多趣味で生きる者の雑記帳

現在は主にごちうさに対する想いについて書いています。

きらま2024年3月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察

 2024年になっても百合作品が好きな私。最近でも中々に強烈な百合SM描写を持ち、色んな意味で話題沸騰中の魔法少女にあこがれて」に対して、強烈なまでに心惹かれる感触を覚えた。元々この作品は、百合作品について調べていく内にアニメの存在を知った作品であり、特に「百合SM」と言う要素に期待して観たのだが、実際に観てみると想像以上に強烈且つ過激な百合SMの内容で、誇張抜きで「これは本当に良いのーー!」と、攻め色の強い特色に思わず歓喜を覚えた。実際、アニメ第1話を見た後ソッコー原作マンガを買う事を決意し、その後本当にマンガの方も購読し始めているので、2024年になって初めて新しく惹かれた百合作品は「魔法少女にあこがれて」と言う事になる。何とも強烈な話だが、これもまた「運命」だろう。

 他にも予てから気になっていた作品であり、今年の4月からは遂にアニメ放送が始まる、ガールズバンドものにして王道百合作品「ささやくように恋を唄う」(ささ恋)についても、今年になって遂に購読した。内容に関しては正に期待通りの王道百合であり、特に1巻~3巻にかけて、ひまりと依の恋路模様が丁寧に描かれ、4巻でそこから緩やかに広がっていく物語構成が採られていたのが良き所だった。

 しかしながら、5巻以降になるとテーマ性、雰囲気共にシリアス且つ重厚な方向性へと深化していき、それに付随して「運命的な人と人の出逢い」や「たった一つの出逢いが、その後の人生を良くも悪くも大きく変えてしまった」と言った要素が出始めた為、人間ドラマとしての側面により拍車がかかった一方、一義的な物の見方では決して片付ける事なんぞ出来ない非情な現実を目の当たりにする場面が多くなった印象がある。ここではこれ以上触れる事はしないが、ささ恋は少なくとも「1巻~4巻」と「5巻~8巻」では、雰囲気、テーマ性、読了後の衝撃の大きさその何れもが大きく異なり、総じて後者は油断していると、普通に思わぬ衝撃に翻弄されかねない。そこは控えめに言ってもコミック百合姫掲載作品の宿命」と言う事なのだろう。

 この様に油断ならない側面もあるが、これ程重厚な展開が描かれると言う事は、言い換えるならそれだけ濃密な人間ドラマ及びGL物語が体感できると言う事でもある。また、ささ恋は基本的に王道路線をゆくGL作品なので、どれ程過酷な展開が待ち受けていようとも、最終的には「きっとGLが花開く方向性へと進んでくれる」と言う期待もある程度持ちやすく、詳しくは言わないが、実際にそうやって良い方向性へと成就した展開もあったので、大きな物語としてシリアス一辺倒のまま終わってしまわない様に上手く創られている絶妙さがある。

 なので、少しでもささ恋が気になったと言うのなら是非読んで欲しい。5巻以降重厚なシーンが増えるとは言っても、ひまりと依の甘々な関係性が描かれている場面も多く、前述する様にシリアス一辺倒では無いし、何より1巻~4巻はGL展開としてもテンポよく進むので、ささ恋が持つ世界観に対してのめり込む様に堪能する事が出来る。重ね重ねにはなるが、百合姫が誇る圧巻のガールズバンドラブストーリーを、是非その目で体感して欲しい。......後、決して油断だけはしない様に。これだけは本当に軽視してはいけない事だし、舐めてかかって無事でいられる程百合姫は甘くないので、そこは宜しく頼む。

 

 さて、ここからはまんがタイムきららMAX2024年3月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察を書き出していく。今回は2022年のエイプリルフール企画ネタだった「ごちハピ」を下地にしたお話であり、嘗ての「ナナラビ」や「クロラビ」を思わせる回でもある。そのさなかで主軸となっているのは神沙姉妹2人であり、よくよく考えてみれば、先月に引き続いて神沙姉妹2人に焦点が当たったお話が続いている事にもなっている。だが、悲しい事にそれに気付いたのは当記事執筆中のタイミングであり、肝心の本誌を読んでいたタイミングでは全くと言っていい程気付いていなかったのだが、そんな事言っても仕方が無い。

 

※注意※

最新話及び単行本11巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。そして、今回は「幸せの捉え方」「死生観」にまつわる内容等、シビアなテーマを含む小題があるので、それらが苦手な人は十分注意して下さい。尚、その様な内容がある小題にも個別に注意書きを置いています。

1.はじめに

 今回は前半が2022年エイプリルフール企画「ごちハピ」のセルフオマージュ、後半が神沙姉妹2人にとって大きな鬼門となっていた「ブラバアルバイトへの道」と言った所であり、言ってしまえば「それまでの物語を飾る1つの山場」と言う側面が強く、故に真新しいお話かと言われればそうでもない。その為、その意味では新鮮味に欠ける感触は些か否めなかったが、物語の山場と言う事で、それまで積み上げてきた物が指し示す一つの答え的な物が見えてもいる。総合的に見れば手堅くまとめられていたと言え、強烈なまでに目を引き付ける要素こそ無いが、堅実な面白さと安定的なストーリーに支えられた、良いお話だったと言えよう。

 今回の扉絵は、ブラバ組3人と智乃ちゃんを合わせた計4人が、ごちハピを思わせる様な雰囲気の中で、まるでこちらを見つめるかの様な視線を送っていると言うもので、4人の背中にはそれぞれごちハピに登場していた「天使の羽」の様なものがあり、扉絵で描かれる世界線は、ほぼ間違いなくごちハピを指し示していると思われる。ただ、その中で冬優ちゃんだけ羽の色が暗めの青みがかった色合い*1になっているが、これは冬優ちゃんが俗に言う「堕天Tシャツ」を好んで着ている事に起因しているのだろう。正直、パッと見た際には特にどうとも思わなかったが、扉絵を自分なりに分析する為に改めてじっくりみてみると、色んな発見があるものだ。しかもその発見に対して結構嬉しく思う事も多いので、今でもこういう分析を続けるのも悪くないのかもしれない。

 今月号は物語進行の予測が立て易い構成をしていた為、良くも悪くも読んでいる最中は緊張感が殆ど無く、先の読めない展開や唐突に差し込まれる衝撃的な台詞に心押し潰される恐怖も無かったが、他方でアッと驚く様な場面も少なかったと言うのが正直な所だった。それ故、最初はここ最近のごちうさを読んだ後にありがちな例に漏れず「何を思えば良いのか良く分からない......」と言う厄介な感情がつきまとっていた。しかし、ごちうさと同じ掲載誌であるきらまにて掲載されている他のマンガや、百合姫掲載のマンガを読むにつれて、なんと今月のごちうさにおいてもなにを軸にしたら良いのか。そのヒントとなる要素が沢山舞い込んできて、このブログを本格的に書く頃には自分の中で答えが定まっていた。

 ただ、その定まった答えと言うのは、ストレートな言い方をするなら「幸せの捉え方」や「死生観」にも関わる事であり、それらにまつわる内容はかなり重厚なものになる。その様な内容を含む小題の冒頭でも改めて書いておくが、くれぐれもこの手のテーマが苦手な人は本当に注意してほしい。

2.購読した感想・考察

 

今月の内容に対する感想・考察

 まずは「今月号の中でも特に深掘りしたいと思った事」から書き出していきたい。今回は前半と後半で全く世界観が異なる事と、どちらの世界観もこれまでのごちうさを辿って行けば、自ずと緩やかに繋がっていくものなので、キャッチーではあるが、いざ細かく書き出そうとすると地味に苦労する所でもある。まぁ、これまで通り何とかするだけだが。

ごちハピを踏襲した世界

 まずは今月号前半の内容について書き出したい。前半は2022年のエイプリルフール企画だった「ごちハピ」がモデルとなったお話であり、モデル通りに神沙姉妹2人が、幸せの青い鳥を探していくと言うストーリーが主となっている。正直、ごちハピ自体は2022年のエイプリルフール企画をやった身からすれば、当然の事ながら既視感ある内容なので、別に「わぁ、こんな真新しい皆が見れるなんて......!」とは嘘でも言えないし、既視感ある内容と言う事で展開も概ね想像できるので、良くも悪くも緊張感が殆どないままに読み進めていた。

 ただ、緊張感こそ無かったとはいえ、今思えば結構懐かしいとも言える内容だったのではないかと思っている。ごちハピは2022年のエイプリルフール企画なので、ごちうさ全体の歴史からすればまだまだ新しい方だが、冷静に考えてみれば現時点でも約1年と9ヶ月も前の企画な訳であり、毎月きらまで新しいお話を読み続けている身としては、まるで遠い昔の記憶の様に感じられる側面も無くはなく、その意味での楽しみ方を見出せばよかったのではないかと、このブログを書きながら思い立った。まぁ、今更後悔しても遅いのだが......。

 また、私の理解力不足故なのか、2022年のエイプリルフール企画で見たごちハピのイメージに引っ張られ過ぎたが故なのか、神沙姉妹2人が辿った一連の流れを見た際に、2人が如何にして幸せの青い鳥の意味とは何かを理解したのか、幸せとはどの様なものだと思ったのか。その幸せを2人がどの様にして捉え、どんな幸せを胸に秘めて大空へと羽ばたいていったのか。それが解った様な解らなかった様な、正直自分でも「ちゃんと理解しているのか」と聞かれれば「チンプンカンプンでは無いが、ビジョンがハッキリ見える訳でも無い為、自分でもちゃんと理解できているか良く分からない」とならざるを得ない。因みに今でも良く分かっておらず、こういう事情も私がごちうさに対する熱意を削がれている理由の1つにはなってしまっている。ただの言い訳とも言うが。

 こんな感じで前半部分の理解や分析に関しては、正直地に足が着き切っていない感触が目立つと言うガタガタぶりだが、神沙姉妹2人が幸せの形をハッキリ見つけた事、神沙姉妹2人も何時しか幸せを届ける青い鳥と呼べる存在になっていた事等が、2人にとってどれだけ大きな意味を持つ事であり、それはきっと木組みの街の住人達との出逢いによって掴んだ、正に「運命的な奇跡」である事はきちんと認識している。

 それまで2人だけの世界に閉じこもらざるを得なかった神沙姉妹2人にとって、やっぱり木組みの街の住人達との出逢いは相当大きかっただろうし、同じブラバ組の冬優ちゃんとの出逢いもあって、「自分達でも幸せは掴めるし、幸せを与えられる人にもなれる」と解った事。それが、2022年のエイプリルフール企画もとい、今回のごちうさの前半部分の主軸だった「ごちハピ」の真骨頂の1つでは無いのかと思う。

ブラバ面接からの......!

 ここからは今月号後半の内容について書き出したい。後半は神沙姉妹2人が、予てからの鬼門にして念願とも言える「ブラバのアルバイト面接」へと挑戦していく構成が採られており、嘗てブラバのアルバイト面接を受けた際、採用枠が1人分しかなかったが為に、双子ちゃんどちらか一方だけを採用するのは忍びないと言うオーナーさんの裁量により、仕方ない理由とは言え2人共に一度上手くいかなかった経験がある2人にとってはリベンジでもある。

 大きな流れとしては、ブラバの面接前にして緊張している神沙姉妹2人を、周りの人達がそれぞれの方法で支えて送り出してあげると言うもので、言ってしまえばごちうさの常套句」とも言うべき構成で、別の言い方をするなら「ベタ中のベタ展開」ともなる。その為、当然の事ながら先の読めないサスペンスとは無縁の展開であり、何かとサスペンスを欲してしまう私としてはちょっと物足りない感もあったが、こういうベタな展開があるからこそ、ごちうさにおいては「友達を皆で一緒に支え合っている事」「誰かの悩みに寄り添える優しさ」が光る訳であり、ベタだから良いと言えるのだろう。

 そんな感じでお膳立てをされた構成だったので、私としては「これは神沙姉妹2人共にちゃんと受かるだろうなぁ~」とは思ったし、実際その通りになったので、そこは純粋に「念願のブラバ店員になれて良かったよ。神沙姉妹2人共に」と称賛の気持ちを送った。ただ、そのおめでたい報告を知った理世ちゃんが、前述したブラバ1人分の採用枠と言う名の椅子に座った結良ちゃんに対して「結良の奴が何かやったんじゃないだろうか」と、何かを案じる様な素振りを見せている事に、私としても思う所はあった。

 理世ちゃんが案じた結良ちゃんの行動で考えられるのは、神沙姉妹2人の為に、敢えて自分がブラバの椅子から降りる事をした、結良ちゃんがオーナーさんに働きかけて、2人分の採用枠を作って貰った等が考えられ、平たく言えば「自分が身を引いた(ブラバのバイトを辞めた)」若しくは「自分が無理を言う覚悟で働きかけた」と言う事になる。ただ、今回はあくまで「理世ちゃんの懸念」しか明かされていないので、ここで立てた見識は「推測の域を出ない」のは当然の事である。しかしながら、結良ちゃんの行動を予測した理世ちゃんとしては、結良ちゃんの事を「幸せを運んでくる青い鳥」と一瞬考えたらしく、本人は即座に取り消しているが、そう考えたと言う事は、つまりは「結良ちゃんが神沙姉妹2人の為に一肌脱いだ」と考えられる可能性が一気に高くなる訳で、真相は後の展開次第となるだろうが、私としては「早くその真相を知りたい」と思っているのは言うまでもない。

 また、その「青い鳥」をめぐっては、ココチノ2人が青い鳥と言う物語の流れを相互に確認し合う傍ら、嘗てティッピーに魂が入り込んでいた智乃ちゃんのおじいちゃんの事を思わせる様な気になる台詞を智乃ちゃんがこぼしており、その後に発した心愛ちゃんの、幸せの青い鳥に対する前向きな考え方も相まって、ここから私は前述した様な「例の考え方」にも関わる事を思ったのである。ただ、ここではまだ「注意喚起をしていない」ので、その手の内容は約束通り「注意喚起を記載した後」に書き出す事にする。

 

今回の内容について思う事

 ここからは主観的な展望や想いを強めた内容を書き出したい。今回はここから一気にテーマ性を深化させ、前述した「幸せの捉え方」「死生観」にも関わる内容をも扱っていく。その為、書き出す内容が一気にハードになるので、本当に注意してほしい。

 

前に進み続ける事の意味

 

※注意※

ここの小題では、死生観にも関わってくる様な刺激的な内容を含みます。その様な内容が苦手な方は十分注意してください。

 

 

 智乃ちゃんが青い鳥の物語に対してふと発した言葉を、私は忘れる事は出来なかった。その忘れられない言葉とは「幸せは自分の身近な所にあると気付くお話」と、青い鳥の物語について語る心愛ちゃんに対して、その幸せに対して智乃ちゃんが「幸せを与えてくれた存在は、気付いた時にはいなくなっていたと解った事が悲しい」と言う趣旨の発言である。そしてその際、智乃ちゃんはティッピーをぎゅっと抱きしめており、智乃ちゃんが「悲しい」と言う存在が誰なのか。それが解る様になっている構図に、思わず何とも言えない感情が込み上げてくる様だった。

 この「誰」と言うのは、間違いなく智乃ちゃんが心愛ちゃんの実家帰省に同行した帰りに、智乃ちゃんの確固たる意思を聞いて安心してサキさんの元へと旅立っていった、智乃ちゃんのおじいちゃんの事だと考えている。そうじゃなければ智乃ちゃんがティッピーをぎゅっと抱きしめた行動の説明がつかないし、智乃ちゃんにとっておじいちゃんは、自分の周りには多くの幸せがある事を教えてくれた大切な存在の1人でもある為、智乃ちゃんが見せた悲しみの表情は、自身のおじいちゃんの事を指していると見て疑いないと思う。

 そして、この事実が指し示す事は、智乃ちゃんは今でもおじいちゃんが完全にいなくなってしまったショックから完全に立ち直っている訳では無いと言う事である。ただ、どの程度乗り越えているかは智乃ちゃん本人にしか分からないし、そんな事を本人から聞き出そうとするのはあまりに酷な話なので、私としてはこれ以上むやみやたらに本人から探るつもりもなければ、智乃ちゃん本人に対してとやかく言うつもりも一切合切ない。あくまで「客観的に見てその様に感じられた」と言う事であり、ここから書き出す事は「自分ならこう思う」と言う事で、決してそれを智乃ちゃんに押し付けるつもりではない事はここでハッキリ言っておく。

 まず智乃ちゃんがこの様な悲しみを背負っている事について、私としてもちゃんと理解出来る。亡くなってからも約3年前後にわたってティッピーを通じて智乃ちゃんを支え続けてくれていたおじいちゃんが、自分に対して何も言わないままにサキさんの元へと旅立ったと言う事実についても、もし私が同じ立場だったら、きっと智乃ちゃんと同じ様に悲しむだろうし、同時に「どうして何も言わずに旅立っていったの......」と思うだろう。別におじいちゃんの事を恨みたい訳じゃないし、事実としておじいちゃんは既に亡くなってしまっているので、本来あるべき所に魂が導かれていったと言えばその通りだ。でも、やっぱり旅立ってしまった事実は悲しいし、頭では「受け止めなければならない事」とは分かっていても、心がついていってくれる訳では無い。智乃ちゃんの悲哀の表情は、きっとそんな複雑な心境を覗かせているのだと思う。

 しかしながら、智乃ちゃんのおじいちゃんが旅立ってしまったのは、おじいちゃんが「孫である智乃が、自分が居なくともしっかり前を向いて歩いて行ける」と確信したからで、それはサキさんの元へと旅立つ直前に遺した言葉をみれば解る通りである。厳しい現実にはなるが、智乃ちゃんには「おじいちゃんが創ってくれたもの。遺してくれたを、更に前へと進めなくてはならない使命がある」と捉えている。でも、それはおじいちゃんからの押し付けではない。あくまで「智乃ちゃん自身の夢の為に」である。その為になら、どんなに悲しみに暮れようとも、自分の足で前に進むしかない。自分の夢や未来を切り開く為には、最後はやはり「己の意思」が必要だから。そうでなければ、夢は夢のまま永遠に掴み取る事など出来ない。それが、一歩を踏み出せなかった者に待つ非情な現実としか言えない……。

 私としては、智乃ちゃんには「自分の夢の為にも、おじいちゃんばかりに囚われず、おじいちゃんの遺志を受け継いでほしい」と思っている。まだまだ子供の内に2人の肉親を亡くしてしまっている智乃ちゃんの気持ちが完全に分かるかと言えば、それは正直に「完全に分かるなんて、そんな無責任且つ軽々しい事は絶対に言えない」となるが、それでも智乃ちゃんには「自分の人生をしっかり自分の意思をもって歩んで欲しい」と思っているし、おじいちゃんだって「自分の人生は自分で切り拓いていくもの」だと、孫に説く場面は何度かあったので、おじいちゃんの遺志を尊重する意味でも自分の人生を自分の足で歩いてほしいと思う。誰かの夢をただ後追いするのではない、自分が心から切り拓きたいと思う道を、彼女にしか歩めない道を、智乃ちゃんには歩いて欲しいのだ......!

幸せを掴み取る考え方

 

※注意※

ここの小題では「幸せの捉え方」に関する題目を扱っています。ここではあくまで「一個人が思う事」を書き出す事が趣旨なので、賛同するもしないも個人の自由です。ただ、冷静な判断だけは失わない様にして下さい。何卒お願い致します。

 

 何気ない日常から沢山の幸せもとい青い鳥を見つけ出そうとする事は、果たして「強欲」と称されるべきなのか。私はそうは思わなかった。何故なら、幸せと言うのは自分から「幸せな事は何かを知り、それを掴み取りにいくから解る事」なのであって、待っているだけでは幸せは舞い降りてこないし、ましてやその幸せが何なのかなんて解る筈が無い。ならば、たとえ周りから欲張り(=強欲)と言われたとしても、幸せを運んでくるものが何かを分かろうとしたり、掴み取ったりしようとする姿勢が必要な時もある。そう考えたからである。

 この様な事を思い立った背景は、先の小題でも扱った様に、青い鳥の物語に準えて今の自分が持つ悲しみを言い表していた事に対して、心愛ちゃんが「智乃ちゃんと歩いていると言う何気ないこの瞬間も幸せだ」と言う趣旨の発言をした後に、続けて「青い鳥(幸せを運んでくるもの)は沢山いる」と言う趣旨の発言をした事にある。心愛ちゃんのこの様な考え方に対して、私は凄く同調した。幸せなんて、美味しいご飯を食べる事、好きな趣味に興じる事、好きな人と一緒の時を過ごす事、安心した気持ちで過ごす事等、些細な事でも細かく挙げだしたら枚挙に暇なんか無いし、故に何気ない日常の行動から「幸せを運んでくるもの=青い鳥」を見付けようとする姿勢は、この人生を楽しく幸せに生きようとするには正にうってつけの考え方だと思っている。なので、最早否定しようと言う気さえ起きなかった。

 そんななので、上記の様な心愛ちゃんの幸せを運んでくる青い鳥の考え方に対して、智乃ちゃんが発した「強欲」と言う一言に、私はどうしても「納得」がいかなかった。ただ、智乃ちゃんとしても心愛ちゃんが自分には到底できない幸せに対する考え方に、多少なりとも思う所があったと考えられる事や、心愛ちゃんは2021年のエイプリルフール企画たる「ナナラビ」にてグリード、即ち「強欲」と言う罪の名を背負っていると言う経緯があった事を踏まえると、智乃ちゃんが強欲と発した事自体は、でっち上げでもなんでもなく、ちゃんと地に足ついた見識に基づいた言葉だとは解っている。なので、智乃ちゃんが「強欲」と発した事そのものを否定するつもりは一切無いし、その様な考え方も存在する事もちゃんと受け容れるべきだと考えている。それが「思想の自由」を尊重する事だから。

 でも、例え「強欲」と言う考え方が存在する事を受け容れる事が出来ようとも、今でも私は心愛ちゃんの発した幸せに対する考え方を「強欲」と称する考え方に、決して賛同する事はできない立場をとっている。これはどうやっても譲る事は出来ない。たとえ「自分にとってのイチ推しの発言を反対するのか」とか言われようとも関係ない。申し訳ない気持ちもなくは無いが、私にだって譲れない考え方の1つや2つはあるのだから、そこは自分が感じたものを貫く姿勢で行かせていただく。

 もし、諍いの種を蒔く様な真似を働いているとしたならば、それはきちんと詫びる。ここで私が言いたいのは「ココチノ2人のやり取りに対して自分はこの様に考えた」と言う事であり、それ以上の事は何も無い。普段の小題と比べてもなお、語気がかなり強めだったのは、ここでは立場をハッキリさせておかないと、自分がどの様な考え方を持っているのか分からず、ぼやけた思想しか持っていない軽薄な人間に映る可能性があった上、そうなると非常に不味いテーマだったからである。世の中、時には思想をハッキリ展望しない方が良い時も沢山あるが、当然ながら思想をハッキリ展望しないと、周りから「中途半端な人間」と言う烙印を押され、ハッキリと立場を表明した時よりも扱いが酷くなるケースも沢山ある。その狭間に揺れ動く中、常に正しい判断をし続ける事は大変難しい事ではあるが、今回私は「幸せの捉え方」と言うのに対して、普段よりも強めな想いを抱いていたので、ここではハッキリ言うべきだと思ったのである。

 幸せの捉え方については、正に「人の数だけの捉え方がある」と思っているし、実際に今回私は心愛ちゃんが展望した幸せに対する考え方に賛同する立場をとっているが、私とて心愛ちゃんと全くもって一緒の考え方を持っている訳では無いし、心愛ちゃんとは違う考え方の部分も当然ある。でも、今回こうして「幸せの捉え方」に対して真剣に向き合う事で、ごちうさを通じて「人生における幸せの掴み方、幸せをもたらしてくれる存在」について少しでも考える事が出来たので、そこは純粋に有り難い事だと思っている。

 

3.あとがき

 以上がきらま2024年3月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察である。今回は2024年初のきらまなので、必然的に2024年最初のごちうさと言う訳にもなるが、そこから書き出した感想・考察の内容は正に重厚そのもので、小題によっては個別に注意書きを入れる程のものになった。我ながら、2024年最初からかなり飛ばしていると思うが、ちゃんと全て「私が書きたいと思った事」ではある。因みに注意書きを入れたのは、その様な配慮をした方が良いと思う題目を扱っていると感じるものがあった為。普段はそこまで思う事が無いので入れていないが、今回は誇張抜きで「入れないとちょっとヤバいなぁ......」と思ったので入れた。

 ここまで重厚な内容になったのは、沢山のマンガを読む過程の中で、それらのマンガで描かれていた内容やメッセージ性に強い感銘を受けた為で、その中でも特に人間ドラマにも通ずる「心の成長」「心の弱さ」、或いは壮絶な運命を覗かせる「ハードボイルドな展開」などに凄まじく影響されている。その為、ごちうさにおいてもそういった「ハードボイルドな運命」「前向きな事ばかりではない現実の厳しさ」と言った、世の中決して良い事ばかりでは無いと言う着眼点を持ちやすく、今回はそれが凄まじい勢いでごちうさにおいても反映されたと言う訳である。ちょっとやり過ぎてしまった感もあるにはあるが、嘘偽りなき想いを書き出す為には、最早こうするしかなかったので、どうしようもなかった。正直、厳しい事から目を背ける為に、嘘で全部塗り固めてしまう事だって可能だったが、それだけは絶対にやりたくなかった。そんなごちうさの世界観に対しても冒涜を働くような真似をするくらいなら、痛みを伴う内容覚悟で思った事を素直に書き出す方がずっとマシだった。それが私の中での答えだった。

 以前から私は、ごちうさに対しても何かと今回の様な厳しい見解を打ち立てたり、世界観に少しばかり似合わないと思う程に重厚且つ壮絶な見解を書いたりしてきたが、これが果たして本当に正しい道なのか。それは正直分からない。ただ、その様な内容も「私が書き出したい内容」である事は紛れもなき事実だし、その様な内容を含んでいるからこそ、私の中でのごちうさは確立される事情もある。なので、今更後戻りなんぞ出来ない。これが「今の自分が歩むべき運命」だと言うなら、自らの意思で歩むまでである。

 思えば冒頭に「2024年も百合好きな私」と称しておきながら、今回のブログ記事ではごちうさから見出す形で導き出した「百合」にまつわる小題が無かった事に気付いた。これまで2ヶ月連続で百合にまつわる小題を書いていただけに、ちょっと寂しい気持ちが募ってくるが、2ヶ月連続で書き出した例が特殊だった訳で、致し方ないとは思っている。こんな感じで2024年最初の記事は、中々にパンチが強い尖った内容にはなったが、今年も走り続けるだけ走り続けるつもりだし、毎回の様にここまで重厚な内容ばかりを書き連ねるつもりも無いので、どうか宜しく頼む。

 

 

おまけ

今回の文量は、400字詰め原稿用紙のべ29枚分であった。今回は兎に角重厚な内容を書き出す事に注力したので、書く内容には特に苦労していない一方、シビアなテーマをどの様に扱うべきか。そこで苦慮した。また、2024年最初の記事から内容がかなり重厚なものになった事に対しても多少思う所はあるが、書きたい事を書く為にはこうするしかなかったので、後悔はしていない。何だったらそれを気にして書きたい内容じゃあない事を書いていた時の方がもっと後悔していた。そんな気さえしてならない気分でもある。

*1:私が思うに「群青色」と言った所だろうか。実際には恐らく違うだろうが。