多趣味で生きる者の雑記帳

現在は主にごちうさに対する想いについて書いています。

きらファンメインシナリオ第2部「断ち切られし絆」6章の感想・考察

 こんにちは。今回はきららファンタジアのメインシナリオ第2部6章を読み進める中で抱いた感想と考察について書き出したいと思います。この第2部に関しては、私の中ではのめり込む様に読み進められる気持ちと、その壮絶な背景や過去からくる痛みに多くの迷いが生じる気持ちが錯綜していますが、ある意味それが私なりのきらファンメインシナリオ第2部の嗜み方でもあるので、今回も「今思う事」を大切に、シナリオを読み進めて考えた事を書き出したいと思います。

※注意※

きららファンタジアメインシナリオのネタバレを含むものなので、その事を了解の上、読み進める事をお願い致します。また、今回は前回の5章とは別ベクトルで重い内容になっているので十分注意してください。また、本文中に出てくる「リアリスト」は「現実主義、写実主義」を意味するものではなく、「ゲーム内に登場する組織体」です。今回は括弧の有無に関わらず、特に脚注や注意書きが無い場合は全てゲーム内で使われる単語の意味合いを指します。

1.はじめに

 「断ち切られし絆」の名を持つ、きららファンタジアメインシナリオ第2部。どの聖典にも載っていない謎の存在である住良木(すめらぎ)うつつと共に、きらら達はうつつの故郷を探すために新たな旅に出る。だが、その道中はあまりにも悲愴的かつ、壮絶な展開の連続だったのである……。

 特徴は何と言っても大筋を支配しているシリアスなシナリオで、その威力は時に大きな痛みを伴った凄惨な展開*1もある程で、それ以外にも欺瞞に満ちた世界*2を正す為に禁呪魔法「リアライフ」を用いて暗躍する、第2部の敵対組織「リアリスト」の根底に蠢いている悲しき闇等、並の言葉では最早言い表せないと思う程に重い展開が印象的である。しかしながら、シリアスで壮絶な展開が続くからこそ、ドキドキしつつものめり込む様に楽しめる感覚が芽生える側面もあり、また感動的な場面も多い為、総合的に見れば非常に上質なシナリオであると私は感じ取っている。

 今回はそんな読み応えのあるシナリオを、前回の5章で採用した時と同じ様に、まずは今回の6章の展開をざっくりと書き出した上で、メインシナリオ第2部の重要人物と、敵対組織である「リアリスト」からと言う、大きく2つの視点を中心として、その後に6章を読んで私が思った事を纏めて書き出したいと思う。

2.第2部6章の感想・考察

6章全体の感想・考察

 まずは前回の5章同様、6章そのものについてや、その6章から読み解けることを中心に書き出したいと思う。内容としては前回の5章程重くはないが、それでも比較的重めな内容も含まれているので、注意して欲しい。

6章とは

 6章はこれまでのメインシナリオ第2部偶数章の様に「クリエメイトが一切登場せず、メインシナリオ第2部の世界観そのものを深く掘り下げていく」と言う構成とは異なり、これまでのメインシナリオ第2部奇数章と同様「禁呪魔法によって呼び出されたクリエメイトを助け出し、クリエメイトを元の世界に返す為に、きらら達がクリエメイトと行動を共にする」ものになっており、今回呼び出された作品はけいおん!である。また、6章の舞台はその「けいおん!」に因んで「音楽の都」となっており、前回の5章同様「クリエメイトに深い所縁があるもの=第2部における舞台」となっている。

 この章は序盤からリアリストの魔の手が既にエトワリアの広域範囲に伸びている事が判明しており、いきなり衝撃的な事実を突き付けられるが、その最中にこのメインシナリオ第2部2章における重要人物たるメディアちゃんとその護衛を務めるフェンネルと再会する。直ぐに分かる事だが、メディアちゃん達が「音楽の都」に向かっている事実は、そのまま「今やあちこちの地域に根ざしている聖典が酷く汚染され始めている」と言う事を意味しており、結果的に一瞬で2つの意味でリアリスト達の手によって聖典が破壊され始めている事を突き付けられてしまう。また、街に辿り着いても、既に街はリアリストの手に堕ちており、5章程凄惨ではないにしても、別ベクトルで絶望を叩き付けられる様になっている。

 街に着いてからは、エニシダの呪いによって記憶を改変されたクリエメイト達を順番に助け出していくのが主であり、最初は澪ちゃんと律ちゃんそれぞれの呪いを解き、その上で幼なじみ2人の絆を取り戻す事にも成功する。尚、その絆を取り戻したきっかけは、彼女達がずっと行っていた放課後ティータイム」と言う名称のバンド活動にあり、お互いの記憶がない中でも簡単なセッションを行う事でメンバーが持つ音楽に対する感情や想いを共有させ、それが無くしていた絆を再び呼び起こす事に繋がった訳である。そしてそれは、その後紬ちゃんや梓ちゃんとも邂逅し、彼女達を取り巻く呪いは払えても、その絆までは思い出す事は出来なかった中で、4人合わせて楽器のセッションを行う事で4人の絆を取り戻す事に成功する事にも大きく繋がっている。この事から、例え絆を断ち切られたとしても、音楽を通じて育まれた想いは決して断ち切る事の出来ないものである事は明白だと言えよう。

 そして、残すは唯ちゃんのみとなったが、聖典が汚染された影響により、クリエメイト達は疲労が募っており、きらら達一行は一旦「音楽の都」の神殿で一泊する事を決意する。そして、その夜中にうつつちゃんとメディアちゃん2人が、良く寝付けない事を理由に2人で話し合うシーンがあるが、そのシーンにおいて2章で発覚していた「メディアちゃんが嘗て女神候補生であった事」に加えて、リアリストの首謀者であるハイプリスは、嘗て「メディアちゃんと同じ女神候補生として学びを共にしていた」と言う衝撃的な事実が発覚する。また、この場面ではうつつちゃんとメディアちゃんに加えて「ランプちゃん」の3人が聖典の意義や聖典の在り方そのものについて考え合うシーンがあり、そのシーンはこの6章ひいては聖典そのものの意義について考えさせられるものとなっている。

 その様な経緯を経ながらも、一行は再び唯ちゃんを助けるために活動を再開するが、その道中は苦節が多く、中々そう簡単にはいかないと苦戦する最中、エニシダから言われた「『楽しい』だけの音楽なんて認めない」と言う言葉に対して悶々と悩む姿もあったが、「楽しい音楽があっても良い」と言うきらら達の励ましもあって乗り越え、その後も多くの不安はありながらも、唯ちゃんを救うためにライブの練習に勤しみ、遂にライブ当日を迎える。そのライブにおいては、きらら達はエニシダからの激しい猛攻に苦戦しつつも、うつつちゃんが上手く機転を利かせてエニシダもといリアリストの猛攻を上手く掻い潜り、遂にエニシダから唯ちゃんと唯ちゃんの大切なギターたる「ギー太」を取り返す事に成功する。そして、満を持して「放課後ティータイム」のライブは無事に始まり、あらゆる意味で万策尽きたエニシダは撤退する。その後、きらら達は完全に救い出した「放課後ティータイム」のメンバー達とひと時の完全たる平和を謳歌し、別れを告げる。そして、クリエメイト達を元の世界に返したきらら達は、リアリスト達が企てている驚愕の計画をリアリストの元から辛くも脱出したカルダモンから聞かされて、6章は幕を閉じる。

 全体的に見れば、6章は5章に比べれば多少マイルドな展開になっているとは言え、それでも展開が重いと言う事実そのものには全く変わりなく、あくまでメインシナリオ第2部らしいシリアスさは健在ではあるが、今までと大きく違うのは「クリエメイト一人一人の絆がサンストーンによってそれぞれ断ち切られた事」であり、今までの様に1人だけ絆がサンストーンによって断ち切られた訳では無く、その意味ではリアリスト達もいよいよ本気になっているのが窺える。また、6章はハードな展開が多い一方で結構ゆるい展開も要所で存在しており、「放課後ティータイム」のメンバー4人(唯ちゃんを救出してからは5人)が見せるゆるい雰囲気が特徴のやり取りや、メディアちゃんとうつつちゃんが見せるやり取りがその代表例である。ただ、その一方でこの2組共にしっかりした関係性である事を改めて印象付ける様な真面目なやり取りもしっかり用意されており、一義的な印象では留まらない仕掛けが施されている。

 更に、この6章ではこのメインシナリオ第2部の根幹にも関わる程に重要な要素が次々に明らかになった章でもあり、具体的には「聖典そのものの存在意義」や「リアリストの首謀者ハイプリスの過去」そして「リアリストが本気の計画に乗り出している事」等々であり、どれも今後の章ひいてはメインシナリオ第2部やエトワリアそのものにも深く関わってくる程重要なものばかりだと認識している。ただ、その一方でこれらの重要要素の多くは「只ならぬ何かを持つものばかり」である為、私自身も今後どうやって扱えば良いのか答えが出し辛い分野ではある。しかしながら、5章でも言った様にそれで私自身蹲ってそのまま何も行動できなくなれば何もならないので、今回の6章でも「私が思った事を率直に書き出す事」を意識して、ここからはメインシナリオ第2部の重要人物や、6章で登場したリアリストを中心とした感想・考察を書き出す事とする。

6章におけるうつつちゃん

 メインシナリオ第2部の重要人物の1人たる住良木うつつ。どの聖典にも載っていない謎の存在であり、本人も名前以外の記憶は「自身が16歳の女子高生」である事以外は、何らかの要因で全て失ってしまっている。その為、きらら達ひいてはうつつちゃん本人にも「うつつ自身が抱えている本当の命運や定め」が分かっていない一方で、リアリスト達はうつつちゃんの事について何か知ってそうな素振りを見せているが、何れにしても現時点では確かめる術は何もない。しかしながら、6章において「うつつちゃんの記憶が無いのは、サンストーンに絆を断ち切られた可能性があるからだと推察されており、現時点ではまだ断定できないとは言え、それが本当なら真実へと大きく近付く事が出来る様になる。

 性格は極端なまでのネガティブ思考であり、それ故に事あるごとに自分の事を卑下する様な発言をしがちな傾向にあるが、これは単に後ろ向きな性格だと言うだけでなく、彼女にとっては「自分自身に対する自信のなさの表れと、ある種の照れ隠し」とも言える特性で、本当は他者を想い合う事の出来る優しい心の持ち主であり、きらら達やメディアちゃん、そしてクリエメイトと親交を深めていく毎に、うつつちゃんが精神的にも大きく成長していく姿が印象的である。また、ネガティブ思考の持ち主故にポジティブ思考な人と一緒に居るのが苦手とは言え、完全に嫌がっている様子はなく、寧ろそう言うポジティブさを尊重している一面もある。

 物事を見つめる際の視野がかなり広く、聖典が必ずしも万人の希望にはなり得ない事や、聖典の意向に逆らった者は一体どうなるのかと言った、スクライブギルド長のメディアちゃんや女神候補生にして、聖典をこよなく愛するランプでも答えの出すことの難しい事に対しても臆せず思考を張り巡らせている。その為、その思考力と教養は実年齢以上のものであり、内に秘めた彼女の想いは果てしないものがある。また、その教養の高さと視野の広さに裏付けられている切れ味抜群の毒舌センスを持つ一面があり、自分自身に対する保険をかける時や、リアリストに対して容赦ない言葉を投げかける時にそのセンスが遺憾なく発揮されている。更に、6章においては「にんじんが嫌い」と言う特徴が判明しており、これがきっかけで6章ひいては聖典そのものに対する深い問いかけへと繋がっていく。

 6章では序盤からうつつちゃんにとって大切な存在であるメディアちゃんと再会したが、メディアちゃんはうつつちゃんとは正反対の性質を持った人物である為、うつつちゃんは思わず隠れると言う茶目っ気ある一面を見せている。その後、基本的にうつつちゃんはメディアちゃんと心を通わせているのが分かる描写が度々登場しており、それらからもうつつちゃんが精神的に大きく成長しているのが見てとれる。また、後半において律ちゃん達が唯ちゃんを救うためのライブに関して、上手く行くかどうかわからなくなってきて、悲観に暮れていた際には、思わず我慢ならなくなって檄(げき)を飛ばし、皆の弱気を吹き飛ばす役目を果たしており、うつつちゃんとしては「クリエメイト達には明るくいて欲しい」と言う彼女なりの想いや優しさがある事が改めて分かる様になっている。

 そして、6章終盤では「自分ができる事を全力で果たす」と言う事を思い起こしながら、唯ちゃんにとって大切なギターである「ギー太」をエニシダもといリアリストの元から取り返し、唯ちゃんの絆を取り戻す役割を果たしているが、この様な行動は嘗ての彼女なら、恐らく恐怖心故にやりたくてもやれなかったであろう行動なのは想像に難くなく、彼女の成長ぶりが改めて印象付けられる。尤も、怖いものはやはり怖いらしく、逃げ腰気味になる事もしばしばあるが、それでも最後は逃げずに自分ができる事を全力で果たそうと行動を決意するあたり、うつつちゃんもきらら達やクリエメイト達に触発されて、大きく変化を遂げようとしている事が読み解ける。

 尚、6章で彼女はエニシダがかけた呪いを目視で捉える事ができ、尚且つその呪いを外せる特性」を打ち明けており、彼女はきらら達にはそれが見えない事に困惑を隠せない様子を見せていた。他にもうつつちゃんには「ウツカイの字を読む事が出来る」・「リアリストの幹部の会話が突然聞こえる様になる(特定の条件下のみ)」・「リアリストの幹部ですら容易には生み出せない様な強力なウツカイを自身の力のみで呼び出せる(但し本人は無自覚で、この事実を知るのはロベリアのみ)」等、彼女特有の特殊能力が現時点でも複数判明しているが、何れも彼女にしてみれば何故この様な能力が自分に備わっているのか全く分からない為、真相は未だ謎に包まれているが、このうつつちゃんが持つ特殊能力は、このメインシナリオ第2部を解き明かす上で重要な要素になる事は想像に難くない為、恐らくこのまま完全に謎なままでは終わらないと個人的には考えている。

 また、うつつちゃんは6章の中程において、信頼出来る友達だからこそ聞ける事でもあり、うつつちゃんがずっと気になっていた事として「このエトワリアにも貧困や戦争があるのか」とメディアちゃんに尋ねており、メディアちゃんの口から聖典を信じない様な地域にそういった実例が多いと知り、彼女は口数は少ないながらも何か思う事があるような素振りを見せていた。元々彼女は5章において「エトワリアと言う世界は、少し神殿に依存し過ぎているのでは?」と言った懸念を抱いていた事が判明している為、うつつちゃんとしてもリアリスト達や世界の実情を見て、聖典によって必ずしも世界が救われるとは言えないのではないか」と考えてみる様になり、それに対する意見を自分にとって友達且つ神殿にも深く関わりがあるメディアちゃんに聞いてみたかったと思われるが、何れにしてもこの場面におけるやり取りは、このエトワリアの世界に対する深い問い掛けなのは間違いない。

メディアについて

 聖典を写本する役割を持つスクライブギルドのギルド長であり、女神候補生のランプと同じ位に聖典を愛しているのがメディアちゃんその人である。普段はスクライブギルドの一員として聖典を写本し、エトワリア全体に聖典の加護が届く様に勤めているが、メインシナリオ第2部においては聖典そのものの危機に対して、スクライブギルドのギルド長としての責務を全うする為に、自らの強い意思で「音楽の都」に赴く。その為、6章における重要人物の1人であり、彼女の意思や行動はこの6章において大きな影響をもたらす事になる。

 性格は基本的に明るく好奇心旺盛であり、誰に対しても分け隔てなく接する優しい女の子である。また、普段から自身が大好きな聖典の世界やその聖典の世界の住人に対して強い憧れと好奇心を寄せていると言う、所謂筋金入りの聖典オタクであり、それ故に同じく筋金入りの聖典オタクであり、聖典に対する学の高さが特に秀でているランプちゃんとは聖典関連の話が良く合い、共に聖典に対して高い愛情と尊敬の念を抱いているが、メディアちゃんはランプちゃんと異なり、聖典以外の分野に対しても幅広い知見を兼ね備えている。ただ、メディアちゃん自身は謙虚な姿勢を貫いており、それも人から愛される理由だと言える。

 正義感と責任感が強く、それ故にどの様な危機的状況でも自分のできる事を全力でやり遂げようとする、自分が決めた事は何があっても折れない等、非常に強い意思の持ち主でもある。また、その責任感の強さはスクライブギルドのギルド長としての姿勢にも表れており、自分がギルド長として果たさなければならない事は何かをよく考えた上で、その為なら多少のリスクも辞さないと言う心意気がその例である。尤も、メディアちゃんは自身が持つ正義感や責任感を他人には一切押し付けず、あくまで「自分と他人は別」と言う線引きはしっかりしている。

 6章においては「音楽の都」に危機が迫っている事を知り、スクライブギルドのギルド長としてできる事をすると言う意気で、メディアちゃん自ら「音楽の都」に乗り込む決断をする。そして、6章序盤においてうつつちゃんと再会してからは、うつつちゃんの良き理解者として彼女との親交を更に深めていく事になる。また、中盤にはスクライブギルドとして聖典の汚染をこれ以上悪化させないように食い止める」と言う役割も率先して請けており、それ故にきらら達とは一時別行動になる事もあるが、その際もきらら達に対する気配りは一切抜かりがなく、徳の高い人物である事が目に見えて分かる様になっている。

 6章終盤においても持ち前の正義感と責任感の強さは揺らいでおらず、どの様な状況でも怯まず立ち向かう強さを見せている。そして、クリエメイト達を完全に救出した後には、聖典オタクとしての一面を全開にして、ランプちゃん共々「放課後ティータイム」の演奏ややり取りを心から歓迎している。その為、終盤に見せる彼女の様々な一面は色々な意味で秀でており、彼女の良さが前面的に押し出されていると考えている。

 そんなメディアちゃんだが、嘗ては女神候補生として学んでいた過去があり、その持ち前のひたむきな姿勢から優等生に位置付けられる程に優秀だったのだが、何らかの事情で女神になる事は諦めざるを得なくなり、自分自身が持つ夢を別の形で果たす為にスクライブギルドとなった経緯を持つが、スクライブギルドはメディアちゃんに限らず女神候補生だった人が就任するケースも多い為、彼女の様なケースは特段珍しい訳でも無い。しかしながら、この事実は彼女にとっては数少ない弱みとなっており、普段はその様な弱みを見せないとは言え、心の底ではやはり弱みとして残されている様子が見受けられる。

 また、6章中程におけるうつつちゃんからの「エトワリアにも貧困や戦争はあるのか」と言う質問には、メディアちゃんとしても相当に気掛かりな事の様で、うつつちゃんに対して神妙な面持ちで終始トーンを変えず、自分が思う事を全てそのままに話している。メディアちゃんはその学の広さから、聖典の良さについてだけでなく、聖典が抱える幾多の問題についても理解が深く、それ故に彼女としても「今の聖典では救い切れない様な動乱地域もきちんと救われる様な聖典を生み出せる様になりたい」と言う心意気が強くある為、その言葉には説得力がある一方、彼女が抱えている葛藤を思わせる痛みをも感じ取れる。

エニシダについて

 「真実の手」が1人であり、「歌手(かしゅ)」の異名を持つ、リアリストが1人、エニシダ一人称は基本的に「ワタクシ」であり、その異名通り歌を歌う事を得意としているが、その歌には彼女が持つ呪いの魔法がかけられており、聴いた者をどんどん絶望に叩き落す効力が存在している。また、その呪いの魔法には「記憶を改変する事の出来る能力」も存在しており、故にこの2つの特性を上手く使う事で、エニシダは人々を絶望の淵に追い込み、且つそれを外部に悟られない様にする事が可能になる訳であり、その事を鑑みるなら、エニシダリアリストの中でも特に恐ろしい能力の持ち主だと言える。因みにこの2つ能力は、極端な話「エニシダが、自身の能力で絶望に叩き落した人々の記憶から、そのエニシダによって絶望に叩き落された記憶」エニシダの手によって上手く改変さえしてしまえば、後は『何事もなかった』と見せかける事だって出来る」とも考えられるが、エニシダ本人としては自身が持つ能力をリアリストの目的の為に惜しみなく使用する一方、内心では自身が持つ能力に対してコンプレックスと嫌悪感を抱いている節がある(詳しくは後述)。

 リアリストの中でもプライドが特に高く、それに裏付けられた自信家である事を窺わせる面が見受けられており、何でも一人でこなせると豪語する*3程で、それ故にきらら達にクリエメイト達を正気に戻されても殆ど動揺せず、恰も何事もなかったかの様にどっしりと構えている様子が描かれている。また、唯ちゃんをリアライフにかけて絶望のクリエを奪うと言う行動に出ているが、他のリアリストとは異なり「必要以上にクリエメイトを罵らない」と言う特徴があり、その代わりに「クリエメイトに対して執拗に『どうせあなたは何もできないから』と言い聞かせる」と言う用意周到且つ陰湿な手口を使っているが、何れにしても他のリアリストとは一線を画す様子は見受けられる。

 所謂「適材適所」(或いは「縦割り主義」)を意識した物の考え方をしている傾向が見受けられ、自分が得意とする分野は思慮深く考案するのに対して、他のリアリストの方が向いていると見做した分野は必要以上に深く考案しない所がある。ただ、その分「自分の役割は全力で果たすべき」と言う完璧主義な傾向があり、自分の役割を完璧に遂行出来なかったのなら、たとえサンストーン相手でも一切容赦のないダメ出しをする一面を見せる一方、その完璧主義な一面は彼女自身にも向けられており、自分の失敗を言い訳もせずあっさり認められる器量や、それに伴う罰を受ける覚悟も持ち合わせている。

 歌を歌う事が大好きだと言う一面があり、それ故に音楽に対して強い拘りがある。また、エニシダは前述の様な性格から、自分の歌に対して絶対の自信を持っており、それ故に「楽しい」だけの音楽を音楽として認めない節が見受けられるが、これはエニシダ自身が血反吐を吐く程の努力を積み重ねているのにも関わらず、自分の芸術(歌)が認められない事に激しい憤りを覚えているのが大きな理由であり、言うならば逆恨みなのだが、エニシダからすればこの事実が「けいおん!」の聖典を破壊しようとする動機と深く関わっているだけでなく、自身の抱える運命に対する怒りもある為、複雑なものがある。また、エニシダ「誰とも絆が得られなかった」経緯があり、その事もあってか、エニシダの歌い方は唯ちゃんからも苦しいと称される程に痛みを伴うもの*4となっている。

 6章においては「音楽の都」を根城として、自身が持つ特性を込めた歌を街の住人に聴かせる事で絶望を植え付け、またその歌を聴かせる住人に聖典を持ってこさせる事で、効率良く聖典を汚染させると言う中々に狡猾な手口を使って聖典を汚染させている。また、放課後ティータイムのメンバーにとって絶対に欠かす事の出来ない中心的存在である*5唯ちゃんを捕らえ、絶望のクリエを搾取して聖典の世界を破壊しようと目論んでいる。そして、6章においてもその絶対的な自信は終始全く揺らがず、如何なる状況になっても自分のペースは全く崩さない。その為、少なくとも5章で登場したリアリストのヒナゲシリコリススイセン、そしてサンストーンが見せた様な完膚なきまでの悪辣非道さは無く、それ故に(高飛車な点を除けば)リアリストの中でも比較的人格者であると言えるが、その思想は他のリアリスト同様聖典ありきの世界に対する復讐」に加えて「自身の音楽を分かろうとしない者に対する妬み嫉み」が滲み出ている為、やはりリアリストらしい一面は抜かりなく兼ね備えている。

 彼女は中盤まではその余裕綽々な雰囲気を殆ど崩す事はなかったが、終盤になって「自分の音楽が認められず、彼女が言うただ『楽しいだけの音楽』が大衆に喜ばれていた」際には、一転して彼女は動揺が隠せない様子を露わにしたばかりか、自身が持つ能力である「呪いが掛けられた歌声」に対して自ら恨み節を言う一面までも見せていた。この事実はエニシダにとっては「自分の音楽が認められない事が何よりも嫌な事」なのは勿論の事、自身が持つ特殊能力についても「それは自分が必ずしも望んで手にした能力では無かった事」を意味しており、それ故にエニシダある種の悲しき宿命を背負っているのを示している可能性がある。この事を思えば、彼女があそこまで強がっているのも、自身が持つ悲しき運命故なのかも知れない……。

ハイプリスについて

 リアリストの首謀者であり、聖典の世界の破滅を目論んでいるハイプリス。全体的に破滅的且つ退廃的、そして自暴自棄気味の思想を持つ者が多いリアリスト*6の中では珍しく、達観的な思想に裏打ちされた冷静な立ち振る舞いを主としており、その立ち振る舞いからは奥底知れない聡明さを感じさせ、同時に憧憬の的となり得るカリスマ性をも備えている。また、仲間内に対しては寛大な一面も持ち合わせており、部下である「真実の手」の幹部が再三失敗を重ねても、絶望のクリエが集められているのは事実である事から、必要以上に部下を咎めず、寧ろその働きを褒める事が多いのがその例である。そして、リアリストの名の通り、リアリストに所属するメンバーが現実主義に基づいた思想を持つ者が多い*7のに対して、ハイプリスは意外にもロマンチストな所が見受けられており、故に元々は理想主義を根底とした思想の持ち主だった様にも感じられる。

 上記の様な性質から、ハイプリスはリアリストの中でも比較的穏やかな人柄であり、それ故にどの様な事があっても決して波風を荒立てず、冷静に対処する事が殆ど。ただ、その様な穏健派(ハト派)の性質故か、リコリス等のどちらかと言えば急進派(タカ派のリアリストの幹部からは(思想が噛み合わない事も相まって)快く思われていない面もあるが、ハイプリス本人はその事実を知ってか知らずか、その事について気にかける様子は殆ど見せていない為、彼女の本当の心境は現時点では良く分からない。尤も、聡明で達観的な姿勢を貫き続けている彼女からしてみれば、例えどの様な事があっても聖典の世界を破壊すると言う計画そのものが揺らぐ事はまずないと思われる。また、幾らハイプリスの人柄が比較的穏やかとは言っても、その思想は冷酷非道を地で行く様なものに変わりはないのは言うまでもなく、言ってしまえば団栗の背比べである。

 自身の目的を果たす為にならあらゆる手段を尽くしてやまない面があり、その為になら労力を惜しみなく割く事を厭わない。また、その俯瞰的な物の見方から「あらゆる状況を想定した上で計画を練り上げていく事」にもある程度長けており、今回の6章においてカルダモンにリアリストの計画を知られた上で逃げられた際も、ハイプリスは意にも介さず「カルダモンに計画を知られたと言う前提を手早く組み込んでいる」辺りに良く表れている。その為、ハイプリスはあらゆる状況にも対応できる様にする為の頭の柔らかさと、どの様な状況になってもむやみやたらに焦らない冷静さを兼ね備えていると言え、多少の欠点はあっても流石はリアリストの首謀と言った所である。

 6章においては、ハイプリス自身がきらら達と直接接触する訳では無いとは言え、それまで謎に包まれていた彼女を取り巻く事情が一部遂に明らかになった重要な局面となる。その重要な局面についてだが、その一つに「各地にいる七賢者全てとの絆を断ち切る」と言う壮大な計画を策略している事があり、これは「リアリストが聖典の破滅に向けていよいよ本気で取りかかろうとしている事」を意味しており、その際に聖典との繋がりも深い七賢者の絆そのものを全て断ち切ろうと画策している辺り、ハイプリスもといリアリストの用意周到さが目に見えて分かる。尤も、その計画はスパイとして詮索していたカルダモンに知られるが、ハイプリスは全く怯まず、上記の様にカルダモンに知られた事を見越した計画を立てる事を示唆しているが。

 そして、6章で明らかになったハイプリスのもう一つの重要な事として、嘗ては自身も女神候補生として学んでいた過去があった事と、その際にスクライブギルド長のメディアちゃんと学友だった事であり、これは6章中盤において「メディアちゃんの女神候補生時代の記憶が呼び起こされた事」によって判明している。ハイプリスはメインシナリオ第2部でこそリアリストのトップとして聖典の破壊を目論んでいるが、嘗てはランプちゃんやメディアちゃんと同様、ハイプリスも聖典に対しては誰にも負けない程の底なしの愛と尊敬の念」を心から抱いており、リアリスト時代とは全く異なり聖典の世界に対して深い理解を示していたのである。また、ハイプリスもメディアちゃんと同じ優等生だったらしく、今の聖典が必ずしも全員の希望にはなっていない事実を知った際には、2人共に深き悩みを抱えつつも将来「自分が女神になった暁には、必ずそういった人達をも救える様な聖典を書ける様になりたい」と言う夢は共通していた。

 しかし、現実はあくまで厳しく、2人共に結局女神になる事は叶わず、ハイプリスは辺境で聖典の布教に努める神官となる事を、メディアちゃんはスクライブとなる事をそれぞれ決断し、お互いが持った夢に対して違う道から進む事を決断した格好となった。だが、時が流れたメインシナリオ第2部において2人は全く違う運命を辿る事になり、メディアちゃんはスクライブギルドのギルド長として聖典を写本する役割をする人達をまとめる存在になった一方、ハイプリスは今の聖典に何らかの事情で失望し、自分の理想の世界の為に聖典の破壊を望む存在の首謀者になり、それ故にかつて共に優等生として聖典に対して深い理解を示し、限りない程の憧憬意識を持っていたメディアとハイプリスは、何時しか聖典を愛そうとする事」と、「聖典を破壊しようとする事」の2つの相反する価値観によって分断されてしまった訳が、この事に関しては私が感じた事、思った事を交えて後述する。

6章について思う事

 ここからは6章全体に対して個人的に考えている事、思っている事を中心に書き出していく。ここはかなり重めな内容が含まれている為、注意して欲しい。

変化しゆく想い

 まずは6章全体の印象について書き出したい。6章は個人的には前回の5章に比べれば心の負担はある程度少なかったものの、それでもシリアスで重厚な内容は中々に刺さるものであり、特にリアリスト達が抱える壮絶な運命や切なき過去が明らかになった時は、ある程度予想のできた事だった*8とはいえ、いざ突き付けられた際にはショック以外の何物でも無かった。また、中盤でメディアちゃんとうつつちゃんのやり取りから明らかになった聖典の問題点や限界」に関しては、私としても容易には結論を出せないながらも良く考えるべき内容だと思いつつも、やはり事実そのものに対する衝撃はかなり大きく、そう易々と考えを張り巡らせられるものでは決して無かった。その為、6章もメインシナリオ第2部らしいシリアスさは健在であり、決して心の負担が全くない程甘くは無いのである。

 ただ、6章は心が重くなる様な展開が少なくない一方、メインシナリオ第2部の中でも特に思わずほっこりする様なゆるい展開が印象的な章でもあり、うつつちゃんとメディアちゃんの仲睦まじいやり取りや、「放課後ティータイム」のメンバーが魅せるゆるいやり取りがその代表格である。そして、私としてもその様なゆるいやり取りには思わずほっこりとした事も度々あった上、シリアスでハードな展開が多いメインシナリオ第2部において、ゆるいやり取りがどれ程私の心の緊張を解してくれたか分からなかった。元々私はほのぼのとした和やかな展開が好きなのは勿論の事、シリアスでハードな展開のシナリオにもある程度強い耐性と、他の趣味分野にも引けを取らない強い興味関心があり、故にこのメインシナリオ第2部のシナリオに対しても強い興味関心を今日に至るまで抱き続けているが、それでも私の心に全くダメージを負わない訳では無く、シリアス且つハードな展開を絶え間なく触れ続ければ、少なからず心にショックを受けるのは事実ではあるので、6章の様にゆるいやり取りが随所に登場してくれる事で心の負担が幾分軽くなる為、私としても相当に有り難かったのである。

 また、ゆるい展開が随所に登場すると言う事は、それだけキャラクター同士の楽しそうな掛け合いが多く見られる事でもある為、6章はメインシナリオ第2部の今までの章と比べてキャラクターの楽しそうなやり取りが一際目立っていた様に感じている。ただ、今までの章でもゆるい展開は随所に存在しており、それはメインシナリオ第2部の中でも特に壮絶だった5章においても同じ事である為、何故6章を見た時にその様な感触を抱いたのか些か戸惑いがあったのだが、恐らく前回の5章が「メインシナリオ第2部随一のカタルシスを感じられるとは言え、途中までの展開がメインシナリオ第2部でも随一の壮絶さ*9と言う印象が強かった事もあって、6章も決してゆるい展開ばかりでは無く、重い場面はしっかり重いとは言え、それでも5章と比べて相対的にマイルドな展開だと感じたのが大きかったと考えられる。その為、「6章はゆるい展開がメインシナリオ第2部全体の中でも目立っていた」と言うのは、私自身の相対的な主観が多分に含められている事が否めないが、ただ一つ言える事として6章は前回の5章と比べて絶対的にマイルドである事は間違いないと考えている。

 この様な事から、私自身が6章に対して抱いている想いは実に多岐に渡り、一義的な見方に落とし込むのが非常に難しい状況になっているのが実情であるが、6章は個人的に「前回の5章に比べてシリアスでハードな展開は多少マイルドになり、メインシナリオ第2部の中でもゆるい展開が印象的である一方、本気で考えさせられる部分の内容はメインシナリオ第2部の中でも随一の重さ」があると捉えている為、私自身如何なる場合においても、自分自身が持つ多岐に渡る想いによって心が揺らいでいたと思う。言ってしまえば、6章全体の振れ幅があまりにも大き過ぎる為、どの様な視点や心構えをもって、この6章を受け止めれば良いのかさえ私には全然分からないのである。個人的には、この様な錯綜した心境から抜け出せない事に対して情けない限りだが、迷いがあっても想いそのものは堅牢なので、最早錯綜する想いすら強力な武器に変えてしまう程の強い意思をもっていきたいと思う。

やり場のない宿命と悲しき運命

 ここからは上記の項目で(詳しくは後述)と書いた、エニシダ本人が思わず見せた一面たる「自身が持つ特殊能力に対するコンプレックスと嫌悪感」と、元女神候補生にして、女神候補生時代には共に優等生として良き関係だった「メディアちゃんとハイプリス」について思う事を書き出していきたいと思う。

 

ここから先はこの記事全体の中でもトップクラスに重い内容が含まれているので、特にご注意ください。

 

 まずはリアリストの「真実の手」が1人であり、「歌手」の異名を持つエニシダが抱えているであろう「自身が持つ特殊能力に対するコンプレックスと嫌悪感」についてである。これは終盤に「放課後ティータイム」の演奏によって大衆の関心を根こそぎ奪われ、窮地に追い込まれた際に、エニシダ自身の特殊能力に対する憤りを露わにした言動を見せた事から考えたもので、正直私としては、この様な彼女の言動を見て「これはエニシダが抱える非情な運命を痛々しく体現するもの」と感じ取る以外に思う術がなかった。何故なら、エニシダ「自分の歌を周りの人達にも認められたいと願っているのに、自身が持つ呪い(特殊能力)故に、例え彼女が血反吐を吐くほどの努力を重ねたとしても、彼女が持つ呪いが効力を持ち続ける限りは認めて貰えないと言う、彼女が抱える「自分ではどうする事も出来ない非情な現実」を感じ取らずにはいられなかったからである。

 ただ、エニシダ「自身の特殊能力を使って」絶望のクリエを集めると言う行動に出ていた為、彼女には「自ら積極的に自分の能力を使っている一面がある」のも事実であり、それ故に一種の矛盾が生じている*10様にも考えられるが、エニシダ自身の願望と特殊能力を掛け合わせると「自分の音楽を認められたいと欲する事は、同時に周りの人達を否が応でも絶望に叩き落す事を意味する」と言う構図になる為、彼女は抑々ある種のジレンマを抱え続ける事を宿命付けられていると言え、故にどう足掻いても矛盾がほぼ避けられないと言う悲しき運命を背負う事に繋がってしまっている。つまり、彼女が自分の能力を積極的に使う事は、彼女にはそれだけ世の中の不条理に対する怒りや、自分自身に課せられたどうにもならない呪いに対する悲しみがあると言う事であり、表面的には矛盾が生じている様に見えて、その実態はエニシダが抱える深き闇を体現している訳である。

 また、エニシダ「自分の歌を周りの人達にも認めて欲しいし、喜んで貰いたい」と言う、人間なら誰しも少なからず望むであろう願望を持つ一方、自身の歌声には人々を絶望に追い込み、記憶すら改変できる特殊能力がある(呪いとも)と言う事実そのものも、私からしてみればあまりにも冷血かつ悲愴的な運命だと考えている。だって彼女の歌には、彼女自身が持つ呪いのせいでエニシダ本人の意思とは関係なく絶望に叩き落としてしまうわ、記憶を改変してしまうわの有様で、これだけでも既に彼女の歌を聴いて喜ぶ人間は殆どいない事が確定する為、「自分の好きなものが認められる可能性は絶無に等しい」と言う絶望に打ちのめされると言うのに、彼女はそれに加えて現在置かれている絶望的な状況から抜け出す為の方法が殆どなく、最早一縷の希望を抱く事すらまともにできないと言う八方塞がりな状況下に置かれている訳であり、これを思えば、エニシダが彼女自身に課せられた運命や特性を呪う事に対して僅かでも頷けるだろうし、なにより自分が大好きなものを、よりによって自分自身の能力で蔑ろにしてしまっている事実程、残忍で冷血な運命だと言うのも早々ないのだから。

 そして、これらを思えば、私が終盤におけるエニシダの憤りを見た際に、「彼女には自分の特殊能力に対するコンプレックス及び嫌悪感があるのではないのか」と確信付いたのはある意味当然だったとも思う。何故なら、エニシダは終盤に自暴自棄になり、自身がこよなく愛するだけでなく、誰にも負けないと思える程の自信とプライドに満ち溢れていた「歌」に対しても、破滅的で退廃的な思想を剥き出しにする事すら厭わない程に粗野粗暴な精神状態になっていたが、あれは彼女が抱える特殊能力に対するコンプレックスと嫌悪感が自分自身でも押さえ込めなくなった結果であり、同時に彼女が「本当は歌を純粋に認められたかっただけなのに、それを呪いのせいで自分の意思には関係なく叶わぬ物にされた」と言う怒りと悲しみを体現している事に他ならないと容易に考えられるからであり、これらの諸事情を思えば、エニシダが普段高飛車なのも「自身が抱えるコンプレックスと嫌悪感を周りには隠し通す為」だとも見てとれる。

 纏めると、私が考えているエニシダのコンプレックスと嫌悪感と言うのはエニシダが持つ特殊能力(呪い)に対して、エニシダ本人にとっても『自分の好きなものを周りには認められないものにする諸悪の根源である事』に対して憤りを覚えている」と言う事であり、これが果てしなき苦悩の呪縛としてエニシダを苦しめる要素として機能し、やがてエニシダ本人の思想にも多大な影響を及ぼす様になり、遂にリアリストの「真実の手」の「歌手」として、自分の歌を否が応でも聴衆に認めさせようと、過激な手段をもって人々を絶望に追いやる様になってしまったと考えられる訳である。尤も、これがどこまで真実に迫れているかは自分自身でも分からないのだが、エニシダが自分の歌に対して抱えている悲愴的な想いを思わずぶちまけたのは紛れもない事実である為、その真相が明らかになった時、手放しに喜べる事は恐らくないだろう……。

 また、この様なエニシダの心境から分かるもう一つの事例として、突き詰めると「特殊能力を持つ者全員が、各々望んでいた様な能力が備わっている訳では無い事や、抑々特殊能力を宿す事自体望んでいなかった事」を体現しているのではないかとも私自身捉えている。抑々私が言う特殊能力とは、基本的にはある特定の人でしか扱う事の出来ない特殊な力の事であり、私が思うその特殊能力をまとめると下記の通り。尚、ここではメインシナリオ第2部に深い関わりがある人物をピックアップしている。

  • きらら⇒「聖典の世界の登場人物の力を借りる為、エトワリアに実体を伴わない形*11で召喚するコール(きららが伝説の召喚士たる所以)や、人と人の繋がりを表すパスそのものの感知及び再度繋がりかけたパスの再接続」
  • サンストーン⇒「パスの強制断絶(即ち人と人の絆や繋がりを断ち切る能力)」
  • うつつ⇒「ウツカイが書いた文字の解読、強力なウツカイを自力で召喚(特定の条件下のみ)、エニシダの呪いを目視及び解除可能(解除については例外パターンあり)、リアリスト幹部の対話が突然聞こえてくる(特定の条件下のみ)」
  • エニシダ⇒「自身の歌声を聴いた者を絶望に追い込み、歌を聴いた者の記憶を改変する呪い」

 この様にこの4人は何れも(少なくとも物語上明言され、且つメインシナリオ第2部の時間軸においては)自分だけにしか備わっていない様な特殊能力を持っており、同時にそのどれもがメインシナリオ第2部ひいてはきららファンタジアの世界観そのものにも深い関わりを持つ重要なものなのだが、実の所現時点では「これら特殊能力をどうやって手にしたのか、抑々特殊能力を手にする条件は何なのか」と言うのが殆ど分かっていない為、特殊能力の真意は実にミステリアスなベールに包まれている訳だが、私はそんな特殊能力に対してどこか楽観的に捉えていた節があり、特殊能力によって運命の歯車が狂わされている人がいるとは、よもや思ってもみなかった。

 しかし、その様な楽観的な思考は、メインシナリオ第2部6章に登場したエニシダによって完全に崩壊した。エニシダ自分自身の特殊能力によって自分の好きな歌を周りには到底受け容れられないものにされ、且つ自分の運命さえも自身の特殊能力によってかき乱されていたからである。しかしながら、この事実は同時に今まで何度も書き出してきた様な「特殊能力を持つ者全員が、望んで能力を運用している訳では無い事や、抑々特殊能力を宿す事自体望んでいた訳では無かった人もいる事」に気付かせてくれた重要なきっかけともなり、結果的にエニシダの「特殊能力を持つが故の悲愴的な境遇を考える事」にも至れた訳である。

 

 次に「メディアちゃんとハイプリス」についてである。この2人はメインシナリオ第2部でこそ、かたや聖典を深く愛する者」と、かたや聖典を破滅に追い込もうと画策する者」と言う全く正反対の価値観を持った構図になっているが、元々は同じ女神候補生の優等生2人組にして、2人共にお互いの事をよく理解し合う良好な関係であるのと同時に、2人共に聖典を深く愛し、将来的にはエトワリア全域に届く様な聖典を生み出していきたいと志していた過去があり、故にメインシナリオ第2部の様な対立構図となってしまう気配は微塵も無かった。その為、私としても「あれほど仲が良く、お互いに聖典を深く愛していた過去があったと言うのに……、そんな残酷な話があるのか……。」と、この様な衝撃的かつ悲愴的な事実を信じたくはなかった気持ちも無くは無かったが、メディアちゃんの神妙な面持ちを見れば、最早信じる以外の選択肢は残されていなかった。何故なら、私にはメディアちゃんが勇気を出して打ち明けた事実を否定する事なんて、どう足掻いても出来ないと言うのだから……。

 この様に「メディアちゃんとハイプリス」の関係性や価値観の相違については、私としても心を強く揺さぶるものがあるのだが、その問題とは別に抑々「何故ハイプリスは自身が愛していた聖典を破壊しようと思い立ったのか」と言うのも気になったものである。元々私自身としては、5章以前からハイプリスに対して「元々は真っ当な思想を持ち、多くの人を惹きつける魅力があった人」と言う認識があり、5章で明かされた「ハイプリスも嘗ては聖典を深く愛していた」と言う事実を知った事でその想いは確固たるものとなった経緯があり、それ故にハイプリスは、同じリアリストに所属するリコリスを代表する様に聖典に対して抑々理解が示せなかった」のを理由に聖典を破壊しようと目論んでいる訳では無いとは何となくでも分かってはいた。その為、今回6章で明かされた事実は、私にとっては「やはりハイプリスは単に聖典が嫌いで破壊しようと画策した訳では無かったと確信できた」と言う意味でも重要なのだが、そうなってくると、「ハイプリスが聖典を破壊しようと言う考えを持つに至ったのは何故なのか」と言う疑念が益々尽きなくなる。

 だが、6章ではなんとご丁寧な事に、ハイプリスが「何故聖典に失望したのか」を辿る為の道がある程度示唆されている。尤も、本人の口から語られた訳では無く、メディアちゃんが見せた素振りからある程度は推察できると言うものだが、その様なものを見せられて黙っていられる様な私ではなく、自分の頭の中で色々と考えを張り巡らせたものである。そして、そうやって考えを張り巡らせた結果、私が思うにハイプリスが聖典に失望したのは、6章中盤で語られていた様な「現状の聖典では、エトワリア全域を救済しているとは言えない現実がある事」に訳が隠されていると言う考えに行き着いたのであり、その考えを箇条書きにすると以下の通り。(ナンバリング順となっています)

  1. ハイプリスは女神候補生時代に聖典が抱える問題を知り、自分はその様な問題も解決した聖典を生み出せる様になりたいと誓い、女神にはなれなかったものの、神官として聖典に対する拘りは貫いていた。
  2. しかし、彼女は「単に聖典の信仰を広めようと努力しているだけでは、何時まで経ってもエトワリア全域に届く様な聖典を作り出す事は不可能」と、現状の聖典の限界を悟る様になり、徐々に考えを変化させる様になる。
  3. 考えが変化した末、彼女は最終的に現状の聖典を破壊し、このエトワリアと言う世界の真実を、現状の聖典によって救われていた地域を含めたエトワリア全域に知らしめた後に、新たに誕生する世界の創造を望む様になった。

 箇条書きの構成があまり上手くないとは思うが、端的に言えば「ハイプリスは神官として過ごしていく内に、個人の信仰に頼り切った現状の聖典では、エトワリア全域を救える様にはなれないと悟り、それを解決するには現状の聖典を一度帳消しにして、現状の聖典に代わる新しい物を作らなければならないと考える様になった」と言うのが私の考えであり、私としてはこう考える事でハイプリスが聖典の破壊を望んている理由や、メディアちゃんとハイプリスで進んだ運命が分かたれた事も整合が付く訳である。尤も、この様な事を言うものでは無いが、ハイプリスが本当はどうだったのかをきっちり当てられているとは自分でも到底思う事は出来ないのだが、6章時点ではハイプリス本人の口から彼女自身の経緯について語られている訳では無い為、致し方ない面はある。

 ただ、ハイプリスが元々は聖典に対してメディアちゃん並みに深い理解があったのは紛れもない事実である為、ハイプリスが聖典に望みを失う形で聖典の破滅を望む様になったと言うのは恐らく間違いないと考えている。そうでなければ、彼女は態々「リアリスト」と言う組織体を作ってまで聖典の破壊を遂行する必要は無い訳であり、6章において明かされた衝撃の真実は、このメインシナリオ第2部の根幹にも関わる要素である事は疑いないと思われる。

 因みにメディアちゃんとハイプリスは、メインシナリオ第2部においては「聖典を愛する者と、聖典の破滅を望む者」と言う価値観が全くもって相違する2人となった訳だが、この事実をハイプリスはどう思っているのかは個人的に気になる所である。考えられるものは「メディアちゃんの様に、嘗てとの豹変ぶりに心を痛めている」か、或いは「過ぎ去った過去は最早顧みる事もない」と言うのがあると思うが、ハイプリス本人の言動を見るに、恐らくは後者の傾向が強いと思われ、もしそれが本当ならそれ程悲しい話は無い訳だが、私はハイプリスの人柄全てを知っている訳では無い為、6章時点で全てを決め付けるのは些か早合点だろう。

現状の聖典の限界

 最後に6章中盤でメディアちゃんとうつつちゃん、そしてランプちゃんの3人のやり取りから見えてきた「現状の聖典の限界」について私が思った事を書き出したいと思う。聖典の限界と言うのは「現状の聖典ではエトワリア全域に聖典の加護を届ける事は出来ない」と言う事であり、これは6章中盤におけるメディアちゃんとうつつちゃんのやり取りの中で明かされた聖典が信じられていない地域では、動乱や貧困と言った問題が根深く存在している」と言うものが裏付けとなっており、この問題を打ち明けた際のメディアちゃんとうつつちゃん、そしてその問題を少し遅れて聞き耳を立てたランプちゃんの3人が見せた神妙な面持ちは非常に印象的である。

 この様な聖典の限界をはっきり宣告された事に対しては、私としてもかなり複雑な心境なのだが、実の所メインシナリオ第2部は6章以前から、初登場の3章時点から「聖典の内容が理解できない」と宣告しているリコリスや、5章における聖典の信仰を捨ててリアリスト側に寝返った人物等、聖典が必ずしも万人の救いになっているとは言えないと感じさせる様な描写は確実に存在していた為、6章において聖典は必ずしも万能ではない」と宣告された事に対する驚きと衝撃こそ隠せなかったものの、私自身心のどこかで分かってはいたと思う。尤も、6章で宣告されるまでは聖典にはどうしても限界がある」と考える事に対してとても前向きにはなれなかったのも事実であり、ある意味6章で放たれた宣告は私にとって「狼狽えるな。自分の考えを信じて貫き通せ。」と言われた様なものだと思う。

 そんな吹っ切れた想いがあるからこそ言える事なのだが、私は聖典にはどうしても限界が存在し得る事実」に対して「ある程度は避けられない宿命」だと捉えている傾向がある。何故なら、聖典に記載されている内容を万人の価値観に迎合させる事は非常に困難なのは明白である上、聖典の内容をどの様に解釈するかは読み手の自由である事を思えば、聖典の内容が理解できないと考える人が一定数いる事はある意味当然の道理と考えられるからであり、端的に言えば「エトワリアに在住する人全員が、聖典の内容に対して理解を示す訳では無い」と考えている訳である。そして、その仮説を裏付けるものとして「メインシナリオ第2部において聖典の破壊を目論む『リアリスト』の存在」聖典の内容が理解できないと公言するリコリス、そして「エトワリアにおける動乱地域の大半は、聖典が信じられていない地域である事」等々が挙げられ、最早聖典にはどうしても限界がある事を思わざるを得ない実態が浮き彫りになっていると言わざるを得ないであろう。

 しかしながら、私はこの様な実態を聖典を生み出す存在である女神様や神殿関係者が黙っているとは到底思えないとも考えており、現時点でもその実態は殆ど描写されていないとは言え、女神様や神殿関係者としても「現状の聖典の限界に対する何かしらの対策」を講じていると考えている。だが、それでも聖典の問題は何故一向に解決されないかと言えば、女神様や神殿関係者としても聖典の問題に対して真剣に向き合っているが、問題が問題だけに有効な解決策が中々見つからずに苦慮しているから」だと考えており、もどかしい実態があるが故だと捉えている。

 また、元々は優秀な女神候補生であり、聖典には幾多の問題がある事を女神候補生時代に受けた授業で知り、それからその聖典の限界を克服出来る様な聖典を生み出せる様な存在になりたいと誓ったメディアちゃんとハイプリスにしても、メディアちゃんはスクライブギルドのギルド長として聖典の写本に精を出すも、聖典の問題に対しては中々もどかしい想いを抱え続けており、ハイプリスに至っては既存の聖典を見切りをつけ、リアリストの首謀として聖典の破壊を目論む様になった結果、今回のメインシナリオ第2部の事件を引き起こすまでに至った辺り、どんなに知見に溢れる人でも聖典の問題を解決する事が極めて難しいのを改めて印象付けさせている。

 この様な実態を鑑みれば、私としても現状の聖典が抱える問題の解消は非常に難しいと言う考えに異論はなく、その様な現状を鑑みれば、ハイプリスの様に「聡明で聖典に深き理解ある人物であっても、問題を解決する為には現状の聖典を一度チャラにしなければならない」と言う急進的な思想に至り、そして実行に移す事もあり得ないとは言い切れないと考えている。無論、その様な急進的な行動を実行する事は、出来れば無いに越した事はないと思うし、現状の聖典を維持したまま問題点を解決できるのが理想形であるのも事実だと思うが、言ってしまえばそれが出来たのなら、今回のメインシナリオ第2部の様なエトワリアの根幹を揺るがすまでの事態にはならなかった訳であり、それ故に今回の騒動は聖典はこのままで良いのか?」と言う長年の課題が急進的な形で表れている側面があるとも捉えている。

 ただ、それらの事情を加味しても、メインシナリオ第2部においてリアリスト達が遂行しようとしている聖典の破壊」は、エトワリアや聖典の世界に与える影響がはかり知れず、また多くの人の幸せや権利を無慈悲且つ身勝手な形で奪ってしまう事にも繋がってしまう事や、リアリストに所属する人々の思想があまりにも退廃的且つ自暴自棄が目立つだけでなく、私利私欲の為に聖典の破壊を望んでいる面が否めない事もあって、どう足掻いても許される様な行為ではないと言わざるを得ないと思われる。しかしながら、リアリストの行為が決して許される様なものでは無いとは言っても、リアリストの面々の様な現状の聖典に対して不満を抱く者や、抑々聖典に対して理解が示せない者もいるのもまた事実であり、メインシナリオ第2部ではその様な不満が「聖典の破壊への渇望」として具現化した側面がある為、リアリストが取った行動によって、結果的には聖典に対する課題や意義が大きく変わる可能性も考えられるのではないかと捉えている。尤も、6章時点でどうなるのかは正直まだまだ分からないが、最終的には聖典に対する何か大きな答えが示されると考えている訳である。

3.あとがき

 以上が今回メインシナリオ第2部6章で私が考えた事である。6章は前回の5章に比べると、想像を絶する程の痛みや悲しみ、そして怒りが迸る(ほとばしる)までにストレートできつい描写は幾分マイルドになっており、これに加えて6章ではメインシナリオ第2部でも随一のゆるい展開が全般的に見受けられている*12為、5章よりもかなりマイルドに進められる様になっているが、6章はもう一つの一面として精神的な意味でのシリアスさとハードさ加減がメインシナリオ第2部の中でも随一と言う面があり、特にリアリストのエニシダとハイプリスが抱える悲しき経緯や宿命、そして聖典をめぐってエトワリアに存在する問題点は、メインシナリオ第2部の根幹にも関わる内容なのも相まって、考えれば考える程に心がどんどん重くなっていく痛さを醸し出している。その為、6章はほんわかした展開と悲愴感溢れる展開との振れ幅が非常に大きいのが特徴的だと言え、全体的に見れば5章よりかはマイルドなものの、その恐るべき潜在力はメインシナリオ第2部の中でも随一である。

 その様な事から、6章はどの様に捉えていけば良いのか、その糸口を掴むのが悍ましいまでに難しく、捉え様によって「メインシナリオ第2部の中でもマイルドでゆるい展開が印象的だった」とも「よくよく考えてみれば、今までの章の中でも実はトップクラスに悲愴的な事実が散りばめられていた」ともなる振れ幅の大きさは、最早頭を抱えるほかなかった。なまじ前回の5章のインパクトが強烈過ぎるまでに強烈だった為、中々気付きにくかったが、6章も5章とは別ベクトルながらも本気で心を抉りにかかっていた訳であり、更に5章と違ってえげつなさが表立って表れにくい点を思えば、6章はある意味陰の実力者であり、その実力は5章すら上回る可能性すらあると思う程だが、今後の章で5章、6章よりも更にハード且つ悲愴的な展開を引っ提げたシナリオがやってくる可能性も否定できないと思わせてくれる点も、このメインシナリオ第2部の恐ろしい点であり、魅力的な点でもあると思う。

 また、私としてはこの6章でメインシナリオ第2部の根幹にも関わる情報が遂に示唆され始めてきたとも見ており、それ故に今後の章ではエトワリアを揺るがす程の重要な真実が見えてくるだけでなく、未だその全貌が見えないリアリストの存在意義や抑々の結成に至るまでの経緯、そしてうつつちゃんがエトワリアに来た経緯や、サンストーンときららの関係性等々、メインシナリオ第2部を取り巻く謎にも切り込んでいく様なシナリオが待っているのではないかと考えている。尤も、私には最早このメインシナリオ第2部がどの様な展開を迎えていくのか良く分からないのが正直な本音だが、私としてはどの様な展開になっても最後までメインシナリオ第2部を読み進めていく所存である。

 最後に、この6章は全体的に「音楽」と深い結び付きが感じられるシナリオ構成故に、様々なジャンルの音楽が好きな私にとっても、6章の舞台の「音楽の都」の人々や、きららちゃん達とりわけ聖典に対する深き愛を持つランプちゃんとメディアちゃんが「放課後ティータイム」の生演奏を大いに楽しみ、そして感銘を受けた場面や、感情的になりながらも自分の音楽に対する拘りを捨てなかったエニシダの熱き姿勢等々、心に直接響くまでに深き感銘を受ける様な内容が様が多かったのは改めて書いておきたい。そして、今回は非常に長い内容となったが、それもひとえにメインシナリオ第2部に対してそれだけ本気で向き合っている事だと思いつつ、今後の章を待つとしたい。

 

おまけ

今回の文量はこのきらファンの感想・考察としても、私のブログ記事全体としても過去最大の400字詰め原稿用紙63枚分にもなった。今回は個人的に書きたい事が盛り沢山だったとはいえ、ここまでの文量になるとは正直私でも予想外であった為、今後の章ではここまで膨大な文量になる可能性はそこまで高くないと思われるが、次はどうなる事やら……。

*1:現時点では5章が最も顕著に表れていた印象があり、あの時の痛みは相当なものだった記憶がある。

*2:世界とは「エトワリア」の事であり、欺瞞はここでは「嘘と偽りに満ちた状態」を指す。ただ、それはあくまで「リアリストからすれば」と言う事を忘れてはいけない。

*3:但し、これは彼女自身「人間は所詮ひとりで生きていくしかない」と考えているのが大きく、ある意味強がっている可能性もある。

*4:恐らくエニシダ本人の特殊能力と、本人が抱える「運命に対する怒りと悲しみの感情」がそうさせている。

*5:抑々彼女の担当は「ギターボーカル」である為、その観点からもバンドには必要不可欠だと言える。

*6:特に5章で登場した「ヒナゲシリコリススイセン」が顕著であり、5章が凄まじくシリアスでハードな展開になっているのも、この3人が破滅的な思想に基づいた行動をとっている影響が大きい。

*7:世の中は金ありきと考えるスズランや、精神的な救いがあっても腹が膨れなければ意味が無いと考えるスイセンが顕著な例。

*8:ハイプリスが過去に聖典を愛していた事実そのものは、前回の5章最終盤で本人の口からうっすらながらも語られていた為。

*9:抑々5章がメインシナリオ第2部の中でも随一のカタルシスが感じられる事自体、その想像を絶する程の壮絶さに拠る所も大きいとは思うのだが……。

*10:エニシダが望む「自分の歌を周りの人達にも認めて貰いたい」と言うのは、彼女が6章で見せた様な「人々を絶望に追い込んだり、人々の記憶を改変させたりする」行為では到底望めない為。

*11:実体を伴う形での召喚は「オーダー」や「リアライフ」であり、どちらもエトワリアと聖典の世界に与える悪影響が計り知れない為、禁忌魔法としてその使用はいかなる場合でも固く禁じられている。つまり、メインシナリオはどちらも「世界の危機を救う為の冒険」と言う面が深く存在している。

*12:ゆるい展開自体はメインシナリオ第2部全体を見ても(5章も含めて)結構存在しているが、6章は特にそれが印象的である。

きらま2022年3月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察

 こんにちは。2022年最初のきらまの発売日を迎えましたが、私は2022年になってから、パンク・ロックひいてはロックに対するマイムーブメントを更に強めています。その為、徐々に趣味の軸が移りつつある状況にありますが、ごちうさ含めた日常系に対する熱意はこれからも継続させていく所存なので、何卒宜しくお願い致します。

 さて、今回はまんがタイムきららMAX2022年3月号掲載のごちうさの感想を書きたいと思います。今月号は先月号同様、一貫した時間軸の中で物語が進んでいく「何時ものごちうさ」と言ったテイストになっていますが、その中でも中々「これは重要だな」と思わせてくれる要素も散りばめられているので、今回は私が重要だと思った所を中心に書き出していきたいと思います。

※注意※

最新話及び単行本10巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。

1.はじめに

 今回のお話は正に日常系を地で行く様な構成であり、それ故に激震が走る展開も少なくなかった最近のごちうさの中で「ほのぼのしたごちうさが中心的に表れてきた」と述懐させられる印象が強くあるが、その一方で「確実に成長している皆の姿」「運命の分岐点には確実に近付いている」と思わせる様な描写もしっかり用意されており、総じて言うなら、今月号は「全体を見るなら比較的大人しめだが、こと焦点を絞ると重要な何かが見えてくる」と言う中々に奥が深い構成になっていると考えている。

 また、今月号は主に「チノフユ」に焦点が当てられたお話になっているが、他の登場人物に関しても今まで見せなかった意外な一面を見せる場面も登場しており、その要素も個人的には絶対に外せないと思える程重要なものだと捉えている。今回は最初に大筋を書き出した上で、途中からは「私が重要だと思った事」を書き出すものとする。

2.購読した感想・考察

お弁当から見える想い

 今月号は心愛ちゃん達が通う学校において「お弁当を食べ合う」事から始まるのだが、今月号のキーポイントはその「お弁当」なのは明白であり、お弁当をめぐっては今後終盤まで非常に重要な要素として機能している。尚、お弁当を食べ合う場面で様々な一面が見えているが、その中で一際目立っていたのは冬優ちゃんであり、彼女は他の4人がお弁当を食べているのをよそに一人小さなベーグル一個だけを頬張っているのである。普通に考えても、お昼に小さなベーグル一個だけではいくら何でも流石に足りないと思われるが、冬優ちゃんはどうも「食に対して興味があまりない」らしく、故に冬優ちゃんからしてみれば、小さなベーグル一個だけでも別にそこまで気にする様な事でも無いのだろう。何だか心配にもなるが、千夜ちゃん達のお弁当を貰う際には普通に喜んでいた為、冬優ちゃんは抑々「食事そのものが嫌い」な訳では無く、単純に「食に対して興味があまりないだけ」だと思われる。

 そんな中、千夜ちゃんが手作りお弁当を交換し合うのはどうかと持ちかけるが、この手作りお弁当を交換し合う事は今月号の主軸であり、その展開は今月号の終わりまで続いている。尚、手作りお弁当の交換し合う組み合わせは、双方向は「ココフユ」、一方向は確認できる限り「理世ちゃんから心愛ちゃん」「紗路ちゃんから理世ちゃん」「心愛ちゃんから千夜ちゃん」「千夜ちゃんから紗路ちゃん」と言う構図になっており、それぞれ自分が作ったお弁当を食べて貰う為に奮闘する様子が窺える。また、組み合わせを見ると「心からの親友」「同じバイト仲間にして良き親友」・「同じ高校の先輩と後輩」*1「昔からの幼なじみ」とバラエティー豊かであり、改めてごちうさが魅せる人間関係の広さが良く分かる。

 そして、その中でも特にフォーカスが色濃く当てられているのは「チノフユ」であり、お互いに手作りお弁当で喜んでもらう為に尽力しようとする中で、2人共に理由は違えど「私が本当に上手く出来るのか」と思い悩む場面もあるのだが、そんな2人に対して智乃ちゃんには心愛ちゃんと理世ちゃんが、冬優ちゃんには千夜ちゃんと紗路ちゃんがそれぞれサポートしてあげており、それ故に手作りお弁当の為に友達が集結し、尽力すると言う形で「友達を想い合える優しさ」が目に見えて分かる様になっている。ただ、智乃ちゃんと冬優ちゃんではそのサポートの受け方に違いがあり、この違いに智乃ちゃんと冬優ちゃんそれぞれの現在の成長度や、木組みの街が持つコミュニティに対してどの程度馴染んでいるかが色濃く表れていると言える。しかしながら、全体を通してみれば「お弁当を通じた繋がりの再認識が非常に意味のあるもの」なのは明白であり、ここからはそんな「お弁当」を中心とした繋がりを読み込んでいく中で、私が特に重要だと考えた事を書き出したいと思う。

チノフユの想い合い

 まず今月号においては、何があっても「手作りのお弁当を作り合う事」に対して最も描写が多かったチノフユを外す訳にはいかないであろう。チノフユは「同じ高校の同級生にして大切な親友」であり、その関係性は旅行編を経て10巻で更に深められている様子が描かれている。性格は両者で共通している部分も多いが、智乃ちゃんが精神的な成長の甲斐あって、あらゆる物事に対して割と能動的なのに対して、冬優ちゃんは内気さ故にやや受動的だと言う違いがある。ただ、その構図は智乃ちゃんにとって「自分の事を妹の様に可愛がってくれている心愛ちゃんとの関係」を思わせるものである為、その事も2人の仲をより深めていく中でプラスに作用していると思われる。また、2人共にチェスが強いと言う共通点があり、特に冬優ちゃんは大人顔負けの腕前の持ち主だが、2人共に嫉妬の感情に駆られると、途端に本来の実力を発揮できなくなると言うのも共通している。

 そんなチノフユだが、この「お弁当の作り合い」に対しては2人共に前向きであり、とりわけ食に対する興味が全然ない冬優ちゃんが興味を示したのは非常に意味がある事だと考えている。何故なら私からしてみれば、自分が興味がない分野に対して「友達が何やら楽しそうな事をやっているからやってみたい」と思えるのは非常に凄い事だと考えているからと言うのもあるが、それ以上に冬優ちゃんが「智乃ちゃん達がやっている事に私も飛び込んでみたい」と言う意思を持っているのが改めて確認できるからである。10巻で目まぐるしい成長を見せた冬優ちゃんだが、元々は恥ずかしがり屋且つ引っ込み思案な性格である為、木組みの街に来たばかりの頃だったら、恐らく今月号の様な事は中々難しかったのではないかと考えている。つまり、今月号での冬優ちゃんの行動は、それだけで「彼女の成長を示している」訳なのである。

 ただ、こと「お弁当作り」に関しては2人共に中々苦慮していた様子を見せていたのが印象的であり、苦慮していた理由は、智乃ちゃんは主に「どうやっても自分の父親のお弁当作りの腕には敵わない事*2であり、冬優ちゃんは主に「抑々食に興味がない故に、どの様なお弁当を作れば良いのか全く分からなかったから」なのだが、その様な形で苦慮していたのも「冬優ちゃん、智乃ちゃん共にお互いの事をきちんと想い合っているが故」なので、それだけ「美味しいお弁当を食べて貰いたい」と言う想いが存在している証でもある。ここからはそんな2人のお弁当作りについて、私が重要だと考えた事を書き出したいと思う。

 智乃ちゃんのお弁当作りに関して私が重要だと考えた事は、前述の内容とかなり被っているが、智乃ちゃん自身が「冬優ちゃんには自分が作った最高のものを食べて貰いたい」と言う妥協なき想いが強く存在している事である。何故智乃ちゃんには「妥協なき想いがある」と考えたかと言えば、抑々智乃ちゃんは料理上手な事もあって、心愛ちゃんと理世ちゃんからはそこまで心配されていなかった中で、智乃ちゃんはそれでも「自分の父親にはどうしても敵わない為に、自分の作ったお弁当が、果たして冬優ちゃんに満足して貰えるか不安」と言う心境を明かしていたからである。これが意味する所は智乃ちゃんが「やるからには、例え自分の父親であっても負けない物を作りたい想いがある事」であり、智乃ちゃんの負けず嫌い且つ一切の妥協を許さないストイックな一面が垣間見えている訳である。

 また、智乃ちゃんは心愛ちゃんと理世ちゃんとも相談をした上で、最終的にキャラ弁を冬優ちゃんに作ってあげるが、智乃ちゃんは芸術感性がドラスティックとも、オルタナティブとも呼べる程に超個性的なものである為、冬優ちゃんを思わず驚かせた上で彼女を圧倒させている。尤も、そんな冬優ちゃんをよそに智乃ちゃんは自信に満ち溢れた良い表情を見せているのだが、これは智乃ちゃんが「自分の芸術的感性に自信を持っている証」であり、私としても非常に重要な意味を持つ場面だと考えている。と言うのも、一昔前の智乃ちゃんはそのドラスティックな芸術的感性を気にしていた為であり、それ故に今回の智乃ちゃんの自信に満ち溢れた表情が、彼女自身が持つ芸術的感性に絶対の自信を持てた事の表れになっているからである。勿論、そこに至れたのは智乃ちゃんにとって大切な人達の尽力があったからなのだが、その意味では心愛ちゃんと、智乃ちゃんの母親であるサキさんは、智乃ちゃんの芸術感性を同じ様な観点から絶賛している事実があり、心愛ちゃんはその事を知る由は無く、智乃ちゃんも「同一のものでは無い」と否定していたとは言え、智乃ちゃんが見せたその時の表情は和やかなものであった*3為、今思えば心愛ちゃんにもその独創的な芸術感性を褒められた時から、智乃ちゃんの中でも少し変化が起こり始めたのかも知れない。

 一方冬優ちゃんのお弁当作りに関して私が重要だと考えた事は、本人は半ばその場の勢いで、自分の興味関心について良く考えずに決めてしまったと焦っていたとは言え、抑々「食に興味があまりなかった彼女が、親友の為にお弁当作りに励もうと決意した事」である。何故なら、最早説明するまでも無いと思われる程に当たり前の事だが、自分にとって興味が全くと言って良い程無かった事をやりたいと決断するには、それ相応の強い決意が必要になるからであり、それ故に半ば勢いに助けられたとはいえ、冬優ちゃんの決断にはそれだけ「智乃ちゃんと色んな事にチャレンジして、どこまでも親交を深めたい」と言う確固たる想いが込められていると感じさせられたからである。

 ただ、それでも「お弁当を誰かの為に作る事」が、冬優ちゃんにとっては智乃ちゃんとそう言った約束を付けるまで興味が無かった事が災いして、智乃ちゃん以上にお弁当作りに苦戦している様子が見受けられ、一時は最早分からなさ過ぎて「カップラーメン」を手に取りながら悩んでいた程である。手作りのお弁当を作ろうと言うのに、カップラーメンを手に取りながら悩むとは、冬優ちゃんがそれ位「食に興味が無かった事」が良く分かるが、それにしてもインスタント食品を手に取るとは驚く。そして、路頭に迷った彼女は、偶然同じスーパーに買い物に来ていた紗路ちゃんに頼る事を決め、ここから冬優ちゃんは紗路ちゃん(この後直ぐに千夜ちゃんと合流して千夜シャロ2人)と一緒にお弁当作りに励む訳だが、私としては勇気を出して紗路ちゃんに助けを求められたのも冬優ちゃんの大きな成長の一つだと感じている。私も恥ずかしがり屋な傾向があるが故に経験があるのだが、恥ずかしがり屋な傾向にある人は、咄嗟に人に話しかける事に恥ずかしさから戸惑いが生じて、そのまま話しかけられずに終わってしまうケースが起こり得る事が多く、それ故に私もそれでかなり苦労した過去がある*4が、今回冬優ちゃんは恥ずかしくても勇気を出して紗路ちゃんに助けを求める事が出来た訳である。それは、恥ずかしがり屋な冬優ちゃんにとっては大きな一歩だと思うには、私にとっては十分なのである。

 そんな冬優ちゃんだが、紗路ちゃんに助けを求めて後に千夜シャロと一緒にお弁当作りの練習に励む事になるが、ここでも冬優ちゃんはそれまで食に興味が無かったが故なのか、お弁当作りに悪戦苦闘する様子が見受けられ、そんな中でも冬優ちゃんが一生懸命に作った試作品は、作った本人ですら驚いてしまう程の見た目であり、味にしても自他共に認める程の愛想笑いの達人である紗路ちゃんでさえ、思わず笑顔が崩れてしまう程のものとなってしまったが、それでも冬優ちゃんは、千夜シャロが見せた優しさと2人のお互いを想い合ったやり取りを見て「友達の為にお弁当作りに励む事に対して、喜びと楽しみを覚えた様子」を見せており、例え失敗を重ねても、出来るまでずっとサポートしてくれる千夜シャロに対して感謝の気持ちを込めた言葉を送っているのは印象的であり、私としても「冬優ちゃんの熱意や友達を想う気持ち、そして自分の事を思ってくれる友達に対する想い」が汲み取れる事が重要な事だと認識しているし、やはり「新しい事をまずはやってみる事が大切」と思わされる限りである。

 そして、冬優ちゃんは最終的に自分なりの全力を尽くして智乃ちゃんへのキャラ弁を完成させるが、その見た目は智乃ちゃん程では無いにしても、結構ドラスティックな傾向が強めに表れたものになっていた。やはり誰かの為に料理を作る興味が今まで無かったが故に苦慮が大きかった事が窺えるが、智乃ちゃんはそんな冬優ちゃんの涙ぐましい努力を感じ取ったのか、冬優ちゃんが作ったキャラ弁のキャラクターが何かを一発で当てて、冬優ちゃんを感動させているのである。何というか、正にこれ以上ない位の友情であり、想い合いと言うに相応しい場面であると思うばかりだが、それ以上に「想いが込められていれば、見た目のクオリティは問題にならない」と、改めて突き付けられた様な感触であり、私としても新しい事にも怖気づいて蹲っているのではなく、勇気を出して精進しなければならないと思うばかりである。

多種多様な関係性から見える想い合い

 ここからは「ココリゼ」・「リゼシャロ」・「ココ千夜」・「千夜シャロ」の構図の中で私が重要だと感じた事を書き出したいと思う。因みにこの4ペアだが、それぞれ「異学年同士のバイト仲間にして良き親友」・「同じ高校の先輩と後輩」・「同じ学校の心からの親友」・「昔から苦楽を共にしてきた幼なじみ」と言った感じで、十人十色の構図を成している。

 まずはココリゼから書き出したいと思う。ココリゼは「同じラビットハウスで働いているバイト仲間にして良き親友」であり、基本的には自由でマイペースな心愛ちゃんを真面目且つ几帳面な理世ちゃんがツッコミを入れる事が多いが、理世ちゃんもお調子者な一面がある為、心愛ちゃんと一緒になる若しくは心愛ちゃん以上に調子に乗る事もしばしばあり、結果的に年下である心愛ちゃんや、場合によっては2人共智乃ちゃんから窘(たしな)められる(=軽く怒られる)事も少なくない。その為、ココリゼはある種のお姉ちゃんコンビ*5でありながら子供っぽい所が目立っていると言えるが、これはそれだけココリゼの2人が学年の違いを超えた仲良しである事の裏返し*6でもあるが。

 そんな2人は今回のお弁当作りにおいては、アドバイスを懇願してきた智乃ちゃんに対して的確なサポートを行っているが、この2人にもお弁当作りの構図は存在しており、それは「理世ちゃんが心愛ちゃんのお弁当を作ってあげる」と言うものである。因みに心愛ちゃんは当初理世ちゃんに作ろうとしていたが、理世ちゃんはこの時紗路ちゃんから作ってもらう約束を付けていた為、結果的に「理世ちゃんから心愛ちゃん」の一方向になっている。

 ただ、ココリゼは今月号において表立った描写が他のペアに比べてそこまで多くない為、それ故に様々な事を洞察するのは容易では無いのだが、そんな中でも個人的に良かったと感じたのは「通っている学校も違う異学年同士でありながら、気軽にお弁当作りの約束をし合える事そのもの」である。これは言うならば「異学年同士とは思えない位に仲が良い」という事であり、我ながら「今更それを言うのか」と言った感じではあるが、冷静に考えてみても理世ちゃんは他の高校生組より1学年先輩である為、それ故にある程度距離感が生まれてもおかしくない筈な中で、こと心愛ちゃんと理世ちゃんは、元々学年若しくは年の差がそこまで気にならないごちうさの中でも、ココチノ程では無いにしても、元々誕生日が2カ月程度しか離れていない*7のもあってか、ココリゼは特に距離感が近い異学年同士の2人組と言う印象が強くあり、今回もそんな2人の距離感の近さが如実に表れていた為、今回私はココリゼの「異学年の壁を超えた仲の良さ」を重要な事として取り上げたのである。

 次はリゼシャロである。リゼシャロは元々「同じお嬢様学校の先輩と後輩」と言う関係性であり、紗路ちゃんにとっては憧れの人でもある。ただ、理世ちゃんは既に大学生となっている為、「同じ学校に通う先輩後輩」と言う構図は既に無くなっているが、紗路ちゃんが理世ちゃんの名前を出す時は、一部の例外を除いて現在に至るまで一貫して名前の後ろに「先輩」を付けている。その為、他のペアに比べて距離感が若干ある様に見えるが、これはあくまで「他のペア」と比べてであり、常識的に考えてみればリゼシャロの距離感はかなり近く、それは他の学校の同級生の反応を見れば一目瞭然と言える。因みにリゼシャロは2人共に容姿端麗且つ頭脳明晰、更には運動神経も良い事から、お嬢様学校の中でも有名な存在であり、紗路ちゃん自身にその自覚はあまりない様だが、今やリゼシャロ共に憧憬の的となっている。また、この様な構図はお嬢様学校にはもう一つ存在しており、それが巷では伝説とも称される「青山さんと凜ちゃん」と言う訳である。

 そんなリゼシャロだが、今回は「紗路ちゃんが進学の為に勉強を理世ちゃんから教えて貰っている事に対する恩返しとして、理世ちゃんからお弁当作りをリクエストされた」という事で、彼女は半ば浮かれているとも言える程に張り切っており、お弁当作りに関して教えを請いた冬優ちゃんに対してもそんな浮かれ気味のテンションを見せていた。確かに憧れの人から直々にリクエストを受けた暁には、誰だって多少なりともテンションが上がって浮かれ気味にはなるものだが、それにしても紗路ちゃんのテンションの上がり具合は些か突出していると思う。ただ、紗路ちゃんのその様な心境は、それだけ「理世ちゃんの事を憧憬し、同時に大切に想っている事の表れ」でもあり、それはそのまま冬優ちゃんが気付いた「友達の為に何かをする事の楽しさ」にも大きく関わっている為、結果的には非常に重要な意味を帯びていると考えている。つまり、紗路ちゃんが持つ「世話焼きとも、人想いとも言える程、人に対して何かをする事に対して一生懸命さと楽しさを見せられる」と言うのは、普段はそこまで顕在化する事はないかも知れないが、友達の心には確実に響いているのである。

 尚、そんな紗路ちゃんが理世ちゃんの為に作った弁当だが、紗路ちゃんの幼なじみであり、仕掛け(細工)を施すのが好きな千夜ちゃんと作った事により、ロシアンルーレットなる仕掛けを千夜ちゃんの手によって施される。だが、その仕掛けに嵌まったのは理世ちゃんでは無く、理世ちゃんの昔なじみ且つ大学の同級生の、私にとってはごちうさ界のオルタナティブ的存在」とまで捉えている狩手結良ちゃんであり、結良ちゃんは揶揄い半分に理世ちゃんのお弁当からひょいとおかずを摘まんだばっかりに、千夜ちゃんの細工に見事嵌まってしまったのである。正に「因果応報」と言う訳だが、その時の結良ちゃんのリアクションが中々に良かった為、私としては「結良ちゃんはリアクション芸に向いているのでは?」と思う反面、心の何処かでは「これは千夜ちゃんに直接見られなくてよかったかも……。」とは思った。何故なら、この様な反応を千夜ちゃんに見られたら最後、結良ちゃんはノリが良いターゲットとして千夜ちゃんからその様なロシアンルーレットを頻繁に嗾けられる様になるのは明白なのだから。尤も、千夜ちゃんには悪気も悪意も一切合切ないのだが……。

 3番目はココ千夜である。ココ千夜と言えば「同じ高校に通う大親友」であり、お互いに波長が合ったマイペース名コンビであるが、2人共に天然ボケ気質が強く、そのマイペースさ故に突拍子も無い様な言動を突然する事も少なくない為、図らずも周りの人達を振り回す事もしばしばある。ただ、2人共に悪意がある訳では無い上、振り回されている方にしても「振り回されていても楽しいから良い」と言う意思が確かに存在している為、結果的に多くの楽しいを生み出す原動力となっている。また、2人共マイペース且つ天然ボケな気質が強いとは言っても、その洞察力や言霊力は目を見張るものがあり、それ故にその2つに裏打けされた心愛ちゃんと千夜ちゃんの真面目な言動は、時に友達の人生観や価値観にも大きく影響を与える事すらある程のもので、そのインパクトさでこの2人の右に出る者は早々いない*8その為、このコンビは「単にマイペースだけに留まらない、あらゆる可能性を秘めた恐るべきコンビ」とも言える。

 そんなココ千夜だが、今回のお弁当作りでは「心愛ちゃんが自らの意志で千夜ちゃんの為にお弁当を作った」と言う形になっており、その為に心愛ちゃんが千夜ちゃんに対してその様な趣旨を込めた態々メールを送っている程。因みにココ千夜のお弁当作りに関しては、メールのやり取りや学校で見せたココ千夜のやり取りを見るに「元々緻密な計画の上で練られたものでは無く、半ば突発的に練り上げたもの」だと思われるが、個人的には「だからこそ見えてくるものもあるのではないか」と考えている。どういう事かと言えば、心愛ちゃんにとって「誰かの為に何かをしてあげる事は、別に事前計画を必要とする事ではない」という事であり、心愛ちゃんの良さが前面的に表れていると言う訳である。

 ただ、今回のココ千夜において最も重要なのは、心愛ちゃんの手作りのお弁当を受け取った千夜ちゃんが発した言葉であり、この言葉に対して心愛ちゃんは「どういう事?」と言った感じで良く分からなさそうな反応をしていたが、私にとっては「今回の手作りお弁当交換ひいては人と人との繋がりを体現する様な重要な言葉」と捉えたのだが、この事は後述する。

 最後は千夜シャロである。千夜シャロと言えば「幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた幼なじみ」であり、普段はボケ気質で悪戯好きな千夜ちゃんに対して紗路ちゃんが振り回されたり、ツッコミを入れたりする姿が印象的であり、それ故に所謂漫才コンビ*9の様な立ち振る舞いが多い千夜シャロだが、それは「2人がお互いの事を心から大切に想い合っている事の証」であり、2人の仲は非常に良好且つ強固なものである。抑々千夜シャロが漫才コンビの様な立ち振る舞いが出来るのも、2人の確かな信頼関係があってこそであり、その意味でも絆の固さは紛れもなく本物だと言える。

 そんな千夜シャロだが、今回のお弁当作りでは半ば唐突に「千夜ちゃんから紗路ちゃんに作ってあげる」事になったのだが、実は今月号において紗路ちゃんがその千夜ちゃんが作ったお弁当を喫食(きっしょく)するシーンはどういう訳か描写されていないのである。その為、果たして紗路ちゃんが食べた千夜ちゃんお手製のお弁当がどの様なものだったのかを直接的に知る術は無いのだが、それにより千夜ちゃんはロシアンルーレットを仕込もうとして、紗路ちゃんは当然ながらそんな事はするなと拒否する展開があったのだが、それも結局どうなったのかは、今月号においては描写が無い為分からず仕舞いである。その為、謎だらけと言えばそうなのだが、その中でも千夜シャロの2人が「友達の事を想ってお弁当のメニューを考えている事」はハッキリと分かる事であり、それは冬優ちゃんの価値観にも「友達を気遣う事の大切さと喜ばしさ」と意味で大きく影響を与えている。分からない事が多くても、分かる事がはっきり意味を持っているならそれで良いのである。

 ここまで「ココリゼ」・「リゼシャロ」・「ココ千夜」・「千夜シャロ」の4ペアが見せたお弁当作りに関して書き出してきたが、それぞれが全く違う姿を見せているのが特徴的であり、そこから多かれ少なかれ他の人物にも影響を与えてもいる。今回はあくまでチノフユが主軸である所が大きい為、チノフユ以外のペアはチノフユに比べると一歩引いた立ち位置になっていると思うが、その影響力は確かなものがあり、それ故に決して外す事の出来ないものなのである。

千夜ちゃんの発言について思う事

 今月号を読んで私が重要だと思った事の最後として、先の部分で「後述する」と記述した「心愛ちゃんの手作りのお弁当を受け取った千夜ちゃんが発した言葉」について、私が感じた事、思った事を書き出したいと思う。また、その言葉は私にとって「今回の手作りのお弁当交換ひいては人と人との繋がりを体現する様な重要な言葉」と称した理由についても書き出すものとする。

 抑々今回私が重要視した千夜ちゃんの言葉は、お弁当交換について心愛ちゃんと学校で話し合っていた場面で発せられたものであり、内容としては「お弁当交換から見える友達の輪」を意識したものである。前述の通り、この言葉を聞いた心愛ちゃんはその様な千夜ちゃんの言葉に対して良く分かっていなさそうな反応を見せていたのだが、こと私にとっては千夜ちゃんの優れた洞察力や卓越した言葉のセンスに改めて驚かされるとともに、全体的にほのぼのしていた今月号の中でも特に私の心に刺さった言葉として印象に残っていた。因みにこの様な優れた洞察力を窺わせる発言が、私がココ千夜の2人を「あらゆる可能性を秘めた恐るべきコンビ」と評している理由の一つでもある。尤も、それが表立って表れる事は決して多くは無い(特に心愛ちゃん)が、いざ表れた時の力は一際目立っている。

 ただ、私は今月号において千夜ちゃんが提唱した「お弁当から見える友達との繋がり」についてだが、私は「お弁当以外でも、今月号の様な繋がりは見えてくるのではないか」と考えている。抑々私は今回の「お弁当」を「人と人との繋がりを意識する為のツール」として捉えている側面があり、それはどういう事かと言えば「人との繋がりを意識する為なら、どの様なツールでも他人を想う気持ちがあればきちんと成立する」という事である。とどのつまり、他人との繋がりをきちんと意識できるなら、そのツールはどの様な物でも良いと言う訳である。勿論、今回の「お弁当」も私自身尊重している事はここで改めて記載しておく。

 私が思う繋がりを意識する為のツールの例として、遠い友達や知り合いとのやり取りの代表格として昔から存在していた「手紙」があり、今やTwitterFacebook等のSNSや、LINEやMessenger等の「メッセージアプリ」に取って代わられた傾向こそあるものの、依然として特別な意味を持つやり取りの手段だと私は考えているのだが、私自身その手紙でも今月号の様な繋がりは成立すると考えているという事である。因みにSNS」や「メッセージアプリ」でも手紙と同じ様に成立すると私自身考えているが、SNSやメッセージアプリの特性を考えると、手紙と同じ様な効力を持つかは時と場合による所が大きいとも考えている。ただ、何れの場合も大切なのは「友達や他人の事をしっかり想っているかどうか」であり、その気持ちさえあればどの様な手段でも本質的なものはきちんと見えてくると思う。

 また、ここまで繋がりを意識する為の例について書き出したが、抑々私が何故今月号の様な繋がりは「お弁当以外のツールでも成立する」と思ったのか。それは「千夜ちゃんの発言を見て、この様な事象は様々な事に当てはめられるのではないのかと純粋に考えたから」である。早い話が私自身の好奇心であり、ごちうさの実例から普遍的にも使える捉え方も出来るのではないのかと考えて行った訳である。私はこの様な「一つの事象から、何か普遍的な物の見方、捉え方に活かせないか」とはごちうさ以外の日常生活でも度々意識する傾向にあり、それが私自身が持つ幅広い知見にも深く関わっているのだが、これを意識している理由は「その様な物の捉え方を意識する事で、幅広い知見を育むとともに、多くの捉え方を理解できる様になるから」であり、それは私にとっては欠かせないものである。

 そして、私はお弁当交換に対する千夜ちゃんの本質を迫る様な言葉を「今回の手作りのお弁当交換ひいては人と人との繋がりを体現する様な重要な言葉」と私が称した理由については、その様な千夜ちゃんの発言は「友達との繋がりを改めて意識する過程において非常に興味深い言葉だと認識したから」である。元々千夜ちゃんは物事の本質を突く様な言葉を紡ぐ事が誰よりも優れている傾向にある為、今までも千夜ちゃんが紡ぐその様な言葉に思わず考えさせられた事は多く、今回もその一環で考えさせられた訳だが、何れの場合も共通している事として「千夜ちゃんが見据えるその本質蠢く世界観に何時も驚かされ、そして心惹かれた」と言うのがあり、これが上記の理由を裏付ける要因である。言うならば「千夜ちゃんの言葉によって、私は改めて人との繋がりとは何かを意識する事になった」という事であり、再三同じ事の繰り返しで最早食傷気味ではあるが、私にとってはそれだけ千夜ちゃんの言葉に改めて気付かされる事が多かった経緯があり、それ故に今回も重要な要素として、どの様な事があっても外す訳にはいかなかったのである。

3.あとがき

 以上がきらま2022年3月号掲載のごちうさを読んだ私の感想・考察である。今回は全体的にほのぼのしたお話だと言う印象が強く、それ故に私自身「激震が走る様な展開も少なくなかった最近のごちうさにおいて、ここに来て急に全体にわたって大人しめな展開が中心の回が到来してきた」と感じたのは最初に紹介した通りだが、読み進めた後には「細かく見れば重要なものが多く散りばめられた回」と言う印象に取って代わられたのも最初に紹介した通りである。何が言いたいのかと言えば、今月号はほのぼのした展開の中からも、何かごちうさの重要な本質が改めて見えたのではないかという事であり、今回はそれを意識して本文を書き出してきたつもりである。尤も、それにしては後半部分が些か混乱気味になったのは否めないが、それについては勘弁願うばかりである。

 今月号で重要だと思うのは、何と言っても今月号の大部分を担っていた「手作りのお弁当交換」であるのは明白だが、私自身としてはこの様な案が提唱された時点でごちうさの登場人物が凄く良い関係性である事が表れている」と感じたものである。よくよく考えてみれば、登場人物の関係性が凄く良好なのは、もうごちうさを数年にわたって本気で好きであり続けている私にとってもこれまで何度も何度も見てきた筈なのに、今回の「お弁当交換」と言った友達同士のやり取りを見ると改めて「やっぱりいい関係性だなぁ」と思うのは割と不思議な事だと思う気もするが、それだけ私がごちうさに対して強い想いを持っている事の証拠でもあるとも思えば、ある意味持つべくして持った不思議な想いとも言えるのだろう。

 そして、今月号は個人的に「千夜ちゃんの言葉にまたしても考えさせられた回だった」と認識している。元々私自身物事の本質を突く様な言質が好きであり、それ故に千夜ちゃんに限らずその様な言質を見た暁には、それだけでも「意味のあるものを知る事が出来た」と思う事すらある位なのだが、今月号において千夜ちゃんが提唱した「お弁当交換で見える人との繋がり」と言うのは、正に私の心に響くものであり、印象に残るものであったのは言うまでもなかった。その為、今後どの様な事があっても千夜ちゃんのそういう詩的な一面を好きであり続けているのだろうと思う位である。

 最後に、今月号の大半を占めていた「手作りお弁当交換」は、ほのぼのとした展開ながらも、その本質は最近のごちうさにおいて度々提唱される様な重要な何かを含んでいたと感じた事は書き出しておきたい。また、最近のごちうさは時に異質な雰囲気を纏う事もあるが、それでも多くの重要な事が存在している事を私自身まじまじと感じている事をもって、この感想・考察の締めとしたい。

 

おまけ

今回の文量は全て合わせてのべ400字詰め原稿用紙36枚分である。今回はややコンパクトとなった訳だが、普通に考えればこれでも十分多い方だと思うし、私としてもこのブログで書き始めた当初はこんなに多く書く事はまず無かった。つまり、ごちうさの影響力は私にとっても最早計り知れない程大きいのである。

*1:現在理世ちゃんは同級生である狩手結良ちゃん共々大学生だが、高校時代は紗路ちゃんと同じ学校に通っていた。因みに結良ちゃんも理世ちゃんと同じ高校に通っており、そこで吹き矢部の部長を務めていた。

*2:タカヒロさんの料理の腕前はかなりのものであり、お弁当作りでは誰もが目を見張り、お菓子作りに至ってはあの千夜ちゃんですら思わずその美味に動揺してしまう程。

*3:因みにこの時の智乃ちゃんは、現在の様な姿とは全く異なり、今の様な和やかで感性豊かな一面を表立って見せる事は殆ど無い位に暗かった。その為、この時の和やかな表情は今以上に意味のあるものだったと思う。

*4:尤も、今でも私自身恥ずかしがり屋な傾向は残っているが、昔程ではない。

*5:理世ちゃんが1学年上である事と、心愛ちゃんがリゼユラを除いて最も誕生日が早い事から。

*6:因みに心愛ちゃんはまだ木組みの街に住み始めたばかりの頃、理世ちゃんが自分より年上である事に全く気付いていなかった事が判明しているが、これもある意味2人が年の差をあまり感じない要因なのだろう。

*7:理世ちゃんが2月14日生まれであるのに対し、心愛ちゃんは4月10日生まれである。

*8:いるとするなら、ごちうさの中で別格な存在感と立ち位置を持つ狩手結良ちゃんただ一人だけだろうが、結良ちゃんの場合インパクトがあまりにも強過ぎる事や、抑々見据えている世界観が他の友達とは大きく違い過ぎる事から、抑々比較対象として成立するのかどうかすら怪しい。

*9:千夜シャロの場合、基本的に千夜ちゃんがボケ担当、紗路ちゃんがツッコミ担当であり、ボケとツッコミが入れ替わる事は、他のコンビに比べると普段は少なめだが、紗路ちゃんがカフェイン酔いをおこした時は別である。

ごちうさ単行本10巻を読んで思う事

 こんにちは。今回はごちうさ10巻を読んだ純粋な感想・想いを書き出したいと思います。尚、私はきらまが発売されて最新話のごちうさが明らかになると、毎月の様に凄まじい想いと文量をもって感想・考察を書き出していますが、今回は敢えてコンパクトにまとめ上げたいと考えています。元々きらま勢になってから「単行本が発売された暁にはどんな感想を書こうかな」と考えていたのですが、今回は本当の意味でシンプル且つ率直に、そして短めに書き出したいと思います。

※注意※

ごちうさ10巻のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。

表紙に対して思う事

 ごちうさ10巻はごちうさ連載10周年の節目年に発売された単行本であり、表紙には大人びた雰囲気を帯びた初期組5人が出迎えているが、5人共に後ろを振り返る様な形で描かれており、まるであらゆるものを顧みる(振り返る)様な雰囲気を提示している。また、コントラストが全体的に明るくなっており、暗に「明るい未来に向けて5人が踏み出し始めている」事を印象付けている様にも感じる。

 ただ、この様な表紙に対して私は、きらまでごちうさの最新話を常に追い続けている身であるが故に、ごちうさ10巻に収録されるお話も既にきらまで読み、その内容を知っていた為、正直な話「10巻でこの様な表紙を持ってくるとは、一体どう言う訳なのだろうか?」と、疑問を隠せなかった。と言うのも、私自身「表紙と10巻収録の本編のお話との繋がりを上手く見いだせなかったから」であり、結果的に「表紙と本編の内容に乖離(かいり)が見られるのかな?」と、あらぬ誤解(と言うか勘違い)をしていた為である。言うならば、私は私自身が恐れている「知識があるが故の思い違いや誤解」を地で行く様な真似をしてしまった訳であり、ある種の「一番恥ずかしいミス」恐れていながらやってしまった事から、誤解が無くなった今でもちょっと情けない。

 この様に私はごちうさ10巻の表紙をめぐっては、自分でも情けなくなる様なミスをやってしまった訳だが、それらの諸問題を全て解決してから心機一転、改めて「この10巻の表紙の意味は何だったのだろうか?」と、自分自身でもう一度考えてみた所、この表紙はごちうさ10巻の全体的な雰囲気でもある「回帰と成長に繋がっているのではないのか」と思い立った。これは私がきらまでごちうさ10巻収録分を読んでいた頃から度々思っていた事なのだが、10巻は「新しくもあり、懐かしくもある描写や展開が登場する事が多い」のである。これが意味する所は「過去にも経験した事を、成長した自分がもう一度経験する」と言う事であり、それ故に過去の自分と、今の自分との違いが如実に表れ、それに伴い彼女達の成長や変化がはっきり見える様になる。これを思えば、10巻表紙に描かれている5人がどこか大人びた雰囲気を帯びているのは「過去を踏まえて彼女は少しずつ成長している事を表している」と考える事が出来る上、5人が後ろを振り返る形で表情を見せているのも、彼女達が「もう後戻りはできない過去や決断を胸に、何があっても前に進んでいく事を暗示している」と思えば納得がいく上、全体的なコントラストが明るめなのも「彼女達が明るい未来に進もうとしている」と考えてみると整合がつく。

 つまり10巻の表紙を改めて考えてみて、私は「彼女達の確かな成長と、最早変える事の出来ない過去を鑑みながら、明るい未来を切り開くまでに力強い彼女達の歩み」を表していると感じた訳である。勿論これが合っているかは分からないし、何か絶対的な答えを持っている訳でも無い。しかしながら、私自身10巻の表紙を見て、上記の様に考えた根拠そのものは存在している。それは10巻の収録内容そのものであり、ここからはそんなごちうさ10巻の全体的な収録話の雰囲気や、それに対して思う事を簡潔に書き出したいと思う。

10巻の全体的な雰囲気について思う事

 10巻に収録されているお話が持つ全体的な傾向として、単刀直入に言えば私は「回帰と成長」が存在していると考えている。回帰と言うのは、10巻には主たる行事として「心愛ちゃん達が通う学校と、紗路ちゃん達が通う学校の合同球技大会」が2話分、「年上組と年下組に分かれたお泊り会」が2話分、計4話分収録されているが、どちらも「過去のごちうさにも描写された事がある」*1ものであり、どちらのお話もその過去を意識した描写が多く差し込まれているのも特徴である。

 その為、これら回帰の要素を持つお話では、主に「今までの木組みの街の住人7人の成長」が良く見えてくると考えている。抑々10巻は9巻後半に引き続き「新しく木組みの街にやってきたブラバ組3人との交流や、ブラバ組3人が木組みの街に慣れ親しんでいく様子」が色濃く描かれており、個人的には回帰の印象が強い「球技大会」「お泊り会」でもそれは例外では無い。だが、それ故に「今までの木組みの街の住人7人の変化や成長がはっきり見える」と捉えている。そして、全員が成長していると考えているのは前提として、その最たる例だと個人的に考えているのが智乃ちゃんであり、嘗ては心愛ちゃんを筆頭に周りの人がやる事についていくばかりで、自分から率先して意見を出したり行動を起こしたりする事がさほどなかった智乃ちゃんが、この10巻ではブラバ組とりわけ冬優ちゃんを相手に自分から率先して意見を出したり、自発的な行動を起こしたりしているのである。正直これ以上言う事はないと思う位の成長ぶりだが、智乃ちゃんも周りの大切な人達との時間や経験を共にする事で大きく変化していたのである。尚、ここでは主に智乃ちゃんについて書き出したが、他の6人についても全く引けを取らない成長を見せており、特に新しく木組みの街にやってきたブラバ組3人との交流から見えてくる成長は、見ていて何か感じるものがあると思う。

 また、10巻ではブラバ組3人の成長や変化も目覚ましく、ブラバの社長令嬢である神沙姉妹に関しては、姉である映月ちゃんは、木組みの街の住人ひいては私達神沙姉妹にとっても大切な場所であるフルール・ド・ラパンを守るために一肌脱いだり、妹の夏明ちゃんは、嘗ての経緯に想いに馳せつつも、自分達をきちんと見てくれる人達に心を許していき、最終的には良い影響をもたらしていたりする等が印象的である。嘗て自分達2人だけの世界しか無かった神沙姉妹も、木組みの街の住人との奇跡的な再会を経て、確かな成長を遂げているのである。

 そして、私としては特に冬優ちゃんの成長が際立っていると考えている。元々冬優ちゃんは内気で引っ込み思案な性格で、それ故に新しい街での新しい出逢いに対して強い恐怖感があったのだが、嘗て旅行編で出逢った木組みの街の住人との奇跡的な再会を経て、その木組みの街の住人との交流を深めていく事で徐々に打ち解けていき、10巻の後半になると、元来の内気さと恥ずかしがりこそそのままだが、友達に対して何か自分から見て気がかりな事があれば、自ずと率先して声を掛けてあげたり、他人に対して変に強張らずに接する事が出来る様になったりと、冬優ちゃんの大きな成長が目に見えて分かる様になる上、しかも冬優ちゃんにその様な成長をもたらした人に「智乃ちゃん」がいるという事も、智乃ちゃんの嘗ての性質*2を思えば中々に胸が熱くなる。

 また、10巻に収録されている中で最後のお話は、前半が嘗て2021年のエイプリルフール企画としてお披露目された「ナナラビ」が衝撃の本編登場を果たすと言う驚きの展開を見せる。エイプリルフール企画の世界観が本編にも登場するのは、単行本9巻収録のお話に登場し、恵ちゃんが体感した2019年エイプリルフール企画初出の「クロラビ」以来であり、今回の「ナナラビ」においては「冬優ちゃんの夢の中」のお話であり、ここで彼女の意外な一面を知る事が出来る様になっている。そして後半部分が凄く熱い展開になっており、ここで後述する様な「心愛ちゃんのある発言に込められた真意について」知る事になるのだが、ここで見せた冬優ちゃんの優しさや行動に彼女の確かな成長がはっきり表れており、見る者の心に彼女の成長を印象付ける様になっている。何というか、これ以上いう事はないと言う程の感情であり、私としても凄く印象的だった。

 ここまで「回帰と成長」について書き出してきたが、実はこれらこそ、私が「10巻の表紙に対して思った事の根拠」となっている。巡り廻る時の中で、過去の自分を振り返りながら、彼女達が確かな成長を遂げているとまざまざと感じ取る訳であり、この部分は大きな根拠としても機能している。

 だが、10巻はこれだけでは無いのである。ここからは、そんな10巻のもう一つの一面について書き出したいと思う。

10巻の異質な雰囲気について思う事

 10巻は先の様に「回帰と成長」を思わせる様な、前向きで力強い部分が多いが、その一方で10巻は異質な雰囲気が度々目立つ巻でもあると考えている。それは10巻で描かれた、数多くの「波乱とも言える回」であり、例を挙げると「結良ちゃんと心愛ちゃんを中心とした、ワルイ子が引き立つ回」「進路問題に年上組が衝撃を受ける回」であり、後者は先の「お泊り会」で判明した事でもある。また、全体的に見て「嫉妬」が浮かび上がってくる回が10巻には度々あり、これもまた、10巻が持つ異質な雰囲気に一役買っている。

 例えば結良ちゃんの回では、主に心愛ちゃんが自分自身の意識改革の為に「妖艶な雰囲気を纏ってみたい」と考えた事を結良ちゃんが聞きつけて、結良ちゃん共々「少しワルイ子じみた雰囲気になる」流れがあるのだが、その終盤に「結良ちゃんが心愛ちゃんの事を、私と2人だけの時位は自分だけの虜にさせたいと考えている」描写があり、これに対して心愛ちゃんはその提案を断っているが、その表情については一切明らかになっていない為、彼女が結良ちゃんの悪魔の様な誘いを断る際にどの様な意思を込めていたのが分からず、それ故にやや不穏な雰囲気を漂わせている。尤も、心愛ちゃん自身はそのあとすぐにいつもと同じ様な調子で、引き込もうとしてきた結良ちゃんの事を逆に自分が引き込んでいる位*3なので、過剰な心配は要らないだろうが、何れにしてもこの様な「独占欲的な感情を露わに出す」のはごちうさにしては異質*4であり、他にもこの結良ちゃん回は異質な雰囲気が多く漂っており、ある意味「人間の本質」が試されているとも言える。

 因みにそんな異質な雰囲気を纏う結良ちゃんを見て、私は最早「『ワルイ子』すら凌駕する、本物の美形悪役特有の美しさ」さえも結良ちゃんに対して覚え、心から恐怖に喘ぐ感情と、どこまでも暗く冷たい雰囲気に心を奪われていく感情と言う2つの感情に襲われたものである。無論、結良ちゃんは本物の悪人では断じてなく、寧ろ根底は木組みの街の住人と同じ「優しい心を持った良い人」なのだが、如何せんこの時は「ワルイ子」の雰囲気も相まって、彼女が持つ独特な雰囲気の虜となってしまっていた。やはり私自身「悪役が持つ、恐怖や憎悪を超えた、最早美しいとすら思う魅力が好き」な事が大きく影響しているのだろう。所謂「ヒーロー・ヒロインの美しさや魅力」があるのなら、悪役には「悪の美しさや魅力」がある様に、私は結良ちゃんが持つ「魔性の魅力の虜」となってしまった。言うならば「美魔女の虜」である。

 他にも「進路問題で年上組が衝撃を受ける事になる」お泊り会では、「都会の国立大学に進学する」と言う紗路ちゃんの将来の進路の都合上、心愛ちゃん達が高校を卒業すれば「(一時的ながらも)皆はバラバラになってしまう」と言う衝撃的な事実が判明し、紗路ちゃんと幼なじみである千夜ちゃんが相当に動じてしまっていたのが印象的であり、私自身もきらまで読んだ時には「心が痛くなるまでに」動じていた記憶がある。そして、この回の極めつけが「心愛ちゃんも高校卒業後に木組みの街を離れる事を決断していたと言う事実」であり、これには思わず言葉を失くしてしまった記憶がある。ここまでくると最早「異質」と言うより「波乱若しくは衝撃」だが、何れにしても10巻は「回帰の中で見える確かな成長」だけでなく、「異質な雰囲気が度々現れたり、様々な現実問題に揺れ動いたりする」側面があると言え、そこには成長の明るい面だけでなく、暗い面が確かに存在している。

 ただ、この様な「異質な雰囲気」を纏ったお話においても、最終的には何時ものごちうさらしい「優しさ」「悦び」が待ち構えているものであり、私自身10巻の異質な雰囲気を纏ったお話に対しても、多くの感情がせめぎ合いながらも最終的には「色々あったけど、皆の温かさや絆の強さを再認識できて良かった」となっていた。しかしながら、唯一心愛ちゃんの衝撃的な宣告で終わったお話に関しては、私自身も中々前向きに捉える事は難しかったものの、後に10巻収録分の最後のお話で明かされた心愛ちゃんの確固たる真意を知ってからは、それまでどことなく覆っていた悲観的な感情は一切なくなった。無論、私自身も心愛ちゃんの「高校卒業後に木組みの街を離れる」と言う決断に対して、寂しいと言う感情が全く無くなった訳では無いが、抑々街を離れると決めたのは他でもない心愛ちゃん本人であり、その決断には最早何物にも代えられない彼女自身の覚悟の意思が込められている。その事を思えば、私としても今後待ち受ける事実に対して一心に受け止めようと思えるし、最後まで心愛ちゃん達の選択を尊重し、見守り続けようと決意を固める事も出来る上、何よりごちうさの事を何があっても最後まで愛し続けようと、改めて思う事が出来るのである。

 ここまで10巻が持つ「異質な雰囲気」について書き出してきたが、個人的には10巻の雰囲気が持つ異質な雰囲気はごちうさ単行本1巻から10巻の中でも随一だと捉えており、それ故に様々な想いが駆け巡ったものだが、後々考えてみれば、10巻でこの様な描写が増えた事は、見方を変えれば「異質な雰囲気の中には、彼女達の成長の賜物と言う側面も備えているのではないのか」と考える様にもなった。これは成長を重ねていく中で、今まで見えなかったものが見える様になったが故に、それまでのごちうさでは考えられなかった異質な雰囲気も多く出てくる様になったという事であり、ひいては「異質な雰囲気が目立ったのも、彼女達が日々成長している事の証」でもあると捉えているという事である。尤も、これらはあくまで個人的な見解に過ぎないが、私としては「この様な見解もある」と、一瞬でも何か考えてくれるだけで十分に嬉しい。

あとがき(ごちうさ10巻の感想を書き出して思った事)

 以上が、今回ごちうさ単行本10巻を読んだ純粋な感想・想いの叙述である。今回は初めに書き出した様に「シンプルかつ率直な、短めの文章」を意識して、今まで私がきらま勢として、ごちうさの最新話を常にきらま本誌で購読し続けていた頃から秘めていた想いも思い起こしながら、単行本10巻の内容を「回帰と成長、そして異質な雰囲気」と、個人的な観点からカテゴライズした上で、今回のブログ記事を書き出してきた。それ故に今回の記事は普段の記事よりずっとコンパクトになっており、内容も普段よりもずっと自由な構成になっているが、個人的にはこの様なサッパリした構成も悪くないと考えている。尤も、よくよく読んでみれば普段と全然変わりない書体でガチガチに書いている様な気がしない訳でも無いが、それは見逃して欲しい。

 ここから話は一気に変わるが、ごちうさ10巻は連載10周年の節目年に発売された単行本であるのと同時に、私自身にとっても「私が完全なるきらま勢になってから初めて迎える事になった新たなる単行本」と言うタイミングに当たっていた為、どの様にして書き出したらいいのか本当に悩ましかった。が、私自身単行本を読んだ感想をブログでも書こうと試みたのは、実はこれが初めてでは無いのだ。今だからこそ言える事だが、実は私自身ごちうさ単行本9巻を読んだ時も、今回と同じ様な「単行本を読んだ上での感想」を書き出してみたいと言う構想そのものは持っていた。ただ、あの時は2021年の年明け早々に書き始めながらも、書き上げるまでになんと2カ月近くも要し、現在でも私のブログ史上最も文量が多い「狩手結良ちゃんに対する想い」の叙述に手一杯で、その後も他の「きらファンメインシナリオ第2部」「きらま掲載のごちうさ最新話」等の感想・考察に追われている内に、段々ごちうさ9巻の内容をどの様に書き出せば良いのかも分からくなっていき、最終的には「もう時間的にもモチベーション的にも、ごちうさ9巻の感想を書き出す事は最早不可能だ……。」と悟り、遂にあえなく断念してしまったのだ。

 しかしながら、9巻でこの様な経緯を抱える事になってしまったが故に、この10巻では「何としてでもやり遂げたい」と言う想いが強くあり、10巻を読んだ上での感想をどの様に書き出そうか悩んでいた時から、「時間が掛かっても良いから、自分なりの答えは絶対に書き上げたい」と言う想いだけは捨てようとは思えなかった。ただ、実際には私自身単行本を読んだ感想を書き出す事に夢中で、意識的にどうしようかという事にはそこまで気が回っていなかったのだが、それでももし本当に「どうしよう。ドツボに嵌まって抜け出せない……。」となった時でも、あえなく諦めてしまう事だけはしなかったと思う。何故そのように思えるのかは自分でも良く分からなく、ただ一つ分かるのはごちうさ9巻の感想をブログで書き出す事を諦めた時に感じた屈辱的且つ虚無的な想いは、もう二度としたくないと考えていた事」だけだが、最早それが全てなのだろう。単純な事かも知れないが、私にとってはそれだけ大事だった。

 そして、この様な経緯を経て私は、このごちうさ10巻を読んだ上での感想を、まず「回帰と成長、そして異質な雰囲気」と言う3つの大きな概念にカテゴライズした上で、今までになく「シンプルかつ率直な、短めの文章」を意識して書き出す事にした。「回帰と成長、そして異質な雰囲気」と言うのは、私が「きらまでごちうさの最新話を追い続けていた頃から感じていた概念」であり、10巻が全体的に「過去と意図的に結び付けた様な物語の展開や描写が多く、それに伴い『過去との違い』を表す事で皆の成長を印象付ける展開が多い」事も、その見解を後押しする事に繋がった。また「異質な雰囲気」と言うのは、10巻収録話で度々見られた「何時ものごちうさとは一線を画す描写や雰囲気」を指し、具体的には「結良ちゃん回」や「進路選択の回」が挙げられる。これらに関しては当然ながら扱いが難しくなるが、私はだからこそ「普段からどれだけ異質な雰囲気に対する見解を自分なりにでも張り巡らせてきたと思っているんだ」と、怯む事無く立ち向かった。

 つまり私は「きらま勢としてごちうさの最新話を追い続けていた頃から秘めていた想いを、そのままごちうさ10巻の感想を書き出す時の指針にする事」にした訳であり、またきらま勢として書いた感想・考察と一線を画す要素として「シンプルかつ率直な、短めの文章」で単行本を読んだ感想を書き出す事を意識したのである。その為、それがどの様に映るのかは初めての試み故に分からないが、個人的には「想いの整理になった」と考えている。私自身きらまでごちうさの最新話を追い続けている時は、我ながらびっくりする様な文量と情熱をもって毎月の様に感想・考察を書き出しているので、単行本の時には敢えて「シンプル且つコンパクトにまとめる」のも良いのではないかとは考えていたのだが、実際にそうしてみると思った以上に上手く行った様に感じた。本当の意味で「書きたかった事をシンプルに書き出せた」と言うか、普段以上に素直に書き出せたのではないかと実感しているし、他にもきらまでごちうさの最新話を追い続けていた時には気持ちの整理が付かずに中々無理があった「進路選択の回」についても素直な気持ちを書き出せる様になった事も追い風となり、総じて言うなら「初めてのごちうさ単行本を読んだ感想にして私が完全なるきらま勢になってから初めて迎える事になった新たなる単行本』の感想の構成は上出来だった」と捉えている。

 内容が重厚なものになったが、それだけ私自身「好きなものに対する情熱が大きい」という事でもあり、とりわけごちうさに対しては色々な意味で特殊な想いを持っている。実の所その特殊な想いの中には、なにも良い事や明るい事ばかりではなく、ごちうさを愛していくが故の苦悩や暗い影も含まれており、事実その暗き想いに対して苦しむ羽目になってしまった期間もあったが、それら苦悩や暗い影を自分の中で全て乗り越えてからは、暗い感情すらごちうさを紐解いていく為の強力な武器へと変貌し、ごちうさに対して苦しむ事なく、純粋に好きでいる事が可能になった。つまり「暗い感情を解消した」のではなく、「敢えて暗い感情をそのまま持ち続ける事にした」訳なのだが、これには下記の様な理由がある。

 実の所私は考察・感想を書く原動力は、正直に言えば「明るい感情を呼び起こして書き出すより、暗い感情を呼び起こして書き出す方がより深い内容を生み出せる」と言う性質が少なからず存在している。ただ、だからと言って「暗い展開だけしか好まない」と言う訳では無く、寧ろ「明るい展開の方が私にとっても精神的には良い」のだが、その一方で暗い展開は時に私にとって「心に宿る感情がじわじわと締め付けられ、そのまま握り潰される恐怖すら覚える程の痛み」「血気迫る様な怒りの感情や負の感情を呼び起こす事」があり、これらは一歩間違えれば自分の気持ちにも多大なる悪影響を及ぼしかねない危険性も孕んでおり、正しい使い方をするのが難しいのが難点だが、いざこれを上手くコントロールさえすれば、明るい感情をベースにして書き出した感想・考察以上に絶大な感情と想いを込めた、血気溢れる感想・考察を書き出す事ができる様になり、その内容は私にとって「燃え上がる想いを本当の意味でストレートに書き連ねた、その時の想いの結晶ともなり得る」と考えている。正に「怒りや負の感情がもたらす恐るべき原動力」と言う訳だが、これは使い方次第で「どこまでも恐れられるだけでしかない人望なき存在」にも「何者にも負けない程の原動力やカリスマ性を持った人望溢れる存在」にもなる可能性を常に秘めている。その為、一歩間違えれば「己の気持ちそのものにも多大な悪影響をもたらす危険性」も大いにある為、本当は明るい感情のみからでもこの様な血気溢れる想いを生み出せたら良いとは思うのだが、私の場合ここまで書き出してきた様な諸問題を抜きにしても、ごちうさに対しては「暗い感情を無理に抑圧し過ぎても、己の気持ちに多大なる悪影響を及ぼす事が判明した」為、最早どんな方法をとるにしても多少なりともリスクは避けられないのだ。ある意味「私が本気でごちうさを愛するが故の結果」でもあるのだが、それならば、ある程度のリスクは承知の上で、明るい感情と負の感情をバランス良く入り混じらせる様にするのが私には一番合っていると判断しており、それが上記の様な思想を生み出す事に繋がっているのだ。

 この様な経緯故に、私にとってごちうさを好きでいる為には「無理に可愛さや明るさだけに目を向けようとするのではなく、敢えて自分が思うままに暗さや苦悩をも取り込んでいく事も必要だった」と考える事も私自身少なくない。抑々私はあらゆる作品や芸術に対して「その作品の明るい所も暗い所も全て受け容れて、自分でも考えていこう」と言う思想を持っており、それはごちうさに対しても同じだった。勿論、作品の暗い部分を見つめる事は、当然の事ながら決して良い気分には全くと言って良い程ならないし、時には「思わず目を背けたくなる」様な場面に遭遇したり、「最早自分でも恐怖に打ち震える様な想像に辿り着いてしまったりする」事も少なくなく、それ故に私にとっては「明るさや可愛さが前面的に押し出された」ごちうさでもその様な「暗さや苦悩を取り込んでいく事」を実行していくのは中々容易な事では無く、それに伴い暗い感情をどの様に扱っていくかに困る様になり、結構な期間にわたって思い悩んだ訳である。

 ただ、冷静に考えてみればごちうさにも「苦悩」は少し言い過ぎでも、新しい人間関係を構築する事、見知らぬ世界へと飛び込んでいく事に対する不安、友達関係そのものに対する不安、友達に対するやきもち焼き、そして自分自身の将来の進路に対する不安等々、言うならば「人間なら誰しも少なからず持っている弱い部分」もきちんと描写されており、事実その様な感情や不安を前面に押し出したり、散りばめたりしているお話や場面も割と普通に存在している。これらを思えば、ごちうさに対して「暗さや苦悩を取り込んでいく事」は、何も全くもっておかしな事では無いのは明白であり、それよりも大切なのは「明るさと暗さの上手なバランス取り」だったのだが、私自身ごちうさ様な明るさや可愛さが前面的に押し出した作品に対しても、この様な「暗さや苦悩を取り込んでいく視点」を図らずしも持った事に対して「嗚呼、自分はこの様な視点からはいかなる場合でも逃れられないんだ……。」と思わずショックを大きく受けてしまい、それ故に本質を見失ったまま思い悩んでしまった上、改めて本質を探っていく余裕も無くしていた為、乗り越えるのに時間が掛かってしまった。

 その為、今見ると「昔の自分はある筈もない壁を勝手に作り、そこでずっと蹲っていたなんて、何やってたんだろうなぁ……。」と思うばかりだが、同時に「もしこの様な苦悩を私が一切経験しなかったとするなら、ごちうさに対して今の様な見識や情熱を持つ事は恐らくなかっただろうと思う事も多い。何故なら、今の私がこうしてごちうさに対して凄まじい熱意を持っているのも「あの時の苦悩があったが故」なのは当然の事ながら、あの苦悩で得た経験は計り知れない物があるからである。しかしながら、それは「結果的に上手く乗り越える事が出来たから」と言うのが大きい上、必要な苦悩だと言うのは少しばかり威力が強過ぎた様にも感じている。その事を鑑みれば、やはり「何事もバランスが大事」と言うのは明白だと思う。結局の所私自身「上手くバランスを取って明るい部分と暗い部分を取り込んでいけば、見識や情熱を持ち続ける為に多少の苦悩に苛まれる事はあっても、私が経験した程の重い苦悩に苛まれる事は無く、今の様な見識や情熱を持てた可能性もあった」訳であり、ある意味ごちうさを好きになって良かったと思うには色々な意味で十分であった。

 最早あとがきと言うより一つのカテゴリーとして成立する位に長くなったが、最後にごちうさ単行本10巻は本当に尊く、素晴らしい関係性によって輝いていた事は書き出しておきたい。尤も、今後の展開に関しては、きらま勢故に毎月の様にごちうさの最新話を追い続けている身であるとは言え、まだまだ分からない事が多いのだが、そんな中でも今の様な輝かしい関係性がもっと拡張されていき、尚且つそれが何時まで経っても続いて欲しいと願っている。そして、私としてはそんな彼女達の輝かしい世界観を素直な気持ちで見守る事が出来るなら本望である。尤も、不器用な私の事だから、この先もきっと真っ直ぐな道のりで彼女達の成長や決断を見守るなんて事は出来ないだろうけど、どんな紆余曲折があっても、この輝かしい世界観を、何時までも見守れるなら……。

 

おまけ

今回はコンパクトな文量を意識して書き出していこうと考えていたのだが、終わってみれば結局今回も400字詰め原稿用紙30枚分となった。本当なら10枚台半ばから後半位になれば良いと考えていたのだが、あとがきの部分があれよあれよと増えていき、気付いたら全部で30枚分になっていた。誇張抜きであとがきだけで全体の半分位になってしまった為、今後は気を付けなければ。

*1:球技大会は単行本2巻、お泊り会は単行本1巻や3巻等多数。

*2:智乃ちゃんも昔は10巻中盤までの冬優ちゃんを思わせる様な性質で、最近の智乃ちゃんが見せる様な誰かを引っ張る様な特性には程遠かった。

*3:これに対して結良ちゃんは思わず戸惑い気味なのを隠し切れなさそうな様子を見せていた。

*4:無論、ごちうさにおいても独占欲自体は描かれているが、結良ちゃんはそれを「嫉妬と深く絡ませているのをあからさまに滲みださせている点」が、他の登場人物との大きな違いである。

きらま2022年2月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察

 こんにちは。遂に今年最後のきらま発売日を迎えましたが、私自身は特に変わりなく、今まで通りごちうさについて思った事・感じた事・考えた事を率直に書き出すのみです。それが、私がごちうさに対して成し得たいと考えている事でもある限りは、余程の事がない限り永久にと……。

 さて、今回はまんがタイムきららMAX2022年2月号掲載のごちうさの感想・考察を書き出したいと思います。今月号は先月号や先々月号とは異なり、一貫した時間軸の中で物語が進んでいく構成の中で、成長について考えていくお話となっていますが、それ故に自分自身の人生観にも大きく関わってくると個人的には考えているので、今月号は先月号と同様にロマンチックな感性を意識しつつ、己の人生観や価値観にも問いかける様な内容にしたいと思います。

※注意※

最新話及び原作コミック10巻まで及び11巻の範囲のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は全て個人的な見解です。

1.はじめに

 今回のお話は、先月号や先々月号の様な「場面によって時間軸や世界観が大きく異なる構成」を採っておらず、終始現実世界でお話が進んでいく構成を採っている。それ故にある意味「何時ものごちうさらしさ」が久々にお目にかかれると言う訳になっているが、今月号も先月号や先々月号の様な感動的な描写や、原作10巻収録話の様な回帰を意識した描写もしっかり用意されており、総じて言うなら11巻の序盤に相応しい内容になっていると言える。

 また、今月号はチマメ隊とりわけ麻耶ちゃんに焦点が当てられており、その内容も「精神的な成長における悩み」と言う部分が色濃く表れており、高校生になって徐々に大人と言うものを意識していく中で、今の自分とのギャップに想いを馳せるのが良く分かる様になっている。今回なそんな麻耶ちゃんの心境に深く焦点を当てつつ、先月号の様な感性を持った率直な想いを書き出したいと思う。

2.購読した感想・考察

お茶会までの歩み

 前述の通り今月号は主にチマメ隊に焦点が当てられているが、序盤と終盤においては他にも神沙姉妹の2人にも焦点が当てられており、それぞれが精神的に成長した大人っぽい一面や、まだまだ年相応の子供らしい一面を見せる部分がポイントになっている。因みに今月号の全体を通して高校1年生組は冬優ちゃん以外の5人が登場している。今月号においては冬優ちゃんだけが一切登場しないのは、冬優ちゃんは今までにも深く焦点が当てられたお話があった事や、マヤメグに関しては最近そこまで中心的な焦点が当たってこなかった為、そのマヤメグを中心に焦点を当てる構成にした為に敢えてそうした事が考えられる。また、冬優ちゃんは同じ学校の同級生の智乃ちゃんと特に深い親交があるので、チマメ隊3人の繋がりをフォーカスしようとする際に冬優ちゃんも一緒に登場させると、どうにも中途半端な状態になる可能性も大いに考えられる事や、実際にその中途半端な状態になる事を未然に回避するパターンとして、今月号において登場している神沙姉妹も、基本的には学校が同じであるマヤメグの2人のみに絡みがあり、智乃ちゃんとの絡みは意図的とも思える位に描写がされていないのである。この事からも、上手くバランスをとる為にはある程度仕方が無いのだろう。

 そんな今月号だが、序盤からして早速「大人なのか子供なのか」と言わんばかりにマヤメグの掛け合いが始まり、そこに夏明ちゃん、映月ちゃんと加わっていき、神沙姉妹とは智乃ちゃんの合流前に別れるものの、そこからすぐに智乃ちゃんが加わり、最終的にはココ千夜を加えて「大人と子供」についての掛け合いがあると言う展開がお茶会直前まで続く様になっている。ここからそんな5人が見せる「序盤における大人っぽさと子供っぽさの傾向」を個人的な解釈で細かく紐解いていこうと思う。尚、中盤以降における変化はその都度書き出すものとする。

 まず麻耶ちゃんは序盤においては子供らしい一面が強く表れていると考えている。これは久々のお茶会を一番楽しみにしているのが麻耶ちゃんである事や、自分が一番小柄な事を利用して心愛ちゃんに可愛がられるように誘導させている事や、何より麻耶ちゃん本人が「子供っぽい事を自認して肯定的に捉えている(=子供で良いと考えている)事」や、彼女が持つ子供っぽさや小悪魔さが色濃く表れているが根拠であり、元々人から可愛がられるのが上手い麻耶ちゃんの子供っぽさが特に表れている事からも、序盤における麻耶ちゃんは「子供っぽさが色濃く表れている」と言える。ただ、そんな子供っぽい一面をポジティブに捉えている麻耶ちゃんも夏明ちゃんに子供だと思われるのだけは心底嫌な様で、夏明ちゃんから子供扱いされた時は血相を変えて子供っぽい一面がある事を否定している。尤も、「子供っぽい」と人から言われて、やたらムキになって必死に否定する一面を見せれば見せる程、自分が「子供っぽい一面がある」と言いふらしている様なものなので、ある意味夏明ちゃんの思う壺なのだが……。

 一方そんな麻耶ちゃんとは幼馴染の恵ちゃんは、序盤においては子供っぽい麻耶ちゃんを見てやや客観視した態度をとっている事や、どの様な場面においてもむやみやたらに感情を表に出さずに冷静な立ち振る舞いを見せている事から、序盤においてはどちらかと言えば「大人っぽさ」が目立っており、それを感じさせる姿としてあらゆる場面の受け答えや状況に対して極めて冷静な立ち振る舞いを見せており、それは智乃ちゃんと合流した後、どんどん成長していく高校1年生組を見てやたら子供っぽい振る舞いや発言をする心愛ちゃんを見ても殆ど変わっていない*1。その為、序盤においてはチマメ隊の中でも「一番大人っぽく落ち着いた雰囲気」を持っている印象が強いが、そんな恵ちゃんも夏服バージョンの制服智乃ちゃんを見てぴょこぴょこ喜ぶ等、子供みたくはしゃぐ場面も存在している。

 次は序盤においてマヤメグのみが合流している神沙姉妹についてである。序盤において神沙姉妹は「ブライトバニーのバイト面接に行く事」をマヤメグに報告する為に合流しており、それ故にマヤメグからも「大人っぽい」と思われる程大人びた雰囲気を帯びている。因みに神沙姉妹はブライトバニーの社長令嬢(つまり社長の娘)である為、コネクションを使えばなんとかなりそうなのは想像に難くない事であり、実際麻耶ちゃんからもそれ(コネがある事)を指摘されているが、本人達はあくまで「実力勝負」に拘っており、権力やコネに溺れたり驕(おご)ったりせずに、正々堂々と真正面から戦いに身を投じる姿は、マヤメグが言う様に私も神沙姉妹は大人っぽくてかっこいいと思う。勿論、結果が伴うかどうかは全くの別問題だが。

 次は智乃ちゃんである。マヤメグと合流した後の智乃ちゃんはやや複雑だと感じており、そう思うのはマヤメグと言う2人でやり取りしている時には「大人っぽさ」が目立っているが、そこに心愛ちゃんが絡むと途端に「子供っぽい」一面が垣間見える様になっていると感じられる為である。そして、それを象徴するのが「智乃ちゃんの表情の違い」であり、マヤメグとやり取りをしている時の智乃ちゃんは、成長した姿の賜物とも言える様な「凛々しく堂々とした大人な表情」を見せているが、心愛ちゃんがチマメ隊の成長を見て子供っぽい振る舞いをしている際には、智乃ちゃんも「どこか妬いている様にも見える、子供っぽい膨れ顔」をしているのである。この事実は、智乃ちゃんにとって「心愛ちゃんにはどうやっても敵わない」とも見て取れるが、一方で智乃ちゃんも「心愛ちゃんには何か特別な想いを抱いている事の証」とも見て取れる。勿論智乃ちゃんにとっては最早姉と言っても差し支えない心愛ちゃんを含めた友達皆が同じ様に大切なのだが、こと心愛ちゃんに対しては、自分にとってのお姉ちゃんなのも相まってどこか特殊な想いを持っているのが読み解ける。

 ここまでがお茶会までの高校1年生組5人の「子供っぽさと大人っぽさ」の違いである。大雑把に傾向を説明するなら「映月ちゃんを除き、普段の立ち振る舞いがそのまま反映されている傾向にある」と言え、普段から大人びた雰囲気を持つ智乃ちゃん*2、恵ちゃん、夏明ちゃんの3人に関しては序盤においてもそのまま大人びた雰囲気が中心に、一方で普段からやや子供じみた雰囲気が目立つ事も多い麻耶ちゃんはそのまま子供っぽさが色濃く表れている。唯一違うのが映月ちゃんで、映月ちゃんはどちらかと言えば子供っぽさが目立つ人物*3であるが、こと今月号の序盤においては嘗て原作10巻にあたるお話の様に、フルール・ド・ラパンの為に一大決心した上で、自身の父親でもあるブライトバニーの社長に直訴した時の様な大人っぽさを帯びている。また、智乃ちゃんに関しても今月号における心愛ちゃんとの絡みを見れば、普段とは違う「子供っぽさ」が出ている様に見えるが、あくまでそれは基本的に「心愛ちゃんに対してだけのもの」なので、今回は敢えて枠組みから外している。因みにココ千夜についてだが、千夜ちゃんに関してはいつも通り「皆のお姉さん」と言った感じであり、ある意味平常運転なのだが、心愛ちゃんが色んな意味でエンジンがかかっており、いつも以上に「子供っぽさ」が目立つ様になっている。一応心愛ちゃんは9巻の途中から高校3年生に進学しており、9巻の最終収録話時点で既に18歳の誕生日を迎えているのだが、ある意味この様な子供っぽさが18歳になっても遺憾なく発揮出来ると言えば良いのだろうか。ただ、何れにしても智乃ちゃんが心愛ちゃんの事を何かしら心配するのも分かる気は確実にするが……。

お茶会で見せるそれぞれの姿

 チマメ隊がココ千夜と別れた後は、いよいよ高校生になったチマメ隊によるお茶会と言う展開が描写されている。尚、お茶会については嘗て原作4巻で描かれていた様に、チマメ隊が中学生時代に高校生組4人と一緒に楽しんでいたのが印象的であり、今月号においてもその嘗てのお茶会を踏襲する側面があり、「先輩としてのエスコート」はその最たる例である。

 そんなお茶会だが、今月号のごちうさの主たるメインとなる展開であり、チマメ隊の様々な一面が改めてフォーカスされている意味でも非常に重要である。全体的な流れとしては「麻耶ちゃんの将来の理想像」から始まり「高校生になってからのイメチェン」⇒「大人と子供に対する見解」⇒「先輩としての立ち振る舞いと、嘗てのお茶会の想起」⇒「麻耶ちゃんの数々のお茶会における行動の真意の探り合い」と言った感じになっており、多くの場面でチマメ隊の成長が感じ取れる様になっているのだが、その中でも麻耶ちゃんの心境変化が大きな意味を持っていると考えている。ここからはそんな心境をチマメ隊3人のそれぞれの視点から書き出したいと思う。

智乃ちゃんの心境

 まずは智乃ちゃんからである。智乃ちゃんは最初の麻耶ちゃんの展望に対しては割と肯定的であるが、やや抽象的な褒め方ではある為、クールな智乃ちゃんらしい褒め方だとは思う。また、高校生になってからの変化をイメチェンと言う形で提唱した張本人でもあり、智乃ちゃんは高校生になってからは、髪型を嘗ての様に長髪をそのまま下ろしている形*4ではなく、髪を下ろす形をベースにしながらも、両側に髪を結って下ろすと言う変化形のツインテ―ルみたくの髪型に変化しており、これは心愛ちゃんに毎朝やってもらっていると言う。その為、これをして智乃ちゃんは「髪型を誰かに整えてもらうのは子供っぽい」と、少々気にしている節があったが、恵ちゃんも麻耶ちゃんもこの事に対して子どもっぽい訳では無いと言う考えを表明しており、それに対して智乃ちゃんは多少戸惑いを見せている。やはり智乃ちゃんとて甘えている様に見えるのが多少恥ずかしいのであろう。

 麻耶ちゃんの悩みや先輩としての振る舞いに対しては、智乃ちゃんは恵ちゃんと共に悪意は無いとは言え、図らずも麻耶ちゃんの悩みを茶化してしまった事を謝った上で、悩み事に対して親身になって考えたり、麻耶ちゃんの後輩に対するストレートで飾り気ない気遣いに感謝しつつも、後輩が麻耶ちゃんの事を気になっている素振りを見せると、麻耶ちゃんの事を一番良く知っているのは私達だと、どこか嫉妬心を隠し切れなかったりと、麻耶ちゃんと長年にわたる付き合いの中で確固たる信頼関係がある事と、それ故に麻耶ちゃんの事を独占したいと言う欲がどこかしら存在している事を窺わせる描写が見受けられており、最終的に智乃ちゃんは恵ちゃんと共に麻耶ちゃんを子供扱いみたく褒めると言う行動に出ている。何だかチノメグの方が子供っぽく思えてくるが、これらは智乃ちゃんも麻耶ちゃんの事が大切なのが良く分かる描写であり、子供っぽい麻耶ちゃんも含めて好きだという事が窺える。

 今回のお茶会は全体的に麻耶ちゃんに主軸が当てられている為、智乃ちゃん本人に深いフォーカスが当てられていると言うよりかは、麻耶ちゃんに付随した形でフォーカスが当てられている格好になっているといった方が適切だと思う。しかしながら、そのフォーカスの当たり方は非常に重要なものであり、特に麻耶ちゃんに対する切なる想いが垣間見えたのが意味のある事だと考えている。無論、智乃ちゃんにとって麻耶ちゃんがどの様な存在かは本人のみぞ知る訳だが、智乃ちゃんにとって麻耶ちゃんは嘗て心を閉ざして塞ぎ込んでいた自分を引っ張り出してくれた存在である事や、その後も数々の楽しい事を教えてくれた親友でもある事を鑑みれば、どれ程意味のある事かは凡そでも窺い知れるだろう。

 因みに私が最も印象的だったのは、智乃ちゃんがこのお茶会において「心愛ちゃんに毎朝髪を結って貰っている事を恥ずかしそうに話していた」ものだった。ただ、智乃ちゃん自身元々甘えん坊な所がある事を分かっていた事や、私自身も誰かに髪を結ってもらう事は別に恥ずかしい事でも何でもないと考えている為、私もマヤメグ同様「それで良いと思う」と言う感情が沸き上がっていたものである。また、このお茶会における智乃ちゃんの属性ぶりだが、これも序盤同様全体的には大人っぽさが目立っているとは言え、要所で心愛ちゃんに髪を結ってもらう事を恥ずかしそうに打ち明ける等、子供っぽい振る舞いをする場面もある。尤も、成長しても子供っぽさを持ち合わせた方が人(特に心愛ちゃん)から可愛がられる傾向にあるので、無理に捨て去る必要も無いとは思う。積極的に推奨できる様な事でも無いが、子供っぽさ溢れるあざとさも中々武器にはなるし、特に姉の心愛ちゃんに対しては最適だと思う。何だか心愛ちゃんに申し訳ない気もするが、智乃ちゃんは本当に可愛らしいから、ある程度は仕方ないのである。

恵ちゃんの心境

 次は恵ちゃんである。恵ちゃんは麻耶ちゃんとは幼馴染である為、麻耶ちゃんの展望に対しては、基本的には智乃ちゃんと同じ様な事を言いつつも、どこか慣れているかの様な対応を見せていたのが印象的であった。また、恵ちゃんも高校生になってから髪型をイメージチェンジしており、嘗てのトルネードから理世ちゃんを彷彿とさせるツインテールになっている。因みにその事について本人はあれこれ理由を立てているが、2人からは割に大元を突く様な冷静な評価を下されている。ただ、それもチマメ隊ならではの絆がなせる技であり、恵ちゃんも2人からどの様なコメントを貰っても終始乗り気である事がそれを裏付けている。要するに3人でそう言ったやり取りをするのが楽しいのである。

 麻耶ちゃんの悩みや先輩としての振る舞いに対しては、大体は智乃ちゃんと同様の振る舞いをしていたが、恵ちゃんらしいマイペースな振る舞いは健在でありながらも智乃ちゃん以上に熱のこもった言動をとっていた風に感じ取れた。また麻耶ちゃんとは幼馴染である事から、麻耶ちゃんがどんどん遠い人になってしまわないかと言う懸念に対しては、智乃ちゃん以上に恐れを見せていただけでなく、智乃ちゃんから思わず驚かれるまでにあからさまな膨れ顔(やきもち焼き)をも見せていた。やはり麻耶ちゃんが自分の傍から離れていってしまうのが嫌なのが良く分かり、それは恵ちゃんもまた、麻耶ちゃんのあらゆる一面をひっくるめて好きだという事がはっきり分かる様になっている。

 先の繰り返しになるが、今回のお茶会は全体的に麻耶ちゃんに主軸が当たられているような構成になっている以上、恵ちゃんにしても智乃ちゃん同様麻耶ちゃんに付随した形でフォーカスが当てられている格好になっているとは思うが、恵ちゃんは麻耶ちゃんとは幼馴染だと言う関係性の違いがある為、一見智乃ちゃんと同じ様な言動を取っている様に見えても、恵ちゃんのそれは智乃ちゃん以上に熱のこもったものになっており、また親密な関係性故に麻耶ちゃんが何らかの要因で自分の傍から離れていってしまう事にやきもちを焼く傾向がより強く出ているが窺える様になっている。これを思うなら、やはり「幼馴染故に深く想う事はあるのだなぁ」と心から思うのは言うまでも無い。

 因みにお茶会における恵ちゃんの属性だが、全体的には序盤同様「大人っぽさ」を思わせる様な言動を取る傾向がチマメ隊の中でも随一であり、これは余談だが、要所ではロッカー*5の様な精神で麻耶ちゃんに立ち振る舞いを提案する場面があり、ある意味一番「大人っぽい」と思わせるには十分な描写が多く目立つ。ただ、そんな恵ちゃんにもこのお茶会において「子供っぽい振る舞い」をした場面があり、それは麻耶ちゃんに後輩のファンが沢山いる事を改めて知って、一番麻耶ちゃんの事を知っているのは私達だと顔を膨れさせながら不満そうな感情を露わにした場面である。これには智乃ちゃんも思わず「子供っぽい」と指摘している位の子供っぽさであり、普段不満そうな感情をそこまで露わにしない恵ちゃんにしては珍しいが、ある意味自分の中に潜在する子供っぽさが思わず露わになる程、恵ちゃんは麻耶ちゃんの事が大好きだと言える。尤も、それを麻耶ちゃんに知られるのは凄く恥ずかしいと思うし、事実恵ちゃん本人も麻耶ちゃんには知られない様にする為の立ち振る舞いを見せている。

麻耶ちゃんの心境

 最後は麻耶ちゃんであり、ここからがある意味本番だという事になろう。尤も、今回チマメ隊3人の中で麻耶ちゃんを一番後に据えたのは私の意図的な事であるし、そうでなくてもこのお茶会における主軸的存在である事には変わりないので、ある意味予定調和ではあるが、何れにしてもチマメ隊の中でも比類なき想いを書き出したいと思う。

 まずこのお茶会において麻耶ちゃんは、将来この様な人になりたいと言う理想像を2人に展開する。そのなりたい人と言うのは勿論理世ちゃんであり、麻耶ちゃんは年上組の中でも理世ちゃんの事を特に尊敬且つ心の拠り所としているので、麻耶ちゃんからしてみれば理世ちゃん以外に思いつく答えは無いのである。ただ、2人は言葉は少し違っているが、2人共端的に言えば「目指す理想は高い方が良い」と言ったコメントを麻耶ちゃんに送っており、これは暗に「麻耶ちゃんが理世ちゃんみたいになるのは無理があるのでは?」と言われている様なものである。これに対して麻耶ちゃんは自分の本心を隠す形で必死に取り繕っていたが、私としては「人から何と言われようとも、自分が決めた理想は絶対大事にした方が良い」と思った。抑々誰を尊敬するかは人の自由であるし、現に麻耶ちゃんの幼馴染である恵ちゃんが特に憧憬している年上組は心愛ちゃんだが、当初その事に対して智乃ちゃんから「本当に良いのですか?」等と心配され、また悪気は全く無いとは言え、心愛ちゃんに対する辛辣な毒舌もとい欠点を列挙し、暗に「尊敬する人はよく考えた方が良い」とまで言われている。ただ、この時は智乃ちゃんもまだ心愛ちゃんに対して完全に心を開いている訳では無かったや、それ故に現在の様な親密な関係性が築かれる前の事でもあった為、ある程度は仕方ない側面もあったのだが、これに対して恵ちゃんは一切ブレる事無く、初めて心愛ちゃんを年上組の中で憧憬している事を明かしてから現在に至るまで心愛ちゃんを最も憧憬する人で一貫し続けている。この事からも「自分が一番尊敬したいと思えるなら、それを貫き通せば良い」事は明白であり、それ故に麻耶ちゃんも無理に隠したり、本心とは異なる形で周りに合わせたりせずに、自分の想いをしっかり伝えた方が良いと私は考えている。勿論麻耶ちゃんが無理にでも人に合わせるのは、それだけ友達を想う事の出来る心の持ち主な事を示しているのは分かっているが、それで自分の本心を偽る様になってしまえば本末転倒である。親密な相手程、自分の本心を伝える事は様々な要因から難しくなるものだが、私としては親密な相手だからこそ、自分の本心はストレートに伝えるべきだと思うのである。

 次に話題は「高校生になってからのイメチェン」になるが、麻耶ちゃんは高校生になってからもショートヘア故に容姿を殆ど変えていない事や、中身としてもチノメグと比べて殆ど変わっていない事から、自分だけ容姿も中身も昔と殆ど変わっていない事をコンプレックスに思う傾向が見受けられていた。また、この様なコンプレックスを抱える麻耶ちゃんが理世ちゃんに憧れているのも「年を重ねても殆ど変わらない自分でも、理世ちゃんとは対等だと思える様な存在になりたい」と言う強い想いがある為で、真意を知ったチノメグは(悪気は無かったとは言え)図らずも麻耶ちゃんを揶揄ってしまった事を詫びていたが、これに対して麻耶ちゃんは悟ったかの様な態度を見せており、かなり凹んでいるのが窺える様な雰囲気を醸し出していた。これに関しては「誰が悪い」とかそういう問題では無いので、チマメ隊の誰かが無理に気負いする必要性は無いと思うが、事実問題として「麻耶ちゃん自身、子供っぽく見える自分の特性が何時まで経っても変化しない(できない)事を気にしている」事は明白であり、チマメ隊の中では麻耶ちゃんが一番先導している様に見えて、実はチマメ隊の中で一番壁にぶつかって悩んでいる事が窺える様になっている。ただ、普段麻耶ちゃんは自分が悩んでいる素振りをチノメグの2人にはあまり見せないので、チノメグの2人が麻耶ちゃんの言葉を冗談半分に受け取ってしまったのも無理はなかったのだろう。

 この様に自分の将来の姿に対してかなり悲観的になっていた麻耶ちゃんだったが、注文したアフタヌーンティーのお菓子が到着するや否や、大層幸せそうな顔を浮かべつつ、今までの悲観的な雰囲気からは想定できない様な明るさをもってお菓子を食べている光景を見せつけている。さっきまで悲観に暮れていたのが嘘みたいな変貌ぶりだが、麻耶ちゃん本人も言っている様に人間お腹が空くとちょっとした事で悲観に暮れたり、イライラに苛まれてしまったりする事も少なくないので、その事を思えばあの時の麻耶ちゃんはちょっと危ない方向性に足を踏み入れかけていたとも見て取れる為、2人は戸惑っていたとはいえ、私としては普段の元気な麻耶ちゃんに戻って良かったとは言えると思う。因みに美味しそうにお菓子を頬張る麻耶ちゃんの幸せそうな顔は、本当の子供みたく無邪気だが、その屈託なき喜びの表情は本物であり、麻耶ちゃんの絶対的な強みが垣間見える様にも感じられる。

 そしてここから、麻耶ちゃんの絶対的な個性の強みがどんどん目に見えて分かる様な場面が多く登場してくる。まずはティースタンドの食べ方をめぐって後輩の中学生が高校生たるチマメ隊の姿を参考にしようとしている事を知った時、戸惑うチノメグをよそに麻耶ちゃんはまどろっこしさも飾り気も全くなく、ド直球も良い所とまで言える様なストレートな言葉をかけて、後輩達を釘付けにしているのである。これは麻耶ちゃんが「スマートに言葉を伝える事や、堅苦しい事が苦手な事」が大きく関わっているが、麻耶ちゃんの場合それが良い方向に働いており、麻耶ちゃんが持つサッパリした立ち振る舞いも相まって、人を惹きつける雰囲気を醸し出している。また、その威力はチノメグの嫉妬具合や、2人が「麻耶ちゃんは今のままで良い」とか「麻耶ちゃんの数々の行動は私達に気を遣ってやった事」だとのべつ幕無し(絶え間なく)に言って、その後ご奉仕と言う形で子供扱いみたく麻耶ちゃんを手懐けていた事からも良く分かる事であり、これらに対して麻耶ちゃん本人は大分恥ずかしそうに戸惑いを隠し切れていない様子や、2人があからさまに子供扱いしている様にしか見えない事をしてくる事に不満そうな態度をとる様子が見受けられていたが、これは「麻耶ちゃんが遠い存在になってしまう」と言う2人の焦りも多少なりともあるが、それ以上に「麻耶ちゃんは今の麻耶ちゃんで十分だよ」と言う2人の気持ちの裏返しでもある為、私としては麻耶ちゃんも十分大人っぽい所を兼ね備えていると感じている。

 全体的な立ち振る舞いについてだが、麻耶ちゃんは途中まで「自分がチノメグに比べて子供っぽいままである事を気にしている」様子が彼女の言動から見え隠れする印象があったが、アフタヌーンティーのお菓子を食べて調子を取り戻してから、一転してチノメグが思わず妬いてしまう程に「麻耶ちゃんの絶対的な強み」を披露していき、最早「大人と言っても全く遜色ない麻耶ちゃん」が表れていた印象が強かった。ただ、それでも麻耶ちゃん本人は子供扱いされる事にかなり不満そうにしていたが、その一方で本調子になった麻耶ちゃんの数多くの行動は間違いなく大人っぽいものであった為、麻耶ちゃんも自分が大人っぽい一面がある事に気付いていない可能性が高い。何だか奇妙にも思えるが、人間自分の事は案外分かっていない所もあるものなので、それを思えば案外あり得る事だと思うし、なにより麻耶ちゃん自身大人っぽさと子供っぽさに対してコンプレックスがある傾向を見せていたので、自分を低く見がちな事も鑑みると、ある種の視野狭窄に陥っている可能性すらあるとも言えるが、何れにしても麻耶ちゃんはこのお茶会で「自身も気付かない様な特性を発揮していた」と言えるだろう。

繰り返す出逢い

 ここまでチマメ隊のお茶会について書き出してきたが、そんなお茶会が終わった後、チマメ隊は(恐らく)帰り道の関係上智乃ちゃんとマヤメグの2人に別れ、以降はマヤメグに視点が当たる構成になるが、このタイミングでマヤメグに対して威勢よくバイトの面接に行く事を報告してきた神沙姉妹と再会する。ただ、神沙姉妹はかなり落ち込んでおり、その理由は言わずもがな、面接の結果がふるわなかった為である。本人達は何故駄目だったのか心当たりは無い様だが、私としてはこの様な失敗も後々絶対に良い経験にはなると思う。尤も、惨めな記憶が無くなる訳では無いが……。また、この時の神沙姉妹の凹み具合はかなりのものであり、面接前の2人が如何にも成し遂げてやりますよと言う空気感が滲み出ていた為に落差が激しいが、一方でその様な逆境にも凹まずに2人共にリベンジを誓っている。ただ、泣きながらリベンジを誓った事が災いして、まるで子供の如く泣きじゃくるような格好になってしまった為、マヤメグから「子供っぽい」と指摘されている。

 だが、そこから恵ちゃんは神沙姉妹に「面接の練習相手になってあげる」と言う感じで手を差し伸べており、さながら面倒見の良さを発揮している。また、そこで麻耶ちゃんに対しては「先に帰っても良い」と言う声かけもきっちりしており、やはり恵ちゃんは大人みたくしっかりしていると思うには十分である。これに対して1人になった麻耶ちゃんはそんな恵ちゃんの大人っぽさに憧憬意識を持ちつつも、そこから彼女は再び自分自身の「子供っぽさを何時まで経っても変えられない」と言うコンプレックスを思い浮かべてしまい、1人暗い影を落とす事になってしまう。やはり麻耶ちゃん自身のコンプレックスは早々解消できるものでは無い事が良く分かるが、普段明るく先導的な行動力もある麻耶ちゃんがここまでしょげているのは、私自身も中々心にくるものがある。

 そして、そんな時である。麻耶ちゃんにとって、幼なじみの恵ちゃんとも、同級生の智乃ちゃん、神沙姉妹、そして冬優ちゃんとも違う、年上組の中でも一線を画す様な信頼を置いている人と突然出逢うのは……。

一線画した信頼関係

 恵ちゃんに大人っぽい一面を見せつけられ、再び自身のコンプレックスに囚われてしまった麻耶ちゃんだが、その折に年上組の中でも最年長であり、麻耶ちゃんにとって特別な信頼関係を置いている理世ちゃんと出逢う事になる。ただ、理世ちゃんは麻耶ちゃんが思い悩む事を知ってか知らずか、麻耶ちゃんの悩み事を悟ったかの様な言葉を発しながら麻耶ちゃんの傍に突然現れている為、麻耶ちゃんは思わず自分の悩みが口に出ていたのではないかと、焦った素振りを見せていた。直ぐに分かる事だが、理世ちゃんもあくまで当てずっぽうで言った事に過ぎず、それ故に合致したのは全くの偶然だったのだが、何れにしても周りから見て何となくでも分かる程、麻耶ちゃんが思い悩む素振りをしていたのは疑いないし、何より理世ちゃんが近くまで来ても麻耶ちゃんは理世ちゃんに全く気付かなかった辺り、麻耶ちゃんは自身のコンプレックスの事になると周りが碌に見えなくなる(つまり視野狭窄)程に思い詰めてしまう傾向にある事も疑いないと言える。言ってしまえば、チマメ隊の中では麻耶ちゃんが見た目一番強そうに見えて、実は一番脆弱な部分が露呈しやすい(=打たれ弱いのかも知れない。

 そんな異質な状態から始まった麻耶ちゃんと理世ちゃんの唐突な出逢いだが、この出逢いは今月号終盤のメインにして今月号全体でもお茶会に並んで重要な局面だと捉えている。尤も、終盤の展開はお茶会に比べてシリアスと言うよりポジティブ寄りになっているが、それ故に麻耶ちゃんのカッコ良い一面も見る事ができる様になっているので、ここからはそんな麻耶ちゃんのカッコ良さや大人っぽさを重視して書き出したいと思う。

 前述の通り、麻耶ちゃんと理世ちゃんの出逢いは些か唐突なものであったが、その後理世ちゃんは麻耶ちゃんの顔を見て、2年前の夏の事を思い浮かべていた。理世ちゃんが言う2年前の夏と言うのは、嘗て麻耶ちゃんがまだ中学2年生だった時にチマメ隊で将来の進路について話し合いをした際に、ふと「高校生になって学校が違えば3人はバラバラになってしまうのではないか」と、一抹の不安を覚えて理世ちゃんに思い切って相談しに行った時の事である。尚、その時のことを振り返って理世ちゃんは、麻耶ちゃんが昔と悩んでいる時の顔つきが全く変わっていない事を指摘して、麻耶ちゃんを揶揄っているが、その一方で「あの時より成長している」とも声を掛けており、自分もまだまだ子供である事*6を引き合いに出してしっかりフォローしているが、当の麻耶ちゃんは理世ちゃんの大切な後半の言葉はそっちのけでアイスを買いに行っており、理世ちゃんにして「中身は全く変わっていない」と言わしめている。麻耶ちゃんらしいと言えばそれまでだが。

 ただ、麻耶ちゃんがアイスを買いに行ったのには複数の理由があり、まずは素直に自分が食べたかったのも当然ながらあったと思われる。よくよく考えれば、さっきお茶会でお菓子を食べていたと言うのに、そこから更にアイスを食べるとは如何にも麻耶ちゃんらしいが、それ以上に「理世ちゃんに奢りたかった」と言う気持ちがあったと考えている。また、ただ奢るだけでなく「日頃の感謝の気持ちを込めて」と言うのが重要であり、それを垣間感じさせる要素として、麻耶ちゃん本人はアイスが1つ分なのに対して、理世ちゃんの分はアイスが3つ分となっており、理世ちゃんに対して多くなる様に奢っているのである。ある種の大盤振る舞いだが、その時の麻耶ちゃんの表情は大変に凛々しいものであり、さながらの「大人を余裕」感じさせる程に眩しくカッコ良く、思わず理世ちゃんを魅了させている程である。因みに理世ちゃんはその際、そんなカッコ良い麻耶ちゃんを見て自分が送れる最大限の言葉を顔を赤らめながら麻耶ちゃんに送っているが、その際に麻耶ちゃんの頭を撫でていた為、麻耶ちゃん本人は困惑していた。麻耶ちゃんが困惑していたのは「理世からも子供扱いされている?!」*7と彼女が感じとったからと考えられるが、当の理世ちゃんからしてみれば子供扱いと言うより、今後への期待として頭を撫でている。因みに物語はここで終わっており、最後はリゼマヤの良き関係性が光る内容になっている。尚、ここまで書いていなかったが、麻耶ちゃんと出逢った理世ちゃんも髪型をイメージチェンジしており、印象的だったツインテールから、ロゼちゃんの時と同じ様な髪を下ろすのをベースにサイドテール(?)を結う髪型をしており、より大人っぽくてお淑やかな印象が強くなっている。尤も、良くも悪くも髪型が変わっても理世ちゃんのサバサバした特性は何も変わっていないが。

 これらを見て私が思ったのは、理世ちゃんも「麻耶ちゃんに対して子供っぽい事を過度に気にする必要は無い」と考えている事であり、これは麻耶ちゃんをフォローしつつ「自分もまだまだ子供」だと言った事がその裏付けとなっている。何故理世ちゃんがこの様な言葉をかけたのかは本人のみぞ知る所だが、年上組の中でも一番の年上である理世ちゃんでも「子供みたいな一面はまだまだある」と言う事で、高校1年生の麻耶ちゃんが「子供っぽい所があるのはごく普通な事」だと伝えたかったのではないかと考えている。年上だからこそできる芸当だが、理世ちゃんらしい優しき言葉だと感じ取った。

 また、理世ちゃんと一緒に居る麻耶ちゃんの立ち振る舞いについてだが、理世ちゃんが話をしているさなかにアイスを買いに行くあたり、ここでも自由奔放で子供みたいな一面を見せている。だが、その一方で理世ちゃんを思わず魅了させる程にカッコ良く、且つ大人っぽい一面も見せており、麻耶ちゃんも同級生組にも引けを取らないまでに大きく成長しているのがここでも窺える。ただ、それでも本人は自分が周りから一目置かれる程に大人っぽくなっている(=成長している)面がある事に対して自覚がない様な反応を見せている為、麻耶ちゃんは周りに対する視野は広い一方で、やはり自分の事になると案外鈍感になるのかも知れない。ただ、そんな麻耶ちゃんも含めて人を惹きつけるとは感じている。

大人っぽさと子供っぽさに対して思う事

 今月号の感想・考察として書き出す主なテーマの最後として、今月号において度々登場して取り巻いていた「大人っぽさと子供っぽさ」について、私が思う事を書き出したいと思う。

 抑々「大人っぽさと子供っぽさ」については、ごちうさにおいては今月号に限らず初期の頃から度々言われてきた事なのだが、今月号では全体的なテーマとして採用されていた事から、改めて関心が湧いてきた所存である。因みに「大人と子供」と言う観点で私がごちうさを読みながら思う傾向としては、全体的な観点として「大人っぽい所もあるが、全体的には子供っぽい部分が多く目立っている」と言うのがあり、特に年上組(とりわけ心愛ちゃんと理世ちゃん)に対してその様に思う事が度々あった。尤も、年上組が年下組に対して時に年下組より子供の様に振舞える事は、それだけ信頼関係がしっかり存在している(=自分の内側を見せられる)証(逆もまた然り)でもあるので、悪い気は全くしないのだが、単純な感想として子供っぽい感じになっている時にそのまま「子供っぽくて可愛い」と思う事もしばしばである。まぁ相手は可愛いを前面に押し出してくる様な個性派の美少女なので、ある程度は致し方ないのだろう。

 そして今月号では、全体的に麻耶ちゃんが「子供っぽい自分を気にしている事」が強く印象にあった。麻耶ちゃんとしては「周りがどんどん大人っぽいと思われる様な落ち着いた雰囲気や、しっかりした統率力を兼ね備えてつつあると言うのに、自分だけ昔と全く変わらない子供っぽさが色濃く残っていて、ちっとも成長していない様に思える事」を気にしていると思うのだが、今月号の麻耶ちゃんが取った数々の行動を見る限り、私としては麻耶ちゃんが子供っぽいままだとは決して思わないし、寧ろしっかり大人っぽい所を発揮できるまでに成長していると感じている。にもかかわらず麻耶ちゃんが子供っぽい事を気にしているのは、今月号の台詞を見る限り、恐らくだが麻耶ちゃん自身が自分自身の事を良く分かっていないのが要因にあると思われる。何とも難しい話なのだが、何度も記述した様に麻耶ちゃん自身がそういう変化に意外と鈍いのも要因の一つなのではないかと考えている。

 尚、私が「大人っぽいと子供っぽいをどの様に捉えているか」についてだが、私が考える大人っぽいと言うのは「物事を冷静に捉えて客観的に判断できる力を持ち、且つ周りに対してもきちんと気配りできる様な人」と言うものである。これは私が考えている大人の理想像のほんの一部なのだが、要するに「自分で物事を多角的に考えられて、誰かの為に自分には何ができるかをよく考えられる人」が、私が考える大人っぽいという事である。何だか変に難しい話になりかけたので手短に切り上げた次第だが、この様な価値観を持つが故に麻耶ちゃんに対しても、たとえ本人が「何時まで経っても子供っぽいまま」だと嘆いていても、私は「麻耶ちゃんにも大人っぽい所はきちんとある」と思い続けられる根拠にもなっている。

 一方で子供っぽいと言うのも、私自身色々思う所はあるのだが、一番は「幾つになっても信頼できる人に対して遠慮なく甘える事が出来たり、幼心を忘れずに大切にできたりする事が出来る様な人」だと考えている。何だか「人に対して甘い」と思われそうなので誤解なきよう書いておくが、私としても子供っぽいと聞いて真っ先に思いつく様な「マイナスイメージ(わがままや自己中心的等)」も持っているのも事実であり、人に対して何でもかんでも甘い訳では無い事は言っておく。その為、あくまで「人としてある程度はちゃんとしている事」は前提としての話にはなるが、赤文字で書いた事は言うならば「信頼できる人にその身を委ねる事や、何時までも子供の時の事や記憶を大切に維持する事」を表している。この価値観を今月号の麻耶ちゃんに当てはめると、麻耶ちゃんは「何時までも幼心を忘れずに子供みたく無邪気に何でも楽しめる所」が子供っぽい部分になるが、私としてはこの様な特性も麻耶ちゃんの絶対的な強みとして捉えている。とどのつまり、そこまで悲観に暮れる必要は全く無いと思う訳である。

 ここまで私が思う「大人っぽさと子供っぽさ」について叙述してきたが、もう気付いている方もいるかもしれないが、今回実は私が持つ価値観の中から、特に麻耶ちゃんの良い所がより光る様な価値観を抽出して書き出している。勿論ここで書き出した内容は全て「私が心から思っている事」なのだが、態々(わざわざ)麻耶ちゃんに合った価値観に拵(こしら)えたのは、それだけ麻耶ちゃんに対して思う事があったからである。その思う事とは、今月号の麻耶ちゃんの言動を見て「麻耶ちゃんは自分の事を少し過小評価し過ぎ(=子供っぽく捉え過ぎ)なのでは?」と言うものであり、私としても自分で自分の事を頗る(すこぶる)蔑む様な見方をしてほしくないと言う想いが存在していた。これは別に麻耶ちゃん以外に対しても等しく思っている事なのだが、麻耶ちゃんは皆の中でも自分の事になるとネガティブ思考に陥る傾向がやや強い為、それに伴い麻耶ちゃんに対しての想いも強めに表れる訳である。

 ただ、私としても麻耶ちゃんが自分の事になると悲観的になり易い傾向にあるとは思いつつも、同時に麻耶ちゃんが持ち前の好奇心と前向きな思考をもって、どんな状況でも楽しく出来る様な強みを持っている事や、麻耶ちゃん自身に自覚はあまり無いとは言え、思わず人をアッと思わせる様な大人な気遣いができる事も知っている。人間自分の事は意外と分からないものだから、麻耶ちゃんが思い悩むのも良く分かるが、私としてはそれでも「自分の良くない所ばかりではなく、良い所にもちゃんと目を向けて欲しい」と、麻耶ちゃんに対して考えており、その表れが今までの内容と言う訳である。

3.あとがき

 以上がきらま2022年2月号掲載のごちうさを読んだ私の感想・考察である。今回は全体的にチマメ隊とりわけ麻耶ちゃんにフォーカスが当たったお話になっていた印象があり、また個人的にはもう一つのテーマとして「大人っぽさと子供っぽさ」と言うものが存在していたと捉えている。その為、今月号は先月号や先々月号とはテイストが幾分異なり、所謂「何時ものごちうさらしいお話だったと考えているが、その中でもごちうさの重要要素はしっかり含まれていると認識している。

 今月号は先月号や先々月号と異なり、「一つのお話の中における時間軸と舞台は基本的に同一のもの」*8となっている為、終始同じ時間軸の中で登場人物の心境がどの様に移ろいゆくのかを観察していくのが重要になると考えており、今回の場合麻耶ちゃんの心境変化を追っていく事が該当すると感じている。再三書き出してきた様に今回は麻耶ちゃんが所謂「大人と子供」の違いについて思い悩むのがキーポイントになっていると捉えており、彼女がどの様に悩んでいるのか、彼女の子供っぽい所、大人らしい所は何かをどの様にして捉えていくのが重要だと考えている。

 そして、今月号は「悩みながらも成長する麻耶ちゃん」という観点が非常に重要だと捉えており、「子供から大人」へ成長していく年頃だからこその悩みに対して彼女がどの様に考えていき、周りはそれに対してどの様な助言を与えていて、そこから彼女は最終的に何を思うのか。それを自分なりに拵えていく事を目標として今回私は書き出してきた。それがどの様な結果になったかは分からないが、個人的にはありったけの想いを書き出してきた所存である。私とて麻耶ちゃんに対する想いは、決して他の登場人物に引けを取らない様な位にはもっていたいのである。

 最後に、今月号で魅せつけられたチマメ隊の成長具合」や、麻耶ちゃんの本人も気付いていない様な「カッコ良さ」は本当に心打たれるものであった事は改めて書いておきたい。また、今後物語の展開がさらに進めば、チマメ隊以外の年上組やブラバ組においてもさらなる成長や葛藤が見られる事も予想する事が出来るし、それもどの様に描かれるか、今から楽しみである事をもって、この感想・考察の締めとしたい。

 

おまけ

今回の文量は全て合わせてのべ400字詰め原稿用紙46枚分であり、これは現時点で過去6番目の文量の多さである。先月号よりも少しコンパクトになったが、それでも膨大な量である。

*1:それどころか、上手く心愛ちゃんを言い包める麻耶ちゃんと、言い包められている心愛ちゃんを見て若干引いている様にも見える。

*2:前述の通り、智乃ちゃんは心愛ちゃんが絡むと意味合いが変化する。

*3:規律正しく朝を迎える事が苦手な事や、普段から妹である夏明ちゃんを頼る傾向に多い事が顕著な例。

*4:尤も、彼女とて中学生時代の時からヘアスタイル自体はツインテ―ルやポニーテール等々、割と豊富だったが、学校に登校する時やラビットハウスで働いている時も含めて、基本的には髪をそのまま下ろしている事が多かった。

*5:尚、学校の「ロッカー」ではなく、音楽の「ロッカー」なのでそこは悪しからず。

*6:因みに理世ちゃんの実年齢は「18」なので、本来は大人と言われても遜色ない年齢ではあるが、精神的な意味で子供と言ったものだと思われる。

*7:因みに麻耶ちゃんが友達の名前を呼ぶ時は、たとえ自分より年上であっても呼び捨てな事がしばしばある。ある意味彼女なりの親近感の表れとも言えるが。

*8:言い方を変えれば、一つのお話の中で「過去と現在」と言った形で時間軸や舞台が変化しないこと。

きらファンメインシナリオ第2部「断ち切られし絆」5章の感想・考察

 こんにちは。今回はきららファンタジアのメインシナリオ第2部5章を完走したので、その中で抱いた感想と考察について書き出したいと思います。この第2部に関しては、私の中ではのめり込む様に読み進められる反面、確かに存在している壮絶さや怖さに対して多少なりとも心が痛む面もあります。ただ、それで考えるのを止めてしまえば何もならないので、今回もシナリオを読み進めて考えた事を書き出したいと思います。

※注意※

きららファンタジアメインシナリオのネタバレを含むものなので、その事を了解の上、読み進める事をお願い致します。また、今回は内容が全体的に非常に重くなっており、言葉もきつくなっている部分が度々あるので十分注意してください。尚、本文中に出てくる「リアリスト」は「現実主義、写実主義」を意味するものではなく、「ゲーム内に登場する組織体」です。今回は括弧の有無に関わらず、特に脚注や注意書きが無い場合は全てゲーム内で使われる単語を指します。

1.はじめに

 「断ち切られし絆」の名を持つ、きららファンタジアメインシナリオ第2部。どの聖典にも載っていない謎の存在である住良木(すめらぎ)うつつと共に、きらら達はうつつの故郷を探す為に新たな旅に出る。しかし、その道中はあまりにも壮絶且つ、悲愴的だった……。因みに「悲愴」とは「悲しくも勇ましい」事を意味する「悲壮」とは違い、只々「悲しくそして痛ましい」事を意味している。たった一文字の漢字違いでここまで意味が異なるのは、ある意味言葉の力の凄まじさを物語っている。

 特徴は何と言っても大筋を支配しているシリアスなシナリオで、感動する展開も多いが、壮絶な展開も多い重厚なストーリーに、欺瞞(ぎまん)に満ちた世界*1を正す為に禁呪魔法「リアライフ」を用いて暗躍する、第2部の敵対組織「リアリスト」の思想の根底にある悲しく壮絶な闇等、非常に重い展開がとても印象的である。しかしながら、シリアスで壮絶な分、先の見えない展開にどきどきしながら、のめり込む様に楽しむ事ができる様になっており、また感動するシナリオも多い為、総合的にはカタルシス(精神の浄化)を感じる事の出来る上質なシナリオになっていると感じている。

 今回はそんな読み応えのあるシナリオを、まずはざっくりと展開を説明した上で、メインシナリオ第2部の重要人物のうつつちゃんからと、敵対組織である「リアリスト」からと言う、大きくは2つの視点を中心にして、全体として5章を読んで私が思った事を書き出したいと思う。

2.第2部5章の感想・考察

5章全体の感想・考察

 まずは5章そのものについてや、その5章から読み解けることを中心に書き出したいと思う。当然ながら内容は大分重めなので、その辺りは十分に注意して下さい。

5章とは

 5章はメインシナリオ第2部奇数章と同様、禁呪魔法によって呼び出されたクリエメイトを助け出し、クリエメイトを元の世界に返す為に、きらら達がクリエメイトと共に冒険する内容になっており、今回呼び出された作品は「ご注文はうさぎですか?」である。その事もあってか、5章の舞台は「美食の交易都市」となっており、全体的なストーリーも「喫茶店」に因んだものがしばしば登場している。

 この章はシリアスで壮絶な展開が多いメインシナリオ第2部の中でも特に壮絶な展開が多い章であり、初っ端から「嫌がる心愛ちゃんに対して一切の情を見せず、冷血な心をもって執拗に絆を断ち切り、絆を『脆いもの』と一蹴するサンストーン」と言う、かなりショッキングなシーンが存在している。しかもサンストーンは、この5章全体のストーリーを見ると分かる事だが、他のリアリストのメンバーの提案から「徐々に心を蝕んで苦しめさせる為に、心愛ちゃんの絆を少しずつ断ち切る」と言う悪趣味な事を行っており、この事からもリアリストの冷酷非道さが垣間見える。

 この様にド頭からメインシナリオ第2部でも随一と言える程の衝撃的な展開から始まる5章だが、そのド頭を乗り越えても「まともに食べ物が手に入らなくなってしまった街」や「聖典の信仰を捨てリアリスト側に寝返った構成員」、そして「大切な人の記憶が奪われていく友達を見て、悲しみに打ちひしがれる智乃ちゃん」と言う様に、思わず心を抉られる壮絶な展開は度々登場し、それだけでも辛いのだが、物語の中程に存在するリアリストの「真実の手」が1人「射手(しゃしゅ)」の名を持つ「スイセン」が「リコリスヒナゲシ」も併せた3人で心愛ちゃんの事を「絆なんて所詮紛(まが)いものだ」等と言って絶望に叩き落そうとする場面の悲惨さは、心愛ちゃんの心からの切実な叫びも相まって、この5章全体はおろか、メインシナリオ第2部1章から5章全体でも特に群を抜いている。

 中盤以降も心が抉られる程の壮絶な展開は鳴りを潜めず、特に心愛ちゃんと最後まで絆が繋がっていた智乃ちゃんとの絆をサンストーンによって切られ、完全に絆を失くした心愛ちゃんは完全なる絶望に染まり、パスを切られた智乃ちゃんは「何者かも分からない人の為に頑張る事は出来ない」と無気力になってしまう展開は、考えるだけでも心が痛く締め付けられる程の絶望的な状況だが、そんな悲愴的な状況下でもある事をきっかけにはっきりとは思い出せないながらも、確かな想いを受け取った智乃ちゃんが再び希望を取り戻した場面は、それまでの絶望的な展開もあって非常にカタルシスと勇ましさを感じられる。

 そして、最終的には皆で力を合わせて敵の本拠地に乗り込み、多くの仕掛けや強敵に苦戦しながらも心愛ちゃんを絶望から救い出す展開は、王道ながらも胸が熱くなる内容であり、特に心愛ちゃんを救い出した後の智乃ちゃんとのやり取りは、原作を知っている人も、知らない人も心温かくなると個人的には思う。そして、最終的には様々な立場の人々の思想が垣間見えて、5章は幕を閉じる。

 全体的に見れば、5章は「今まででも随一の壮絶な展開が多い章」である事は疑いなく、特に序盤から中盤が非常に重い。シナリオ進行としても、何時も明るく元気な心愛ちゃんが、リアリストのあくどい手口によってじわじわと絶望に堕とされていき、最終的には闇に堕ちてしまう展開から、人によって感じ方に個人差があるので一概には断定できないが、ごちうさが好きな人や、心愛ちゃんが好きな人にとっては非常に辛い展開が多い。因みに私の場合は、智乃ちゃんがイチ推しである事と、元々シリアスで壮絶なシナリオに対しても強い耐性がある事から、正直かなり辛い想いが頭を駆け巡ったとはいえ、絶望的なまでに辛かった訳は無かったが、それでも智乃ちゃんが「お姉ちゃん」と呼ぶまでに大好きな心愛ちゃんとの絆が引き裂かれるのはかなりショックだったし、何より心愛ちゃんの心からの悲痛な叫び声は、フルボイスである事も相まって最早トラウマになる程のショックを心に植え付けられている。幾ら私がシリアスで壮絶な展開にも耐性があるからと言っても、それはあくまでどれだけ悲痛な想いに叩きのめされても心から挫けないだけでしかなく、心が痛む事には変わりないのである。

 しかしながら、その一方で智乃ちゃんが新たに決意を表明してからは、それまでの鬱屈したものを払拭するべく、一気に解放へと突き進んでいく展開へと変貌する為、最終的には感動的な展開も相まって凄まじいカタルシスを感じる事ができる様になっている。また、重い展開が続く序盤から中盤も含めた5章全体として、重苦しい展開が続く中でもきらら達(特にうつつちゃん)の力強い言葉には凄く助けられるものがあるし、クリエメイト達(今回ならごちうさの登場人物)の普段通りのやり取りも「どんなに重い状況でも、変わらないものはきちんとある」と思えて、思わず肩の荷が下りる様な安心感があり、その安心感たるや、これらがあるお陰で私の場合「メインシナリオ第2部がどんなに壮絶でもある意味ちゃんと読み進める事ができる様になっている」と思う位である。

 

ここからはメインシナリオ第2部の重要人物のうつつちゃんやリアリストを中心とした感想・考察を書き出す事とする。

ここからも重い内容が含まれているのでご注意ください。

5章におけるうつつちゃん

 メインシナリオ第2部における重要人物たる住良木うつつ。どの聖典にも載っていない謎の存在であり、本人も何らかの理由で「自分の名前や年齢、そして女子高生」であること以外は記憶を失ってしまっている。その為、うつつが一体何者なのかを知る者は自分も含めて誰もいない。ただ、リアリストはうつつの事も何か知ってそうな素振りをしばし見せているが、リアリストは敵対組織である為、きらら達が知る由はないと言える。

 性格は極端なまでのネガティブ思考であり、それ故に事あるごとに自分を卑下する様な発言をしがちな傾向にある。また、中々に切れ味ある毒舌の持ち主でもあり、主に自分に対して毒を吐いている傾向にあるが、傍若無人なリアリストに対して中々容赦ない言葉を投げかける事もしばしばあり、その様にリアリストを冷たく突き放す様はある意味かっこよくもあるが、その冷たさは普段のうつつちゃんからは中々想像できないものである為、個人的には誰よりも恐ろしいとすら思う事もある。ただ、本質的には5章の中盤において智乃ちゃんからも言われている様に他者を思い遣れる優しい人である為、私自身うつつちゃんがリアリストを冷たく突き放す姿を見て、どこか恐ろしいと思うのは、ある意味普段のうつつちゃんなら絶対にしない事をやっているのを見て、「彼女の底知れない怒り」を感じているが故なのだろう。

 度々実年齢以上の教養と思慮深さを感じさせる人でもあり、それ故にきらら達を始めとした「自分を大切に想っている人達」に対しては基本的に毒舌を飛ばす事は基本的になく、この事は彼女が毒舌は「大切に想っている人には向けたくないと考えている」のを窺わせる。つまりうつつちゃんは、きらら達の事を大切に想っているのである。尤も、ランプとずっと行動を共にしている「マッチ」だけは、うつつちゃん本人も心からは大切に想っているとはいえ、うつつちゃんに対して度々余計な一言を添える*2為か、普段はマッチに対してやや素っ気ない態度をとっている事が多く、怒って膨れる事もしばしばである。ただ、マッチも言ってしまえば「毒舌家」の傾向にあるだけなのだが、マッチとうつつでは馬が合わないのだろうか?

 彼女は自分を思い遣ってくれるきらら達やメディアちゃんと接して、親交を深める事で大きく成長してきており、4章終盤や5章では自分なりに落ち込んでいる人に対して励ましてあげたり、うつつちゃんから積極的にコミュニケーションを取ったりする等、自身の成長を活かしたうつつちゃんの前向きな行動も多くなってきている。ただ、彼女は大の恥ずかしがり屋でもある為、人から感謝されるとツンデレみたくはぐらかすのがお決まりだが、当然相手はうつつちゃんの気持ちは読み取っており、うつつちゃんの意思を汲み取った上で優しく受け容れている。

 5章では根底にあるネガティブ思考こそ変わらないものの、今まできらら達と共に多くの困難を乗り越え、また多くの人からの信頼を築き上げてきた事から、窮地に陥っている人に対して自分なりに寄り添い、何だかんだ言っても人の気持ちを慮って自分事の様に捉えて考えてあげている等、確実に成長を感じさせる場面が多くある。また、智乃ちゃんとは今回の一件で他の人以上に交流を深めており、それ故に智乃ちゃんと心愛ちゃんのパスが切られた時は、深い悲しみを滲ませながらも、自分には何かできる事はないかと尽力しようとする心の強さも見せている。ただ、智乃ちゃんが新たなる決意を秘めて立ち上がって以降、うつつちゃんは自分が活躍できない事を引け目に感じてややネガティブ色が強まるが、それでも嘗ての様に弱り切って逃げる事はなく、ここでも彼女の覚悟と成長が窺える。

 終盤においては、数々のトラップやウツカイにより消耗していた皆を励ます事を行っており、ここでも彼女の確固たる成長を窺う事ができる。そして、スイセンと再び出会った時には、絆を断たれても尚絆を手繰り(たぐり)寄せようとしているクリエメイトを見て「意味が分からない」と言っていた彼女を「今のあなたには分からない」と毒舌全開でスイセンを切り捨てた上で「自分もこの世界に来た当初は『自分が不幸なら、他人も不幸にしたい』とは思っていたが、やっぱりそうは思いたくない」と、うつつちゃん自身「自分が不幸なら、他人も不幸になって良いと思いたくない(己の身勝手な理由で他人を不幸にしてはいけない)」と考えが変わった事を告白している。やはりリアリストとうつつちゃんとでは、メインシナリオ第2部開始当初(1章や2章)なら同じだったかもしれないが、数多くの経験と優しさに触れて成長した今のうつつちゃんとリアリストでは、最早絶対に越えられない壁が出来たのであろう。

 因みに余談だが、彼女は5章の途中で神殿の管理が行き届いていた所では比較的安定した生活をしていたのを知っていた事から、今回訪れた街の荒廃ぶりと、その荒廃ぶりが神殿の管轄が行き届いていなかった事を重ね合わせた上で「エトワリアと言う世界は少し神殿に依存し過ぎなのでは?」と言う疑念を心の中で抱いてもいる。この事はうつつちゃん自身他の誰にも話していない事であり、あくまでうつつちゃん本人が考えた事に過ぎないのだが、私としてはうつつちゃんのこの考えも、このメインシナリオ第2部を紐解く上で何か重要な足掛かりになるのではないかと考えている。尤も、それがどの様に活きるかは未知数だが、何れにしても「うつつちゃんの何気ない考え事」とスルーするには惜しい何かがあると私自身考えている。

スイセンについて

 「真実の手」が1人であり、「射手(しゃしゅ)」の異名を持つ、リアリストが1人、スイセン一人称は基本的に「ウチ」であり、とにかく食べ物に目がなく、リアリストにいるのも「美味しいものが沢山手に入るから」と言う程。ある意味「魔手(ましゅ)」の異名を持ち、お金に目がない「スズラン」とは一つのものに執着していると言う意味では同じであり、それ故に2人はある種意気投合しそうにも思えるが、2人の関連性については一切不明。尤も、絆を重んじないのがリアリストの基本理念みたいなものなので、深い関係性はないと言って良いのかも知れないし、それを度外視しても「一つの物に執着する人同士は案外そりが合わない事も少なくない」事を思えば、やはり2人は深い関係性は無いとなってしまうが……。

 飄々(ひょうひょう)とした性格の持ち主であり、食べ物以外に何を考えているのか分かりにくい雰囲気を醸し出している。それ故にリアリストの中では暗さをあまり感じさせず、スズランの様に比較的明るくさっぱりしている様に見えるが、根底の思想は間違いなくリアリストのそれであり、リアリスト特有の卑劣さ及び残忍さが滲み出ている。そして、スイセンはその明るそうな雰囲気の内にリアリストの中でも中々にえげつない冷血な本性を秘めており、目的の為なら一切の慈悲なくクリエメイトを絶望に叩き落す様な冷酷さを持っていたり、ぶっきらぼうな物言いで相手を容赦なく追い詰めたりする等、やはりリアリストの一員だと感じさせる本性は存在している。

 5章においては同じくリアリストの「真実の手」の「リコリス」と「ヒナゲシ」と共に「美食の交易都市」を荒廃させ、またご注文はうさぎですか?の世界が描かれた聖典を汚染させる事で、絶望のクリエを搾取しようと暗躍する。それに加えてスイセンは心愛ちゃんを利用して、自分が大好きな美味しい食べ物(パン)を作らせて独り占めにもしている。尚、この時も心愛ちゃんの姉のモカさんを引き合いに出してモカさんのパンの方がもっと美味しいだろうな~」と、心愛ちゃんが姉にかなわない事を気にしている事を知りながら陰湿且つ悪辣な精神攻撃を行い、それに付随してリコリスヒナゲシが2人して「心愛ちゃんと智乃ちゃんは偽物の姉妹」だの「偽物の姉妹なんて誰でも良い」等と言って追い打ちをかけると言う悪逆非道な手口を使っており、リアリストの退廃ぶりが如実に表れている。その後、完全に闇落ちした心愛ちゃんを利用して自分の欲望を際限なく満たそうとするが、きらら達が再び攻め入る事を知り、決戦に臨む事になる。

 決戦では「ガーディアンウツカイ」と呼ばれる、闇に堕ちた心愛ちゃんが持つ絶望のクリエを動力源にしたウツカイを用いて、きらら達と対峙する。ここで遂に彼女が聖典を嫌う理由が明かされたが、それは聖典ではお腹いっぱいにならず、空腹に喘いでいた彼女を一切助けてくれなかった聖典や神殿に失望したから」と言うものであった。確かに聖典は書物である為、お腹が満たせるものでは無いのは事実だし、彼女が言う様に満足な食事さえ碌に手に入らない中で、書物内で美味しそうな食べ物を見せられたら激しい憎悪を覚える*3のも納得は出来るが、だからと言って彼女の行動は決して看過できる様な事では無い。ただ、他方でこの事実そのものは、私が考えているスイセンひいてはリアリストには「何か壮絶な過去を抱えている」と言う仮定論がより現実味を帯びた形になるが、果たして真実は一体どうなのだろうか……。

 その後の展開についてだが、彼女はガーディアンウツカイを用いて一度はきらら達を退ける事に成功する。だが、きらら達の発想の転換により心愛ちゃんの絆を取り戻されたのが運の尽きとなり、スイセンは一転して窮地に立たされるが、再三にわたって大切な人達を罵り続けたスイセンに向けて、智乃ちゃんからトドメの一言を言われた事により、激怒しながらガーディアンウツカイと共にきらら達に襲い掛かると言う往生際の悪さを見せつけるものの、最早原動力の源たる絶望のクリエを失くしたガーディアンウツカイでは、例えタッグを組んでも力不足であり、あえなく返り討ちに遭ってしまう。そして、術を失くした彼女は捨て台詞を言い残して逃亡するのだが、例えこの一件が済んだとしても、彼女の非道な行動が許される事は最早無いだろう……。

 この様にスイセン表立っては飄々とした比較的明るい人物に見えるが、その一方でクリエメイトを地獄の果てまで追い詰めにかかる様な冷酷非情さも持ち、更にクリエメイトを都合良く自分のものに仕立て上げようとするしたたかさをも併せ持っており、そこには彼女が持つ悲痛な過去が大きく関連していると思われる。その為、他のリアリストの例に漏れず、一筋縄ではいかない経緯を持つ人物だと言えるが、一方で内に秘める冷血さはリアリストの中でもトップクラスである為、彼女を理解するためのハードルは途轍もなく高い。

5章について思う事

 ここからは5章全体とりわけリアリストに対して個人的に考えている事、思っている事を中心に書き出していきます。ここも非常に重い内容が含まれているのでご注意ください。

錯綜と清涼の想い

 ここでは5章についての全体的な印象を書き出したいと思う。まずはこのメインシナリオ第2部全体の印象についてであり、5章に限った事では無いが、メインシナリオ第2部は全体的にシリアス且つ非常に重い展開が多く、それがメインシナリオ第2部の魅力でもあるのだが、やはりその重さに辛さを全く感じないと言えば嘘になる。しかしながら、それでも私はシリアスで重い内容ながらも重厚で非常に読み応えのあるシナリオ構成に心惹かれ、今まで1章から4章を全力で読み進めながら攻略をしてきた。特にメインシナリオ第2部2章、4章は今までにないシナリオ構成*4をしていた為、驚きながらもどんどん世界観にのめり込んでいる自分がいたものである。

 しかし、5章のシナリオに私がきらら系の中でも特に好きな作品で、原作・アニメ共に今まで嗜んできたご注文はうさぎですか?が登場する章だと分かってからと言うもの、心から拒絶反応を覚えたとまではいかなかったものの、多少なりとも不安な気持ちが芽生えていた。ただ、メインシナリオ第2部1章から4章を見るに、絶対に重い展開になるとは正直分かっていた上、メインシナリオ第2部のプロモーションビデオを見るに、どこかのタイミングでごちうさが登場する事も把握していた為、不安な気持ちはありながらもある程度気構えは出来ていたので、覚悟を決めてシナリオをがっつり読みながら攻略する事にした。

 そうして攻略した5章だが、結果から言えば私の想像を遥かに上回る辛い展開が待ち受けていた。シナリオ自体が非常に重いのもあるが、とにかく心が締め付けられる様な苦しさを覚える場面が多く、特に章の冒頭及び中盤にある「金切り声を上げてまで嫌がる心愛ちゃんに対して、サンストーンは一切の慈悲なく絆を断ち切り、絆を断ち切られたショックで悲鳴を上げ、そのまま気絶した心愛ちゃんを見て容赦ない言葉で切り捨てた」場面や、章の後半初めの「智乃ちゃんと心愛ちゃんの絆が断たれた事により、何もかも絶望に染まっていく」場面は、思わず目を背けられるものなら背けたいと本気で思った程で、この場面に関してはもし私がごちうさを全く知らなかったとしても、この凄惨さに対しては「絶対にショックを受ける」と咄嗟に思った程である。その為、私としても正直ここまで心苦しくなるとは予想できなかった事もあって、メインシナリオ第2部を今までがっつり読み進めていながらここまでショックを受けた事実には、最早言葉を無くす以外に無かった。正直重苦しい展開に心からどんなに打ちのめされても、根底は決して挫けないと思っていた私だったが、そんな事はないのかも知れないと本気で思い知らされてしまった。

 この様に相当心苦しい想いを抱える事になってしまった5章だったが、一方で要所にあるきらら達とりわけうつつちゃんの力強い言葉や、クリエメイト(ここではごちうさの登場人物)の何時もと変わらないやり取りには、重い展開が続く中であっても心の負担が少し軽くなったし、後半「ある事をきっかけに智乃ちゃんが新たな決意を誓った」場面以降、それまでの鬱屈したものを全て晴らしていく様に展開が進んでいくのに対しては、思わず強いカタルシスを感じたものである。そして、章の終盤にある感動的な展開には、今までの辛い展開もあって心動かされたのは言うまでも無かった。その為、総じて言うなら、この5章は「メインシナリオ第2部らしく前半は非常に重い展開が続くが、後半からは劇的な展開に強いカタルシスを感じる事の出来る」構成をしていると考えており、それ故に最後の最後に壮大な感動を噛み締める事の出来る展開に仕上がっていると考えている。

傍若無人なリアリスト

ここは特に言葉がきつい内容になっているので、特にご注意ください。

 

 リアリストに対しては、これまでも悪逆非道の限りを尽す様な傍若無人に思わず憤りが隠せなかった事もしばしばあったが、その一方でリアリストの一部メンバーから感じ取る事の出来る、自暴自棄とも言える立ち振る舞いから見える彼女達の壮絶な過去と闇について思いを馳せるなら、自分勝手な行動である事には変わらないとは言え、一概に否定する事は出来ないという良心の呵責(かしゃく)に思い悩まされる事もしばしばあった。尤も、だからと言って私がリアリスト達を看過できる訳ではなく、寧ろ決して看過してはならないと考えている部分の方が多い位なのだが、何にしてもリアリスト達に対しては色々な意味で複雑な想いを抱き続けているのである。

 しかしながら、5章におけるリアリストを見た時の私は、これまでとは違う感想を抱かざるを得なかった。と言うのも、5章におけるリアリストの振る舞いが、あまりにも横暴が過ぎていた為であり、それはこれまで書き出してきた通りだが、それに加えて個人的にはリアリストに自分自身の想いをも踏みにじられたのがショックだった。無論、リアリスト達からしてみればそんな事は全く関係無いとは理解しているし、所詮は自分自身の思い込みに過ぎない事も分かってはいるが、それでも一度はリアリスト達に対して抱いた慈愛をリアリストの手によってあっけなく潰されてしまったのは悲しかった。

 特にショックだったのはスイセンであり、嘗て私はスイセンに対して「癖のある人物で、お世辞にも褒められた性格ではない」とは思いつつも、その一方で「根っからの悪人ではない」と思っていたのだが、今回心愛ちゃんに対して執拗な精神攻撃を平然と仕掛け、挙句「自分の腹だけはどうなってでも満たせ」等と言う身勝手極まりない様を見て、最早かける言葉が無かった。尤も、彼女自身も過去に壮絶な体験をしているが故にあのような思想を持つに至ったと言うのは想像に難くない為、一概に彼女を悪く見る事は出来ないが、それでも彼女の傍若無人な横暴ぶりには流石に失望感を覚えた。と言うか、改めてストーリーを見返してみれば、失望する以外に道は無いと思わざるを得ない程、彼女があくどい行動を繰り返した事に気付かされ、もう彼女に対して快く思える事はないとすら思った。因みに私が「やっぱりリアリストはリアリストだった」と思ったのもこの経緯故であり、その事実も余計ショックを大きくさせる事となってしまった。

 また、5章におけるサンストーンも中々に冷酷非情な行動が多く見受けられ、自分達の願いの為に心愛ちゃんの絆を容赦なく断ち切り、そのショックで心愛ちゃんが気絶しようものなら容赦ない言葉を投げつけるのはその最たる例である。更に彼女は5章において「自らの存在意義を他者に依存するのは情弱」とも言っており、これは私なりに解釈すれば「誰かに頼り切る形で自分の存在意義を見出すのは弱い人間がやる事だ」という事であり、彼女が絆ひいては「人間同士の繋がり」と言うものを全くもって軽視しているのが良く分かるが、勿論私としてはこの様な意見は看過出来ない。その為、正直幾らリアリストに対して理解を深めたいと考えていて、実際に自分なりに理解を深めてきた私としても、流石に怒りを隠せなかった。いくら何でも絆もとい「人間同士の繋がり」と言うものを侮辱し過ぎだと本気で思ったし、抑々「そこまで人間同士なり世界なり、それらの繋がりをそこまで憎んで一体何がしたいのか?」と、本気で彼女の思想を疑った程である。ただ、サンストーンからしてみれば「他人に自分の思想についてとやかく言われる筋合いはない」と思うだろうが……。

 他にも5章で再び登場していたリコリスヒナゲシについても、正直やり過ぎにも程があると思わざるを得なかった。作中において「自分達が絆なんて大切にしなかったし、自分の気持ちを紛らわせてくれるなら誰でも良かったから、心愛ちゃんだって私達リアリストと同じ様なものだ」等と言って心愛ちゃんを罵っている場面があるのだが、これには流石に「いくら何でも心愛ちゃんを侮辱し過ぎだ」と、心の中で怒りを滲ませながら読み進めたものである。元々リコリスヒナゲシに関しては、今までの章でも登場してきており、それ故にある程度は人物像も理解していたし、今回の様な悪逆非道な言動も見受けられてはいた為、正直「彼女達がこの様にクリエメイトを罵る事は分かっていた」のだが、5章における数々のあくどい言動はあまりにも常軌を逸しており、流石に見逃す事は出来なかった。「腸(はらわた)が煮えくり返る」*5とは正にこの事である。

 この様に5章におけるリアリストは、最低限の思慮分別さえ平気で無視した上で、人を侮辱する場面が他の章に比べても質・量共に高レベルであり、それ故に怒りやショックも他の章以上に大きく表れる様になっている印象が強くある。この時点では「リアリストは人の心をどこまでも悪びれる事も無く平気で踏みにじる組織」と言う印象を強く抱かざるを得ないが、ここにリアリストが抱えるであろう「壮絶な過去や背景、それに大きく蠢く闇」を加えると、多少なりとも見方が変わってくるものである。無論、それでリアリストに対する怒りが完全に治まるかどうかは全くの別問題だし、正直私自身も5章においてあまりにも度が過ぎた横暴な振る舞いを見せつけられた事により、怒りの感情が完全に消える事はないと思うが、それでも何か少しでも変化するならそれに越した事はないので、ここからはそんなリアリストの壮絶な背景について書き出したいと思う。

悲しきリアリスト

 前述する様にリアリストは悪逆非道の限りを尽す様な傍若無人が目立つ一方で、リアリストに属する面々の言動と、一部メンバーの自暴自棄とも言える立ち振る舞いを見るに、彼女達には何か壮絶な過去を抱えている様に感じられる事が多々あり、ここではリアリストの背景に存在しているであろう壮絶な過去や闇について書き出したいと思う。

 但し注意点が一つあり、これらは基本的にリアリストの言動を土台に、自分なりに整理をしたものである為、リアリストの面々が自ら口にした「過去に聖典や絆に裏切られたり、蔑ろにされたりした経緯がある」と言う趣旨の内容が、実際には彼女達の思い込みが多分に含まれている可能性もザラにある事を承知しておく必要がある。勿論、彼女達の言う事が全くの出鱈目とは思えないし、本当に聖典や絆に裏切られた若しくは蔑ろにされた環境にいた事も恐らくは間違いないとは思うが、あくまで「その可能性がある」と言う域を出ない事は理解しておいて欲しい。

 ここから改めて本題に入る。抑々リアリストの面々が基本的に聖典や絆を忌み嫌っている」のはここまで書き出してきた通りだが、これを見て個人的には「何故ここまで忌み嫌うのか」と気になった事が今までも多々あった経緯があり、これこそ「リアリストには何か壮絶な過去を抱えているのではないか」と私が思い立ったきっかけでもあり、それを紐解く為に使ったのがリアリスト自身の言動と言う訳である。

 その様にしてリアリストの背景や過去について考えてきた所、リアリストの大半は過去に「絆(聖典)に対して何かしらの形で裏切られた若しくは蔑ろにされた経験がある」事が分かったのである。尚、リアリストは現時点でもスズランやロベリア、エニシダダチュラも登場しているが、彼女達については過去にどのような経緯があったか明確には分かっていない為、ここでは記載していない。因みにこの4人については何れも4章でお目にかかる事ができ、その中でもスズランとロベリアの2人は4章の重要人物である。尚、基本的にダチュラを除いて性格に関しては概ねお察しで、何れもリアリストらしい曲者である。

上記の太字を自分なりに解釈した結果は下記の通り。

  • スイセン「自身が空腹に喘いでいた時に、聖典は一切助けてくれないどころか、聖典内に美味しい食べ物が沢山記載されていた事に憎悪した」
  • リコリス聖典を理解できないだけで周りから駄目な人扱いされた」
  • ヒナゲシ「どの世界*6からも自分を必要としてくれなかった」
  • サンストーン「過去に聖典には記載されていなかった世界の真実を知り、それ故に聖典に失望した」

 この様に何れも聖典若しくは絆に蔑ろにされた若しくは裏切られたと言う過去が共通している。因みにリアリストの首謀たるハイプリスについては、5章最後において過去に自身も聖典を愛していた時期があった事を仄めかしている。ただ、ハイプリス本人はリアリストの首謀者らしく聖典を愛していた事を既に「過去の事」と割り切っているが、やはりハイプリスにも何か痛々しい過去を持っている可能性は捨て切れない上、この事実は「リアリストが聖典に絶望し、それを根絶やしにしようとする理由」にも深く関わっている可能性も大いにあるとも考えられる為、リアリストの真意を解き明かしていく上でも非常に重要な手掛かりになる可能性すら秘めていると思う。

 これらの事から、私自身リアリストに対しては悪逆非道とも言える様な傍若無人な振る舞いに対して怒りを覚える事はありながらも、同時に決して看過できない様な行動に走るまでに自暴自棄で退廃的な言動、そして上記の様な壮絶な経緯に思わず複雑な想いを抱える事も少なくなく、この意味でもリアリストに対して心が痛くなる事も、過去の章の感想・考察を書く時からしばしば発生していた。これには上記の様な数々の複雑な想いが私自身にあるのもそうだが、それ以上にリコリスヒナゲシ、そしてスイセンに代表される様に「どの様な事になってでも、自分達の理想の目標を手段を選ばず遂げようとする自暴自棄とも言える姿」があまりにも痛々しい且つ悲しく感じた事が大きかった。

 また、リアリストに対して複雑な想いを抱える理由は他にもあり、それは自暴自棄とも言える様な状態になってしまったリアリストとて「元々は人間らしい優しさを持った人格者」であった事を、リアリスト達の過去や言動から感じ取れる事が挙げられる。尚、ここでも5章未登場のスズラン、ロベリア、エニシダダチュラについては詳細が良く分からない為、掲載しない事とする。

太字の具体例は下記の通り。

  • リコリスヒナゲシの場合、本人達はお互いを「たまたま都合良くそこにいただけの関係」などと称しているとはいえ、少ないながらもリコリスヒナゲシを、ヒナゲシリコリスを想っていると感じさせる言動が存在しており、それ故に昔は今ほど絆を憎んではいなかった可能性を思わせる。また、2人共根は優しい一面も覗かせており、環境が彼女達を変貌させた可能性も十分考えられる。
  • スズランの場合、5章においては冷酷非情な本性を見せつけてきたとは言え、普段は比較的明るく人柄も決して悪いとは言えない為、元々の彼女は多少自分勝手な部分はありながらもここまで劣悪非道な人物ではなかったが、聖典への強い憎しみが彼女をその様に変貌させた可能性がある。
  • サンストーンの場合、特殊な経緯故に断定は難しいが、元々は絆を尊ぶ能力持ちのきららと深い関係を持っていた為、聖典に対する理解がある故に聖典を捨てた可能性がある。その為、元々は聡明で真っ当な人格者だった可能性も十分に考えられ、本来なら周りから憧憬されてもおかしくなかったとすら言える。
  • ハイプリスの場合、リアリストのトップながら、元々はランプと同じく聖典に対して無償の愛を持っていた過去」があった事を本人が明かしており、それ故に元々は聖典に対する理解が深く、慈愛に溢れる人だったが、何らかの理由でサンストーン同様聖典を見限った可能性が考えられる。

 この様にリアリストも元々は自暴自棄でも無ければ悪辣非道でも無く、人間らしい優しさを持った真っ当な人物だった事を窺わせる発言やそれを思わせる描写は少なくなく、それ故に私はリアリストに対して「最初から聖典を憎んでいた人達が、聖典を破滅させようと画策した」と言うより「元々は至って真っ当な人格者だったが、何らかの理由で聖典に失望し、その聖典を破滅させようと願う内に、徐々に心や性格までも醜くさせてしまった」という事もあり得るのではないかと考えている。尤も、それは後述する様な「推察による思い込み」の可能性もあるが、私はどうにもどうしてもその様にも思えてやまないのだ。

 ここまで私が感じている「リアリストは嘗て真っ当な人物だったと思う例」について書き出してみたが、当然の事ながらこれらは全て「自分が感じ取っている事」である為、実際にリアリストが過去にどの様な人柄であり、過去にどのような経緯があったから今の様な人格と思想に至ったのか、その真相は本人のみぞ知る事であり、私はそれを推察しているに過ぎない。しかしながら、どんな事があろうと私にとってはリアリストが抱えているであろう重い過去について、彼女達の言動から度々心が痛くなる事もある程に感じ取れる事には変わりなく、それはこの文章を書いている時でもそうである。尤も、何故そこまでしてリアリストに対してここまで真剣に考察するのかに関しては、最早自分でも理由が良く分からなくなる事も時にはあるのだが、何れにしても私は「リアリストに対して複雑な想いを持っている傍ら、深き想いを持とうともしている」と理解して貰えると幸いである。尤も、その果てに何が待っているのかは私でも分からず、一方では「紆余曲折ありながらも、結末はしっかり噛み締められるものだった」と思うかも知れないし、また一方では「結末までも非常に重く、最後まで重い心が晴れやかになる事は遂に無かった」となるかも知れない。全てはこの物語の終着点に委ねられている……。

3.あとがき

 以上が今回メインシナリオ第2部5章で私が考えた事である。5章は今までの章の中でも特に壮絶で、特に序盤から中盤までの悲惨さは今までの章の中でも群を抜いていると思う程であり、リアリストのあまりにも度が過ぎた横暴さも相まって、今までのメインシナリオ第2部の中でも途轍もなく辛い章になっているとは正直思う。ただ、その一方で中盤以降の劇的な展開は、今までの鬱屈したものを全て晴らしていく様な清涼感と勢いがあり、ここから「物語の中ほどまで鬱屈した展開が続く分、中盤以降怒涛の勢いで全てを取り返しに行き、終盤に改めて絆を認識し合う事に大きな意味が生まれてくる」とも言える為、言うならば「途中まで展開が非常に辛いが故に、最後の感動的な展開がより意味を持ったものになる」と感じている。

 この5章に関しては、私としてもどの様な視点から捉えるべきなのか、今でも思い悩む節があるまでに内容を推し量る事にとにかく苦労した章であったのだが、冷静に考えてみても、まずメインシナリオ第2部5章の重い展開は1章から4章を比較しても尚頭一つ抜けていると思う位だし、5章のリアリストは今までになく悪辣非道でどこまでも無慈悲、そしてどうしようもない程に自暴自棄な一面が色濃く表れているし、5章の要所で襲い掛かる悲惨な場面の凄惨さと来れば、最早言葉にもならない程のショックを受けると言うのだから、ある程度苦労するのは当然だったのだろう。そして感想・考察が出来上がってみれば「過去に類を見ないまでに難解な二字・四字熟語や諺が多く、内容もメインシナリオ第2部本編に負けず劣らず重く、喜怒哀楽が凄まじく煮え滾っているのがすぐに分かる」までに異質な内容になり、それ故に私が同じくブログで書いているごちうさ感想・考察文の様な「温かみある世界観」だけではなく、そこに「只管(ひたすら)に複雑な想いが錯綜する冷たき世界観」が加わり、結果的に非常に重い内容となった。我ながらこの違いには驚くばかりだが、どちらも私の本質*7であり、決して無理をしている訳では無い事は言っておく。

 また、私自身ごちうさに関しては原作、アニメ共に観ていた事によりごちうさファンとしての色を強めたメインシナリオ第2部5章の感想・考察か」、はたまた「きららファンタジアファンとしての色を強めたメインシナリオ第2部5章の感想・考察か」と言う二重苦があった事も更なる苦心を招いた。尤も、この様な「きらファンの世界観を重視するか、参戦作品の世界観を重視するか」と言う二重苦は、私にとってはごちうさだけでなく、きららファンタジアに参戦している作品全てに言える事なのだが、この様なある意味クロスオーバー作品ならではとも言える悩みは、私にとっては本来なら天秤にかけたくないモノを使った厳しい決断を余儀なくされる*8為、非常に難しい問題ではあったが、決断としては、私自身が「クロスオーバー作品においては、クロスオーバー作品そのものの舞台も重視する」考えの持ち主であった事や、元々メインシナリオ第2部においては「メインシナリオ第2部の世界観を紐解きたい」と言う想いが強くあった事から、いったんは「きららファンタジアファンとしての色を強める」事にしたのだが、それでも私自身「どんな事があっても、参戦作品の世界観は絶対に尊重していきたい」と言う想いもまた、強くある事には違いない為、最終的には「きらファン色を強めに出しつつも、きらファンとごちうさ、どちらの色もしっかり持たせる様な感想・考察」にする事にした。ただ、私自身もこの様な形で気持ちをはっきり決めた上で書き出す経験がさほど無いので、どれ程上手く行ったのか良く分からないが、少なくとも自分の中では出来る限りを尽くしているし、今後もこの様なスタイルにより磨きをかけたいと考えている。

 最後に、5章は今までの章の中でも特に壮絶で、筆舌に尽くしがたい痛みを感じたり、怒りを覚えたりする描写も少なくなかった事も確かだが、最終的な章の結末は非常に感動的であり、全体的に見れば深き感銘を受ける様な内容だった事は、1人の熱心な「きららファンタジア」と「ご注文はうさぎですか?」両方のファンとして改めて言いたい。色々思う事はあっても、やっぱり私はこの5章含めたメインシナリオ第2部の世界観が好きな事に変わりは無い事を改めて書き出して、今後の章を待つとしたい。

 

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙44枚分であり、これは過去6番目の文量の多さであるが、きらファンの感想・考察としては最も多くなった。因みに今回のブログは前回のごちうさ感想・考察ブログから地続きに書いており、書いた文量は文字数にしてのべ36000文字強になっている。

*1:世界とは「エトワリア」の事で、欺瞞はここでは「嘘と偽りに満ちた状態」を指す。因みに欺瞞は読んで字のごとく「人をあざむくこと」を意味する。

*2:特にうつつちゃんがイメージに似合わない前向きな行動・発言をした時に顕著。

*3:因みに作中ではもっと凄惨な言葉が使われており、彼女の聖典に対する際限なき憎しみが滲み出ている。

*4:何れもクリエメイトが登場せず、それ故にきららファンタジア独自の世界観が色濃く光る章になっている。ただ、どちらの章も内容がかなり重い上、最後には重苦しい結末を受け止めなければならない辛さも襲い掛かってくる。

*5:怒りが堪え切れない事。

*6:ここでは聖典の世界を含めた既存の世界全てを指す。

*7:と言うか、様々な感情を遺憾なく発揮できると言う意味ではきらファン感想・考察の方が、良くも悪くも私の煮え滾る想いがより深淵まで解放された内容になっている。

*8:ただ、この様な決断力も時には絶対に必要になるものだが……。

きらま2022年1月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察

 こんにちは。最近はごちうさに関して私の中では原点回帰と言わんばかりに、自分の率直な気持ちを書き出す事を意識して書き出してきましたが、今月号を読んだ後に私自身、また新たな境地に向かおうとしているのが感じ取れました。もう後戻りはできないと悟った以上、前に進み続けるのみです。

 さて、今回はまんがタイムきららMAX2022年1月号掲載のごちうさの感想・考察を書きたいと思います。今月号も中々に衝撃的な内容で、私としてもどの様な角度から捉えれば良いのか。少々頭を悩ませている次第でありますが、以前から私は「率直な気持ちを平易な言葉を表す事」を強く意識しているので、今月号も今までと変わらない気持ちで書き出したいと思います。

※注意※

最新話及び原作コミック9巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。

1.はじめに

 今回のお話は先月号同様、大きく見ると序盤は心愛ちゃんが見ていた夢である「心愛ちゃんの過去の話」から始まり、途中で冬優ちゃんの手によって現実に引き戻されて、それ以降は「心愛ちゃんと冬優ちゃん」⇒「心愛ちゃんとナツメエル」⇒「心愛ちゃんと智乃ちゃん」と言うカップリングの変遷を見せつつ、現実世界でお話が進んでいくと言う構成をとっている。その為、先月号の展開を知っていると、今月号も「おお、先月号と同じ構成でやってきた。ここからどの様に世界観を見せてくれるのか楽しみだ。」と思える作りになっている。因みに括弧書きで書いた内容は私が今月号を読み進める中で実際に思った事である。

 この様な構造から、今月号は「心愛ちゃんが見た夢もとい心愛ちゃんの過去のお話と、心愛ちゃんと年下組のカップリングが光る現実のお話」の2つが主軸になっていると言え、そのどちらも非常に心打たれる内容になっている。今回は変則的な形態をとった先月号の感想・考察から一転して、物語の順序通りに私の思った事を率直に書き出したいと思う。

2.購読した感想・考察

奇跡の出逢いの過去

 今月号の序盤は(後から分かる事だが)心愛ちゃんの夢の中のお話であり、この内容には「どうして心愛ちゃんが木組みの街に行こうと思ったのか。どうして心愛ちゃんには不思議な想いや雰囲気を纏(まと)っているのか。」その事を読み解く上で特に重要な要素が散りばめられており、先月号から一新して新たな世界に踏み出した読者の心を思わず鷲掴みにする内容だと考えている。

 序盤の重要なポイントは「心愛ちゃんが小さい頃の世界観で紡がれる物語」「智乃ちゃんのお母さんである『サキ(咲)さん』と心愛ちゃんとの出逢い」の2つだと考えており、後者は特に後の心愛ちゃんの思想に大きな影響を与えた観点でも、不思議な縁に引かれて心愛ちゃんとサキさんが出逢ったと言う観点でも、とても重要な事だったと感じ取っている。因みにその出逢いは「迷子になって泣いていた幼少期の心愛ちゃんが、通りすがりのサキさんと出逢い、そのサキさんが披露した手品を見て、心愛ちゃんはサキさんのことをまるで「まほうつかい」の様に思った事」から始まっており、私としては何か不思議な想いを感じるばかりである。まるで「こんな幻想的な想いは本当に存在したんだ……。」とただひたすらに思う程に。

 また序盤においては、今まで謎に包まれていた心愛ちゃんのお母さんと、4兄弟の内兄2人の名前が遂に明らか)になっており、心愛ちゃんのお母さんはサキさんから「ちょこちゃん」と呼ばれており、心愛ちゃんの兄2人はそれぞれ「ケイ」「イツキ」となっている。因みにこの3人の名前を全て合わせて組み立てると「チョコケーキ」と言う何とも美味しそうな名前になる。

 この様に数々の謎が明らかになった序盤なのだが、個人的には序盤の展開の中に少し気になる描写があり、それを書き出すかどうかについては、内容が決して明るい事では無いが故に少々思い悩む所があるのだが、何度も言う様に私はあくまで「率直な気持ちを書き出す事」を信条としているので、思い切って書き出す事にする。ここからはそんな幻想的な雰囲気に溢れた序盤の展開を読む中で、私が何を感じ、思ったのか。その事を出来るだけありのままに書き出したいと思う。

揺り動かされし子供心

 今月号の序盤を読み進めていく中で、このカテゴリーは個人的には絶対に外せないと思うものであり、これは「幼少期の心愛ちゃんが、迷子のさなかにサキさんと出逢って一緒に木組みの街を探検していく中で、彼女がいったい何を感じ、何を思ったのか」を自分なりに考えたものである。

 抑々幼少期の心愛ちゃんは、基本的には全くと言って良い程今と変わらない好奇心旺盛さとマイペースさを併せ持っており、その好奇心旺盛さ故に、良くも悪くも興味のある事に対してどんどんのめり込んでしまう為、かつてトランプで姉に勝てない事に自分の非力さを覚え、修行と称して三輪車で途方もない修行の旅を計画して、姉であるモカさんに怒られたり、今月号の様に一人迷子になってしまったりしているのもこの幼き頃である。この事から心愛ちゃんは「成長した今でも、昔と何ら変わらない子供っぽい所がある」と言えるのだが、それと同時に「自分に足りないものがあれば、どんなに大変でも努力しようとする一面や、好奇心の赴くままに行動する事で、無意識の内に多くの出逢いの経験を重ねている事」が読み解け、これらも今の心愛ちゃんと何ら変わらない。ある意味心愛ちゃんは「昔から幼さと大人っぽさを持ち合わせており、それは今でも変わらない」と言えるのだろう。

 そんな幼少期心愛ちゃんだが、木組みの街での出逢いは彼女の人生観に多大なる影響を与えたのは間違いなく、それは今月号に描写されている彼女のキラキラした輝かしい反応が証明している。その感じた事たるや、一つ一つ辿ろうとしたら、恐らくいくら追いかけようとしても追いつけそうにない位であろう。それだけでも非常に輝かしい事なのだが、そこに「子供の頃の経験は、成長してもずっと何かしらの影響をもたらす」と言う私の考えを付け加えると、私としてはより輝かしいものになると考えている。

 抑々私は「三つ子の魂百まで」*1と言わんばかりに、幼い頃の記憶というものに対して特別な想いを抱いており、故に幼き時に体感したものを大切に扱いたい想いが強く存在している。こう思うのには「幼き時の想いは、年を重ねてもずっと忘れないで受け継がれていくものだから。」と言う自分なりの考え故であり、この様な考えに想いを馳せ、色々な出来事に身を重ねてみると、より輝かしく見えてくる。この場合なら、今の心愛ちゃんを想い浮かべながら、昔の幼き心愛ちゃんの経験や決意を知る事で「この様な経験があったから、今の心愛ちゃんの決意や覚悟に繋がっている」と知れる事が何よりも喜ばしいのであり、私にとって大きく心動かされる瞬間でもある。色々意見はあるとは思うのだが、やはり幼き頃に経験した衝撃は何物にも代え難いものだと思うし、それは心愛ちゃんにしても同様だと思っている。

 この様に幼き心愛ちゃんは、木組みの街での出逢いの中で、現在に至るまでの確固たる意志を築いたと私は考えているが、この時の幼き心愛ちゃんが築き上げた重要な意思はもう一つあると考えている。それは智乃ちゃんのお母さんであるサキさんが「大きくなったら何になりたいの?」と言う質問をした事に対して「大きくなったらまほうつかいとお姉さんになりたい」と言う願いを言った事である。そして、この心愛ちゃんの答えに対してサキさんはいつかなれる様にとおまじないをかけてあげているのだが、私はこのシーンに一体どれほどの意味があるのか。その事について理解を深く進めていく事になった。

 元々心愛ちゃんはDMSでもある様に、幼い頃はまほうつかいに強い憧れがあった事自体は既に明かされている事実であり、この時私は「心愛ちゃんはまほうつかいが好きなのか」とそこまで深く受け止めていなかったが、今月号を読んでから色々考えを張り巡らせてみてから真相に気付いた時、DMSのあのシーンには「嗚呼、これだけの深い意味があったのか……。」と、思わず身震いした。そして、この事実は同じくDMSオリジナルである魔法少女チノが幼き心愛ちゃんに対して色々な魔法を披露した事」にも繋がっており、恐らく心愛ちゃんにとってまほうつかいとは「誰かに夢や希望を与えてくれる大切な人」を指しているのだと思った。勿論、本当の事は心愛ちゃんのみぞ知る訳だが、これで分かるのは「魔法使いのステレオタイプ*2なイメージばかりしていると、何時まで経ってもごちうさにおけるまほうつかいの真意にはたどり着けない」という事だろう。

 ここまで心愛ちゃんが考えている「まほうつかい」について考えを馳せてみたが、こうしてみると気になる事が出てくる。それは心愛ちゃんは「何時から魔法使いに対して強い憧れを持つ様になったのか。」である。作中で描かれている所から判別するなら、幼少期である事は間違いないと思うのだが、ここからが地味に曲者。何故なら作中でも「まほうつかい」を象徴する代表的な描写であるDMSでのまほうつかいのくだり(魔法少女チノは除く)と、木組みの街に訪れた事の一体どちらが先なのか判断できない為に、断定するのが非常に困難を極めるからである。勿論、心愛ちゃん本人の反応を見ればある程度は推察できるとは思うのだが、それでも100%完璧に判別できる保証はどこにもない為、やはり困難だと思われる。

 だが、ごちうさにおいては「明確な時系列が分かりにくい事例」はこの他にも多くある上、幾ら「成長と変化を読み解くのが重要な作品」とは言え、明確に時系列を解き明かさなければならない程にガチガチのパターンが組まれている*3訳でも無いし、事実ごちうさは明確な時系列が全て明らかになっていなくても、きちんと物語として成立している事を思えば、時系列をガチガチに明確にする事に対して、そこまで必死になる必要は無いと考えられるかもしれない。

 しかしながら、今回の「まほうつかい」の件に関しては、時系列を明確に解き明かさなければならない理由があると私は考えている。何故なら木組みの街に訪れたのが、DMSでのまほうつかいのくだりよりも先の場合、サキさんとの約束が非常に意味を持つが、逆の場合(DMSでのまほうつかいのくだりが先な場合)だと意味合いが根底から全く違ってくるからである。言い換えるなら「サキさんの様なまほうつかいに憧れたからこそ、DMSであった様なまほうつかい姿を披露したのか。はたまた自分の中で元々まほうつかいに対して憧れがあり、それが木組みの街でサキさんと出逢った事で確固たるものになったのか。」と言う事であり、ここから「この2つは似て非なるもの」なのは明らかであり、時系列を解き明かさなければならないと私が躍起になる理由も分かると思われる。尤も「いくら説明されても、理解できないものは理解できない」と、突っぱねられてしまう可能性がある事も重々承知している。

 ただ、明かされる真相が何であっても、心愛ちゃんがまほうつかいに対して何か強い想いがある事には違いないと考えている。そうでなければここまで重厚に扱われる事はない訳であり、恐らくは物語の根幹に関わる様な、何か重要なメッセージがある様に感じているのである。

 因みに当の心愛ちゃん自身は、木組みの街に来た時にはあまりに幼かったが故なのか「自分が木組みの街に来た時の記憶は殆ど覚えていない」と公言しており、感覚として「凄くワクワクして楽しかった事だけはうっすら覚えている位」の記憶しかないそうだが、この序盤に描かれた彼女の夢の内容を見るからに、この様な事が言えるかもしれないと思った。それは

「彼女はもう嘗ての木組みの街の記憶は明確に思い出せないかもしれない。しかしながら、その記憶は彼女も気付かない様な心の奥深くに眠っている。」

という事である。ある意味彼女は嘗て体感した木組みの街での出来事を「記憶ではなく、感覚で覚えている。」のかも知れない……。

まほうつかいの意味

 ここまでは主に幼少期の心愛ちゃんに焦点を当ててきたが、ここからはその幼少期の心愛ちゃんにあらゆる未知の事を教えてくれた「サキさんもといまほうつかい」に焦点を当てたいと思う。

 抑々サキさんは名前を「香風咲」と言い、タカヒロさんの妻であり、智乃ちゃんのお母さんであるが、智乃ちゃんがまだまだ子供だった時に何らかの理由(尚、明確な理由・時期については一切明かされていない)で早世*4してしまっている。それ故に現在の時間軸では基本的に登場する事はないが、ハロウィンの時には、まるで魔法にかけられたかの様に心愛ちゃんの前に現れ、智乃ちゃんのお母さんとして心のこもった沢山のメッセージを心愛ちゃんにもたらしたのは、私にとっても深く心に刻まれている。あの世界観が一体何かについては分からないままだが、きっとハロウィンに伝えられた伝承が、一つの奇跡を起こしたのだと私は思っている。言うならば言葉では決して説明できない、文字通り「まほう」がもたらした奇跡のセカイを……。

 生前は心愛ちゃんのお母さんと学生時代から仲が良く、お互いに「うさぎちゃんとちょこちゃん」と呼び合う程の仲の良さであり、学生時代にはそれなりに羽目を外す事もあったそうである。ただ、大人になってからのサキさんは、時々学生時代の様な弾けた姿は見せつつも、基本的には上品な人だった様である。また、手品が非常に上手く、幼き頃の智乃ちゃんや心愛ちゃんを手品で喜ばせていた姿は非常に印象的である。因みに心愛ちゃんは無意識の内に嘗てサキさんが行っていた事を踏襲若しくは遺志を継ぐ様な行動をする場面*5がしばしば見受けられ、心愛ちゃん本人には全くと言って良い程自覚が無いが、これもある意味「サキさんから心愛ちゃんに『まほう』が受け継がれている証拠」と言えるのかも知れない。

 幼少期の心愛ちゃんと行動を共にしていた時のサキさんは、幼少期の心愛ちゃんを導く形で木組みの街を案内しており、この時にまだ幼い心愛ちゃんが多大なる影響を受けたと思われると言うのは先ほど書き出した通りである。ここで興味深いのは寧ろ心愛ちゃんがお母さんと合流した後*6であり、詳しくは割愛するが、私としてはサキさんとちょこちゃんのやり取りを見るに、ちょこちゃんは「物事には必ず理があると考えている」様な現実主義者である一方、サキさんは「誰にでも魔法を使える資質があると考えている」様なロマンチストな一面がある様に思える。

 私としてはこの事実は結構重要な事だと考えていて、極端な事を言うならサキさんが「まほうつかい」の力を信じている様なロマンチストな一面があったからこそ、幼少期の心愛ちゃんにも「まほうつかい」の想いが受け継がれたとすら言えるのではないかと思う程であり、ここからごちうさにおける「まほうつかい」の意味として私は

「無償の愛をもって人を導く様な、ロマン溢れる強き想いを持った人」

を言うのではないかと思っている。無償の愛とは「見返りを一切求めないで人に尽くす事」を言い、言うならば「人が幸せな想いをしてくれるなら、どの様な事でも厭わない(=ためらわない)」事を指す。ごちうさ他人に対してむやみやたらと見返りを求めず、人の意思を尊重する事を何よりも大切にしている作品でもあると考えており、人間である以上何時もその様なスタンスではない事は承知の上で、個人的には全員が基本的にその傾向にあると考えているのは大前提として、とりわけ心愛ちゃんや千夜ちゃんが特にその傾向が強くあると感じており、そして今月号のサキさんもそれが強く現れていると感じ取っている。そう思うなら、サキさんが言う様に「誰もがまほうつかいの資質を持っている」と言うのも説明がつく上、現在の登場人物の中ではサキさんを母に持つ智乃ちゃんを除いてそのまほうを特に身近で観ている描写が存在する心愛ちゃんが「サキさんのまほうの影響を色濃く受ける」のも、個人的には合点がいく。

 この様にごちうさにおける「まほうつかい」の意味に関しては「無償の愛をもって人を導く様な、ロマン溢れる強き想いを持った人」と言う、我ながらロマンチストな一面全開の見解を持っているとは思う。ただ、それにはきちんとした理由があり、それは過去の手痛い経験故である。

 抑々私はごちうさを読んでいる中で、ハロウィンでの出来事も何が何だか良く分からないままに魔法にかけられた気分ではあったし、他にも理論的に紐解こうにも最早不可能だと悟った場面は数多くあった。この時点で「ロマンチストな一面を出した方が良い見解が出る」と悟った上で、そちらの方向に舵を切ればある意味良かったのだが、どういう訳か私は変な意地を張って、ロマンチストな見解を無理矢理かなぐり捨ててまで何でもかんでも理論的に紐解こうとした。結果は最早自分でも分かり切っていたとは思うが、どうしようもなく錯綜した苦悩を引き起こしただけで、見るも無惨な結果になってしまったのは言うまでも無かった。言ってしまえば無駄な悪あがきであるが、出来レースとは分かっていても、どうにも認めたくなかった自分がどこかにいたのであろう。だが、結局は自分が本能的に気付いた事には勝てなかった。でも、その方がある意味良かったのかも知れない。何故ならそうでなければ、未だに錯綜した気持ちを持ち続けたまま、どうにもならない事で悩んでいたかも知れないのだから……。

 結局の所、この手痛い経験からごちうさを紐解く上で私に必要だったのは「緻密な計算を読み解く力と、ロマンを持ち続ける心意気」の両方だったと思い知らされ、苦悩を乗り越えた後はごちうさもといあらゆる物事に対して、ロマン溢れる見解を出す事に積極的になってきている。元々ロマンチストな一面に対して憧憬(しょうけい)意識があった私の事なので、ある意味当然の成り行きだとは思うが、この経験があったからこそ、今月号のサキさんの想いに対してここまでの見解を持つ事ができているのである。

一縷の悩みと希望

 この様に色々な意味で前向きな想いを書き出してきたが、最後にこの序盤を読んで少し気になった事を書き出したいと思う。とは言ってもそこまで深刻なものでは無い事は言っておきたい。因みに一縷(いちる)の悩みは、ここでは「僅かながらの悩み」の意である。

 序盤で私が気になったのは「心愛ちゃんとサキさんが一緒に木組みの街をめぐった描写がある場面」であり、ここでは後に心愛ちゃんが後に木組みの街で出逢い、かけがえのない物を一緒に創り上げていく事になる人達と、幼き時には知ってか知らずか既に巡り逢っていた事が分かる*7意味でも重要な局面なのだが、個人的により重要だと思ったのは、初期組の中で今まで存在さえ全くと言っていい程描写されていなかった「理世ちゃんの母親」が僅かながら描写されていた事であり、これ自体は良かったのだが、今まで明かされていなかった分、やはり少々複雑な気持ちだった訳である。

 ただ、ごちうさに対して様々な想いを持ち、多くの紆余曲折故に散々なまでに悩んできた過去を経て今がある私にとって、最早思い悩んで立ち止まる事は似つかわしくない。その為、これからどのような事が明かされたとしても、全力と受け止める気でいる。もう、思い悩む事にはなりたくないのである。

 因みにこれ以外にも、幼少期の心愛ちゃんとサキさんが木組みの街を散策中に狩手結良ちゃんとその結良ちゃんの母親らしき人物が描写されていたのも、個人的には気になった事の一つなのだが、いかんせん結良ちゃんについては謎が多過ぎる為に、どう捉えるべきなのか良く分からなかったのが正直な所である。ただ、私は結良ちゃんの事は結構好きなので、ここから結良ちゃんの色々な一面が見えてきたら良いなとは思っている。

継承されし想いで溢れる現在

 今月号の序盤は心愛ちゃんが見てみた夢の話だが、中盤からはベンチで白目をむいて寝ていた心愛ちゃんを見て、危険だと思って心配した冬優ちゃんにビンタで叩き起こされてからは、物語は現在の時間軸になり、以降は基本的に今月号の最後まで現在の時間軸となる。因みに心愛ちゃんは冬優ちゃんに叩き起こされた際、最初は寝起きという事も相まってかなりぽわぽわしていたが、その後はちゃんと話せているので、大丈夫な事が確認できる。ベンチで寝てしまうとは何とも心愛ちゃんらしくはあるが、冬優ちゃんの心配通り白目をむいている状態が本当に危険な状態のサインである事も十分に考えられる為、冬優ちゃんの行動に非はない。尚、冬優ちゃんにしても心愛ちゃんに対して殴って叩き起こした事を直ぐに謝っており、心愛ちゃんもそれを許している為、結果的には大事(おおごと)にならずに収まって良かったと言える。

 中盤からは心愛ちゃんを中心としたストーリー進行であり、そこに最初は冬優ちゃん、途中からナツメエル、最後は智乃ちゃんと、年下組が入れ替わり立ち代わりについていく形になっている。そんな中盤から今月号最後までの重要なポイントは「心愛ちゃんと年下組の化学反応」「受け継がれていく想い」の2つであり、どちらも序盤に匹敵するほど非常に重要な要素を持っていると考えている。私が「受け継がれる想いは本当にあった。」と改めて思わされたのもこの中盤以降の展開を読んだが故であり、やっぱりごちうさは凄い作品だと思わされてもいる。

 そんな中盤以降の展開だが、今回はまず「ココフユ」「ココアとナツメエル」「ココチノ」と言う感じに、3つのカップリングそれぞれから感じた事、考えた事を率直な気持ちをもって書き出し、最後にまとめて「この3つのカップリングから何を感じたのか」をまとめて書き出したいと思う。やや複雑そうに見えるが、まずは物語に沿った形で感想・考察を書き出し、そこから中盤以降の展開を通して見えた事を書きまとめる形態になっていると考えてくれれば幸いである。

心愛ちゃんと冬優ちゃん

 中盤最初のカップリングは「ココフユ」であり、この2人は旅行編の時に「知らないセカイに飛び込む勇気を授けた人と、授けられた人」と言う深き関係性を築き上げた経緯故に親交が深く、それは心愛ちゃんが冬優ちゃんの事を下の名前にちゃん付けする、心愛ちゃんのいつも通りの呼び方で呼び、冬優ちゃんは心愛ちゃんの事を「ココ姉」と呼ぶ事からも窺える。また、この2人は何気に「高校進学を機に外のセカイから木組みの街に来た」と言う意味でも共通しており、ある意味「運命に導かれた2人」と言えるだろう。

 そんなココフユだが、冬優ちゃんが心愛ちゃんを叩き起こしてからは2人で行動を共にしている。尚、叩き起こした際に心愛ちゃんは夢で見た内容を想起しており、物思いに耽っていた様子を見せていたが、冬優ちゃんにその内容を聞かれた途端にその夢の内容を忘れてしまっている。それだけ心愛ちゃんにしてみれば、嘗ての木組みの街の記憶をはっきりと思い起こす事がどれ程難しいのかが分かるだろう。ただ、冬優ちゃんはその事を全く責める事は無く、直ぐに心愛ちゃんに対して「自分に対して勇気を授けてくれた事」に対して感謝の気持ちを心愛ちゃんに直接表しており、かつて自分の気持ちを伝える事もままならなかった一面が見受けられた冬優ちゃんが、木組みの街の住人ひいては心愛ちゃんの勇気ある助言がきっかけでどれほど大きく成長したのか、それがはっきりと認識できる意味でも重要な意味を持っていると思う。

 尚、ココフユは途中から心愛ちゃんと逸れた*8智乃ちゃんを探しに行ったのだが、智乃ちゃんは自分より知らない年下の子を街案内しており、ここでも智乃ちゃんが他人を導けるまでに大きく成長している事が窺える。ただ、冬優ちゃんはその様な智乃ちゃんの行動を見て、自分以外にも丁寧に接している子がいる事に対してかなりの嫉妬の感情を滲ませており、冬優ちゃんにも「自分と智乃ちゃんだけの特別な何か」を渇望しているのが良く分かる。或いは、10代半ば特有の心情が表れたと言うべきか。何れにしても、冬優ちゃんのそういう一面は、10代半ばに良くある複雑な心境を上手く表していると、個人的には考えている。

 そんなココフユの2人を見て私としても色々考えたものだが、大事だと思ったのは「冬優ちゃんが精神的に大幅に成長している事が分かる」のと「冬優ちゃんにも智乃ちゃんに対して私だけにして欲しいと思っている事もある」の2つが分かった事だと考えている。前者は言うまでも無く「冬優ちゃんの精神的な成長」を表しており、木組みの街に来るまでは恥ずかしさ故に見知らぬ人とは腹話術なしでは中々会話できなかった状態から、自分に勇気を授けてくれた人に対して直接自分の言葉でお礼が言えるまでに精神的に成長した冬優ちゃんを見て私は

「冬優ちゃんは本当に人として大きくなった」

と思ったものである。思えば旅行編の時は高校進学を機に見知らぬ街に行かなければならない事実に対して嬉しさもある反面、1人孤独に涙を浮かべるまでに不安が滲み出ていた冬優ちゃんが、心愛ちゃんを始めとした木組みの街の住人との奇跡の再会を経てここまで精神的に成長した事は、個人的には非常に大きな意味を持つと考えている。

 また、もう一つの「冬優ちゃんにも智乃ちゃんに対して私だけにして欲しいと思っている事もある」と言うものについては、端的に言えば「冬優ちゃんにも割と嫉妬深い所があると分かった」という事であり、これは別にとりたたて言う事でもないとは思うが、ごちうさにおいて嫉妬は要所において結構重要な役割や意味を持っている事がある*9ので、個人的には覚えておいて損はないと思う。

 そして、最終的にココフユの2人は、冬優ちゃんがお使いに頼まれているという事で終わりを告げ、ここからは少しだけ心愛ちゃん1人での行動となるのだが、その際智乃ちゃんが見知らぬ子と一緒に木組みの街を仲良く楽しそうに散策しているのを心愛ちゃんが見た時に浮かべていた表情が、心愛ちゃんが普段見せない表情だったが故に色々と考えさせられる表情になっているのだが、これについては後に細かく書き出すとする。

心愛ちゃんと神沙姉妹

 冬優ちゃんと別れた心愛ちゃんが次に会った年下組は、ブライトバニーの社長令嬢であり、マヤメグと同じ学校の同級生でもある双子の妹の神沙夏明(ナツメ)ちゃんと、双子の姉の神沙映月(エル)ちゃんの2人であり、その2人は心愛ちゃんの横から2人合わせてひょこっと飛び出すと言うちょっとしたサプライズを仕掛けて、心愛ちゃんを驚かせている。因みにこの時の2人の表情は、多少差異があるとは言え、2人共とてもにこやかな顔を見せており、口調も結構弾んでいる様に感じられる。この事から、私としても神沙姉妹の2人が心愛ちゃんと会うのがとても楽しみしている事が窺える事にほっこりするのと同時に「心愛ちゃんはやっぱり天然で人を惹きつける魅力があるんだなぁ……。」と、思わずやきもちを焼く意識に駆られなくもない訳である。ただ、心愛ちゃんと神沙姉妹の可愛らしいやり取りを見れば、ある意味そんなやきもち焼きをも吹っ飛ぶくらいにほっこりする気もするのだが。

 今月号における「心愛ちゃんと神沙姉妹」と言うトリオの行動を簡単に言えば「現代版木組みの街散策」である。ただ、まず心愛ちゃんと神沙姉妹の3人は、夏明ちゃん曰く「不気味かわいいうさぎ」*10に近づいてみたいが、勇気が出ないから心愛ちゃんも一緒に行って欲しいと頼み、それを心愛ちゃんは快諾し、そこから木組みの街をあちこち散策しようと心愛ちゃんが提案して、神沙姉妹はそれを快諾すると言うのが事の流れとして存在している。因みにその際心愛ちゃんは「直ぐに迷うから元の場所に返ってこられる保証はない」と、割に威勢よく神沙姉妹に忠告しているが、正直極度の方向音痴な事を威勢よく言われても困ると思われる。

 そんな不安要素を抱えていた心愛ちゃんと神沙姉妹のカップリングだが、いざ散策を始めると3人共とても楽しそうにしており、街のあちこちで出逢う友達とすれ違ったり対面で声を掛け合ったりと、結果的には大成功を感じさせる描写があちらこちらにあったので、私としても安心だったし、心愛ちゃんにしても神沙姉妹にしても、3人で木組みの街を一緒に散策できたのは嬉しかったと思われる。

 この様な経緯から、私としては心愛ちゃんと神沙姉妹がこの様な形で楽しんでいた事に対して非常に悦び(よろこび)を感じている。抑々神沙姉妹は社長令嬢故に家柄を普通の人以上に見られやすく、また家の事情故に転校も多かったが為に2人だけの非常に狭いセカイで生きざるを得なかった経緯を持つ姉妹である為、旅行編で出逢った木組みの街の住人と木組みの街で奇跡の再会を果たすまで、同年代の人と殆ど馴染めない人生を歩んできた事は想像に難くなく、かなり窮屈な人生だったと考えられる。

 そんな人生を送ってきた中で、木組みの街で奇跡の再会を果たしてからと言うもの、同じ学校の同級生の友達がいて、違う学校の同級生にも友達がいて、年上にも沢山の友達がいて、そこから自分達の居場所も出来てきて、更に木組みの街の住人の心の温かさに触れて、どんどん自分を積極的に前に出していく神沙姉妹を見るのは、それだけでも非常に微笑ましい事なのだが、今回はそこから年上の心愛ちゃんにエスコートされる形で木組みの街を一緒に巡ると言う中々に貴重な経験をしている。その事は、神沙姉妹にとってきっとかけがえのないものになったと思うし、木組みの街で大切な人と大切な思い出を創れた事に大きな意味を持ったと考えられる。

 最終的に心愛ちゃんと神沙姉妹の3人は、神沙姉妹が木組みの街を走っている列車に乗る形で終わりを告げ、その後は心愛ちゃんが1人になるも、直ぐに智乃ちゃんと出逢って丸く収まるかと思いきや、そうは問屋が卸さないのである。

心愛ちゃんと智乃ちゃん

 心愛ちゃんが最後に出逢った年下組は今まで逸れていた智乃ちゃんであるが、心愛ちゃんと久々に再会した智乃ちゃんの顔はどこか曇っていた。それもそのはず、智乃ちゃんは心愛ちゃんが年下組(恐らく神沙姉妹)と楽しそうにしている様子を目撃しており、自分の知らない所で楽しそうにしていた心愛ちゃんに対してあからさまに嫉妬の感情を見せていたからである。ある意味「小説内において「エンヴィ(嫉妬)」の名を冠する事だけの事はある」とは思うが、やはりそういうお年頃と言う事なのだろうか。 尤も、年下組と仲良くしていたのは智乃ちゃんにしても同じ事であり、実際に心愛ちゃんは、その事を自分も多少嫉妬している事を思わせる表情を見せながら指摘している。ただ、その様な事で変にギスギスしないのもココチノの良い所でもある。

 今月号最後の主たるカップリングの「ココチノ」は、主に「逸れてからの行程をお互いに語り合う」形になっており、ここで色々な事が分かる様になっているのだが、個人的に重要だと思ったのは、心愛ちゃんが最早自力では思い出せなくなっている「嘗ての木組みの街で出逢った人」を智乃ちゃんは(ある意味当然だが)分かっている事であり、実際に智乃ちゃんは細かく特徴を言われてもいまいちピンと来ていない心愛ちゃんに対して、その「嘗て心愛ちゃんが出逢った人」を彷彿とさせる仕草を披露してもいる。それを見た心愛ちゃんは漸く嘗て出逢った人と、今の智乃ちゃんの仕草が良く似ている事に気付いたが、それでもそれが誰なのかをはっきりと分かっている様子は見受けられず、やはり彼女にとって「嘗ての木組みの街の記憶」を呼び起こすのはそれだけ困難を極めるのが窺える。ただ、嘗て木組みの街で出逢ったお姉さんと、智乃ちゃんの仕草が似ていた事を呼び起こしてくれた事に対して、心愛ちゃんは感謝の言葉を伝えている。

 個人的には心愛ちゃんが「嘗ての木組みの街で出逢った人をはっきりと分からないのはある程度致し方ない」と考えている。これはあくまで私の推測だが、ココチノにとって共通の存在である「まほうつかい(サキさん)」とは、智乃ちゃんにとっては自身の母親という事も相まって、ずっと身近で観てきた存在であったとしても、心愛ちゃんにとってはいくら自分の母親の友達だとは言え、まだまだ幼かった頃に何らかの理由で木組みの街を訪れ、そこで半ば奇跡的に出逢ったきりだった事が容易に想像できるのではないかと考えている。つまり出逢った回数が抑々違い過ぎるという事である。

 作中では殆ど言及されていないが、心愛ちゃんの実家がある地域と木組みの街とではかなりの移動距離がある事が想像でき、それ故にそう易々と頻繁に行き来する事は出来ないのは何となくでも理解できる。更に言えば、抑々心愛ちゃん達が何故家族で木組みの街に出掛けたのかも、詳しく言及されていない為に断定はできないが、恐らくは当時の幼き心愛ちゃんにとってはイレギュラーつまり非日常だったのは十分に考えられる事であり、その延長線上にサキさんひいては「まほうつかい」との奇跡の出逢いがあったと仮定するなら、抑々の出逢った回数の少なさが起因して、今の心愛ちゃんの様な「楽しくも大切にしたいと思った記憶はうっすら思い浮かべられるが、はっきりと思い出す事は難しい」と言う状態も個人的には納得できる。

 ただ、心愛ちゃんがはっきりと思い出せない一番の要因はやはり「月日の経過」が大きいだろうと考えている。これは先の仮定通り「心愛ちゃんとサキさんの対面的な出逢いがあの時以外基本的になかった事」が前提となるが、人間はどうしても月日が経過すればするほど嘗ての記憶は曖昧模糊になっていくものであり、自分では覚えておきたいと考えていた事でも、長い年月の経過とともにどうしてもその記憶は薄れていくのは避けられず、それ故に心愛ちゃんは思い出したくても思い出せない状態になってしまったのではないかと考えている。無論、記憶そのものは個人差が非常に大きい領域である為、一概には言えない事はきちんと理解しているし、それ故に心愛ちゃんが実際の所どうなのかは本人以外正確には分からないとは思うが、私はこの様に考えている。

 結論としては、心愛ちゃんは「嘗て自分が木組みの街に来た記憶そのものは覚えているが、頭で整理して言葉で伝えられるまでにはっきりとは覚えていない状態」にあると考えられ、それには「抑々出逢いの機会が僅少だった事と、絶対的な月日の経過」が大きく関わっていると考えられる。ともすれば、今後心愛ちゃんが自力で記憶をはっきりと思い浮かべ、尚且つそれを継続させるのは、今月号の描写を見る限りかなり難しいと思われるが、それでも心愛ちゃんがあの時の記憶を完全に忘れてしまう事はないと思える要素はあると感じている。それは先述した今月号最後の場面にある「心愛ちゃんが智乃ちゃんに対してお礼を言う所」である。

 この場面は今月号の流れを汲めば分かるのだが、智乃ちゃんからしてみれば「何故心愛ちゃんからお礼を言われたのか良く分からない」という心境であり、それは智乃ちゃんの戸惑った反応を見れば良く分かる。言ってしまえば訳の分からない事に振り回されている訳だが、心愛ちゃん側からすると「例の仕草をした智乃ちゃんを見て何か思い起こした事があって、その事に対して感謝の気持ちを伝えた」のだと感じている。最早何が言いたいのか自分でも良く分からなくなりそうだが、私が言いたいのは「心愛ちゃん自身、嘗て木組みの街に来た事をはっきりとは思い出せなくても、感覚ではしっかり覚えているのではないか」という事である。要するに「理論で覚えているのではなく、感覚で理解しているのではないのか」という事であり、頭でははっきり思い出せなくても、心はしっかり記憶している事を物語っている様な、重要な場面だと感じているという事である。

 最後の最後に少々訳の分からない事になりかけたが、確実に言える事として「想いは確実に受け継がれている事」は、このココチノのやり取りからもはっきり確認できると考えている。サキさんが授けた想いは、その想いを直接的に見ていたココチノの2人は絶対に伝わっていると思うし、ココチノの周りの人にもその想いは伝わっていると私は思う。

中盤以降の心愛ちゃんに対して思う事

 ここまでは主に「ココフユ」「ココアとナツメエル」「ココチノ」と言う様に、大きく3つのカップリングそれぞれに分けた上で、考えた事を率直に書き出してきたが、ここからはまとめとして「中盤以降の展開を通して見えた事を書きまとめる」とする。尚、心愛ちゃんの心境は、作中では描写せずに敢えて伏せているケースも少なくない為に、どの様な角度から考察すれば良いのかを見極めるのが他の人以上に難しい傾向にあるが、それでも読み解ける所が皆無な訳では無いので、頑張って読み解くとする。

 中盤以降はカップリングの変遷はあれ、基本的な中心軸は「心愛ちゃん」なのだが、今月号の中盤からはその心愛ちゃんの様々な心境が垣間見えると私は考えている。ただ、最初の「ココフユ」からしていきなり心愛ちゃんの心境を読み解くのが容易ではなく、推し量るのに大分苦労したのだが、恐らくは「冬優ちゃんの成長に悦びを感じた」と考えている。心愛ちゃんも旅行編の時の引っ込み思案だった冬優ちゃんを知っているので、徐々に成長していく冬優ちゃんに対して何か特別な想いがある事は容易に想像できるうえ、今回面と向かって冬優ちゃんから感謝の気持ちを伝えられた時は、表立っては思わず圧倒されていた様子だったが、心の中ではきっと冬優ちゃんの成長を力強く噛み締めていたと思う。

 そして、冬優ちゃんと別れてからすぐに心愛ちゃんは知らない子と一緒に楽しそうに街を回っている智乃ちゃんを一人で見る事になるが、心愛ちゃん自身も凄く印象的な表情を浮かべていたが、個人的にはこの表情こそ今月号の中でも特に深い意味を持つものの一つと考えて間違いないと感じている。

 抑々この場面においては、智乃ちゃん自身も自分より年下の子と一緒に街を回りながら満面の笑みを浮かべているのが描写されており、その観点からも非常に微笑ましくも彼女の成長を強く感じさせるものなのだが、それ以上に心愛ちゃんが見せていた「智乃ちゃんが誰かを導けるまでに成長した事に対して嬉しくもありながら、どこか寂しげにも見える様な凛々しい表情」があまりにも印象的だった。恐らく心愛ちゃんとしても「お姉ちゃんがいなくても、智乃ちゃんは一人でも誰かを導ける様な立派なお姉ちゃんになっている」と改めて感じて、その成長に対して「何物にも代えがたい悦びを噛み締めていた」のと同時に、高校卒業を機に自分の更なる夢を掴み取る為にこの木組みの街を離れていく事を既に決めている心愛ちゃんにとっては「間近で妹の成長を見守れなくなる事に一縷の寂しさを覚えた」のだと感じている。明るい心愛ちゃんにしては珍しい事だと思うが、それだけ智乃ちゃんの成長が嬉しくもあり、その成長が間近で見守れなくなる事や、自分が知らない所で立派に成長していく事に対して寂しさを感じているのだと思う。

 ただ、私としてはあの表情には更なる意味が込められていると考えており、それは「年上としての、ひいてはお姉ちゃんとしての覚悟」と言うものである。抑々心愛ちゃんは四兄弟の末っ子である為、どちらかと言えば皆から可愛がられると言う妹キャラが強めなのだが、同時に姉と兄が身近にいた環境から「お姉ちゃん」に対しても強い憧れがあり、それはごちうさ初期の頃から一貫しているのは周知の事実であり、今月号の序盤を見ればその想いは幼い時に原点があった事が確認できる。その事を鑑みれば、今回心愛ちゃんがあの様な表情を浮かべたのには、上記2つ以外にも「お姉ちゃんは時にこんな気持ちで妹の成長を見守っていた事を肌身をもって理解した」のもあったと思うし、そこには強い覚悟がある事も窺う事ができる。その為、これらを思えばまだまだ至らない点はあるかも知れないが、心愛ちゃんはもう立派なお姉ちゃんと言って良いと思う。それ位、あの表情からはお姉ちゃんひいては年上としての覚悟ある表情をしていたと感じている。

 次は「ココアとナツメエル」だが、ここではどちらかと言うと「心愛ちゃんと神沙姉妹が、純粋に木組みの街の散策を楽しむ事」に重きが置かれている為、前後にあった様な心情をはっきりと表している様な描写は一旦鳴りを潜めている。ただ、心愛ちゃんにしても楽しそうなやり取りを見た智乃ちゃんから嫉妬の感情を剥き出しにされる位だった事から、神沙姉妹を導いていて凄く楽しかったと思うし、元々誰かと何かをする事自体が大好きな心愛ちゃんの事なので、その心境は「楽しいと発見で満たされていた」とは思う。ある意味「ココフユ」とは別ベクトルで心境を推し量るのが難しいが、今までの心愛ちゃんの気持ちの変化を知っていれば何とかなるものであり、それを鑑みると、ここでも心愛ちゃんのポジティブな心境があると考えている。

 最後は「ココチノ」だが、ここでは全体的に読み解けるものが今までと被るものが少なくない為、多少なりとも書き出す内容に難儀しなくもないが、重要なのはやはり心愛ちゃんが智乃ちゃんに対して抱いた「感謝の気持ち」だと感じている。これは智乃ちゃんが「まほうつかい」という言葉を掛けてくれたおかげで、心愛ちゃんの中で何かが繋がった様に彼女は大きく声を上げていた場面から感じたもので、この時心愛ちゃんの心の中ではきっと「決して言葉では説明できない何か」を感じ取っていたのだろうと考えている。そして、その言葉で説明できない何かとは、それは恐らく「嘗て心愛ちゃんが木組みの街で訪れた時に得た、最早理論で説明しようにもできないが、心の奥深くに確かに存在している記憶」であり、ひいては「誰かを幸せにしたいと言う強き想いそのもの」なのであろう。それは最早、言葉ではいくら説明しても足りない程の輝かしさ即ち「まほう」を、何時だって秘めているのであると私は思う。

3.あとがき

 以上がきらま2022年1月号掲載のごちうさを読んだ私の感想・考察である。今回は今まで謎に包まれていた部分が明らかになった意味でも重要な回だと感じたが、個人的には今回ごちうさにおける「まほうつかい」の意味が垣間見えた事がとても重要だと感じており、それに合わせてロマンティックな文章テイストを意識した部分もある。その為、今までと比べても全体的な雰囲気が結構異なる側面も持っているとは思うが、これも自分なりの考え故である。

 今月号は先月号と同様に序盤と中盤以降で舞台背景も時間軸も大幅に違う構成をとっていた為、いかに序盤と中盤以降でどの様な違いや共通点があるのかを見いだしていくのが重要になると思うのだが、私としては「心愛ちゃんの心境変化や行動パターンの相違」或いは「どの様にして人の想いひいては『まほう』が受け継がれているのか」を見つけていく事が、今月号の序盤と中盤以降を比較していく上で大切な事だと考えている。元々ごちうさは全体的に時の流れを経た想いの変遷や伝播が特に重要な意味を持っている作品なのだが、今月号は特にその傾向が強く、その事も上記2つの様な精神をより一層大切に扱いたいと思わせた。その意味から捉えると、今月号も表立っては良い意味で異質な面もあるが、本質的にはいつもと何ら変わらないごちうさだと思うし、非常に可愛らしさあふれるお話だと思う。

 そして、今月号は色々な意味で新たな門出となるお話になっていると思われるのだが、今回はその意味でも門出を飾るに相応しい内容に仕上がっていたと感じている。色々な意味で衝撃的だった先々月号と先月号を越えて、新たなセカイへと突き進んでいく上での第一歩。それが今回この様な形で描かれたのには、私としても何か強い意味があると思うには十分であり、非常に心に残ったのは言うまでもない。

 最後に、今月号における「まほうつかいの意味の考察」や、今月号で色濃く描かれていた「心愛ちゃんの心境変化」は非常に心満たされるものであった事は書いておきたい。今までごちうさに対して紆余曲折じみた想いを持つ私としても、今月号のこの2つは本当に心満ちゆくものであったし、その事は非常に嬉しかった。その事をもって、この感想・考察の締めとしたい。

 

おまけ

今回の文量は全て合わせてのべ400字詰め原稿用紙49枚分であり、これは現時点で過去5番目の文量の多さである。先月号よりは多少コンパクトになったが、それでも膨大な量である事には変わらず、何よりこれを1週間足らずで書き上げた事実に我ながら驚く。

因みに文量上位10位をランキング付けすると以下の通り。

※この度見返した所、今まで原稿用紙枚数が1枚足りなかった事が判明したので、これを機に正しく修正しました。なのでこのランキングが最も正確となっています。

1位 400字詰め原稿用紙 60枚分

2位  以下同文   52枚分(文量が少し上)

3位         52枚分

4位            51枚分 (先月号の記事)

5位            49枚分(今回の記事)

6位            43枚分

7位            41枚分

8位         39枚分

9位         35枚分

10位         33枚分

*1:幼い間に身に付けた性質は、何時まで経っても変わらないという事。

*2:物事に対して定型にはめた見方をあてがう事。近いのが「思い込み」である。

*3:極端な事を言うなら、一つでも手順を間違えたら即解読不能になり、如何なる手段をもってしても積み状態から脱却できない程に。

*4:若くして亡くなること。

*5:サキさんが得意だった手品を努力したり、サキさんが作っていたラビットハウスの制服を完成させたりする等。尚、心愛ちゃんは手品も裁縫も初めから上手かったではなく、寧ろ下手な位だった。この事からも、心愛ちゃんが実は凄まじい努力家である事が窺える。

*6:この時心愛ちゃんは、心配した母に対して何食わぬ態度で「お母さんがはぐれた」と、あっさり人のせいにしている。この一面も昔と今でなんら変わらないのだが、幼子だった頃ならともかく、成長した今でもその様な態度をとり続けると、どれ程親しい人が相手であっても「自分勝手が過ぎる」と軽蔑される危険性がある為、少々心配である。尤も、人間には多かれ少なかれ自分本位な所がある生き物なのだが……。

*7:但し、当の本人達がその事を覚えている可能性はかなり低いと思われ、特に心愛ちゃんは「幼い時に木組みの街に来た事はもう殆ど覚えていない」と公言している為、尚更である。尤も、たとえ覚えていたとしても、幼子の記憶で止まっている状態からいきなり高校生になった姿を見ても咄嗟にピンとは来ないと思うが……。

*8:因みに逸れた(はぐれた)理由は明らかにされていないが、今までのパターンを鑑みるに心愛ちゃん自ら何らかの理由で勝手に逸れたのであろう。

*9:と言うか、先月号でもあった「ナナラビ」は嫉妬とも深い結び付きがあり、その「嫉妬」の名を持つ悪魔こそ、冬優ちゃんと同じ学校の同級生の智乃ちゃんがモデルである。

*10:因みにこの着ぐるみに入っていたのは理世ちゃんである。ただ、本人は着ぐるみバイトをやっている事を知られるのが照れくさい為か、3人に対して「内緒だぞ」と忠告している。

きらま2021年12月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察

 こんにちは。ごちうさの最新話を追い続ける身として中々に衝撃的だった先月号を乗り越えて、新たな局面に突き進み続けています。尤も、ごちうさが今後どうなっていくのかは本当に分からなくなってきていますが、例え五里霧中になっても突き進み続ける事を意識し続けたい所存です。

 さて、今回はまんがタイムきららMAX2021年12月号掲載のごちうさの感想を書きたいと思います。今回の内容は先月号の最後に衝撃を残したココチノの気持ちの答え合わせや、未来に向けた新たなる覚悟と決意と言う様に、中々に心打つ内容が多いのですが、その傍ら今年(2021年)のエイプリルフールに公開された「ナナラビ」が本編に登場すると言う中々に衝撃的な展開もあるので、今回は大きく「ナナラビ」と「ナナラビ以外の本編」の2つの観点から感想・考察を書き出したいと思います。

※注意※

最新話のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。尚、今回は前半と後半で大きく視点を変えていますので、その事もご了解お願い致します。

1.はじめに

 今回のお話は久々に木組みの街に帰還した青山ブルーマウンテンこと青山翠(みどり)さんがカギを握っているのがポイントであり、青山さんは今後のごちうさの展開を切り開く様な重要な提言をしてもいる。また、他にも今年のエイプリルフール企画だった「ナナラビ」が登場していたり、先月号で残されていた「ココチノそれぞれの本音」が明らかになったり等々、全体的に「今までの小括(あるいは統括)」という趣が強く存在している。その為、先月号の様な「ごちうさの中でも一二を争う程の衝撃的な描写」は鳴りを潜めており、所々に重要な要素は存在しながらも、何時ものごちうさらしいテイストになっており、ある意味安心して読み進める事の出来る様になっている。

 しかしながら、今月号とて「ナナラビ」と言う嘗て2021年のエイプリルフールで企画されたものが、今回唐突に本編に組み込まれたと言う事実があり、私的にはこれを見逃す事は出来なかった。その為、今回は「ナナラビ」に関する内容を独立した感想・考察項目としても扱うものとし、視点を大きく2つに区分けした形で、感想・考察を書き出したいと思う。また、ストーリー展開が「ナナラビ」の物語から始まり、そこからラビットハウスにおける「今までの小括」が始まっていく構成になっている中で、私が秘めている想いの関係上、ここでは敢えて「ナナラビ」に対する主たる想いは後半に書き出したい。

2.購読した感想・考察

現のセカイと現の館

 今月号はまず冬優ちゃんの意思が存在する猫が謎の館に迷い込む所から始まり、7人と1人の悪魔に出逢う事になる。これが所謂「ナナラビ(Seven Rabbits Sins)」であり、嘗て2021年のエイプリルフールであったものを踏襲している形になっている。ここでは前述の通り、私がこの展開を読んで何を思ったのかについては後述する事にするが、全体的に「ナナラビ」を知っている者なら思わずニヤリとなる展開が多く、この事からごちうさの作者であるKoi先生の粋な計らいが光る内容だと感じ取っている。因みに作中では「ナナラビの世界観は冬優ちゃんが見た夢」と言う設定になっており、故に「ナナラビ」とそれ以降で世界観が少々異なっている。

 今月号の中盤からは、今までの「ナナラビ」とはうって変わり、「青山さんの木組みの街帰還」が展開の中心である。旅行編において都会の街に留まり、そのまま都会に残っていた青山さんが木組みの街に久々に帰還し、道中ブライトバニーに寄り、そこで出逢った冬優ちゃんがあの7人と仲良しな事を知るや否や半ば巻き込む形でラビットハウスを訪れ、以降はラビットハウスでの様々なやり取りが中心となっている。尚、実際に青山さんと冬優ちゃんがラビットハウスに訪れる前に、青山さんが執筆した「Seven Rabbits Sins」をめぐって、モデルとなった7人の内、その場に居た初期組5人(特に周りからの視線を気にしがちなリゼシャロ)が内容に対して少々物申したそうにしている場面も存在しているが、それに対して当の青山さんは中々にしれっとしており、あくまでのらりくらりと躱(かわ)している。青山さんらしいと言えばらしいのだが、モデルに対してちょっとは耳を貸しても良いとは思わざるを得ない……。

 青山さんがラビットハウスに来たのには大きな意味があり、それは「心愛ちゃんにモカさんからの手紙を届ける為」であった。モカさんもまた、青山さんが都会に留まったタイミングに都会を訪れており、そこから手紙を授かったのである。また、ここから先月号最大の衝撃だった「心愛ちゃんの将来の進路」について改めて語られており、当然ながら智乃ちゃんを含めた木組みの街の住人は将来的に離れ離れになる事に対して寂しさと驚きを見せていた。だが、青山さんが大人として、ひいては木組みの街の指南役としての言葉をかけてあげる事で、皆は落ち着きを取り戻した。青山さんの言葉は、将来バラバラになってしまう事に対して不安の色が隠せなかった皆の動揺を落ち着かせ、皆の絆や将来への気持ちをより強固なものにしたのである。

 終盤は冬優ちゃんが目立った存在感を見せており、青山さんが自身の担当編集者であり、学生時代からの旧友でもある真手凜ちゃんに連れられる直前、冬優ちゃんは青山さんが紡いだ小説を「温かくて好き」と称賛の言葉を送ったのである。これに対して青山さんは嬉しそうにしており、凜ちゃんは青山さんがあのような小説が書ける理由を話している。その後も冬優ちゃんは智乃ちゃんに対して先導役を買って出たり、将来寂しくなったら友達がいるとかけてあげたりと、大きな成長を感じさせる行動が多く見受けられる。そして、それに負けじと心愛ちゃんが智乃ちゃんに対して「将来のサプライズ」を仄めかす発言をして、この物語は締められている。

 ここからはこの場面を見て私はこう思ったと言うのを細かく書き出していく。ただ「ナナラビ」に関する内容は、前述の通り後半部分に集約させるものとする。

青山さんと冬優ちゃん

 私が今月号を読んで特に気になった事の1つ目は「青山さんと冬優ちゃんのやり取りから見えるもの」についてである。2人は今月号で出逢うまで交わりがほぼ皆無であり、どの様な化学反応を起こすのか多少なりとも気になっていた。また、冬優ちゃんは青山さんの小説を中々に読み込んでおり、事実今月号においてもみんなの事を度々青山さんの小説内のキャラに落とし込んでいた場面があったので、その小説の作者と実際に会ったらどの様な反応を見せるのか。その意味でも気にはなっていた。

 そうして改めて読み込んでいくと、冬優ちゃんは青山さんに出逢った当初こそ緊張していたものの、自分が読んだ小説にモデルがいる事に冬優ちゃんが驚きを示すと、これ見よがしにと青山さんによって2人の距離感が一気に縮められていったのが印象的だった。何故この場面に引っ掛かったのかと言えば、青山さんとて心愛ちゃんの様に誰に対してもフレンドリーな人ではないどころか、寧ろ結構な恥ずかしがり屋で且つ自分の素性をやたらと隠したがるまでに照れ屋な人である事から、ここまで人を率先して引っ張る事はあまり無いからである。

 では、そんな青山さんが冬優ちゃんの事をここまで引っ張ったのには何か絶対深い訳があるとなるが、その理由としてストレートに言えば「冬優ちゃんが木組みの街の住人7人の事をもっと知りたがっている」というのがあったからだと考えている。青山さんもまた、木組みの街の住人7人に絶大な影響を受けている人物であり、それは彼女が描いたヒット小説の殆どは、その木組みの街の住人7人をモデルとしている*1事からも窺える。そんな7人ともっと仲良くなりたいと考えている上、人間的な意味でももっと親密になりたいとも思っている事を明かした冬優ちゃんを見て、最早いてもたってもいられなくなったのだろう。尤も、考え方によっては「小説家として、冬優ちゃんを7人と交わらせないなんてあり得ないと思ったから」と言う見方もあるが、何れにしても青山さんが冬優ちゃんの事を率先して引っ張ったのには、それ相応の青山さんの純真たる強い想いがあったのは間違いないと思う。だって青山さんのこの行動のお陰で、多くの人達の心境が良い意味で救われたと言うのだから……。

 また、そんな青山さんに対して冬優ちゃんが感謝の念とも言える気持ちを直接伝えている場面も非常に意味があると考えており、この場面がある事で「冬優ちゃんが青山さんに対して信頼を置いている事と、冬優ちゃんが木組みの街の住人7人が心から大切に思っている事」の2つが一挙に確認できるからである。ただ、後者に関しては以前から7人(特にココチノ)に対しては信頼を置いていた事と、ナツエルに対しても少しずつでも心を開き始めている事を鑑みるなら「今までの冬優ちゃんの心境の変化を鑑みれば、この様な発言は至極真っ当」となるかも知れないし、私も正直そう思う節はある。それなら「じゃあ何故そこまで大切な場面だと思ったのか?」となるが、それは私自身、事実関係の再認識以上に「青山さんに向けてその様な発言をした事」が重要だと考えているからである。

 抑々冬優ちゃんは青山さんに対して、最初からある程度話せていたとは言ってもほぼ初対面であり、今月号を通して2人は一気に距離が縮まったとはいえ、出逢った時には思わず強張った表情を見せてしまう程に緊張していた為、普通に考えるならその様な人に対して感謝の気持ちを述べるだけでも、恥ずかしがり屋で内気な冬優ちゃんにとっては相当勇気のいる事なのは想像に難くない上、ましてや「木組みの街の住人7人が大切に想っている事が分かる言葉を堂々とした表情をもってかけられる事」がどれ程凄い事なのか、それを想像しただけでも、正直私自身圧倒されてしまう。圧倒されるのには、冬優ちゃん自身どちらかと言えば内気で引っ込み思案な性格故に人に対して素直な気持ちを率直に伝えられない一面があったが故に、今まででも率直な気持ちを伝える事に躊躇していた場面がしばしば見受けられていた中で、今回青山さんに対しては、多少間をおいて話していたとはいえ、自分の率直な気持ちを躊躇いなく堂々とした表情で話していた事に「彼女の精神的な成長」を感じたからであり、ひいては自分にとって出逢ったばかりの人に対して「自分に手を差し伸べてくれた人達の事を好きだと言える想いの強さ」を話せる勇気を感じたからである。

 つまり冬優ちゃんがラビットハウスから凜ちゃんともども立ち去ろうとする青山さんに対してあの様な言葉を掛けたのには、彼女自身の精神的な成長と、彼女自身が7人の事を心から大切に想っている事の2つが読み解けるだけでなく、彼女にとって青山さんは自分にとって大切な世界をくれた人達を描いてくれた小説家であり、信頼出来る人だと言う認識もでき、ひいては彼女自身が木組みの街の住人に対して絶大な信頼を置いている証でもある事を読み解けると私は考えている。そして、そこに至るまではブライトバニーで冬優ちゃんと青山さんが出逢った時、冬優ちゃんの事情を知った青山さんが思い切ってラビットハウスに一緒に訪れようと引っ張ったのが大きかったとも考えている。

 この事を端的に言えば「青山さんと出逢い、そして導かれた事により、冬優ちゃんが確実に精神的な成長を歩んでいる事と、木組みの街に馴染めている事に幸せを感じている事が改めてはっきりと見えた」という事であり、その事実は冬優ちゃんの大きな成長を感じるには全くもって不足のない事例であり、冬優ちゃんがどれ程周りの人達に愛されているのかが良く分かる事例でもある。

大きな決断と決心

 2つ目は先月号とも大きく関わる内容でもある「心愛ちゃんの進路選択の真意について」である。先月号と言えば高校生組の進路問題が印象的だが、その中でも突出していたのが心愛ちゃんが発した「この街(木組みの街の事)を離れる」と言う衝撃的な発言であり、私としてもそれまでに紗路ちゃんの衝撃的なカミングアウトに散々痛めつけられてしまっていたが故に直ぐに理解する事は出来なかったものの、どう捉えるべきなのか思わず分からなくなってしまった記憶は辛うじてある。ただ、冷静になって考えてみると、心愛ちゃんは木組みの街の元来の住人ではない為、高校を卒業してしまえば木組みの街を出ていく事も全然あり得た話ではあったのだが、如何せんあまりにも唐突過ぎた事が、戸惑ってしまった要因だった事は間違いないと思う。その後、私としては何とか気持ちの整理をして乗り越えたのだが、先月号では「何故心愛ちゃんが木組みの街を離れようと思ったのか、その理由が明かされていなかった」為、今月号でその理由を知りたいとずっと思っていた。そして、今月号において遂に心愛ちゃんが木組みの街を離れる理由について遂に本人から明かされたのだが、その内容を知って、私は最早心愛ちゃんの立派な考えに納得する以外の選択肢は無かった。

 抑々心愛ちゃんが木組みの街を離れる理由を明かした直接のきっかけは、青山さんが代わりに届けてくれた、心愛ちゃんのお姉ちゃんであるモカさんからの手紙にあった。その内容は主に「姉としての努力を欠かさないモカさんの姿」が映し出されていたものであり、これを見て心愛ちゃんが「自分の姉とは違う道でパン作りを極める為に街を出る」と言ったのが、彼女が木組みの街から出ていくと言う事の真意であった。何故彼女がこの様な事を思ったかと言えば、私が思うに抑々心愛ちゃんは姉であるモカさんに一度も勝負事で勝てた試しが無く、それ故に何時かお姉ちゃんと対等な自分になりたいと言う強い願いがあったからと考えている。そして、その願いを果たす為には木組みの街に留まっていては何時までも叶えられないと何時しか考える様になり、それならば木組みの街を出ると言う決断と覚悟をも視野に入れる様にもなって、今回姉からの手紙を見てその覚悟を確固たるものにしたという流れを踏んだのだと推測している。勿論、本当の気持ちは心愛ちゃんのみぞ知る訳だが、高校3年生にしてここまで立派な事が言える心愛ちゃんは本当に凄い人だと思うし、誰よりも人生の先を見ているのだと思った事が、今回私が「心愛ちゃんの決断と覚悟を尊重する以外あり得ない。やはり心愛ちゃんは立派な人だ。」と考えた最大の理由でもある。

 だが、この様な心愛ちゃんの決断は、必然的に「木組みの街で出逢った、最早手放す事など絶対にできないファミリーと言うべき程の親友と離れ離れになってしまう事」を意味している。これに対し当の心愛ちゃんは「自分が目指したい姿に向けての大きな一歩」という事もあってか、親友と離れ離れになる道を進む事に対して覚悟を決めている姿を見せつけており、大人組を除けば基本的に一番年上の理世ちゃんも、心愛ちゃんの決断に対してしっかり後押しする程に、心愛ちゃんの覚悟に対して決心していた様子*2であったが、千夜シャロと智乃ちゃんはやはり戸惑いが隠し切れず、特に智乃ちゃんは表立ってこそ平静を保っていたが、最近の何処か元気がない智乃ちゃんを間近で見ていた冬優ちゃんから思わず心配の声を掛けられる程、動揺が隠せていなかった。この事は、どんなにクールであったとしても、どんなに心愛ちゃんに対して心配はかけさせまいと強がっていても、やはり智乃ちゃんも心愛ちゃんと離れ離れになるのは寂しい事と、智乃ちゃんにとって心愛ちゃんがそれだけ大切な存在である事が良く分かる内容であり、それはその場で心愛ちゃんの話を聞いていた人全員も同様なのである。

 そんな状況のさなか、青山さんがある種の救いの手を差し伸べてくれたのには大きな意味があると考えている。それは青山さんがこの「心愛ちゃんの決断に対して皆の動揺が広がっている状況」に対して「どんなに離れていても、皆さんはここに戻ってくるはずです・・・ね?」と声を掛けてくれた事で、皆は安心した表情を一斉に浮かべ、千夜ちゃんに至っては目に涙を浮かべていた事だけでも良く分かるし、嘗て学生時代に都会から木組みの街を訪れ、その後様々な経緯を経てまた木組みの街に戻ってきた青山さんだからこそ、より深みのある言葉として皆の心を動かしたのだと思っている。故にこの場面には小説家としての言葉選びのセンスと、彼女自身が持つ皆に対する信頼が込められていると考えている。

 ただ、その直後に青山さんはかの「ナナラビの小説」をめぐってリゼシャロ2人から「良い事を言って誤魔化すな」と言わんばかりに「なぜあの様な視点をもって小説を書いたのか?」と再び詰問されている*3が、青山さんはまたもしれっと言い逃れている。それ故に先の感動シーンが若干薄れてしまう気がしないでもないが、私としては「感動するシーンでウルっとこさせてからの笑えるオチ」と言うある種のお約束だったので、全く躊躇なく受け容れられた。尤も、青山さんのそういう一面は、恐らく人によって受け取り方が結構変わるとは思うし、小説絡みの件だって冷静になって考えてみると、中々に笑えない側面もあるのだが……。ある意味「センス溢れるブラックユーモア」だと思う。

 色々散逸しそうなので、この項目の最後に改めてまとめると、私が考えたものとして心愛ちゃんが木組みの街を離れようと考えた理由は「パン作りで自分の姉であるモカさんを自分なりの方法で超える為」であり、そこには「木組みの街を出なければ何時までも姉を超えられない、だから都会に出て修行したいと言う彼女の決意と覚悟がある」と考えた。また、かけがえのない親友と離れる事に対しては「青山さんがかけてくれた言葉をもって、新たな決意を胸に秘める形で乗り越えた」と考えているという事である。何度も言う事であるが、本当の気持ちは彼女達のみぞ知る事であり、読者である私はどれ程頑張ってもその本当の気持ちを100%汲み取る事は不可能である。だが、それでも彼女達の本当の気持ちの理解度を限りなく100%に近づけていく事は可能である。つまり私が求めていくべき事は「全ては分からないかもしれないが、自分ができる最大限の理解は尽くしたい」と言う事である。

チノフユの友情と思いやり

 3つ目は「冬優ちゃんが見せた智乃ちゃんに対する思いやりと友情」である。この内容は2つ目と重複する部分が多分にあるが、心愛ちゃんがあのような発言をした事で多少なりとも揺れ動いている智乃ちゃんを、冬優ちゃんは如何にして親友として思いやり、声を掛けてあげたのか。それが特に印象的だった事から、敢えて2つ目とは独立させた形で書き出す事にしたのである。

 では、何が特に印象的に残ったのか。それは「心愛ちゃんと離れても、彼女の決断は旅行の時から薄々でも分かってはいたから寂しくないと強がる智乃ちゃんを心配して、最後の場面に至るまで智乃ちゃんに励ましの声を掛けていた場面」であり、冬優ちゃん自身心愛ちゃんが木組みの街を離れる決断をした事は今月号まで知らなかった中で、事実を知った途端に全てが繋がった様に智乃ちゃんの心情を察し、自分を引っ張ってくれた人に対して何かできる事はないかと試行錯誤する友達想いな所に心打たれたのである。

 そして、ここから読み解ける事を結論から言うと「冬優ちゃんは智乃ちゃんに対して、どんな時でも笑顔でいて欲しいと考えている事」である。これは特に最後の場面で言える事であり、皆が楽しそうに会話している中で一人どこか虚ろ気な表情を浮かべていた智乃ちゃんを見て声を掛けた冬優ちゃんが非常に印象的なのだが、冬優ちゃんは元々が内気で引っ込み思案な性格である為、冬優ちゃんが智乃ちゃんに対して声を掛けてあげた事の意味がより大きくなっていると考えている。少々思い込みが強いとは思うが、以前から冬優ちゃんを見ていて「気恥ずかしさから度々思っている事を上手く言葉にできない場面」が見受けられると感じており、それ故に「心許せる友達であっても気恥ずかしさから、素直な気持ちを中々上手く伝えられない」のだと思っていた。なので、今回智乃ちゃんに対して多少言葉に詰まりながらも率直な言葉で智乃ちゃんに対する自分の想いを伝えられていたのには、冬優ちゃん自身の成長も勿論あるが、それ以上に冬優ちゃんが智乃ちゃんを想う気持ちの大きさと本気さが窺えると思っている。

 冬優ちゃんにとっても、智乃ちゃん達とは出逢った当初から何か特殊なものを感じ取っていたのは、描写を観れば何となくでも分かる事ではあった上、同年代の知り合いが1人もいない木組みの街の新生活で不安だらけだった中、自分を都会で導いてくれた智乃ちゃん達と木組みの街で再会した事の歓びと救われた気持ちを思えば察するに余りある。だって「もう二度と会えない」から「ずっと一緒の空間を共有できる」に様変わりしたのだから。勿論、嬉しいのは既に幾多のセカイを構築してきた木組みの街の住人7人にしても、冬優ちゃん以上に外のセカイの居場所がなかったナツメエルにしても同様なのだが、冬優ちゃんはナツメエルと同等あるいはそれ以上に、智乃ちゃん達に対して人一倍特別な想いがある様に感じている。

 だからこそ、冬優ちゃんには「自分を導いてくれた智乃ちゃんにはずっと笑顔でいて欲しい」と言う想いが強くあって、今回心愛ちゃんの事で少なからず寂しげな気持ちが智乃ちゃんを覆っていた事に気付いた時、自分にとって智乃ちゃんにはどんなふうに居て欲しいのか、私は智乃ちゃんをどんな形でサポートできるのだろうかと色々考えてみた結果、その答えが作中にある様な「率直な言葉で乗せた想い」なのだと思っている。無論、本当の気持ちは冬優ちゃんだけが知る事であり、果たしてこの考えが合っているのかは分からない。しかしながら、今月号を見るに冬優ちゃんが智乃ちゃんに対して特別な想いを持っているのは紛れもない真実であり、そこには冬優ちゃんの優しさと思いやりが多分にあるのは間違いないと思う。

幻想の屋敷と罪うさぎ

 ここまでは「ナナラビ以降」の世界観の中で感じた事を書き出してきたが、ここからは今月号の前半を飾り、元々は2021年のエイプリルフールが初出の「ナナラビ(Seven Rabbits Sins)」について私が思った事を書き出したいと思う。前述の通り、この部分は「冬優ちゃんが見た夢」という設定になっており、その証拠に「ナナラビ」展開の終盤にはそれを示唆する表現がある。その為、今月号は前半と後半で世界観が少々異なる様相を見せている。

 そんな前半部分だが、まずは冬優ちゃんの意思が存在する猫が、悪魔の青山さんに導かれるがままに謎の屋敷に迷い込む所から始まる。その猫はどこから来たのかは全く分からず、ただ導かれるがままに屋敷に迷い込んだ存在であり、屋敷に入ってからと言うもの、色々な悪魔と対面する事になるのだが、その悪魔はかの木組みの街の住人7人と同じ見た目と名前を表しており、言うならば「悪魔になった木組みの街の住人7人」と言うべき存在だったのである。

 そんなこんなで現実世界にいる親友と同じ悪魔と触れ合い、冬優ちゃんの意思がこもった猫は悪魔の智乃ちゃんと出逢う。だが、そこで見た智乃ちゃんは、彼女が見ていたクールでも根は明るく友達想いな智乃ちゃんではなく、どこか寂しげな智乃ちゃんだった。その後、悪魔の心愛ちゃんに連れゆかれそうになった所で、また最初に出逢った悪魔が姿を現し、その悪魔の計らいで冬優ちゃんは現実に引き戻される事になる。

 現実に戻った(=目が覚めた)冬優ちゃんは、あの様な夢を見た理由に「Seven Rabbits Sinsを寝る前に読んだ事」だと悟り、現実の友達7人と重なったのは「彼女自身の深層心理で勝手に置き換えたから」だと謝っていた。だが、智乃ちゃんが最近元気が無いのは彼女も気付いていた事であり、どうすれば良いのか考えた矢先、「Seven Rabbits Sins」の作家青山さんの存在を知り、そこから今月号後半の展開に繋がっていくのである。

 ここからは前半部分と同様、「ナナラビ」について私が思っている事を細かく書き出していくものとする。但し、内容がエイプリルフール時代から溜め込み続けていたものも含めて書き出す為、結構膨大な量になる事は付け加えておく。抑々この「ナナラビ」について私は2021年のエイプリルフールで発表されてからと言うもの、私は「ナナラビ」の世界観について様々な想いを張り巡らせいたものである。元々ごちうさのエイプリルフール企画については予てから自分なりにでも考えを張り巡らせてはいたのだが、こと「ナナラビ」に関してはそれがいつも以上に顕著だった。その為、嘗てエイプリルフール企画で発表された時にこのブログで想いや考えをまとめようかと思ったが、結局断念した過去がある。なので、今回はそんな当時の想いもこの機会に出来る限り書き出したいのである。

罪の名の由来と意味

 この「ナナラビ」の最大の特徴とも言えるのが「罪の名」であり、悪魔の姿をした7人にはそれぞれ罪の名を冠している。心愛ちゃんは「グリード」、智乃ちゃんは「エンヴィ」、理世ちゃんは「グラトニー」、紗路ちゃんは「ラース」、千夜ちゃんは「プライド」、麻耶ちゃんは「スロウス」、恵ちゃんは「ラスト」と言う風に、それぞれ罪の名がある*4。因みにこの小説の作者たる青山さんの罪の名は「虚偽」である。また、青山さんの「虚偽」を除いた7つを総称して七つの大罪と作中では称されており、罪の名のモデルは現実のキリスト教とりわけカトリックの「七つの大罪」にあると思われる。その為、宗教知識を用いれば「ナナラビの由来と意味」はある程度推察できるのだが、あくまでここは多少無理矢理にでも「ごちうさの世界観」として推察するものとする。

 まずは心愛ちゃんの罪の名である「グリード」からである。グリードと言うのは「強欲」を意味する言葉であり、作中ではあらゆるモフモフを我が物にしようとする悪魔として描かれている。また、皆が私の妹だと豪語しており、あらゆる人や動物を見境なく妹して取り込もうとする一面がある。ただ、無邪気な一面は悪魔であっても変わらない為、罪うさぎの中では現実とのギャップが比較的少ない方。しかしながら、自分が「強欲」である事の自覚が殆ど無く、良くも悪くも「心愛ちゃんは悪魔であっても心愛ちゃん」だと言える。

 その由来はほぼ間違いなく現実における心愛ちゃんの「無類のモフモフ好きと姉に対する強い憧憬意識」だと思われ、この「ナナラビ」ではそれが色濃く出ているのが特徴的である。つまり「彼女が元来秘めている想いが欲望となった存在が悪魔心愛ちゃん」だと言える。

 次に智乃ちゃんの「エンヴィ」である。これは「嫉妬」を意味する言葉であり、作中ではあらゆるものを誰にも邪魔させない様に寵愛しようとする悪魔として描かれている。これだけだと少々分かりにくいが、要するに「自分が大切にしたいと思っている人や動物が他の悪魔と関わっているのを見るのが妬ましい」と言う訳であり、この事を鑑みるなら智乃ちゃんの行動は完全に「嫉妬の悪魔」なのだが、本人は嫉妬ではないと言い張っている。それ故に本編の智乃ちゃんとは大きくギャップがある様に見えるが、本編においても智乃ちゃんは(本人に自覚はあまり無いが)度々嫉妬を思わせる様なモヤモヤを抱える事があったり、精神的に大きく成長してもどことなく嫉妬を思わせる様な思想は存在していたりする為、悪魔智乃ちゃんはそんな現実の智乃ちゃんが持つ心の内に秘めているものを拡幅した存在だと言える。また、嫉妬以外にも寂しがりの一面も漂わせており、それを思うと彼女にとっては寂しさを紛らせているだけの事が、周りから見ると「嫉妬」となっているのかも知れない……。

 由来は現実の智乃ちゃんが持つ「密かながらも割としっかりしたやきもち焼きな面と、目掛けられない事に対する寂しさを覚えやすい面」だと思われ、彼女自身が本当はやきもち焼きな寂しがり屋且つ甘えん坊である事が窺える様になっている。そう思うと、悪魔でありながらいたたまれなくなる一面が強く現れている。

 3人目は理世ちゃんの罪の名である「グラトニー」である。これは「暴食」を意味する言葉であり、それ故に見境なく何でも美味しそうに見えてしまう程食べる事に飢えている一面があり、当然ながらかなりの大食い。ただ、容姿端麗且つストイックな一面がある理世ちゃんからは凡そ想像がつきにくい罪の名ではある為、何だか変な感じにも思えるが、実の所理世ちゃんは食べる事が好きだと思わせる一面がしばしば見受けられており、例えば初期だとティッピーのカフェ・ド・マンシー*5で指摘されており、今月号に至っては「買い食いが多く、つまみ食いもする事」を本人の口から暴露している。もっと言うなら、理世ちゃんは嘗て虫歯になった事があるのだが、それも「甘い物の食べ過ぎ」と思えばある意味納得がいく。そう思うと、悪魔である筈なのに、限りなく愛おしく思えてきてしまう。しかしながら、幾ら「可愛い」を前面的なコンセプトにしているごちうさとは言え、見境なく何でも食らおうとする悪魔はやはり恐ろしくもある為、何とも言い難い心境ではある。

 由来は「食べる事に対する際限なき欲望」だと思われ、普段のサバサバした理世ちゃんとも違い、ロゼという異名もとるお淑やかで乙女な理世ちゃんとも違う、第三の理世ちゃんと言える一面が良く現れているが、ここまで異なった一面を持つ人と言うのも珍しいと思う。

 4人目は紗路ちゃんの罪の名「ラース」である。ラースと言うのは「憤怒」を意味する言葉で、端的に言えば「ただならぬ怒り」である。その名の通り、悪魔紗路ちゃんは事あるごとに怒りを露わにする存在であるが、本人はカッとなる自覚こそあるものの、あくまで温厚だと自負している。何れにしても、普段の紗路ちゃんとは少しかけ離れている様にも思えるが、元々紗路ちゃんは感情の起伏や表現が7人の中でも特に激しく、事あるごとに声を荒げてしまう事もしばしばある為、ラースはそんな紗路ちゃんの怒りっぽい一面がブラッシュアップされた存在とも言えるが、根は悪魔想いである点は現実の紗路ちゃんと共通している。また、紗路ちゃん「ラース」の名を冠する理由として、7人の中でも特にツンデレ気質が強い事も要因にあると思われ、ある意味7人の中でも分かり易い属性持ちの悪魔でもあるからだろう。

 由来は紗路ちゃんが持つ「強いツンデレ気質故の怒りっぽい面」だと思われ、ある意味彼女の素直になれない一面がそのまま悪魔化したらどうなるのかを体現した存在とも言える。これを思えば、今月号の後半にあった様な、現実における紗路ちゃんが青山さんに対して怒るのも無理はないと思う……。正に「憤怒」の紗路ちゃんである。

 5人目は千夜ちゃんの罪の名である「プライド」を説明する。プライドは、ここでは「傲慢」の意味があてがわれており、そこには本編の誰よりも優しく献身的な千夜ちゃんはなく、そこにいるのは最早唯我独尊と言うほかない程の性質を持つ、悪魔の女王様千夜ちゃんである。それ故にナナラビにおいても優しさそのものは漂わせているが、言動が支配者のそれであり、正に女王様に相応しい独尊さを持っている。その為、元々が献身的かつ他人想いの千夜ちゃんだけあって、悪魔の意外性が7人の中でも特に際立っているが、女王様千夜ちゃんも中々様になっているので、ある意味それも千夜ちゃんらしさと言えるのかも知れない。

 由来は「甘兎庵拡大に向けたしたたかな野望」にあると思われ、これは現実の千夜ちゃんが甘兎庵を世界進出を見据えるまでに大きくしたいと言う大いなる野望があり、その為ならあの手この手で甘兎庵を宣伝しようとするしたたかさを持つが故なのだが、ある意味「途方もない事をしたたかにやってのけようとする面」が、彼女が傲慢と呼ばれる所以なのには違いないのだろう。

 6人目は「スロウス」の罪の名を持つ麻耶ちゃんである。スロウスは「怠惰」を意味する言葉であり、それ故に悪魔の麻耶ちゃんは何時も怠けていて、一日の大半を何か適当な理由をつけては寝てばかり過ごしている。元々小悪魔的な魅力をも併せ持っている麻耶ちゃんだけに「怠惰」も似合っているが、本編の麻耶ちゃんは確かにめんどくさがり屋な一面こそあるものの、一方で努力家で思慮深い一面もあり、何より好奇心旺盛な活動家である為、スロウスの様な何時も怠けている麻耶ちゃんとは全くの対照的とも言える。ただ、どちらのセカイでも恵ちゃんと一緒に居る事が多いのは共通している。

 由来が少し分かりにくいのだが、恐らく「麻耶ちゃん自身が持つ怠惰な気持ち」が大いにあると考えている。つまり彼女の心にある「怠け心」を引き出した存在がスロウスだと言う、何ともひねりのない直球の考えだが、これはごちうさ目線で罪の名を無理矢理考察しようとする弊害であり、意地っ張りな所がある私に対する試練でもあると思う。ただ、少々大げさだとも思うが。

 7人目は「ラスト」と言う罪の名を持つ恵ちゃんである。ラストは最後や過去を意味する「LAST」ではなく、切望や色欲(しきよく)を意味する「LUST」であり、罪の名も「色欲」を冠している。その為、本人にはよく理解していないが、その美貌故にあらゆる人を焚き付けて虜にしてしまう特性があり、最終的には国すらも滅ぼしてしまう事すらあるとかないとか……。本人が理解していない為に何とも言い難いが、その恐るべき潜在能力の高さを見るに、ある意味7人の中では誰よりも恐ろしく、誰よりも美しい悪魔なのかも知れない……。

 由来は「彼女も気付いていない無意識の美貌と潜在能力」にあると思われる。本編において恵ちゃんは他に人に比べて突出した個性がさほどない事を気にする面がしばしば見受けられるが、その実本人に自覚があまりないとは言え、何事もマイペースながらもそつなくこなせる高いポテンシャルと、7人の中でも一線を画す様な美貌を兼ね備えている事を窺わせる場面が度々存在しており、その潜在能力の高さは冬優ちゃんとナツメエルを加えた10人の中でもなお突出していると考えている。その為、恵ちゃんは才覚にも個性も十分あると言える。こう思うと悪魔の恵ちゃんは、ある意味彼女の無意識を表しているのかも知れない。

 最後は7人の罪うさぎとは別枠だが、この「ナナラビ」の作者である青山さんについても説明したい。青山さんは作中においては第三者視点の立ち位置におり、この「ナナラビ」の世界観を導く存在として描かれている。冠している罪の名は「虚偽」であり、小説家として「フィクション」を創り上げる存在と言う立ち位置を見せているが、その一方で「虚偽」らしく嘘か本当か良く分からない事を言って幻惑させたり、小説の世界に迷い込んだ者を現実の世界に引き戻す役割も担ったりもしており、その素性を完全に掴み取る事は最早不可能に近い。ミステリアスな青山さんらしいと言えばらしいのだが。

 由来は現実の青山さんの職業たる「小説家と言う名のセカイの生みの親であり、同時に小説内のセカイを司る者」と言う部分から来ていると思われる。ミステリアスな魅力をも持つ青山さんだけにあって多少怖くも思えてくるが、これも「青山さんらしい」と思えばなぜか納得がいく。尤も、そういう思想が何よりも恐ろしいのだが.……。

 以上が私が「ナナラビ」の「罪の名」に対して考えている事である。「罪の名」以前に悪魔を母体としているので、例え「罪の名」が無かったとしても多少なりとも恐怖はあったと思われる「ナナラビ」だが、実際の所はさほど恐怖心が芽生える事も無く、寧ろ「ナナラビ」の世界観にのめり込んでいく自分が怖かった位である。私ももう悪魔的な魅力すら上手く昇華させる、ごちうさエイプリルフール企画の虜なのだろう……。

冬優ちゃんの深層心理

 ここからは一気に視点を変え、冬優ちゃんがこの「ナナラビ」の世界観を知りゆく過程を読み進めていく中で、私が気になった事を中心に書き出したいと思う。

 冬優ちゃんは今月号の前半で「ナナラビ」の世界観の夢を見て、そして目が覚めるのだが、その目が覚めた後に夢の内容を振り返る中で「自分の中の深層心理であの7人を小説内における『罪の名を冠する悪魔』に置き換えてしまった」というくだりがやたら気になった。これが意味する所は「小説の内容と冬優ちゃんの深層心理が彼女の夢の中でリンクした」と言う事であるが、何故そのような事が起きたのかを自分なりにでも解明しようとした所、最早頭がパンクしかねない程に訳が分からなくなってしまった。なので「何故冬優ちゃんは夢の中でナナラビの世界観と木組みの街の住人7人がリンクしたのか」については最早私も良く分からないが、それでも後述する様な「冬優ちゃんは彼女の深層心理における智乃ちゃんのイメージをそのまま具現化した存在が悪魔として夢に現れた事を踏まえ、彼女は改めて何を思ったのか」については説明できる為、今回はそちらの観点から書き出していきたいと思う。

 冬優ちゃんが深層心理で捉えていた木組みの街の住人7人のイメージは、言うならば「ナナラビ」の世界観にいた罪うさぎの「罪の名」と全く同じものであり、それを裏付ける描写も存在している。具体的に言えば心愛ちゃんが「強欲」、智乃ちゃんが「嫉妬」と言った次第であり、これに則った形で言い換えると、作中に出てくる「罪の名」は「冬優ちゃんの深層心理で捉えていた7人のイメージ」を表している事になる。何と言うのか、出逢ってからまだ半年弱と思われる人達を相手に中々踏み込んだ事を深層心理ながら思い浮かべるとは、冬優ちゃんは人を見る目が人並み以上にあるのかも知れない。ただ、冬優ちゃん本人も深層心理で思っていた事が夢に出てきた事に対して申し訳なく思ったのか、自分の心の中で謝っている。尤も、夢の中に出てきた事自体は何も悪い事では無いと思うのだが……。

 そんな冬優ちゃんの深層心理内における木組みの街の住人7人だが、その中でも私が特に気になったのは、最早言わずもがなではあるが「エンヴィ(嫉妬)」の罪の名を持つ智乃ちゃんその人である。「ナナラビ」における智乃ちゃんは「嫉妬の悪魔」だが、冬優ちゃんの夢の中では「嫉妬」と言うより「羨望」という言葉が似合う程に根底に寂しさを隠し切れていない様子が見え隠れしており、冬優ちゃん自身も夢の中の智乃ちゃんがどこか寂しそうだった様子だと勘付いている。尚、智乃ちゃんがその様な寂しげな雰囲気を醸し出していたのは「心愛ちゃんが将来木組みの街を離れる事を決断した事を知ったから」なのだが、冬優ちゃんはこの時点ではまだその事実を知らなかった為、彼女はその後に青山さんに出逢い、ラビットハウスに行くまで謎を抱える事になるが、私としてはそんな冬優ちゃんの鋭い洞察力に改めて驚かされるばかりである。

 では、智乃ちゃんが夢の中で寂しそうにしているのを見て、冬優ちゃんが智乃ちゃんに対して色々な想いが改めて駆けめぐったに違いないと思われる中で、具体的にはどんな事を思ったのか。それについては、私が思うに今月号にも描写されていた様な「智乃ちゃんの心の支えになってあげたい」と言うのが特に大きいと思うのだが、もう一つ私が大きく思っている事として「私を笑顔にしてくれた智乃ちゃんにも、不安を抱えている一面がある事が分かった」と言う、純粋に智乃ちゃんの内面を一つ知ったと言う事が挙げられ、そう思う理由として「冬優ちゃんは旅行編以前の智乃ちゃんをその目で見ている訳では無い為、昔の智乃ちゃんをよく知らない可能性が考えられる為」と言うのがある。但し、冬優ちゃんと一緒に居る時の智乃ちゃんが自分の内面性をどこまで明らかにしているか分からない(逆も然り)為、決定的な確証には欠けるのだが、冬優ちゃんにしても「どことなく元気がない上にスランプ気味の智乃ちゃんを心配する様子」は見受けられていた為、チノフユの間にあると思われる様々な諸事情を抜きにしても、冬優ちゃんが「自分を笑顔にしてくれた人にも、自分とは少し違う事で悩みがあると感じ取った」のは恐らく間違いないと考えている。

 ここまで冬優ちゃんの深層心理を見て私が考えた事を書き出したが、私としては上記の様な「地に足が着きそうなのにどこか着け切れない」形でしか考えがまとめられない事に対して、正直自分自身の力不足を悔いる想いもある。ただ、抑々冬優ちゃんはごちうさ旅行編(原作8巻)から登場したキャラである為にまだまだ分からない事も多く、煮詰まりそうで煮詰まれない場面に遭遇するのはある意味当然とも言える。だが、私としてはそれでも出来る限り煮詰めたいと考える傾向があり、ごちうさに対してはそれがより強めに出ている。幾ら冬優ちゃんが旅行編からの新キャラだと言っても、私としては木組みの街の住人7人にも匹敵する位の想いを持ちたいのである。

「ナナラビ」について思う事

 この「幻想の屋敷と罪うさぎ」という項目の最後に2021年エイプリルフール企画初出であり、今月号前半を飾る「ナナラビ」こと「Seven Rabbit Sins」について直接的にどう思ったかを少しだけでも書き出したい。また、他の年のエイプリルフール企画についても少し書き出すとする。

 抑々2021年のエイプリルフールに「ナナラビ」が舞い降りた時、私は純粋に喜ばしかった記憶がある。私がリアルタイムでごちうさエイプリルフール企画を知り始めたのは2019年の「クロラビ」と割と最近からなのだが、以降2020年にあった「今までのエイプリルフール企画総振り返り」からの「リプラビ」、2021年の「ナナラビ」と続けて追い続けている中で、この「ナナラビ」は初見時から特に好きだったエイプリルフール企画であり、ごちうさエイプリルフール企画全体の中でもクロラビと並んで最も好きなレベルである。

 何故クロラビとナナラビが並んで最も好きなのかと言えば、私自身「近未来的なハイテクノロジーの世界観と、悪魔的な雰囲気を帯びた世界観その両方が同じ位に好きだから」である。私は昔からテクノロジー好き且つゲーム好きで、最近は悪魔的な雰囲気を帯びたキャラひいては世界観にも惹かれている傾向がある*6為、それぞれマッチングした2つの世界観を好きになる以外の選択肢はなく、それがごちうさと言うなら尚更だった。ただ、実は私自身「ナナラビ」に関しては、最初に見た時7人に「悪魔を彷彿とさせる角としっぽの存在がある事」に気付かなかったと言う中々に恥ずかしい過去があり、今でもそれは少々恥ずかしいのだが、今となってはナナラビは正に悪魔或いは罪の力で蝕む様に、私の心を魅了させ続けている。

 また、私が言う「ナナラビ」の悪魔的魅力についてだが、実の所ナナラビは「罪うさぎ」と言うコンセプトの印象が私にとっては強かった為、私は当初ナナラビを「罪の名を冠した者達の物語」と捉え、悪魔的なコンセプトとは少し異なるものだと認識していた。これには前述の通り、私が抑々悪魔のコンセプトがある事を見落としていた為であり、本編を見る限りは悪魔と呼んで差し支えなかった訳だが、その様な事情を抜きにしても、罪うさぎ達が関する「罪の名」に対しては、初めてこの「ナナラビ」を知った時から私の心を掴んで離さなかった。恐らく他では中々お目にかかれない様な興味深い単語が並んでいたから*7だと思うのだが、初めて知った時から謎に心惹かれていたのである。その後、7人に「悪魔の角としっぽがある事」におそばせながらも気付いた事により一層心惹かれ、本編でも登場した事で更に心惹かれ、最早可愛く美しい悪魔によって心を蝕まれていると言っても差し支えない程に好きになる訳だが、ある意味悪魔的魅力を見出したきっかけは、私にとっては「罪の名」にあったのかも知れない。

 この様に「罪の名」と「悪魔」と言う2つのコンセプトによって、私は「ナナラビ」をエイプリルフール企画の中でも一二を争うレベルで好きになったのある。ここからは余談だが、実はナナラビもといエイプリルフール企画について、私が好きとしている要素は他にも存在しており、それは「7人のヘアスタイル(特に髪の長さ)が本編とは異なった形になっている事」である。例として「普段ロングヘアの智乃ちゃん、千夜ちゃんがショートヘアになったり、逆に普段ショートヘアの心愛ちゃん、紗路ちゃん、麻耶ちゃんがロングヘアになったり、普段と違う髪形を見せたりする理世ちゃん、恵ちゃん」と言った感じであり、普段とは一味違ったヘアスタイルを見る事ができるのが楽しみな上、皆の変化したヘアスタイルもとても似合っているし、何より普段とは違った可愛らしさが存分に発揮されている事が、私がエイプリルフール企画における髪形の変化を楽しみ且つ好きとしている理由である。

3.あとがき

 以上がきらま2021年12月号掲載のごちうさを読んだ私の感想・考察である。今回は衝撃的な展開の連続だった先月号の事もあって、実際に読んでみるまで不安もかなり大きかったのだが、いざ読み進めてみれば今後の展開を握る重要な描写を数多く記載しつつ、且つシリアスな風味を持たせつつもあくまで何時ものごちうさテイストに仕上がっていると言う良い意味で安心出来る内容だったのは記憶に新しい。また、今月号は大きく2部に分けられる物語の構成をしていたので、その意味でも大いに楽しめた記憶が鮮明にある。

 今月号は何と言っても2021年エイプリルフール企画の「Seven Rabbit Sins」が今回の物語の序盤を彩る要素として唐突に登場してきたのが印象的であり、しかも単に独立した構成に留めず、今月号の中盤にも深く関わる重要な局面としても機能させると言う意味でも中々に衝撃的であり、特に前半において夢と言う形で「Seven Rabbit Sins」の世界を体験した冬優ちゃんが、中盤以降「木組みの街の住人7人」の進路事情を知る中で自分にはどういった事ができるのかと、自分で模索して自分で行動に移していくのには、エイプリルフール企画を見事に感動局面に落とし込ませたと言う意味でも、冬優ちゃんの大きな成長が感じ取れると言う意味でも感涙深いものがある。

 また、今月号の扉絵は「Seven Rabbit Sins」における「エンヴィ(嫉妬)」の智乃ちゃんが描かれていたのだが、私はこの扉絵の智乃ちゃんにかつてない程の衝撃を受けた。理由はオッドアイにあり、左目が何時もの智乃ちゃんそのままに、まるでサファイアを彷彿とさせる透き通った蒼い色の瞳だったのに対して、右目がまるでルビーを彷彿とさせる色で大変に美しくありながら、彼女の奥底知れぬ嫉妬や怒りの感情が燃え上がっている様にも感じられるが故に、見る者を圧倒する瞳をしていたからである。その為、私自身智乃ちゃんのオッドアイに対して「簡単には忘れる事の出来ない様な美しさと恐ろしさを兼ね備えた、恐るべき2つの瞳の色」と認識しており、云わば凍てつく様な妖艶さに心惹かれたのである。

 そして先月号最大の衝撃たる「心愛ちゃんの進路選択の真相について」だが、それについても今月号で細かな理由がちゃんと明らかになったのはとても有難かった。また、その理由についてもひたむきな努力家でもある心愛ちゃんらしい理由であり、心愛ちゃん自身が持っているひたむきな熱意や姿勢を思えば、幾ら心寂しいとは言え、心愛ちゃんを引き止める事は最早誰にも出来ないと思う程であった。言い換えるならそれだけ「心愛ちゃんの熱意に心を打たれた」という事であり、彼女の決断を尊重したいと言う証拠でもある。

 最後に、きらま2021年12月号掲載のごちうさは本当に素晴らしい回であった事は書き出しておきたい。ごちうさに対しては今まで幾多の想いを抱いてきたものだが、今月号は特にその想いが強かった事と、今後新たな局面に向けて突き進む事に対して大きな想いも抱いたものであり、今後もその想いを持ち続けたいという事をもって、この感想・考察の締めとしたい。

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙51枚分であり、これは現時点で過去4番目である。先月号より更に文量が増えた事から、いかに今月号に対して強い想いがあるかを物語っている。

*1:例外として「うさぎになったバリスタ」は、主に智乃ちゃんの祖父と父をモデルとしている。

*2:但しこれには、理世ちゃん自身が「以前に心愛ちゃんの決断を聞いていた事」も大きいと思われる。その為、もしこれが全くの初見だったのなら思わず圧倒されていた可能性も否定はできない。

*3:理由は言わずもがな、気恥ずかしいのが大きいのだろう。

*4:尚、この罪の名は全て英語であるが、大元はラテン語である。

*5:コーヒーカップに入れたコーヒーの残り柄を使った占いであり、初期にこれをモチーフにしたエピソードがある。

*6:これには私が大好きなゲームである「大乱闘スマッシュブラザーズSPECAL(略称はスマブラSP)」の参戦キャラの影響が多分にある。

*7:罪の名でである「ラース」や「エンヴィ」等。