多趣味で生きる者の雑記帳

現在は主にごちうさに対する想いについて書いています。

きらファンメインシナリオ第2部「断ち切られし絆」3章の感想・考察

 こんにちは。今回はきららファンタジアのメインシナリオ第2部3章を走っていった中で抱いた感想と考察について書きたいと思います。全体的にシリアス且つ重めのシナリオたる第2部ですが、それ故に考えさせられる事も多いものだと個人的には考えていて、今回もその様なシナリオを読み進めて思った事、考えた事を素直に書き出したいと思います。

※注意※

 きららファンタジアメインシナリオのネタバレを含むものなので、その事を了解の上、読み進める事をお願い致します。また、リコリスに関する部分は内容も少し重めなので十分注意してください。また、本文中に出てくる「リアリスト」は「現実主義、写実主義」を意味するものではなく、「ゲーム内に登場する組織体」です。今回も括弧の有無に関わらず、特に脚注や注意書きが無い場合は全てゲーム内で使われる単語の意味合いを指します。そして「○○章若しくは第2部○○章」メインシナリオ第2部の章を指し「第1部○○章」の場合、メインシナリオ第1部の章を指します。

1.はじめに

  「断ち切られし絆」の名を持つ、きららファンタジアメインシナリオ第2部。どの聖典にも載っていない謎の存在である住良木(すめらぎ)うつつと共に、きらら達はうつつの故郷を探す為に新たな旅に出る。しかし、その旅はかつてない程の危機と、壮絶なまでの運命に翻弄される事になっていく……。

 特徴は何と言っても大筋を支配しているシリアスなシナリオで、闇を滲ませる雰囲気も多く出てくる。第2部の敵対組織であり、欺瞞(ぎまん)に満ちた世界*1を正す為に活動し、ひいては禁呪「リアライフ」を用いて聖典の世界を破壊しようと目論む「リアリスト」にしても例外では無く、組織内であっても深い闇が蠢いている様に思える描写が多く見受けられる。それ故に普段は割と気軽に楽しむ事のできるストーリーも多いきららファンタジアの中でもかなり異彩な雰囲気を放っているが、その分深みが他のシナリオよりも大きく、考えさせられる場面も多い。何も身構えずに読むと思わず精神的にくるものがあるが、よくよく読み込むと深い本質が見えてくるシナリオでもあり、その意味ではきららフォワードの「がっこうぐらし!」や、元々はオリジナル作品であるが、原作者にきらら作家がいる「魔法少女まどか☆マギカ*2にも通ずるものを感じている。そして、その観点から見るとこのメインシナリオ第2部は非常に上質なシナリオだと思う。

 これ以上書くと長くなるので、私がこのメインシナリオ第2部そのものに対して一通り思った事を書きまとめた過去の記事を貼っておく。この記事は第2部2章についてまとめたものだが、「1.はじめに」の欄に第2部について感じた事を書きまとめている。やや短めの内容だが、是非見て欲しい。

 

chinoroute63.hatenablog.com

2.第2部3章の感想・考察

3章とは

 3章は1章と同様にきららファンタジア参戦作品から「リアライフで呼び出されたクリエメイトを中心とした物語」であり、メインシナリオ第1部・第2部を合わせた中でも異色だった2章とは異なり、第1部を含めた第2部1章までの同様の構成をしており、簡単に言えば「禁呪魔法によって呼び出されたクリエメイトときらら達が行動を共にし、同じく禁呪魔法によって呼び出され、囚われたクリエメイトを助け出し、クリエメイトをもとの世界に返す事を目的とする内容」である。今回呼び出された作品はGA(芸術科アートデザインクラス)であり、3章の舞台も「芸術の都」となっている等、全体的に「芸術」を強く意識したシナリオ構成になっている。

 この章もメインシナリオ第2部の例に漏れずに中々に壮絶な物語であるが、芸術が持つ正と負、聖典が持つ力について考えさせられる物語でもあり、読んでいて心に来るものがある。そして、この3章ではリアリストの幹部たる「真実の手」が左手の「リコリス」が本格登場した話でもあるのだが、このキャラも中々な曲者で、思わず様々な感情が思い巡ったものである。この記事ではリコリスをはじめとしたキャラに焦点を当てつつ、本質的に迫れる様な感想と考察を書きだしたいと思うが、その前にこの3章においてのうつつちゃんの軌跡や心境変化について軽く書き出したい。

3章におけるうつつちゃん

 第2部における重要人物である住良木(すめらぎ)うつつ。どの聖典にも載っておらず、自身もエトワリアに来るまでの記憶を失っている。その為、どこの世界の住人なのか、出自はどうなのか、抑々彼女は何者なのか、それらの事が本人も含めて全く分からない。ただ、それ故に只者では無い事は明白であり、このメインシナリオ第2部のキーパーソンの1人だと認識しても大方問題無いと思う。

 性格は極度の根暗且つネガティブであり、何かにつけては自分の能の無さに繋げてしまう程に自分に自信が絶対的に無く、それ故に自分の事を卑下(ひげ)してしまう事も少なくない。他にも何かと悲観的なものの見方をしたり、後ろ向きな事を言ったりする事もしばしばであり、根っからのネガティブ体質なのが窺える。また、毒舌家である事を窺わせる一面があり、人(特に「リアリスト」)や自分自身に対して辛辣なコメントをする事があるが、これも彼女の自信の無さが多かれ少なかれ関係している。ただ、その一方でなんだかんだ言っても人の価値観を全否定しないで尊重したり、大切な人の為なら自分が出来る事を尽くしたい*3と考えたり、決して許す事のできない敵陣営(リアリストのこと)であっても自分と重ね合わせて行動理念を慮ったりするなど、根は心優しく且つ思慮分別がかなり深く、更に言えばいざという時には決して折れない芯の強い一面も持っており、ちょっとネガティブ思考が強過ぎる点を除けば根は良い人*4である。

 そんなうつつちゃんだが、3章においてはネガティブ思考こそ相変わらずだが、以前とは違う成長が垣間見える場面も見受けられる様になっていた。やはり2章におけるスクライブギルド長「メディアちゃん」との出逢いがうつつちゃんに多大なる影響をもたらしているという事なのだろう。そんな成長の中でも特に印象的なのが「誰かの為に自分の特殊能力を発揮させたい」と言う他人を救いたいと言う前向きな想いをうつつちゃん自らが積極的に抱き始めた事である。そもそもうつつちゃんは「ウツカイ」と呼ばれる敵陣営が使う文字をきらら達サイドの中では唯一解読する事のできる特殊能力を持っている*5のだが、2章からはそれに加えてリアリストの幹部達の会話を聞く事のできる能力にも目覚めている(但し、後者は3章時点でも自由にコントロールする事はできない)。この特殊能力に対して彼女は最初こそ後ろ向きだったのだが、この特殊能力が結果的に人を助ける事に繋がる事が分かり始めていくと、次第に彼女自身も変化していき、恐怖はありながらも前向きに自分から人を助けたい、役に立ちたいと言う意思を見せる事が多くなってきた様に感じている。根っからのネガティブ思考そのものは変わらないにしても、誰かに尽くしたいと言う想いや、自分の思う事、したい事を人に対して悲観的にならずにはっきり言う強い想いを徐々に表面化させていくうつつちゃんは、個人的には前向きな方向で大きく成長していると思っているし、とても良い事だと思っている。今後どの様にうつつちゃんが変化していくのかは未知数だが、良い方向に変化していくだろうと考えている。 

 ここからはリアリストが1人、リコリスの事について考えた事を記述する。そして、ここからのリコリスに関する部分は少々重い内容が含まれている為、特に注意して欲しい。

リコリスについて

※注意※

ここから「芸術の捉え方」の手前まで少々重い内容含まれています。 

 リコリスリアリストの幹部組織である「真実の手」が左手であり、真実の手の中でも下っ端と自ら称するヒナゲシちゃんがお姉様と慕う存在である。真実の手の左手と言うだけあって実力はリアリストの中でも指折りであり、ハイプリス様も信頼を置いている。但し、リコリス本人は表向きにはハイプリス様に慕っているが、裏ではハイプリスの事を嫌に思う事をボヤいている一面もあり、リコリスにとってハイプリス様「絶対的な上司」と言う訳でも無い様子が見受けられており、ここは「真実の手」が右手であり、ハイプリス様「絶対的な存在」と慕っているサンストーンとは異なっている。ただ、人と人の繋がり「パス」を断ち切る事のできる能力を持つサンストーンがハイプリス様を「完全に」慕っていると言い切るのは、個人的には一考の余地があると思うのだが……。

 特筆すべきはその性格と性質であり、一言でまとめると、言葉は相当悪いが「氷の様な心を持った冷血な女性」と言うものにまとめられる。短気で自己中心的な性格であり、気に入らない事があると直ぐに人(主にヒナゲシ)に当たったり、自分の意向に沿わない様な他人の価値観、才能や長所を頭ごなしに全否定したりと、兎に角冷血且つ我儘(わがまま)な一面が目立っており、それは自身をお姉様と慕うヒナゲシちゃんに対しても同様であり、良くて皮肉じみた嫌味、悪くてただの罵詈雑言を彼女に浴びせており、何かともっともらしい理由をつけて当たる事もしょっちゅうである。自信過剰且つ独り善がりな性格でもあり、ヒナゲシちゃんに対して「私に従っていれば良い。」と言わんばかりに独善的な事を言ったり、それに加えてヒナゲシちゃんに対して「お前みたいな奴は私しか面倒を見ない。」と言ったりする恩着せがましい面もある。因みにリコリスは相手に対して「自分だけが必要としていると相手に思わせ、相手を支配する」と言う手法を使っている場面が散見され、それをクリエメイト以外の、本来なら志を共にする味方である筈のヒナゲシちゃんにもやっているのが読み解ける。因みにリコリスの横柄且つ横暴な態度に対してヒナゲシちゃんは「怒られるのも乱暴されるのも嫌だが、捨てられるのはもっと嫌」と言っており、乱暴を働かれてもリコリスを慕い続けるのには、それ相応の確固たる理由故だと見る事ができる。

 但し、彼女には「優しさが全くないのか」と言えばそうでもなく、失敗続きのヒナゲシの事をフォローしたり、無邪気な一面を覗かせるヒナゲシを見てなんだかんだ愛着がある事を匂わせる反応を見せたりと、彼女とて「人としての良心や優しさはきちんと存在している」事を窺わせる描写も少ないながらも存在しており、それ故に「元々はそこまで冷血な人では無かったのが、彼女自身に募る屈辱とともに性格が変貌してしまった」可能性も十分に考えられる。彼女自身の内面が明かされている部分が非常に少ない為にここで断言する事は難しいが、あながち頓珍漢な考えとも言えない様にも感じている。

 自分自身が聖典を理解できなかっただけでクズみたいな扱いを受けた」経緯から聖典心から憎んでおり、それ故にリアリストの中でも特に聖典の世界を破壊することを望んでいる。この事に対して「聖典を心から愛し、同時に聖典が誰もが理解できる様な物である事」を誰よりも理解しているランプは思わず戸惑っていたが、リコリスは全く聞く耳を持とうとはしなかった。リコリスからしてみれば「世間ではどんなに上質なものと言われようとも、自分が理解できないものは破壊の対象でしかない。」という事なのだろうが、これは結局の所リコリス「自分が読めない様に出来ている聖典が悪い!」と責任転嫁をしている事に過ぎず、それを聞いたうつつちゃんからは「なんで、怒りを他人に向けるのよ……。」とそこはかとなく毒を吐かれている*6。因みにうつつちゃんは極度のネガティブ思考ではあるものの、そのネガティブの矛先は基本的に自分自身であり、他人に対しては主に根拠のない様なポジティブ思考に毒を吐く、所謂毒舌家な一面こそあるが、基本的に「他人が全て悪い」とは考えない一面があり、思慮分別は割にしっかりしている。その事を思えば、うつつちゃんが「リアリスト」に対してこの様な毒舌を飛ばした事には、うつつちゃん自身も何か思う事があった事の裏返しだと言えるだろう。

 そんなうつつちゃんの辛辣な言葉に対してリコリスは「世界が私を拒絶したのよ!居場所なんて、どこにもなかった!」と激高し、うつつちゃんに対しても「私と同じ様なものでしょ!」と責め立てている。言うまでも無い事だが、うつつちゃんとリコリスは全く違っており、リコリスの言う様に「2人は同じ様なもの」と言うのは成立しない。何故なら、リコリスが何を言っても「リコリスは他責(他人が悪い)だが、うつつちゃんは自責(自分が悪い)」だと言う事実は変わらないからである。それでもリコリスがこう言い散らすのには、後述する様なリコリス自身の心の弱さが背景にあるのだと思われる。勿論、リコリスが言う事も分からなくはないのだが、それでも流石に無条件にリコリスの言い分を受け取る事はできないであろう。

 この様にリコリスはお世辞にも性格が良いとは言えないどころか、寧ろ悪いと言わざるを得ない部分が目立っているのだが、その一方で「自分が1人になる事に恐怖を抱いている」一面があり、この事はリコリスヒナゲシちゃんの事をどうやっても見捨てられない理由ともなっている。つまりリコリスは精神的に弱い一面があるという事であり、この事はそのまま「自分が世界で受け容れられない事に対する強い不安と怒り」にも直結してくるとも考えられる。更に言えば、この様な弱さを抱えているが故にリコリスが上記の様な乱暴を働く理由ともなっている可能性があるとも考えられ、ここからリコリスが乱暴を働く理由として「世界が私の事を受け容れない事に対する不安と怒り」が大きな要因だと推測する事もできる。因みにリコリスと同じく「既存(聖典)の世界に居場所はない」と強く考えているヒナゲシちゃんにしても、細かくは違えど大筋はリコリスと同じ様な理由と経緯でリアリストの活動に勤しんでいるのが考えられる。どんなにリコリスから乱暴を働かれても、ヒナゲシちゃんがリコリスから見捨てられるのが嫌だと言う理由としても……。

 そんなリコリスだが、3章においてはヒナゲシちゃんとともにGAの登場人物であるキサラギを捕らえた上でリアライフをかけ、その上で「怒りと悲しみと絶望」と称する作品を描かせ、それを聖典に見立てる事で「芸術の都」にばら撒き、街を絶望に突き落とすと言う中々に悪辣且つ残忍な事を行っている。序盤はヒナゲシちゃんが表立って暗躍して、リコリスはそこから一歩引いた位置にいるが、再三ミスをするヒナゲシちゃんに痺れを切らした物語の中程から徐々に顕在化していき、きらら達にも直接接触する様になり、終盤になると彼女が持つ負の感情をむき出しにして行動する様になる。また、全般的に怒りの言動が目立っており、横暴な振る舞いも相まって見る人によってはリコリスの振る舞いに対して強い怒りを抱く可能性は否定できない。この事からただでさえ凄惨な一面を秘めている者が大半の「リアリスト」の中でも特に尖った性質を持つ人物だと言える。と言うか「リアリスト」の中で比較的まともなのは、現時点では「ハイプリス様」位だと個人的には思っているのだが……。

 これだけをみると基本的には「とことん利己的な奴」にしか見えないリコリスだが、何故彼女がここまで性格を黒く染め上げるまでになってしまったのか。その事を考える事も重要だと思っている為、ここからは何故彼女がここまでなってしまったのかを中心に考えたいと思う。とは言ってもそれで彼女の数々の横暴が水に流せるかと言えばその様な事は無いのだが……。

リコリスが持つ痛みと悲しみ

 前述の通りリコリスは短気且つ自己中心的な一面が強く目立っているが、その一方で「一人になるのが怖い」「聖典が理解できないだけで駄目な奴扱いされる世界が憎い」と言った心の弱さを滲(にじ)ませる一面を持っている。その理由について断言する事は、現時点ではリコリス周りの事情があまりにも少ない為に難しいが、そんな中でも「彼女が聖典を理解できない」と言うのは個人的には重要なポイントだと考えている。単純に考えてみても聖典ありきの世界であるエトワリアにおいて「聖典を理解できない」と言うのは明らかに異質な状態であり、何故理解できないのかその理由については3章では細かくは明かされてはいないとは言え、この事を無視する道理は最早無いと考えた私は、ここから「何故リコリス聖典を理解できなかったのか」と言う理由について、自分なりに考えてみたいと思い立った。

 まずはリコリス聖典を理解できなかった理由として私が思い浮かべるものは2つあり、それを箇条書きで示したいと思う。その内容こそ、下記の2つである。

  • リコリスが育った環境においては、聖典が重要視される様な環境に無かった為、聖典の意味を知る機会が無かった。
  • リコリスの価値観にしてみれば「聖典に読む事は、生きる糧を得る事である」という事の意義が良く理解できなかった。

 1つ目は「育ちの過程において、聖典が重要視される様な環境に無かった為に聖典の意義を知る事が無く、結果的に聖典を理解できない様になってしまった」と言うものである。抑々エトワリアにおいて聖典「生きる為に必要なもの」である事は言うまでも無いのだが、実の所その価値観はどこで築き上げられるものなのかについては明言されていないため、それ故に育ちによっては聖典の重要性を知る機会が無いと言う可能性もゼロとは言えない。そう思うならば、リコリス聖典の重要性や意義を知る機会が無かったが故に「聖典を理解できない」となった可能性もあり得ると言え、これは私がそのまま1つ目の仮説として採択した根拠ともなっている。明かされている事が少ないが故に間違いとも正しいとも言い難いが、知る機会が無かったが故に「理解できない」様になった可能性は、個人的には十分にあり得ると考えている。

 2つ目はリコリスの価値観にとっては『聖典がエトワリアの人々にとって生きる糧となる』と言う意義が良く理解できない」と言うものである。これは1つ目と異なりリコリス聖典の意義を知る機会はあったが、彼女の価値観にとって理解できる代物ではなかった」という事であり、言うならば結論こそ1つ目と同じとは言え、そのプロセスが異なっている。個人的にはこちらの方がよりあり得る仮定だと考えていて、その理由として「物事そのものは知ってはいるが、その意義は理解できていない状態」を形容する様な仮定になっていると言うのがある。言うならば「物事の本質を理解できていない状態」を表している為、この事が何らかの学びを進めていく過程の中で誰もが経験することだと言える事も思えば、誰にでも起こり得る事象として採択する価値は十分にあると考えている。

 また、リコリスが言っていた聖典を理解できないだけで駄目な奴扱いされる世界が憎い」と言うものは、1つ目・2つ目の仮定どちらであっても同じ論説が導けると私は考えており、これは「エトワリアにとって、聖典を理解できない事はあり得ない事であるが故に、理解できない人は変わり者扱いされる」と言うのが導けると考えている。恐らくはリコリスが言う様な聖典を理解できない奴はエトワリアにおいては一切の例外なく除け者扱い」と言った極端なものでこそ無いとは思うのだが、それでも「聖典を理解できない者は変わり者扱いされる傾向」はあったと思われ、それがリコリスにとっては何よりも受け入れ難い事実だった事が、リコリスがリアリストに加担した大きな理由だと考えている。つまりリコリス「絆や聖典等と言う、彼女にとってはどうやってもその意義や重要性を良く分からない概念に辛酸をなめさせられた過去を持つ」*7事は恐らく明白であり、それが彼女の性格をも大きくねじ曲げてしまった可能性も十分にある。

 これが、私が考える「彼女が持つ痛みと悲しみ」であり、これを思えばリコリスが「とことん利己的な奴」だと一概には思えなくなってくる。無論、彼女の横暴な行為・言動は客観的に見て決して看過されるものでは無く、彼女にも責任があるのは事実だが、それでも彼女が辿ってきた経緯や環境を思えば、一口に「彼女だけが悪い」と思うのもまた、現時点では早計なのは事実であろう。その事を鑑みて、彼女の事を見定められる様になるのは「今後の展開次第」という事になると思われる。

 ここからは大きくテーマを変えて、3章の大きなテーマとも言える「芸術」について3章の描写から感じた事を記述する。3章は元々「芸術の都」を舞台としている事もあって、芸術に関する事象が多く登場しており、3章における登場作品も芸術をテーマとしているGAになっている。それ故に3章を説くにあたって個人的には「芸術が要となる」と考えていて、ここではそんな芸術の「光と闇」ひいては哲学・美学的な事柄について個人的な考えを書き出したいと思う。

芸術の捉え方

 抑々この3章における芸術は大きくみて「元々華やかで美しいものだったが、リアリストにより闇と破壊の雰囲気をもった暗いものに塗り替えられ、そこから光を取り戻すために奔走し、最終的に光を取り戻す事に成功し、更に闇もとい暗い雰囲気と、光の雰囲気を調和した芸術をも新たに生み出した」と言う流れが存在しており、この中でも所謂「光と闇」がクローズアップされたのが印象的である。因みにここにおける光と闇は云わば「希望と絶望の対比」を暗に指し示した構造にもなっていると考えている。

 作中においてはうつつちゃんが闇の側面を持った暗い芸術にどことなく惹かれ、光の芸術を良しとするランプちゃんがそれを否定すると言う流れがある様に、うつつちゃんが闇の側面を持つ暗い芸術に惹かれ、一方でランプちゃんが芸術は光即ち「希望」と考えていると言うある種の対立構造が存在しており、事実闇の側面を持った暗い芸術にどことなく魅力を見出すうつつちゃんを、ランプちゃんが「そんなの気にする必要は無いです!」と声高に否定するシーンも存在している。ランプちゃんがこの様な事を言ったのには「リアリストの思念が込められた様な芸術を気に留める必要は無い」と言った意味合いも含まれていた事は容易に想像できる為、何もうつつちゃんの事を貶す為に言った訳では無い事は理解できるが、それでも後に頭ごなしに否定してしまった事をランプちゃんはうつつちゃんに対して謝っている。これに対してうつつちゃんはそこまで気にしていない反応を見せており、うつつちゃんの優しさと器量の大きさが垣間見えている。因みにGAの登場人物も「闇の側面を持った暗い芸術に対して理解を示す者」と、どちらかと言えば「光ある芸術を良しとする者」に分かれており、前者がナミコさんとキョージュ、後者がノダミキに該当する(トモカネはさほど言及してはいない)。ただ、暗い芸術が存在する事そのものについては全員が理解を示しており、最終的には好みの問題とも言える。

 芸術が持つ「光と闇」について私としてはどちらかと言えばうつつちゃん若しくはキョージュ寄りの考え方をしており、私も「闇を持った暗い芸術」はどこか惹かれゆく魅力を持つものとして認識している。元々私は負の感情もとい暗い魅力を持つ様な芸術作品に対しては独特の拘りを持っており、何故(なにゆえ)か負の感情を多分に秘める作品を好む傾向が強く存在している。例えば私はクラシック音楽が好きなのだが、その中において長調よりも短調の方が好みの曲として多く挙がる上、短調の中でも特に「内面に秘めしメランコリック(憂鬱)な雰囲気を多分に感じさせる様な曲調」に心を奪われる傾向にあり、その中でもメランコリック且つ絢爛豪華(けんらんごうか)な雰囲気と、天才的なリズムセンスを持つチャイコフスキー作曲の交響曲第6番ロ短調「悲愴」Op.74は、独創的な作曲構成と作曲者のあらゆる感情・思想が込められた、恐るべき雰囲気を持つ交響曲として正に私の心を射抜く芸術作品だと認識している。「悲愴」は虚無な雰囲気と不吉な結末を暗示させる事から決して明るい曲では無く、正に暗い側面を持った曲なのだが、それ故に私は心惹かれる。何故結末を不吉な未来を暗示させる様なものにしたのか。その様な事を考えるだけでもどんどん心奪われていく。無論、痛みは多分に伴うのは承知の上だが、明るい概念にとどまらない、暗くも独創的な境地を探求する事に意味を見出している私にとっては、最早多少の痛みくらいは驚かなくなってきている。尤も、人並みに喜怒哀楽は兼ね備えているつもり*8だが、こと芸術的感性は独創的なものになりつつあるのだろう。

 また、私は芸術と言うものを往々にして「その創造物を創り出した者の、その時のあらゆる感情・思想が一挙に込められたもの」だと捉えている。今回の3章においても創造者の想いを探る場面は存在している*9のだが、それと同じ様な感覚、或いはそれ以上だと言えるもので、一つの創造物から創作者の意図や思想、その作品に込められた強き想いを勘ぐる事を意識しつつ、芸術作品を堪能するのである。尤も、私はプロの芸術家では無いので、言ってしまえば一般的な感覚・視点を元手に芸術的感性を研鑽(けんさん)している事にすぎないのだが、それでも芸術作品をよくよく読み込んでいけば、プロの芸術家の人達が持つ様な深淵たる領域には程遠くとも、少なくとも今までの自分とは全く違った自分を築き上げる事ができるうえ、今までの自分では気付かなかった視点が見えてくるものだと考えている。更に言えば、芸術作品に込められた創造者の強き想い、意図、思想等を深く読み解く様に、芸術を堪能する事の意義は誰であっても見いだせるとも考えていて、ひいては芸術の限りない創造性は創り手だけに留まらず、受け手一人一人の感性も加わって生み出されるものだと思っており、それ故に自分は素人だからと芸術を堪能する事を躊躇(ためら)う必要は無いとも考えている。思う事は様々あっても、やはり個人の芸術的感性を存分に発揮してほしいと言うのが、私個人の想いでもある。

 そして、その見出した意義が対象とする芸術が「光輝く明るい芸術」でも、はたまた「闇が蠢く暗い芸術」のどちらであっても私は良いと思っている。自分が見出した芸術の美学がたまたま「暗い成分を多分に含んでいた」としても、その芸術に自分が大いなる魅力を見出したのなら、それは立派な芸術的感性だと考えている上、その感性に対して好き好みはあっても、誰にも否定する事は出来ないとすら考えている。見る人、聴く人によって様々な感触を抱くのが芸術の醍醐味だと思うなら、この様に考えるのもある意味必然の成り行きだと思うが故なのだが、その一方で多くの芸術的世界観・センスを見聞きしてみたいと言う私自身の想いの強さも関係しており、この2つが重なり合う事によって、私が持つ「芸術の美学」の根幹をなしている。

 以上の事から、私としては芸術が持つ「光と闇」についてはそのどちらも「大いなる魅力を秘めしもの」として理解を示している上、私としても芸術が持つ「光と闇」についてはどちらに対しても強い興味をそそられる。つまり私は、芸術的感性に限って言うなら「光に満ち溢れる様な明るい芸術を好む傍ら、闇が蠢く様な暗く底知れぬ芸術も同じ位に好み、尚且つ他者に対してもその様な芸術的センスを理解できる器量を兼ね備えている」という事になり、ひいて言うなら「芸術は往々にして創り手と受け手の芸術的感性が融合して生み出されるもの」だと認識している事にも繋がっている。尤も、実際の所は多くの芸術的センスに触れていく内に価値観は徐々に更新されていくものである上、私が言う様な「人の数だけの芸術的感性が存在する」のなら、私の価値観では到底理解できそうにないと思わず感じてしまう程の芸術的感性に出会ったり、逆に私が秘めている芸術的感性が周りから中々理解されなかったりという事は当然のことながらあり得る事象でもある。これは何も芸術的感性に限った話では無いのだが、多くの価値観に触れていく事が必ずしも良い事ばかりでも無いと言うのは自ずと理解している事ではある。

 ただ、上記の事は意識する事は大切だと認識しているが、これをもって「己が持つ根幹の芸術美学を何もかも変えてしまう必要性はない」とも考えている。どんなに苦難な事が待ち受けていたとしても、自分が大切だと思った価値観は自分だけが最後まで大切に出来るものなのであり、それを思うなら自分だけが持つ価値観を大切にして欲しいと思うが故なのだが、勿論現実には様々な事情故にこの様な綺麗事ばかりでは済まない事もあるのは重々に承知している。しかしながら、各々が持つ個性的な価値観やセンス、独創的な境地をも示す芸術的感性は、誰にも真似する事のできない唯一無二の魅力を持つものでもある。それをどうするのかは個人の自由だとは痛い程分かっているのだが、それでも私としては「自分だけが持つ感性を簡単に捨てずにどうか大切にして欲しい」と常々思うのである。

3.あとがき

 以上が今回メインシナリオ第2部3章で考えた事である。この3章もメインシナリオ第2部らしく中々にシリアスな内容ながら、それ故に考えさせられる事も大いにあるものだったと認識している。言うならば、章を追うごとに少しずつ変化していく何かを追い求めていく様に、このメインシナリオ第2部を体感している事である。

 その様にして体感した今回の3章は、芸術と深い関わりを持つ舞台設定に、芸術をテーマとする作品が登場したり、シナリオそのものも芸術理論を思わせる様な内容も多数登場したりしてきた事に想いを馳せつつも、その一方で根底にある闇を確実に露呈しゆくリアリストをどの様に捉えるべきなのか、中々に難儀した章であったと自認している。抑々メインシナリオ第2部は全体的にシリアス且つ重めの雰囲気が特徴的であり、人によって感じる事も思う事も大きく違ってくるとは考えているのだが、その様な中で私は一体何を思うのか。その事を書き出す事を今回は特に意識して書いている。尤も、その結果がメインシナリオ第2部3章の感想・考察の枠を超えて、最終的には最早哲学・美学の話になったのは流石に行き過ぎたと思う所もあるのだが、これは前述の事を意識して書いた結果でもあるので、ある意味私の想いを特に率直に書き出せた事を証明しているとも考えている。

 3章において存在感を遺憾なく発揮した「リアリスト」の「真実の手」が左手のリコリスだが、表立っては完全にヴィラン(悪役)の性質そのものであり、過激な性質・言動も相まって良い印象を抱けないと言うのは疑いようのない事実だと言わざるを得ないとは感じている。だが、それでも彼女のヴィランたる性質に隠された内面性を思えば、私の心は大きく揺れ動く。抑々私は「リアリスト」の人物に対して思う所が全体的に見ても多くあるのだが、リコリスはその「リアリスト」の中でも特に尖った性質をしている事もあって特に思う所がある。それで言うならば、私は前章である2章の感想・考察においても「リアリスト」や「真実の手」のヒナゲシちゃんに対して感じる深き想いについて叙述したものだが、それは3章においても同様であり、2章で感じた数々の想いに勝るとも劣らない「リアリスト」についての感想・考察を書き出し、リコリスについては特に深く想いを馳せつつ書き出している。今後その想いがどう変化していくかは未知数だが、少なくとも現時点ではリコリスヒナゲシ、ひいては「リアリスト」に対して「ただならぬ想いをもって考察する」と言う意思に揺らぎはない。何故なら、私は既にメインシナリオ第2部「断ち切られし絆」を、どんな事があっても、どんなに辛い展開があっても、最後まで読み込みたいと、固き意志を築き始めているのだから……。

 以上が、今回のメインシナリオ第2部3章で私が抱いた感想・考察である。3章はリコリスと言う圧倒的存在感を持つキャラの本格登場により、個人的には大きな何かを掴むきっかけにもなるとも感じており、今後の展開にもつながる重要な要素も含まれていると感じている。私としてはそれらのついての想いを持ちつつ、今後の章を待つとしたい。

 

おまけ

 今回の文量は400字詰め原稿用紙35枚分となり、これは当時過去6番目の多さとなっている。

*1:世界とはエトワリアの事であり、欺瞞はここでは「嘘と偽りに満ちた状態」を指す。

*2:因みにどちらも「ニトロプラス」が原作に関わっている。

*3:2章におけるスクライブギルド長「メディアちゃん」が最たる例であり、それは3章でも同じ様な事が窺える。

*4:この事は、後述するうつつちゃんとリアリストが「同じ思想を持つ人間だと成立しない根拠」にもなっている。

*5:この特殊能力をめぐっては、2章においては七賢者が1人、フェンネルから「実はリアリストの仲間ではないのか」なとど懐疑の目を向けられたが、最終的にはフェンネルもうつつちゃんを認め、友好を深めている。フェンネルも本来は話の分かる人なのだが、元々は傭兵だった自身の経緯故に見知らぬ人に対して容易に警戒を解かない傾向にあり、自身の真面目な性格(但し、その一方でメインシナリオ第1部におけるきらら達を言葉巧みに騙して利用する狡猾さならびに任務を果たす為ならどの様な手段も厭わない冷酷な一面をも併せ持っている。ただ、この時はきらら達とフェンネルはまだ打ち解け切れていなかった事と、お互いに色々誤認且つ誤解していたのもあるのだが……。)と立場も相まって中々警戒を解くに解けなかった事情は容易に察せる為、少々堅物過ぎた点は問題だったとしても、ある程度は致しなかったとも言える。

*6:このコメントはリコリスだけでなく、リアリスト全体に対して向けられており、うつつちゃんの毒舌センスが遺憾なく発揮されている。

*7:これは『真実の手』が右手たるサンストーンも恐らくだが同じ事が言えると考えており、3章におけるキサラギとのやり取りからも推察する事ができる。

*8:但し、喜怒哀楽は普通に兼ね備えていても、感性が人と大きく違うなら全くもって話は変わってくるが。

*9:これは囚われの身となったキサラギを助け出す手掛かりを掴む大きなきっかけにもなっている。