多趣味で生きる者の雑記帳

現在は主にごちうさに対する想いについて書いています。

きらま2024年8月号掲載のごちうさ感想・考察「繋がる輪とオンライン交流」

 本格的なごちうさ好きとなってより約6年。時期で言えば「2018年の夏頃」に当たるが、実はこのタイミングでもう一つ、現在の感性にも多大なる影響をもたらしている作品と巡り逢っていた事実がある事に、私自身も最近まで気付いていなかった。

 その作品は「ハッピーシュガーライフ」と言う、丁度「2018年の夏」にアニメが放送されていた作品である。この作品は一見すると「甘くて幸せな日常を嚙み締める物語」の様に見えるが、その実態は「常軌を逸した」と言う表現さえ生ぬるい程の、この世のものとは思えない狂った感情が全てを支配する「サイコホラー」であり、甘美な関係性ここでは「愛」の為なら、平気で人の心を騙したり欺いたりするのは序の口、他人を再起不能なレベルにまで傷付ける事もあれば、挙句の果てには命を奪取する事さえ厭わない「黒い意思」さえ頻繁に見え隠れする。更に、登場人物の殆どが「常軌を逸した感覚若しくは価値観の持ち主」であり、ストレートに言えば「退廃的な現実」がそこにある訳で、甘さに満ちた「愛に溢れる関係性」と対比する形で、冷酷且つ残忍な黒い意思が冷たく突き刺してくる。

 そんな作品の一部始終をアニメで観て、当然ながら圧倒的な恐怖に打ちのめされたし、特にさとうが取った冷酷非情な行動の数々は、最早サイコパスとしか思えない行動すらあったのも相まって、6年たった今でも「恐怖のトラウマ」として鮮明に覚えている程。でも、一番ショックだったのは「アニメの最終回」で、ここでは詳細は語らないが、あまりにも救いようがなく、とんでもなく悲愴的な結末だったので、当時の私は最早理解が追い付かず、ただただ「色んな想いが、自分の頭の中でぐるぐると駆け巡るのをひたすら受け止めるしか出来なかった」という有様だった。因みに泣きはしなかった。泣くと言うよりただひたすらにどうしようもない結末に打ちのめされて、只管に茫然としていた記憶がある。

 また、私は6年後即ち「今このタイミングで」ハピシュガの原作マンガを読み進める事になる*1のだが、その際にはハピシュガの事を「クライムサスペンス、ハードボイルド、サイコホラー、インモラル」の4つが頭を駆け巡るような作品と思ったし、人間ならば持っている筈の倫理観及び道徳観、そして良心が殆ど感じられない退廃的な感情が支配する有様には、この作品を読んでいる時だけは最早「まともな感覚は捨てるべき」とまで思わしめた。常軌を逸した価値観が当たり前の様に飛び交う様に、最早「『まともとは何か』が分からなくなる恐怖」に襲われるのではないかと感じさえした程だった。

 だが、冷静に考えてみると、今の自分が「ハードボイルド」や「クライムサスペンス」そして「インモラル」と言う様な尖ったジャンルを好む様になったのは、恐らく6年前に観た「ハピシュガ」の影響が、多かれ少なかれ存在していたからではないのかとも思う。勿論、直接のきっかけは「ジョジョの奇妙な冒険シリーズ」であり、コミック百合姫掲載作品(特に「きたかわ」や「ぜんこわ」)にあるのだが、それ以前にもこういった「ハードな世界観」を知る機会があったからこそ、本格的にハードな世界観に足を踏み入れるとなった時も、ある程度すんなりと踏み込んでいけたのではないかと見ている。尤も、ハピシュガをちゃんと見てみたら「ジョジョ」や「きたかわ」それに「ぜんこわ」でさえ、嘘抜きで可愛く見える程の「激ヤバ地獄展開」が広がっていた訳だが......。

 尚、ハッピーシュガーライフは甘い所は本当に甘々な雰囲気が展開されるが、黒い部分が露呈する場面では割とガチな方で「激ヤバな世界観」が展開される作品なので、油断すると嘘抜きでエライ目に遭うので注意。ガチでコミック百合姫掲載作品でも比較にならない程の激ヤバ展開もザラで、抑々単行本1巻の表紙からし「目にハイライトがなく、目的の為なら躊躇なく人の尊厳すら蹂躙する冷血な意思を覗かせるさとう」と言う、読む前からして「恐怖に支配される要素」がある程。まぁ、その冷血な意思は「サイコホラーの導入として100点」と言う考え方もあるが、それにしたってあの目はヤバすぎる。

 ただ、その一方で「甘い感情や雰囲気が包み込む場面」では、そこだけを見るとこの作品が「影では冷酷な行動さえ辞さない黒い意思が蠢く」なんて言ってもにわかには信じられない程の「甘さ」に満ち溢れている。他にも客観的に見れば歪んでいるとは言っても、所謂「真実の愛」に対して真摯に向き合おうとする姿勢や、極めて独善的である為に肯定するには些か危険が伴うが、この「甘いものに満ちた『愛』と言う感情」を知る為に、どんな犠牲を払ってでも手にしようとする「人間らしさ」が多く出ている*2等々、いわば「好きな人にはとことん刺さる要素」が多い作品でもあるので、繰り返す様にベースが「サイコホラー」な世界観なので、苦手な人は本当に注意が必要だが、読んで決して損はしない作品だと思う。

 最後に一つ、読む際にはくれぐれも「自己責任」で。感じ方は人それぞれとは言っても、少なくとも「見る者の心を激しく揺さぶってくる作品」には違いないので、体調が良くない時に読むのは些かリスクが高すぎる。なので、読む時には万全の態勢で読む事を強く推奨する。嘘抜きでナメてかかって無事でいられる程、ハッピーシュガーライフは甘くない。それこそ「きたかわ」や「ぜんこわ」でさえまだマシだったと思う程なので......。

 

 さて、ここからはまんがタイムきららMAX2024年8月号掲載のごちうさを読んだ感想・考察を書き出したい。もう隠すつもりも無いのだが、最近の私は「クライムサスペンス」ジョジョPart9「The JOJOLands」、ハピシュガ、奈落の花園等々)に「インモラル」(映しちゃダメな顔、きたかわ、ぜんこわ、ハピシュガ等々)それに「サイコホラー」(ハピシュガ)に「ハードボイルド」ジョジョParte5「黄金の風」~Part9、きみ死ぬ、きみつづ、ハピシュガ等々)と、何れもごちうさの世界観」とは大きくかけ離れた世界観を嗜む機会が圧倒的に多く、故にごちうさを読む際にも「(普通の)サスペンス展開とか出てきたら面白いのになぁ......」とか思う事もある。そんな事を思っても仕方ないのは解っているのに。

 ハードボイルド展開やサスペンス展開にうつつを抜かしているからと言う訳では無いのだが、今月のごちうさを読んでいる際、私の中ではやたらと「取っ掛かりを掴むのに苦戦する場面」が多くあり、それをして「今月は細かく読もうとすると難解だ.....」と思う事もあった。まぁ、シンプルに「理世ちゃんと夏明ちゃんとのやり取りから始まるゲームの輪」に着目すれば、難解でもなんでもないのだが、それ故に「平易で解りやすい領域から一歩を踏み出したくなる」となり易く、その一歩を踏み出した途端に図式がややこしくなるので、結果的に「難しいじゃん」となってしまう訳で。言ってしまえば「自分で制御できる範囲を超えて自分を追い込んでしまう」と言う情けない構図。こうなるなら、単純に「理世ちゃんと神沙姉妹2人」に着眼してそこで留めておけばと後悔しなくもないが、気付いてからでは遅いのだ......。

 

※注意※

最新話及び単行本12巻以降のネタバレを含むものなので、その辺りをご了解お願い致します。また、ここで書き出した推察や考察は個人的な見解です。

1.はじめに

 最早御恒例となった「表題」付け。毎回思うのだが、表題や題名付け程シンプルに見えてこれ程難しい事も無いだろうし、実際毎回の様に苦戦している。普段は表立って言う事も無いのだが、本当に「センス溢れる題名」を付けられる人は凄いと思うし、たった数単語で作品の根幹やテーマ性を示せてしまうその「表現力の凄み」には震撼させられる。そういう事もあって、私は「作品の内容を説明する様な」長いタイトルも嫌いではないが、それよりも「作品全体の雰囲気や根幹をバシッと言い当てる」短いタイトルの方が好き。とは言え、短いタイトルで表現する難しさもちょっとは解っていると思うので、どんな形のタイトルも「まずは受け容れる」のを大事にしている。

 今回の扉絵は、スポーティーな雰囲気ながらもかなり奇抜なファッションに身を包んだ理世ちゃんと夏明ちゃんが、イケイケな雰囲気全開にしてポージングをとっていると言うもので、私からすれば良くも悪くも「今回はそう来たのね」位にしか思わないのだが、刺さる人は刺さると思う。最近何かと扉絵に対して淡白な事も多いが、本当に「当たり障りのない事しか思い浮かばない」というか、私の好き好みが単純に尖り過ぎているのがいけない節がある。

 今回も「真面目に捉えようとすると扱いが難しくなる」と言い表せば良いのか、正直な所「本質が解らない」と言う事態にまでなりかける始末で、もうどの様に受け止めれば良いのか分からなくなりそうだった。今思えば、夏明ちゃんが「映月ちゃんの真似事」をしていた事と、終盤になって明かされる「夏明ちゃんは映月ちゃんを、映月ちゃんは夏明ちゃんを、それぞれ『自分より凄い』と思い込んで、自分自身に対して劣等感に抱いていた」という点に着目して、所謂「隣の芝生は青く見える」と言う考え方や「憧れの存在のマネをする事で、自分の劣等感を少しでも払拭しようとする」と言う捉え方もあったのだが、初めて読んでいる最中は前者の考えこそちょっとはあったものの、後者に関してはさっぱりだった。正に「苦難苦闘」だが、最終的に辛くも軸には乗せれたので、良かったと言った所である。

 

2.購読した感想・考察

今月はやたらと捉え方に苦労しており、一体どの様にすれば良いのかとなったものだが、それでも「オンラインゲーム交流」「トレンドを追う姿勢」「他者羨望と劣等感との向き合い方」と言った形で、今月の内容を捉える糸口は掴めているので、何とか書き出せるのではないかと考えている。

 

オンラインゲーム交流

 昨今のゲームと言えばやはり「オンライン環境」は欠かせない。ごちうさでも「ゲーム」があるのはこれまでも確認できたが、今回の様な「オンラインゲーム」は今までにない図式であり、しかも昨今における息の長い「トレンド」とも言えるオンラインゲームに、トレンドに乗り切れていないと言う自覚を持つ理世ちゃんが乗り込みに行く構図は、考えてみれば結構絶妙でもある。

 このオンラインゲーム交流で面白いのは、オンラインゲーム上でも「何時ものコミュニティが知らず知らずの内に出来上がっている事」であり、性質上オンラインゲーム上では秘匿ネームつまり相手の正体は分からないにもかかわらず、結果的にオンラインゲーム上でも何時ものコミュニティが成立しているのは凄い。とは言え、作中では秘匿でありながら「知っている人は正体がすぐ解る人」が約1名いたり、普段は何かといがみ合う事も多い仲柄の2人が、オンラインゲーム上ではすんなりとフレンドになっていたりと、オンラインゲーム上ならではの要素にも事欠いておらず、既存要素と新規要素を絶妙に掛け合わせるのが本当に上手いと思う限りでもある。

 ここでの主軸はやはり「理世ちゃんと夏明ちゃん」にあり、基本的に夏明ちゃんが理世ちゃんに対してゲームのやり方を教えると言う構図になっている。これは、嘗て理世ちゃんが夏明ちゃんに対して懇願した「ピアノ特訓回」を思わせるものであり、この時夏明ちゃんは「鬼教官」と渾名す理世ちゃんをもってして、逆に「ナツメは鬼教官」と言わしめた程の熱血且つスパルタ指導ぶりを見せていたが、今回は前回の反省を活かして幾分マイルドになっている(熱くなった際は別)。尤も、冬優ちゃんからは何か勘違いされている様だが......。

 夏明ちゃんも理世ちゃんも、オンラインゲームそのものは素直に楽しんでおり、ゲームをめぐっては特段変わった事はない。寧ろ重要なのは「ゲームを通じて見える『なりきり』に対する考え方」であり、ここに至るまでゲームを通じて「なりきりをするなら『自分も他人も楽しい形』で」と言う構図を見せておいて、最後に理世ちゃんが直接的な言葉でトドメを刺す。この艶やかな構図によって、夏明ちゃんに対して「なりきりに対する考え方」をポジティブな方向性にしてみせた理世ちゃんは、やっぱりとんでもない人だと思う。

トレンドを追う姿勢

 世の中における流行の最先端はどうなっているのかを追い求める姿勢。それがトレンドを追う事だと思っている。とは言えトレンドを追い続けるなんて、私にとっては驚くほど興味が湧かない事だし、トレンドが何であろうと、それが「自分にとって興味を惹くものでもないなら全く関係ない」とまで思う事もしばしば。こんなんでも「好奇心旺盛」なのだから不思議と言うもの。

 私自身がこんな有様なので、将来的に子供達と接する職業を志望するものとして、自分よりも下の世代の人達のトレンドは何かを積極的に知ろうとする姿勢を持っていた理世ちゃんには感服するしかなかった。しかも理世ちゃん自身も決してトレンドに詳しい訳では無く、寧ろ自分で「トレンドに疎い」と評しているのに。本当はこういう姿勢が大事だとは解っているのだが、正直言って「無理をしてまでトレンドにがっつく事」に対して価値が見出せない私にとっては、全くもって行動に移そうとは思えないので、その意味でも理世ちゃんには敵わない。

 また、今回に限った事では無いのだが、理世ちゃんは自分が至らない点をどうにかしようとする際、年下であっても教えを請う事が出来る一面があり、それこそ「ピアノ特訓回」及び「今回のオンラインゲーム」における夏明ちゃんが特に印象的な例。個人的にはこれも凄い事だと思っていて、いくら気の知れた友達関係とは言っても「年上」と言う事実は、助けを求めようとする時に心のどこかで「年上としてのプライド」として重くのしかかり、結果的に助けを求めたくても求められないとなってしまう事も少なくない中で、理世ちゃんはちゃんと助けを求められるし、尚且つ年下に対してそういった自分の「弱み」を見せる事にも躊躇いが無い。最早「トレンド」に関係ない話になってきているが、理世ちゃんのトレンドを追う姿勢から、理世ちゃんが後輩や年下に対してどう考えているのか。将来的に多く接する事になる「下の世代の子達」に対して自分はどうあるべきか。それらが読み解ける事が重要な側面もあるので、トレンドを追う姿勢に関係無いからと言って、決して軽く見てはいけないと考えている。

他者羨望と劣等感との向き合い方

 程度の差はあっても、人間なら誰しも「他者に対する憧れや嫉妬」及び劣等感即ち「コンプレックス」は抱えているもの。それは夏明ちゃんと映月ちゃんの2人も決して例外では無く、冒頭からして夏明ちゃんは映月ちゃんの真似事をしているし、終盤ではその逆だってある。これに関しては「隣の芝生は青く見える」というのが正直な感想だが、それ以上に「人間は自分が持っていないものを凄いと思う生き物」だと改めて思う事にも繋がっている。何と言うか、憧れや嫉妬と言うのは、向いている方向性こそ正反対とは言え、元をただせばどちらも「自分には無いものに対して特別な感情を抱く事」なので、そういう感情を抱くって事は、その様な感情を抱く対象に対して何かしらの感情が乗っていると言う訳で、それで「自分が持っていないものを持っている人に対して特別な感情を抱くのが人間のサガ」とか思うのである。

 問題は「その様な感情が良い方向に向かうのか、或いは悪い方向に向かうのか」と言う事であり、良い方に向かえば「その人を大きく成長させる起爆剤」になり得る一方、悪い方に向かえば「あらゆる破滅を招く禍」にもなり得る。夏明ちゃんと映月ちゃんの場合は、破滅を招く程の禍の種にはなり得ないとは言い切れるものの、だからと言ってそれが「人を大きく成長させる要素」かと言えばそれも疑問符が付くと言った所であり、とりわけ「2人共が抱えるそれぞれのコンプレックス」の存在が、その疑念をより大きくさせる。尤も、コンプレックスに関して鮮明に解ったのは夏明ちゃんのみであり、映月ちゃんの方は断片的に窺うしかできないのだが、コンプレックスを持っているのはほぼ間違いない。

 ここでいうコンプレックスとは何なのか。それは「自分は姉(妹)よりも劣っている」と言うもので、所謂「比較による劣等感」と言った所。本来、姉の映月ちゃんにしても妹の夏明ちゃんにしても、昔はいざ知らず今となっては「個々においても十分光り輝くものを持つ人間」となっており、自分の姉や妹と比較して、自分には無いものを見て必要以上に落ち込む必要性もないのだが、この2人は「双子」故に一緒にいる時間が必然的に長く、また双子であるが故に「双子間で比較される事も多かった」だろうから、何時しか「最も近しい存在こそ自分にとっての憧れであり、同時に自分には出来ないものを持つ存在」にもなっていったのだろう。無論、真相は2人のみぞ知る所とは言っても、気になる所なのである程度は深掘りさせてもらった。

 でも、1つ救いだったのは最終的に映月ちゃんも夏明ちゃんも、それぞれが抱える「他者羨望」や「劣等感」に対して、2人共に自分なりに向き合い方を見つけた事で、終盤の展開を見れば一目瞭然であろう。怖い事を書くが、ごちうさ以外にも沢山のマンガやアニメを観てきた中で、他者羨望や劣等感に対して最後まで真っ当な形で向き合う事が出来ず、そのまま「取り返しのつかない身の破滅」を招いたり、己の弱さをひた隠しにする様に世の中や周りに怒りを向け続けた挙句、最早「人間として失ってはならないものさえ失った、憎悪に取り込まれた醜い存在」(しかも最後まで救いがない事もザラ)へと変貌したりするケースも嫌と言う程見て来たので、1つのきっかけを元手に良い方向へと進む道を切り拓いた映月ちゃんと夏明ちゃんの2人には安心感すら覚えるし、こういう「誰かが負の感情に駆られても絶対マイナスなまま終わらない」と言うのは、ごちうさを読む上で絶対的な信頼を寄せられるポイントでもある。

 

3.あとがき

 今回もまた随分特殊な構成と言うか、様々なマンガやアニメを観た上で培った価値観や概念を存分に織り交ぜた構成となったが、そりゃ毎月の様に月刊マンガ雑誌6冊分を読み、その上で単行本のマンガや電子版連載のマンガも読んで、アニメも多少なりとも嗜んでいれば、必然的に「そうなって当然」とも言う。マンガ雑誌に関しては、1雑誌を除いて5雑誌共に「11~17作品分」(概ね13~16作品辺りが多い)を読むのが毎月の当たり前で、しかもどの雑誌にも「私がこよなく愛する作品が多数ある」と言う状況なので、逆に「影響を受けない方がおかしい」とさえ言える。

 ただ、その割には先月よりも「コミック百合姫掲載作品の影響」が幾分弱まっており、代わりにハピシュガの影響がもの凄く強く表れている。理由は単純明快、きらま及びコミック百合姫を読む直前に「ハピシュガ」を読んで情緒が半ば崩壊させられていたからである。後、先月よりもコミック百合姫を読んだ際に受けたダメージが少なかったのもあるにはあるが、やはり「ハピシュガ」の影響があまりにも強過ぎて、結果的に霞んでしまった節が強い。とんでもない状況だが、相手は「クライムサスペンス、ハードボイルド、サイコホラー、インモラル」と言う4つの概念を持つマンガなので、もうどうしようもなかった。

 冒頭でも書いたが、私が本格的にごちうさと巡り逢う事になる「2018年」に、アニメにおいて「ハピシュガ」と巡り逢ったのは、今思えば正に「運命」なんだと思っている。あまりにも出来すぎた話なので自分でも半ば信じられない部分もあるが、かたや「日常系を代表する光り輝いた作品」と出逢った一方、その裏で「この世のものとは思えない歪み切った感情が、観る者の心に暗い影を落とす作品」と近い時期に出逢った事実は本当なのだ。おかげで数年後になって「『人間』が持つ美しい面、強い面、弱い面、邪悪な面」と言う形で、人間が持つ光の部分も影たる部分も両方捉えようとする姿勢が強く表れる様になり、今ではそれで情緒が破壊されたり、とんでもない目に遭う事も少なくなくなったのだが、それはまた別の話。

 こういった状況なので、マンガひいてはマンガ雑誌を読む理由やモチュベーションも、昔と比べてかなり変遷してきており、正直今となってはごちうさが掲載されているきらまも「ごちうさを読む為にマンガ雑誌を買っている」と言うよりは「まだ見ぬマンガや自分がこよなく愛するマンガを読む為にマンガ雑誌を買っている」と言う方が正しいし、ごちうさ以外を読む為に買っている他の5雑誌なら尚更。それ故、ごちうさに対するモチュベーションも、今や「雑誌で最新話を追い、単行本を読めればそれで十分」と言う所に落ち着いており、嘗ての様な情熱はもうこれっぽっちも残っていない。でも、控えめに言っても雑誌にてもう4年近く最新話を欠かさず追い続けている作品でもあり、今のマンガ好きとしての礎を築き上げた作品でもあるので、今後どんなにモチュベーションが無くなっていこうとも、私がまんがタイムきららMAXを読み続けている限りは、物語の行き着く所まで追いかけ続けようと決めている。

 

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙のべ23枚分である。最近は概ねこの位の文量で纏める事が多く、嘗てとは大きく変遷した状態が半ばデフォルトになっている。その為、昔を懐かしむ感覚もなくはないが、誰にも「時計の針は戻せない」のだ。ならば、嘗ての事ばかり見ていたってしょうがない。歩き続けるっていうのはそういう事。もう「二度と戻る事の出来ない日々」を歩むと言うのは......。

*1:尚、これが冒頭でこのテーマを書き出そうと思った直接の理由でもある。

*2:これをして、ジョジョPart6「ストーンオーシャン」のラスボス「エンリコ・プッチ」及び、Part7「スティール・ボール・ラン」における最大の敵「ファニー・ヴァレンタイン」を思い浮かべる事もある。理由は言わずもがな「悪の矜持」と言う意味で重なるものがあるから。