりごちうさはこれが良い。不穏な雰囲気を観るのはしんどいし、ごちうさではこれが一番良いんだ」と思った。それは良いのだが、あろうことか私は別の場面で自ら不穏を呼び込む様な発想をしており、結局の所不穏を引き込んでしまっている。

 

2.購読した感想・考察

 今回は不穏な導入に反して「温かみある物語」だった為、私が抱く所感も前向き或いは温かみのあるものばかりになるかと思いきや、捻くれた感性の持ち主の私はそうならなかった。何に引っ掛かりを覚えたかと言えば「智乃ちゃんがティッピーを抱きながら自身のおじいちゃんに想いを馳せる場面」で、詳しくは後に書くが、それをして私は「リアリスト」な考えを捨て切れないと痛感した。

 

優しさの恩返し

 先月末で喉の不調が発生した智乃ちゃん。原因は「風邪」だが軽症なので大事には至らなかったのは不幸中の幸い。但し、クリスマスにラビットハウスでコンサートを画策している状況下故に、よりによって喉の不調を伴う風邪をひいてしまった事はハッキリ言って致命的であり、智乃ちゃんも「コンサート前に喉を痛めた事を引け目に思う場面」は多かった。尤も作中描写を見る限り「コンサートまでまだ日数はある」ので、これが例えば「前日」とかだったら救いようがなかったが、日数があるタイミングなだけまだ救いはあったと思う。

 そんな訳で風邪の療養のために、智乃ちゃんが抜けた穴を皆で埋めていく事になるのだが、これは最早ごちうさでは「定跡」とも言える展開で、過去にも何らかの事情で誰かが職場を抜けざるを得なくなった際、職場の壁を超えて他の人がその穴埋めに赴くなんて展開は山程あった。故に展開そのものは「お約束」だが、今回はそのお約束に「ブラバ組がラビットハウスの制服を着てヘルプに加わる」という新規要素が登場。これには智乃ちゃんも「熱に浮かされて幻覚を見た」と思い込む程信じ難い光景だった様だが、これは「紛れもない現実」であり、あの3人がラビットハウスの手助けがしたいと望んでやった事である。

 また、ブラバ組3人がラビットハウスの手助けが出来たのには、かの「狩手結良」の働きかけも大きく、結良ちゃんがブライトバニーで働く3人分を1人で穴埋めする役を買って出ている。普通に考えて、3人分の穴埋めを1人でこなす事は相当な負担がかかる事が予想されるし、人一人が出来る仕事のキャパシティ的に無理があるかと思われるが、もしかすれば結良ちゃんがブラバでは物凄く仕事の出来る人かもしれないし、それでなくても「自分も何かしらの形で貢献したい」と思ったからなのかもしれない。何れにしても、結良ちゃんという人は誰かから真っ直ぐな気持ちを向けられるのが苦手なので、自分が出来る優しさの見せ方として「下支え」が向いていると判断したから、今回この様な行動に出たとは思われる。こう見るとなんだか「粋な人」に見えるのが少し憎くてズルい。実情は単に「他人から純真たる好意を向けられるのが苦手だからクールな立ち回りを演じているだけ」なのに。

 結良ちゃんが見せる粋なカッコ良さには嫉妬を覚えるが、智乃ちゃんの為に奔走する仲間達の努力と奮闘は、正しくごちうさという作品が大切にしている「優しさとその恩返しの体現」である。単行本10巻以降、高校卒業以降の進路をめぐって不穏な雰囲気が巻き起こったり、夢を叶える為に苦楽を共にし続けてきた仲間達と一時の別れをしなければならない現実があったりと、優しさだけではどうにもならない現実の厳しさを物語る局面も多くなってきた*1が、それでもこういう時には「優しさ」と「恩返し」をもって作品の不穏な雰囲気を温かに包み込むというのは良いと思う。やっぱり「過酷な展開を追っていくのは相当にしんどい」から。これが進路とか夢とか「何れは絶対に向き合うべき事」だったら、優しさで温かに包み込むのはちょっと違うんじゃないかとなるが、一時の躓きを温かに包み込むのは良い。それが優しさの真髄だから。

 

回り道の人生

 主軸からは少々ズレるかもだが、今回のお話にて大人組の1人たる青山さんが「人生思い通りにならない事はよくある」「回り道が大切な時もある」という発言を目にした時、私は「全くもってその通り」と思う他なかった。私も一応大人なので、この様な発言をした際の説得力も以前よりかは幾分増しているとは思うが、それでも青山さんの方が大人としての歴は長いと思われるので、こういう人から「人生」に関する言及をしてくれるのは有難い。尤も青山さんは「大人らしからぬだらしない所」もいっぱいある人だが、そんなのは私とて同じだし、抑々として大人だからと言って完璧でもなんでもなく、何なら「人間幾つになってもダメな部分も抱え込んで生きるしかない存在」とすら私は思っているので、完璧人間かダメ人間かどうかなんて事は気にしていない。ハッキリ言って完璧と思い込んでいる奴にも綻びはあるから。完璧に見えるのは「綻びを見えない様にしている」或いは「綻び見て見ぬふりをしている」だけだから。そうやって「自分の欠点にすらちゃんと向き合えない弱い奴」を完璧とは言わない。

 何かとクドクド書きがちだが、青山さんの言う様に人生とは「思い通りにならない事の連続」であり、例えば「クリスマスコンサートの前に風邪をひいてしまう事」だって、正に「人生思い通りいかない事の典型例」だし、他にも神沙姉妹2人がブライトバニーのバイト面接に受からなかったのも、本人らに直接的な非こそないとは言え、やはり「人生の厳しさ」を物語る局面だし、大局を見据えるなら「ずっと傍にいられると思っていた人が、夢の為に自分から離れる決断をした」なんていうのも、ある意味では「人生とは思い通りにならない事ばかりの一例」と見て取れる。

 また「人生には回り道が必要な時もある」というのは、人生というのは自分自身が掲げる目標までの最短距離を如何に効率よく踏破していくかだけでなく、時には立ち止まってみたり、一見自分が目指す道とは全然関係ない事にも挑戦してみたりと、正に「時には遠回りしてみる事も重要」という事。実際、遠回りをした事で自分自身が掲げる夢に結果的には近付けたり、遠回りをしたお陰で自分がやろうとしている事の本質に気付けたりと、ただ一直線に突き進んでいくだけでは得られない「経験値」を得られる事はままある事であり、その経験値が後に自分の人生における大きな糧となるケースも少なくない。その意味で、青山さんの発言には凄まじい言質を含んでいると言えよう。

 そんな青山さんだが、今回は何故かフルールで仕事をしており、その理由は「ツケが溜まりに溜まったから」というもの。元々青山さんはフルールにおいて「連日ハーブティー1杯で何時間も居座り続けて出禁」を喰らう程曰くつきの客だった訳だが、この度遂にフルールで働かされるとは、正に「年貢の納め時」である。......まぁ、こんなだらしない一面もある青山さんだが、小説家としての腕は確かだし、大人としての人生経験も相応に持っている人なので、そこはご愛嬌。

 

届かぬ想いとの向き合い方

※注意※

この題目では「死生観」にまつわる事を取り扱っているのでご注意下さい!後から「なんてものを読ませるんだ!」と言われても嫌なので、ここでハッキリ明示しておきます。書かれている内容の取り扱い方はあくまで自己責任でお願いします。

 

 

 一場面として「風邪をひいてしまった智乃ちゃんがティッピーを抱きしめる」というシーンがある。事象だけ聞くと何の変哲もない事の様に思えるが、その行動にはティッピーに乗り移っていた「智乃ちゃんのおじいちゃん」を思い浮かべ、それを必死にかき消す様にしているという智乃ちゃんの思念が含まれており、何気ない行動には「並々ならぬ想い」があるという訳である。

 これを見た私が思った事こそ、この温かみある局面において尚「人間とは云々......」という感性が捨て切れなかったが故に抱いた「人間は何故に『今自分が持っていないもの』ばかり求めてしまうのか......。そんな事をしても手に入る事はないのは、本人が一番解っている筈なのに......」だった。我ながら「なんて考えを張り巡らせているんだ!」と、一種の自責の念にも駆られたし、どんな場面においても「リアリスト」としての考えが捨て切れない自分が少し嫌にもなった。

 だが、事実として「智乃ちゃんのおじいちゃんはもう彼女の傍にはいない」のであり、どれ程願った所で、嘗ての様にティッピーを借りて舞い戻るなんて事も起こり得ない。故に私としては「もしティッピーの中におじいちゃんがいたら......」なんて想像は、ハッキリ言ってしない方が良いと思っている。想像すればする程「それが絶対に叶わない願望」だと思い知る事となり、結果的に余計心の傷が深くなってしまうし、悲しみを乗り越えようにも乗り越えられなくなってしまうから。

 正直「去ってしまった者達そのものの事や遺志」については、私自身どの様に向き合うのが適切かは分からない。人の数だけの答えがあるだろうし、向き合い方としては間違っていなくとも、それを周りに展望するにはあまりにも不適切な考え方だって恐らくはあると思う。

 私としては「去ってしまった人の事を思い出すだけで辛くなるなら、無理に考えない方が良い」と考えているし、それに対して「どうしていたって思い出すんだから仕方ないじゃない!」と言われたら「喪った悲しみばかりに目を向けず、大切な思い出を忘れずに受け継いでいくと言った形で、少しずつ前向きな考え方にしていけばいい」なんて事を言うと思うが、これが正しいかなんて分からない。あくまで「大切な人がいなくなってしまう」という、生きていく上で避けては通れない試練に対して「自分ならこうやって踏ん切りをつける」というだけの話。

 私自身の死生観さえ覗かせる事を書いたが、私は昔から「人生の終末とは何か」について度々考える事があり、最近ではマンガ作品で描かれる「死生観」や「死の描写」に対して強い想いを馳せたり、影響を受けたりする事も多い。その過程の中で、その様な描写があった際には、どんな時でも自分なりに真面目な考えを持とうと思う様になり、今回智乃ちゃんがおじいちゃんの事を思い浮かべて、それを振り払う様にしてティッピーを抱きしめた場面も、その時こそ「死生観」を絡めた想いは生まれなかったが、ブログ記事を書いていくにあたって「死生観」に対する見解が生まれ始め、その結果が上記となった。......やっぱり客観的に見れば「どうかしている」と思われかねない部分もあるだろうが、自分としては「考え抜いた結果がこう」なので、結局は自分の判断を貫くしかないと思う。

 色々と書き連ねたが、この一連の流れから言える事は、智乃ちゃんとしても弱った時におじいちゃんの事を思い浮かべて必死に振り払う程には、彼女としても「おじいちゃんがいなくても前に進まなければならない」という強い気持ち「ふとした時におじいちゃんに頼りたい自分がいる」という弱い気持ちがせめぎ合っている事実。しかしながら、智乃ちゃんには「窮地の時に必ず助けてくれる心強い仲間達」がいる訳であり、故におじいちゃんがいなくても、前に進んでいくだけの気概は涵養できる。ともすれば、智乃ちゃんはきっと「おじいちゃんが完全にいなくなってしまった事実」さえ一心に受け止めて、より強い自分へと成長していくだろうと思う。

 

3.あとがき

 今年最後のブログ記事も無事に書き終える事ができた訳だが、実の所「書こうと思い立った事」「実際に書き出していく中で創り上げた内容」には大きな違いが生じた。ただ、最初に思い立った内容は「視野狭窄に陥った人間がとる行動が云々」とか「無いものばかり欲しがる人間がどうなるのか」とか、そういう「えげつない内容」ばかりだったので、書いていく最中に「あっ、こっちの方が良いかも!」と軌道修正を図ったのは正解だった。

 2025年もブログ記事を書いていくスタンスを徐々に変化させていった年となったが、大きくは「無理に文量を増やさず、自分の書きたい事を書ければそれで良い」とすることと「自分の気持ちを偽らず、忌憚ない意見をストレートに書き出す」とすることの2つが、スタンスの変化としてあった。前者はブログばかりにタスクを割けない現状にあった良い変化だが、後者は素直になった事で切り込んだ意見を書く事に躊躇が無くなり、自分の気持ちに即した内容が以前にも増して書ける様になった反面、踏み込み過ぎて時に「客観的には大丈夫なのか!?」となる事も。尤もどちらも「自分がやるべき事」と思ってやっているので、結局は自分の信念に基づいて行動するだけ。

 また、書き終えた際に文章の間違いがないか一通り推敲はしているが、書く内容をいじる事は基本的にしないので、題目によって書くテンションが違っているかもだが、私としては「書き出した時の感情を大切にしたい」と考えているので、余程おかしくない限りいじるつもりはない。故に少し奇妙に映るかもだが、その時々の感性を重視するが故という事で。

 昨今では多くのきららマンガと百合姫マンガを読んでおり、好むマンガのジャンルも「百合」が主体になった為、昨年にも増してごちうさに対する熱意は落ち着いたものになった。だが、このブログ記事においてはごちうさに対する熱意と好意」を込めているので、これだけは2026年においても絶やしたくない。

 

 

おまけ

2025年最後の記事文量は400字詰め原稿用紙のべ20枚分、執筆期間は「12月26日開始の27日完成」「2日間(1日後)」だった。なんとしてでも年内には完成したかったので、今回は手短に済ませている。ただ、その熱意は2025年最後まで絶やさずに来たつもりなので、2026年も宜しく。

*1:正直な所、私はこうなった事をマイナスとは思っていない。何故なら優しさをもって現実に存在する試練や向き合うべき事を誤魔化すと、真に人が成長する機会が無くなってしまうからである。