多趣味で生きる者の雑記帳

現在は主にごちうさに対する想いについて書いています。

「壮大な異種族交流」と「甘さに潜むハードボイルド」【スタプリ、キラアラ感想文】

 一つの作品を見るきっかけなんぞ、それ自体は何気ない事なんだと思う。時と場合によっていくつもの可能性があった中での、本当に偶然掴み取った1つの結果に過ぎないと思うし、巡り逢えなかった可能性も平気である様な世界でもあると考えている。

 だが、その「何気ない巡り合わせ」が、その後の人生観をも左右しかねない出逢いとなる事もあり得るのがこの世界でもある。私の場合ならば、テレビで何気なく見た宣伝から、あのウィンナ・オペレッタの最高傑作「こうもり」の制作者が、ワルツ王でありオペレッタ王の「ヨハン・シュトラウス2世」(1825-1899)である事を知り、そこから現在に至るまでのクラシック音楽好きを確立させるまでに至った経緯や、己の人生矜持にも多大なる影響を与え、今の私が持つマンガの趣向にも影響を与えている「ジョジョの奇妙な冒険シリーズ」や、倒錯した破滅的な感情と打算的な行動が支配する共依存百合展開に魅せられ、最後の衝撃的な結末には思わず2度も大号泣した「きたない君がいちばんかわいい」によって、百合マンガに対する感情が大きく変わった経緯等々、枚挙に暇はない。

 今回の本題である「プリキュアシリーズ」においても同じ事が言える。シリーズ15周年記念作品である「HUGっと!プリキュア」(全49話 2018-2019)を完走した後、私はそのはぐプリの次回作に当たる「スター☆トゥインクルプリキュア」(全49話 2019-2020)を完走した後、はぐプリから見て前作に当たる「キラキラ☆プリキュアアラモード」(全49話 2017-2018)も完走している。しかし、はぐプリを観始めた当初は、そのまま他のプリキュア作品を完走する事というビジョンは見えていなかったし、ハッキリ言うとそんな心づもりも無かった。

 でも、現実にははぐプリの後に2作品を完走し、今でも次のプリキュア作品はどれを観ようかと思案している所でもある。そう考えると、人生とはどうなるか分からないものだし、食わず嫌いで特定の世界観を執拗に忌避する事が如何に勿体ない事であるかを思い知らされる様でもある。とは言え、食わず嫌いで特定の世界観を蛇蝎の如く嫌うのが良くないとは言っても、人間は「自分に対してどの様な影響を与えるのか分からないものに対して、どうやっても警戒をしてしまうもの」なので、どうしたら良いのかと言う話でもある。

 こんな話をプリキュア作品の感想を書こうとしている記事の冒頭で書くのはどうなのかと、自分でも思わなくはない。だが、スタプリ(スター☆トゥインクルプリキュア)にしてもキラアラ(キラキラ☆プリキュアアラモード)にしても、大人向け作品程えげつないものでは無いとは言え、普通に「生まれや育ちによって異なる価値観や人生観によって、どうにもならないすれ違いが生じる事もあったり、どうやっても歩み寄れない価値観の違いの1つや2つだってある」と言う展開や「人の弱い所につけ込み、弱った所に更なる絶望をたたき込んで希望を完全に消そうとする」と言う展開など、日曜日の朝、ひいては幼い子どもが観るには些かテーマ性が深化し過ぎていると思う程の内容は存在しているので、ある程度はえげつない話を書いたってどうにかなる訳では無いと考えている。まぁ、スタプリはともかくとして、キラアラは普通に色んな意味でヤバ過ぎる展開のオンパレードだったので......。

 と言う事で、今回は「スター☆トゥインクルプリキュア」と「キラキラ☆プリキュアアラモード」の2作品を完走した事を踏まえて、2作品両方の感想を書き出していきたい。視聴した順番に合わせる形で、まずはスタプリの方から書き出し、その次にキラアラの方を書き出していくスタイルをとる。なので前半は比較的マイルドだが、後半は超激重内容となる事が予測されるので、そこは本当に注意してほしい。

 

※注意※

 スター☆トゥインクルプリキュア及びキラキラ☆プリキュアアラモード本編のネタバレを多分に含むものなので、ご了解をお願い致します。また、前述した様にキラアラの方は特に激重内容になるので、注意して下さい。また、ここで書き出した内容は全て個人の感想・推察となります。

1.はじめに

 種族や立場を超えた異種族交流物語がスタプリの包括的な印象であり、スイーツ作りと濃密且つ重厚で、大人向けとも思えるテイストが圧倒的に聳え立つのがキラアラの統括的な印象と言うべきか。個人的には、どちらもはぐプリに勝るとも劣らない面白さを持った作品だと認識しており、特にキラアラの方は、ドラマ性に富んだ重厚なストーリーと言う観点では、はぐプリ以上の好感触を抱いている。

 ただ、何れのプリキュアも全体的にストーリーが重い印象があり、スタプリはまだマシだったが、キラアラは冒頭から観る者の心を激しく揺さぶる展開を持つお話が非常に多く、中盤以降に至っては、言葉を選ばずに書き出すなら「この世の生き地獄」と思える程の展開もあった程。中にはあまりのトラウマさ加減に、正直「2度と観たくない」とまで思わされた回もあり、さながらコミック百合姫掲載作品を読んでいる時に匹敵する程の恐怖と戦慄が走る様だった。無論、コミック百合姫掲載作品の方が、キラアラよりも更にえげつない恐怖と戦慄が走る事があるのは言うまでも無いが、あちらはプリキュアに比べて(当たり前とも言えるが)年齢層が高めな人達をターゲットとした雑誌なので、子ども向けたるプリキュアにおいてそれに匹敵すると言うだけで恐ろしいと言う話なのだ......。

 正直、はぐプリでも「子ども向け」にしてはシリアスだと思う場面も多かったし、それにしてはしんど過ぎるではないかと思う場面もなくはなかった。しかしながら、キラアラを前にすれば、誇張抜きで「はぐプリのシリアスでそう思える内が幸せだった」と思わざるを得なかったし、それはスタプリを相手にとっても同じ事が言えると思うしかなかった。プリキュアシリーズで重いストーリーな作品と言えば、ダントツ「ハートキャッチプリキュア!」である事は知っていたが、まさかこの「キラアラ」もそういう方向性だとは思わなかった。思いたくもなかったと言うべきか......。 

2.スタプリ感想本題

あらゆる壁を超えし異種族交流物語

 地球に惑星サマーンにレインボー星。スタプリはプリキュア5人だけでもこれだけ出自が異なると言う背景事情がある。作中でもスタープリンセスの力を取り戻す為に、あらゆる星々を股にかけて探究し、そこで様々な異星人との交流を図っていくと言うスタンスがあり、この事からスタプリは「異種族交流物語」としての色が強く、あくまで「街が中心舞台」となっていたはぐプリと比べて世界観のスケールが非常に大きいと言う特徴がある。

 スタプリは「宇宙全体の未来を守り通す為に、宇宙中にバラバラとなって散ったスタープリンセスの力が込められたペンを探し出す事」が、主人公達一行の全体の目的として存在しており、ここも「自分達の未来を守り通す、明日への希望を失わせない」と言うのが中心だったはぐプリと比べてスケールが大変大きくなっている。また、失われた力を再び集結させる為に宇宙を探求すると言うシナリオは、さながら「1つの大きな物語を少しずつ歩んでいくRPG展開」にも通ずるものがあり、割と王道展開をゆくプリキュアとも言える。

 全体的な雰囲気は、はぐプリに比べて内省的な内容は幾分控えめになっている一方、異種族交流が常に存在すると言う事で「生きた環境や種族によって、文化も価値観も全く違うのは極自然である事」や、中には「どうやっても理解できない違いもある事」に直面したり、逆に「違いがあってもそれを乗り越えようとする努力」があったりと、種族の違いによって生じる価値観や物の考え方の違い、その違いを超えようとする事、違いを受け容れようとする事等々、あらゆる意味で異なる者同士が交流を図る事で起こり得る事が数多く描かれている。

 シリアス度については、前作のはぐプリや前々作のキラアラに比べると幾分抑えめになっており、年相応の壁にぶつかったり、時には種族や生きた環境や経緯の違いの壁が想像以上に分厚い事を知って、厳しい現実に打ちひしがれたり、たまには価値観の違いや考え方の違いで擦れ違いを起こしたりもするが、総じて言えば「『人の痛みを知る』と言う意味での成長の過程には必要な衝突」の範疇には収まっている。ただ、絶対的な尺度で言うならスタプリもシリアス度はどちらかと言えば強めな方であり、特に32話以降は油断すると普通に看過できないダメージを受ける可能性もある。しかしながら、シリアス展開の中にも心打つ展開は数多く存在しており、スタプリの場合は心打つ展開が「誰かの切実な想いが強く投影された時」に表れる節が強くあるので、結構心動かされるし、思わず目頭が熱くなる事もあった。

 2024年になって私が完走してきたはぐプリ、スタプリ、キラアラの3作品の中では、スタプリは最もとっつき易い作品と言う印象があり、理由としては物語としての大きな流れが分かり易く、異種族交流が土台にあるのでキャラクターの違いもはっきりしており、プリキュア以外にも魅力的なキャラクターが沢山いる点、なにより3作品の中ではシリアスの度合いが一番マイルドな点*1が挙げられる。尤も、総合的なバランスでははぐプリに譲るが、スタプリも負けず劣らずであり、中盤の展開がやや遅い事はいかんともし難いが、32話以降は劇的な展開続きだし、はぐプリに匹敵する程の重厚且つ一枚岩ではいかない複雑な事情が見え隠れする展開も現れるので、スタプリを最後まで観た際には「はぐプリに負けず劣らずの完成度の高さを持った作品」と言う感触を持った。

大人で子供なサマーン星人「羽衣ララ」

 サマーン出身のサマーン星人にして、プリキュアが1人「キュアミルキー」の羽衣ララ*2。年齢は地球で言う所の「13歳」であり、星奈ひかると同年代に当たる。つまり地球では「中学生相当の子供」になる訳だが、サマーンでは「立派な大人」と見做される年齢である為、ララ自身は大人としての責任感を強く持っている。やや不器用な所こそあるが、実直な性格でしっかりした人物。ただ、実直があるが故に、時には「頑固」としてマイナスに働いてしまう事もある。また、サマーンでは大人扱いとは言っても、生きてきた絶対的な年数で言えばまだまだひよっこである為、周りから進言されようとも、意地でも自分の意見を強硬に押し通そうとしたり、大人なら必要な態度やものの考え方に達する事が出来ず、どうにもならない我儘を言ってしまったりと、年相応に子供っぽい所も。

 能力は決して低くないが、故郷では生まれながらの才能が高くない人材として見做されていた為、その事に対してコンプレックスを持っており、故郷に帰る事を嬉しく思っていない様子も見受けられた。現実においても、サマーンの様に一定の年齢における能力や才能の方向性によって、その後の人生の選択肢がほぼ固定化されるケースは存在しており、適材適所と言う観点では極めて合理的だが、一定の年齢の能力だけでその後の人生がほぼ固定化される事で、不本意な結果となってしまった人にとっては所謂ドロップアウトを引き起こす可能性が高く、更にその後どれ程努力しても「自分の力では変えられない現実」を思い知って、無気力に陥ってしまうリスクも存在している。幸いにもララは無気力にはなっておらず、寧ろ「立派な事を成し得て見返してやる」*3と言う気概を持っていたので、悲惨な事態にはなっていないのが救い。

 この様な事情は、高い能力と才能を持ちながら、がんじがらめの環境故に自分の強い意思が持てずにいた香久矢まどかとは正反対とも言え、この「能力は高いが自分の意思が弱いまどか」「能力が低いと見做されているが、その現状にも負けない気概を持つララ」と言う対比は、ある意味現実社会のリアル(と言うか闇)を体現しているとも言える。そして、各々が抱える「弱さ」をどうやって克服するのか。それを思案するのが何よりの喜びであり、プリキュアシリーズを観る際に高い比重を置いている部分でもある。

 話を羽衣ララ中心に戻す。ララは私としてはスタプリを観始めてから中盤に至るまで、5人の中ではずっと一番好きだったプリキュアでもあり、終盤になってからは後述する「キュアセレーネ」こと香久矢まどかの株が私の中で急上昇した為、この2人のお気に入り度は割にトントンと言った所にはなったが、それでもスタプリの中ではお気に入り上位である事には変わりない。その理由は色々あるのだが、やっぱりララが見せる「大人と子供の狭間に揺れ動く心情」と言うものが、私の心を激しく突き刺す事が最も大きい。

 劇場版の話にはなるが、羽衣ララをめぐっては私の中で絶対に忘れられないし、忘れたくない場面がある。それは劇場版にて仲良くなったとある存在をめぐって、自分の想いを必死に、目に涙を浮かべてまで激しく訴えかける場面である。その場面を見た人なら分かるが、あの場面においてはララがどんなに激しく訴えかけようとも、ララの意見を全面的に賛同する事は「不可能」であり、実際に他の4人はララの意見に賛同する態度を見せる事は無く、中でもユニはララを諭す様な発言をしたが、それが却ってララを更に追い詰めてしまう格好になってしまうと言う、どうにもならない事に直面した際に表れる辛さともどかしさが生々しく描かれている。

 あれはハッキリ言えばララが「大人になるしかなかった」訳であり、そう簡単に受け容れられる様な事では無かったとは言え、どうにもならない事を無理に押し通そうとした事実は、ララが「子供」と称されても仕方ない所ではある。でも、同時に「ララの訴え」も良く解るもので、大人と呼ばれる年齢や立場になったって、寂しいものは寂しいし、嫌なものは嫌と言うのは子供と同じである。そう思えば、ララのあの立ち振る舞いも、考えようによっては変に大人ぶって「本当は傷付いているのに傷付いていないふりをする」よりかはマシとも考えられるし、決して否定できるものでも無い。とは言え、ララの立ち振る舞いが子供みたく我儘だったのも事実であり、そこは如何ともし難い。

 でも、結局私はララの「大人でいて子供」と言う一面に共感を覚えてしまう人なので、いくらララの子供っぽい振る舞いを糾弾しようと、結局はララのそういう一面を嫌悪する事は無いし、出来る訳が無い。ララに対する気持ちは、そういう「共感」に宿す想いがある。

他者の輝きの元で輝く月の存在「キュアセレーネ」

 政府高官の父と秀でた芸術センスを持つ母を持ち、正に「良家のお嬢様」と言うに相応しい高潔な雰囲気を持つ香久矢まどか。ひかるらより1学年上に当たり、生徒会長を務める程の人望の篤さに裏付けられた様な立ち振る舞いは、正に「人格者の鑑」と言うに相応しい。冷静沈着で感情を荒げる事は基本的にないが、感情を見せる事自体は割と積極的でノリも良い。通う中学校では「太陽」のえれな(キュアソレイユ)に対比して「月」と称されており、落ち着いた立ち振る舞いが多いまどかにはぴったりだが、実はこの「月」には「落ち着いた雰囲気」だけではないもう一つの意味が隠されており、その事実を周りには隠している。

 まどかの考える「月」の意味とは、単に「落ち着いた雰囲気」と言う周りからのイメージだけでなく、月が太陽の輝きを反射して輝いている事に準えて「自分は自らの意思で輝いていると言える程の人生を送ってきてはいない」と言うもので、要は「親が敷いてくれたレールの上を器用に乗りこなす様にして人生を歩んできた=自分の意思で自分の道を切り拓いてこなかった」と言う訳である。しかしながら、まどかがこれまで歩んできた人生は、普通の人ならそう易々とこなせないものであり、今までそういう人生を無事に歩めていただけ相当凄い事なのだが、まどかとしては、太陽の如く自分の進むべき道を切り拓いていったひかるやえれなを見たからこそ、ただ敷かれたレールの上を歩むだけだった自分の人生は正に「他者からの輝きを受けて初めて輝ける『月』の存在」と思ったのだろう。言葉を選ばずに言うなら「今までの人生は、自分の意思なんて一つも無かった空虚な人生」にも通ずるのだろうが、まどかは今までの人生を空虚だったとは思っていないので、そこは強い人間と言える。

 また、まどかはその人生の生き様から「父の言う事は絶対」と考えている節が強く存在しており、特に序盤はその傾向が強かった。今までそれで困る事も無かったのだろうし、能力の高い父が言う事なのだから、それが間違っているかもしれないと疑義を呈する隙も無かっただろうから、まどかがそうなるのも無理はないのだが、個人的には「それこそ自分では輝けない『月』と言われる所以そのもの」だと捉えている。何故なら、そこに「自分の思考や意思は存在していないから」で、途中からまどかも「自分の意思に付き従った行動」を見せる様になったから良いものの、もしこれが最後まで「自分の意思なきまどか」だったのなら、大人になってから確実に路頭に迷う人生を送る羽目になっていたと思う。

 大人と言うのは常に「あらゆる行動を自分で選びとって突き進んでいく」と言う事の連続であり、そこには「誰かの指示に従っているだけで取り敢えずは生きていける」なんて事は無く、どこまで行っても「自己責任」と言う世界である。更にその選択は常に公序良俗が求められ、とどのつまり「下手な決断による失敗は、直ちに糾弾される格好の標的」となる事も往々にしてある。要するに「大人になれば、決断の失敗は基本的に許されない」と言う事であるが、一方で「子供の内」なら失敗しても、余程大それた事でもやらない限り「未熟な子供のする事」として、大人に比べてその咎め具合は易しい傾向にある。だからこそ、ある程度の失敗は許される子供の内に「自分で考えて自分で行動する」と言う経験を積み、大人になってそれが当たり前の様に求められる様になってから路頭に迷わない様に、言ってしまえば対策をする訳である。 

 ところが、その対策を十分に出来ていなかった場合、たとえまどかの様に「何でもそつなくこなせるほどの器用さ」を持つ者であったとしても、確実に路頭に迷う羽目になると考えている。何故なら「言われただけの事をこなす」のと「自分から考えを張り巡らせ、自分の考えに付き従って動く」と言うのは、正しく「受動」と「能動」と言う対比関係に他ならない為で、どんなに「受動的な時では」優れた能力の持ち主であったとしても、これが「能動的になった場合」にその優れた能力を発揮できるとは限らないと言えば解るだろうか。

 実際にまどかは、言われた事、求められている事を一生懸命こなす事は出来ていても、自分の意思をもって何かを成し得ようとする事に少なくない苦手意識があると感じる場面がちょくちょくあり、完全に「受動的な時はしっかりできるが、能動的な事が苦手」と言う構図に合致してしまっている。この事から、まどかはこのままでは大人になってから「自分のやりたい事も進むべき道も切り拓けない事態」に陥ってしまうと懸念していた。

 ただ、まどかは強い人間だった。彼女は終盤にて自分が持つ「心の弱さ」や「親の意見と対立した意見を持つ事の意味」を全て理解した上で、それでもなお「自分の意思に基づいた道を突き進む事を決断した」のだ。頭の良い彼女の事だから、そこに至るまでには様々な想いや後ろめたさ、そして親の期待を裏切る事への罪の意識もあったに違いないと思われる中、彼女は自分の意思を持つ事から逃げなかった。そういう「気高き意思」に、私は心惹かれたのだろう。

 長々と書いたが、私がキュアセレーネこと香久矢まどかの事を一気に好きになったのは、この「自分の意思を貫き通そうとする気高き意思の発露」にある。私自身気高き意思に関しては、それが「何があっても貫き通そうとする強い気概」によって生み出されていると言うなら、たとえそれが「自分では正義と思っているのだろうが、実態は自覚なき悪でしかない邪悪な奴」*4だろうと「道徳観や倫理観はおろか、最後の良心の欠片もない正に『極悪非道』そのものな奴」*5だろうと、その気高き意思には一定の理解を示す程、自分の中で「正義も悪も、敵も味方も、それらを超えて大切に扱わなければならないもの」として捉えている。それに従うなら、私の中でまどかの株が急上昇するのはある種摂理とも言える。

 でも、最後に嘘は付けないから書いておきたい。私はまどかが持つ強き意思を本心から凄いと思っているし、まどかが掴み取ったものは、紛れもない自分自身の意思によって掴み取られたものだと信じている。しかし、私は決してまどかの事を無批判に受け止めている訳では決してなく、例えば途中まで「お父様の言う事は絶対」と思っていた事に対しては、「親だからと言って、人間である以上完璧である筈がない。親の意見に対して極端に無批判になるのは危険だ」と思っていた。何が言いたいのか。それはどんなに好きなキャラクターであったとしても、全ての一面を好き好んでいる訳では無いと言う事。これだけは誤魔化せないので、ここでハッキリ言っておきたい。

 因みにまどかの父親に対しては、誤解を恐れずハッキリ言うなら最初は蛇蝎の如く嫌っていた。まどかに対しては「立派な人格者になれ」と言わんばかりのスタンスを取っているくせに、普段のまどかに対する当たり方を見ると、さも「自分の言う事を聞いておけばそれで良い」と、全くもって自主性を尊重しないその独善的な態度が受け付けなかった。勿論、それには「父親としての愛情」があるのも解っていたし、本気でまどかの思想を縛り付けようとは思っていない事だって解っていたが、それがまどかに伝わっていない時点で、何をやってもダメと見做されるのが現実。どういう理由があっても、まずは「相手の思想を尊重しない」と言うだけで、相当なマイナスポイントとなってしまう。

 だが、終盤になって「まどかが彼女自身の決断によって切り拓かんとする道」を、父親としてだけでなく、1人の人間としてまとかがとった決断を認める態度に出た事で、私としても蛇蝎の如く嫌う事は無くなった。元々まどかの父親が「能力こそ高いが、父親としては決して器用な人間じゃないのは薄々気付いていたし、まどかのやる事なす事を本気でケチつけようとしていた訳では無かった事も解っていた*6ので、とどのつまり「思想の違い」さえ受け入れてしまえば、後は時間が凝り固まった忌避意識を溶かしていってくれた。尤も、嫌いでは無くなったと言っても好きになったのかと言われればそんな事は一切なく、どうやっても「嫌いな所、嫌に思う所は嫌なまま」だが、価値観の相違によって生じる感情は、どうやっても消せないものだし、どんなに好意的に受け止められても、受け入れ難い所の1つや2つはあるので、もう仕方ない。聖人君子でも何でもない人間とはそんなものである。

 

失望の過去、復讐の連鎖

 スタプリにおける敵対組織に当たり、世界を乗っ取ろうと企むノットレイダー。前作であるはぐプリと比べると「世界を自分達のものにしようと画策する」と言う点が非常に悪役らしいが、その一方で「悪としての矜持」が、はぐプリと比べて露呈するタイミングが遅い為、個人的には「はぐプリと比べてイマイチ敵に感情移入し辛いなぁ......」と中盤迄はなりがちだった。

 転機となったのは終盤であり、ノットレイダーに所属する者達が基本的に「過去に壮絶な経験やトラウマを抱えている事が明らかとなった事」に発端があった。ノットレイダーの連中は、総じて「異種族同士が心から解り合える筈が無い」とかプリキュア達が持つ理念なんて、所詮は絵空事であり現実を知らない理想論でしかない」等と、プリキュア達が持つ理念に真っ向から否定する様な事ばかりのたまっていたのだが、それが「過去に起きた経験やトラウマ」によるものだと知った時、それまで「何でこいつらはこんな事ばっかりほざくんだ」と、ノットレイダーがとる言動に嫌悪意識が強かった私の心を一気に動かし、同時に「嗚呼、あの様な言動には恐ろしい程の説得力があったんだ......」と、己の考えを改めさせられた機会にもなった。

 ノットレイダー達が歩んできた過去と言うのは、他種族に自分の星も、プライドも何もかも乗っ取られたとか、本音を言い合う事などせず、息をする様に嘘も偽りも平気でつく様な連中に囲まれて育ったとか、己の力不足故、大切なものを何もかも守れなかった等々、総じて悲惨なものであり、どうにもならない現実の非情さを物語るものでもある。そして、内容が内容だけに「自分にとって善い影響を与えてくれる存在」と出逢えるはずもなく、ひたすら復讐心と猜疑心を募らせていった結果、あの様な歪んだ価値観を持った者へと変貌してしまった事は想像に難くなく、言うなれば「自分で道を切り拓く環境さえなく、決められた道を歩まざるを得ない過酷な運命」に縛られていたとも言え、その意味では「まどかとは正反対の環境」とも見て取れる。

 ただ、その様な「どうしようもない事情」があったとしても、私はノットレイダーがやろうとした事を賛同する事は出来ない。とは言え、別に説教したい訳でも無ければ、破滅的な理念を持つ事に失望している訳でも無い。単純にジョジョPart4のラスボスよろしく「己が持つ弱さや劣等感を他者攻撃に転化している所」が良くないと思うだけの事である。

3.キラアラ感想本題

甘さの陰に潜むハードボイルド

 皆で楽しくスイーツ作りを励むプリキュア達の物語。絶対的な物語の柱はこれで間違いないのだろうし、実際そういう場面が中核をなす場面は多かった。でも、今思えば「もし本当にそうだったとするなら、どんなに幸せな事だったろうに......」と思ってしまう程に絵空事の願いだったとしか思えない。何ならそう思っていた自分を自分で嘲笑いたくなる様な気分にもさせられる。何故なら、そこに待っていたのは、後に「正にこの世の生き地獄」「特定の回はもう二度と観たくない」とまで思わしめた程の地獄展開だったからである......。

 全編を通じてとにかく「心を容赦なくえぐり取る展開」が山の様にあり、1話目からして主人公の宇佐美いちかがボロボロと涙するシーンが出てくる上、11話でもいちかが再び涙するシーンが出てくる。基本的に話が進めば進む程、闇は深くなる上えげつなさも増していく構図であり、特に第3クール突入後は「毎回どこかしら地獄に思える要素がある」と思う程のえげつなさであり、最終第4クールは、最早「これは本当に子供向けなのだろうか......」と、思わず絶句する程の地獄ぶりであった。

 この、人なら誰しも持っている「心の弱さ」を嫌と言う程見せつけて来る構図は、そういう物語や構成にもそれなりに触れてきた私にとってもえげつなかった。正直普通に「こんな思いをするんだったら観たくなかった......」とまで思わしめた事も何度かあったし、他にも「これが大人向けだったら普通だが、子供それもキッズ向けに作られている事実が、色んな意味で凄すぎる」と思った事もあった程。

 この様な事情から、はぐプリ、スタプリ、キラアラ3つの中でどの作品が一番えげつないかと聞かれれば、私は即座に「ダントツキラアラ」と答えるし、何なら逆に「この3つの中だったら、キラアラが一番重いと思う以外の何があるのか」と、まさかの逆質問をしたくなってしまう程である。無論、はぐプリにもスタプリにも「シリアス」と思う要素はあるし、どちらも客観的に見れば十分シリアスな方のプリキュアではあるので、この逆質問はいささかお門違いと思われた場合、それは否定しない。とは言え、それら諸事情を抜きにしてもキラアラがダントツ重いのは事実であろう。

 また、キラアラは単純に「ストーリーが重い」だけでなく、言ってしまえば「世の中にはどうしたってどうにもならない事もある」と、世の中の厳しさを物語る局面も少なくない。これもキラアラが凄まじいまでにえげつなくなっている大きな理由であり、さながら「ハードボイルド」を地で行く容赦なき激重展開は、正に「この世の生き地獄」だった。正直、思わず「私は......!プリキュアを見てここまで『傷心』する世界があるなんて信じたくなかった!こんな世界が待ち受けていると解っていたのなら、私は絶対観なかった!」と、自分がとった行動及び決断を恨みたくなる程だった。

 でも、心の奥深くでは解っていた。ハードボイルドな展開を内包したプリキュアを観てどれ程絶望しようと、どれ程「二度と観たくない!」と思ったとしても、結局はそういうテイストを持ったプリキュア作品でさえ愛してしまうと言う事を。ハードボイルド展開でさえ受け止めてしまえる自分がいる事を。故に、私はどんなにキラアラが持つ激重展開を悪く言ったとしても、完全に嫌いになる事なんかできないし、キラアラを観た事に後悔もない。にもかかわらず、表立って素直な気持ちを発露する事は、今でも簡単には出来そうにない。そんな「心の弱さ」を抱えている......。

脆き心を抱えた気まぐれ屋

 容姿端麗で成績優秀。何でも完璧にこなせてしまう器用さを持ち、高校生にして大人顔負けの魅力とミステリアスな雰囲気を持つ琴爪ゆかり。絵に描いた様な「気まぐれ屋」であり、何事においても自分のペースを崩さない。人の間隙を縫う様な立ち振る舞いを得意とした人でもあり、仲間内であっても素性は決して詮索させない隙の無さを誇る。観察力、洞察力にも長けており、メンバーの中でただ1人敵の正体を推察して見抜いた事もある。飄然とした言動を取りがちだが、思いやりのある性格でもあり、決して冷たい人間なんかではなく、寧ろ人間味あふれる人間と言った所。

 掴み所のないその様は、さながら「孤高の雰囲気」さえ漂わせているが、パティスリーの一行からは「甘えん坊さん」である事を見抜かれている様に、そのミステリアスな雰囲気に反して実はかなりの寂しがり屋でもある。飄然とした立ち振る舞いも、自分の心の平静を保つ為の処世術故であり、本質的にはとても傷付きやすい繊細な人。本編では一貫して周りの印象は「何でもそつなくこなせる『完璧な人』そのもの」であり、ゆかり自身もその事を認識している一方、前述する様な「脆く繊細な心の持ち主」である事や、その脆き心故に自己保身に走ってしまった経緯を持つ事から、ゆかり自身は自分の事を「完璧とは程遠い人間」と思った事もある。

 この複雑な心境は「大人である様でいて、大人になり切れない子供」と言うものが良くあてはまると考えている。ゆかりはプリキュア6人の中では最も大人びた思考回路の持ち主であり、普段の立ち振る舞いから見ても子供と見るには些か無理があると思う事は多い。ただ、その一方で「自分の立ち振る舞いについて自問自答する様」や「達観的なものの見方こそ出来るが、それを常日頃実行に移し切れていない」と言った所は「子供」の特徴であり、この「大人と子供の狭間で揺れ動く」事こそ、ゆかりが抱える最大の弱みとも言えるし、見方を変えるならば「完璧超人に見える人の、親近感わく貴重な部分」とも言える。

 デリケートな話にはなるが、私としては「完璧な人が本当に完璧」とするなら、多分その人には心から信頼出来る仲間と言うのは出来にくいと思っている。本当に何の非の打ちどころのない人と一緒にいるとなると、その人と一緒に過ごす人のプレッシャーは途轍もないものであり、最初は何とかついてこれても、その内「あの人と比べてダメダメな自分」と言うのに嫌気がさす様になり、最終的には「理想と現実のギャップに心がダメになってついてこれなくなる」のが考えられる為である。人間ちょっとダメな点があった方が良いと言うのは、その方が「完璧に思える人にも弱点はあるんだ。自分と同じ様な所がある同じ人間なんだ」と親近感を覚えるからで、その親近感を覚えた時こそ、人との距離感が一気に縮められると思える瞬間でもある。

 この事から、ゆかりは「完璧超人でいて実は繊細で寂しがり屋」と言う点が、逆に彼女に対して親近感を抱かせる要素となり得る。実際に私としても、ゆかりのそういう「実は繊細で脆い心の持ち主」と言う所に強いシンパシーを感じ、第一印象は正直良くなかったにもかかわらず、終わってみればキラアラのプリキュア6人の中で一番気に入っているプリキュアにまでなっている。運命的な巡り合わせと言うのか何と言うか、私は「そういう運命」を辿りがちな人なんだと思う。そういう人は「大切なものを失いやすい」上に「失ってからその価値に気付く(勿論後の祭り)」のもありがち*7なので、色々と気を付けた方が良いだろう......。

 思えばスタプリにおけるまどかもそうだし、はぐプリにおけるルールーもそうなのだが、私は「一見すると完璧に見えるが、その裏には無視出来ない弱さを背負っている」と言うプリキュアが最終的には好きになる傾向があり、ゆかりは正にそのジンクスに準えた形となる。また、この3人は総じて「紫にまつわる色」がイメージカラーとなっており、紫は「高貴な色」である事から、私はそういう「気高き意志を持つプリキュアが好きになりやすいんだと思う。

三方向に広がる想い

 ジュリオ(リオくん)とビブリーとシエル(キュアパルフェ)。この三者は作中でも複雑に絡み合った想いを寄せ合う存在であり、ハードな展開が多いキラアラにおいても特に悲劇的な運命を背負う事になる三者でもある。

 まずジュリオからして壮絶な運命を背負っている。第2クールにて表向きは品行方正な少年を演じるも、どこか底知れない雰囲気を持つ転校生として登場し、ノワールの部下として裏工作を働いていくが、不審な行動からプリキュア達に企みを見抜かれ、リオくんの裏の顔であるジュリオとして対峙する。頭の切れる奴でもあり、自身の不審さに勘付いたゆかりの本心を見事に言い当てたり、プリキュア達に対しても巧みな話術で心理攻撃を仕掛けたりしている。

 ジュリオの真の素性はキラリンの弟「ピカリオ」であり、姉であるキラリンがスイーツ作りの才能を持ち、パティシエとしての能力をどんどん開花させる一方、どうやっても成長できない自分との違いや差に強いコンプレックスを抱く様になり、越えられない壁に嘆いていた所、姉が発した些細な発言に堪忍袋の緒が切れ、半ば姉と決別する形で闇に堕ちた経緯を持つ。その経緯から、スイーツ作りに対して激しい憎悪を抱いており、姉の努力を真っ向から否定する事も厭わなければ、スイーツによって生み出される「キラキラル」の事も意に介さない発言を繰り返していたが、これらは全て「自分がどんな努力をしても手に出来ないものである事を悟っていた為」であり、また一方では完全にキラキラルやスイーツ作りの事を憎み切れない弱さも持っていた。

 この複雑な想いは、作中にて度々プリキュア達とりわけ姉である「シエル」との対立によって深く表れており、第2クール開始からキュアパルフェ誕生辺りまでのシリアス展開の中心を担う要素でもある。結局の所は、ジュリオもといピカリオの抱えし想いを知ったシエルことキラリンが、ピカリオと半ばぶつかり合う形で心を再び通わせ、シエルがキュアパルフェになる切っ掛けを掴むと言う形で対立は終わるが、力を殆ど使い果たした代償として、ジュリオことピカリオは長い眠りにつく事になる(後に復活、重要な役割を果たす)。

 また、第2クールにおいてはジュリオ以外にもビブリーと言う敵キャラも外せない。ビブリーは過去の経緯からノワール「様」と付ける程に崇拝しており、性格は傲慢且つ高飛車。人の弱い所や悪態を平気で突く毒舌家でもあり、真っ当な奴とは決して言い難い。ジュリオとはプリキュア達と対決した期間に重なりがあるが、両者が心から信頼し合って協力した事は無いに等しく、不甲斐ないジュリオに悪態を突く場面さえある。ノワール様から与えられた能力に絶対の自信を持つ一方、自信が崩れる事があると直ぐに動揺すると言う心の弱い面が目立つ。

 彼女は第2クールから登場するものの、その素性や経緯が詳細に掘り下げられるのは第3クールになってからで、そこで明かされた過去は控えめに言ってもかなり悲惨。端的に言えばノワールの術中にまんまと乗せられていた」というもので、ストレートに言えば「自分が『救世主』と信じていた存在こそ、自分を『破滅に追い込んだ張本人』だった」と言うどうしようもないもの。この経緯を知った後に、それまでのノワール様」から「ノワール」呼びに変わった辺り、彼女の絶望と怒りの一端が窺える。

 以上の様に、ジュリオにしてもビブリーにしても「ノワール」によって心の闇をつけ込まれ、本人の望む望まないに関係なく、闇の存在として仕立て上げられてしまった経緯を持つ訳だが、ここで救いの神となり得るのがキラ星シエルである。シエルは日常不断の努力の末に「人間へと変身する力を得た妖精」であり、この点はピカリオも同じである。不断の努力の末に夢を勝ち取った経緯を持つ為、自分の能力に絶対の自信を持っているが、日々成長していく中でも現状に奢らないひたむきな努力家であり、人の夢に対しても、厳しいコメントする事はあってもそれを真っ向から否定する事はしない。但し、兄弟姉妹関係に関しては不器用な方で、姉である自分は弟の気持ちは何でも解ると心のどこかで思い込んでいた事で、ピカリオを闇に走らせるきっかけを作ってしまっているが、その事実を知った上で決して弟と向き合う事を諦めない一面も併せ持つ。慈悲深い一面もあり、困窮している人をほっとけない正義感を持っている。また、いざとなれば「人の痛みを自分も一緒に背負い込む」と言う覚悟を秘めている。

 シエルのひたむき且つ真摯な性格は、ピカリオとビブリーに多大なる影響を与えており、とりわけ「自分が信じていた矜持にも裏切られ、何処にも居場所がなくなっていた2人を持ち前の慈悲深さと覚悟の強さで救い出した」という意味で重要である。個人的にはピカリオのくだりが印象的であり、嘗ての悪行故に世間からの風当たりは冷たく、それを自覚していたピカリオが街を出ていくと言った際、最終的にシエルは「ピカリオの意思を尊重する選択」を取っているのだが、この選択をする事は、シエルにとっても「これまで積み上げてきたものを全て捨て去る事」を意味する為、そう簡単には出来ない。にもかかわらずその決断をしたのは、それだけ「ピカリオの気持ちに寄り添えなかった嘗ての自分に強い後悔の念を抱いているから」であり、必要ならばなんだってする覚悟を持つシエルは、やっぱり救世主としてこの上なき存在だと思うし、その想いが本人含めて「三方向に広がっている」と解る構図が良いのである。

心なき道化師が見せる生き地獄

 キラアラは敵対勢力がやや特殊であり、プリキュアシリーズは最初から「敵対勢力の幹部なるもの」が序盤である程度固まるケースが多い中で、今作は「敵対勢力が徐々に変遷していき、その過程で一連の戦いひいては『今回の物語に込められた真意』が見えていく」と言う構成を取っている。この構成は「ジョジョPart4」に近いものがあり、現状のプリキュア最新シリーズに当たる「わんだふるぷりきゅあ!」でも、このキラアラと似たものがある。

 その敵対勢力の中でも特にえげつないのが「心を失くした道化師」と名乗る「エリシオ」であり、本格的に登場するのはストーリーの後半突入以降と比較的遅めだが、インパクトは超が付くほど絶大。本作における最大の敵と目されるノワールのしもべの1人だが、実際にはノワール以上にえげつない敵対勢力であり、最終的には事実上の「ラスボス」にまでなる。

 エリシオがえげつないのは、とにかく「人の心の弱さにつけ込んだ精神攻撃が多い事」で、悪辣非道を地で行く事を平然と行う様は正に「心なき道化師そのもの」である。その悪辣さはお墨付きで、エリシオがプリキュアに対して精神攻撃を仕掛ける回は、ほぼ全てにおいて「地獄の展開が待っている回」となり、中でもプリキュアが心の闇につけ込まれ、闇に呑まれて堕ちていく様は地獄絵図以外の何物でもない。尤も、エリシオが一切関与しなくても地獄要素が待っているのがキラアラなので、エリシオだけに警戒を切られると、エリシオ以外の所で地獄で叩き落とされる羽目に遭う。

 個人的にはキュアジェラート(あおいの事)が途轍もない絶望に引き摺り込まれ、歌手にとっての生命線である「声」を奪われる回が一番地獄だった印象がある。元々「あおいちゃんのロックバンドにまつわる回」は、ほぼ全ての回において何かしらの「地獄要素」*8を感じており、基本的にそれらの回は「我を忘れる程の激情に駆られかねない為に見返したくない」と思っているのだが、この「声を奪われる回」の地獄ぶりは別格であり、あまりのトラウマぶりに「この回だけは本気でもう二度と観たくない」とまで思わしめた程。そう思うのは、単純に「感情移入し過ぎて辛過ぎる」のと、もう1つの感情として「己が持つ『心の弱さ』を嫌と言う程見せつけられる為」であり、この2つがかけ合わさって襲い掛かる「人間の無力に対する怒り、嘆き、そして悲しみ」にとても耐えられない。

 邪悪な道化師と言う他ないエリシオだが、そんなエリシオも最終盤にて心境の変化を覗かせる面もあり、その内容が良いのか悪いのか。今考えても分からない部分はあるし、抑々この題目の執筆時点でキラアラを観てから大分時が経過しているので、ハッキリとは覚えていない部分もあるのが正直な所だが、今でも「エリシオが最後に見せた心境が悪いとは思っていない」と言うのは、確かな感覚として残っているので、最後の印象は悪くない。道中の印象があまりのもヤバすぎたのも事実だが......。

 因みにこのキラアラ、プリキュアシリーズの中でも「敵の団結意識」が著しく欠けている節があり、序盤の敵対勢力を除いて「仲間意識」と言うものを感じる機会が殆どない。仲間であっても失敗すれば揚げ足取りの如く罵るのは序の口、プリキュアとの対決に連敗して弱っているのにつけ込み、仲間さえも騙して平気でその力を我が物へと仕立て上げる*9、しもべである筈の存在が反旗を翻し、主人との主従関係を、何の罪悪感も躊躇いの感情も無く簡単にひっくり返す等々、最早「烏合の衆」*10もしくは「呉越同舟*11と言う他ない関係性で、故に「信頼関係などあったものでは無い」と思わざるを得ない。敵対勢力においても、結果的には「欺瞞」こそ蠢いていたとは言え、1つの目標に対してなんだかんだで一種の団結力があったはぐプリや、個々の思想こそ大きく違っていたが、大義名分に対する理念や考え方は概ね一致していたスタプリとは対照的であり、仲間意識の希薄さが浮き彫りになっている。

 もっと言うと、はぐプリやスタプリにおいては、敵側にものっぴきならない事情があるが故に、悪ではあっても邪悪とまでは言い切れない敵も少なくないが、キラアラにおいてはそんな事も無く、ある敵に至っては「闇に堕ちるべくして堕ちた。どんな結果を被ろうとそれは『悪因悪果』でしかない」と言う、正真正銘同情の余地すらない本物の邪悪と言う有様。一応そいつも「悪の矜持」は最後まで持っていると言う良点はあるが、抑々が決して褒められた奴とは言えず、自分の悪事や行いを反省も後悔もしていないので、最終的に良い奴になったのかと言われればそうではない。こういう所もキラアラらしいと言えばらしいが......。

4.あとがき

 書き始めてより2ヶ月程度。漸く一つの形に仕上げる事が出来た当記事。書き始める前はキラアラの激重展開に衝撃を受けてからまだ日が浅かった為、スタプリよりもキラアラの方が圧倒的に記事の内容が重くなると思っていたが、いざ完成してみると、結局の所スタプリの感想もキラアラに勝るとも劣らない重さとエグさを含むものとなってしまっていた。こうなったのは日々マンガやアニメを観る事によって感性が日に日に鍛え上げられている事と、ここ最近の目まぐるしい環境の変化とその適応の結果、以前よりも更に鋭く冷たい視点で論評する機会が圧倒的に増加した事が、プリキュアに対する感想ひいては価値観にも少なくない影響をもたらした事が要因だが、それにしたってかなりのレベルにはなったと思う。

 スタプリもキラアラも、基本的にはとても気に入っている作品であり、正直世間的な評価がどうのこうのと言うのはさほど意に介していない。だが、その一方で私には「真面目なレビューは事細かくちゃんとチェックする」と言うマメな一面があり、更に言うと「良い意味でも悪い意味でも常軌を逸したコメントが好き」な一面もあるので、他者評価に興味があるのか無いのか、正直自分でもさっぱり解らない。良くも悪くも「興味のあるものとないものでキッチリ線引きを図るタチ」なので、世間的な評価に対する感性にもそれがハッキリ表れているだけとも言う。

 キラアラにしろスタプリにしろ、作中においては多少なりとも人を選ぶシリアス展開があるのは事実であり、特にキラアラに至っては「ハードボイルド」と思う程の激重展開を内包しているが、それでも私がこの2作品を溺愛しているのは何故か。それはジョジョの奇妙な冒険シリーズ(特にParte5以降)やコミック百合姫掲載作品達によって、ハードボイルドな雰囲気に魅せられ、そしてその世界観に耽溺してしまった為であり、そのロジックに共鳴するものがあったプリキュア作品を観て、何も思わない筈は無かったと言う訳でもある。

 だが、その様な感性は「キャラの心情や動向そして『矜持』」を際限なき理解の境地へと引き上げ、作品に対する理解をより鮮明にする一方、一歩間違えば自分の心に修復不可能な傷を負わせる可能性さえあるし、それこそ「この世の生き地獄」もしくは「人間が持つ『邪悪な部分』『身勝手な部分』そして『絶対に克服できない弱き部分』」を観て、最終的には「二度と観たくない」とまで思う程のトラウマを背負う羽目になってしまうリスクも非常に高く、正に「危険な諸刃の剣」と言う一面を持つ。故に扱いは非常に難しく、元々がダークな雰囲気を持ち、Part7以降は主人公サイドが「利己的な正義」*12を見せる場面も多くなったジョジョシリーズにおいては、ハードボイルドな見識でさえもプラスに働くケースが殆どだが、元々がそういった雰囲気を持たないプリキュアシリーズにおいては、ハードボイルドな見識を適応すると、かえって更に混沌とした状況へと追い込んでしまう可能性が高い。

 こんななので、プリキュアシリーズにおいては必要以上にハードボイルドな見識を採用する気は無いし、シリアス寄りの雰囲気を持つスタプリやキラアラにおいても、そういった見識を積極的に使っていくつもりは殆どない。あくまで「自分の感性に付き従った結果として『使う』と言う選択肢が生まれる」のは前提であり、その上でそういった見識を採用した方が良い時に限って採用するのが基本である。とは言え、最近になって冷たい視点から淡々と忌憚なき感想を書く機会が増えた上に、ハードボイルドやクライムサスペンス等々が持つ「極限状況における究極の選択、冷酷非情な意思、己の強固な意志と復讐心」といったダーク且つ緊迫感溢れる雰囲気に痺れる程の魅力を覚えてしまっている現状があるので、一度スイッチが入ると簡単には止まらない恐怖はある......。

 これ以上やると更にしっちゃかめっちゃかになるのでこの辺で止めておくが、一つ言える事は、スタプリやキラアラを視聴し始めた時点で既にハードボイルドな雰囲気にシビれていた事が、この2作品に対する感性や考え方に多大なる影響をもたらしていたという事。もし、ハードボイルドな見識にシビれる前にこの2作品を知っていたなら、間違いなく今の様な感想や見解を抱く事は無かっただろうし、きっと全く違っていたものになっていたと思う。尤も、じゃあそれが良かったのかと言われれば、不思議と「全くそうは思わない」となる。それだけハードボイルドな雰囲気に毒されているのだろう。しょうがない、だって私は「シリーズの中でもハードボイルドな雰囲気が強いジョジョParte5こそ、ジョジョシリーズにおいて思想面で最も強い影響を受けている部」と言う人なのだから......。

 

 

おまけ

今回の文量は400字詰め原稿用紙のべ53枚分となった。相変わらずとんでもない文量だが、これでもはぐプリ単独記事に比べれば若干少ない。はぐプリの記事を書いていた時とは大きく環境が異なるので、単純な比較は不可能だが、目まぐるしく変わる環境下の中で、よくここまで持ってこれたとは思う。

*1:マイルドとは言っても、鬱屈した雰囲気は客観的に見て少なくないので、油断すると地獄を見る。

*2:なお「羽衣」と言うのは、地球での生活を営む際に苗字があった方が良いとなった際に付けたもの。

*3:故郷に錦を飾ると言った所。ジョジョPart7で言う所の「ディエゴ・ブランド―」の「飢え」にも通ずるものがあるが、こちらは非道な手段さえ辞さない最低な面がある。とは言え、ジョジョPart7の主人公の1人「ジョニィ・ジョースター」も、たとえ聖人だろうと誰だろうと「目的の邪魔をするなら容赦なく叩き潰そうとする」と言う、ディエゴに負けず劣らずの真っ黒な意思を持っているので、ディエゴ以上に「本物」だと思う。

*4:これはジョジョPart6のラスボスの事を指している。

*5:こちらはジョジョParte5の「ボスの切り札の内の1人」を指している。

*6:ただ、この部分はまどかの母親の方が理解が早く、父親の方は幾分理解が遅かったのも事実。やはり人間としては優秀ながら、父親としては決して器用な考え方を持てなかったと見て取れる。

*7:最初の良くない印象を引き摺りがちで、本質に気付いて見直した頃には既に相手からは距離を置かれていたと言うパターンが最も考えられる。

*8:自分のやりたい事を否定されたと思い、自分の人生は何なのだと怒りを爆発させる(そこには所謂「役割期待」に対する強烈な風刺も含まっている)、憧れの人擁するバンドとの対バンで完膚なきまでに完敗し、それでも何とか気丈に振舞うものの、直ぐにそれが「虚勢」である事が露呈し、自分の無力さと世の非情さに嘆いていた所をエリシオにつけ込まれて、自暴自棄になる等々。

*9:同様の敵はドキプリにも存在しているが、あちらは私利私欲の為に最終的には己の身の破滅を招いており、それ相応の報いを受けていた。報いを受けなかったと言う意味ではこちらの方がより悪質だが、エリシオは私利私欲の塊では無かったので、何とも言えない。

*10:統率も何も無い、ただの寄せ集めの集団の事。

*11:敵対関係にある者同士が結託する事。その様な者同士が同じ場に居合わせる事。

*12:個人的にはジョニィ・ジョースターが顕著な例だと考えており、親友であるジャイロ・ツェペリ絡みを除いては、己の正義や目的の為なら何だってやってのける利己的な一面を隠さない。更に言えば、ジョニィは普段から人間味あふれる一面を見せる事が多く、葛藤の中で決断していく生々しい様子を見る事が大半だが、怖いのが「一度腹を括ると、普段とはまるで別人の様な『漆黒の意思』を見せる事」で、その状態からは冷酷非情な意思のみを感じる事が出来る......。